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2008.06.15

大妻籠から中津川

大妻籠を過ぎて、九十九折(つづらおり)の石畳の道を上ってゆく。石畳の道が終わって小さな木の橋を渡ると、道の左の少し高いところに「倉科祖霊社」がある。松本城主小笠原貞慶の重臣倉科七郎左衛門朝軌が、主命で秀吉の関白就任祝いに行った帰り、馬籠峠で土豪の襲撃を受け、この地で従者30人とともに討ち死にした場所であり、その霊を弔うために建てられたお堂である。当時小笠原氏と木曽氏は何度も戦っており、そうした因縁からかと言われている。
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男だる川の「雄滝」(左写真)と一石栃沢の「雌滝」がある。滝の作り出す冷気が上り坂を歩いて汗ばんだ体に心地よい。吉川英治の宮本武蔵の舞台となったところとのことだが、筆者は読んでいない。
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「雌滝」から沢を渡り急坂を上ると車道にでるが、ほどなく沢に沿った心地よい道を進むことになった。馬込峠から下ってくる何組かの人達にも出会った。そして、車道を横切って進むと石畳の道になり、直ぐに「さわらの大木」がある。300個の風呂桶が作れる大きさと書かれている。下枝のかたちから神居木(かもいぎ)と呼ばれる木で、山の神、天狗が休む木で、傷をつけたりすると祟りがあると信じられていて、杣人は側を通ることもいやがったという。言われると意思を持った木のようにも見える。
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林の中を歩き、急に開けてきたと思ったら「一石栃の白木改番所跡」である。木曽から移送される木材を取り締まるために設けられたもので、檜の小枝一本まで許可を示す焼き鏝を押してあるか調べたという。そして、大妻籠で残り少なくなっていた飲み水がなくなり、自動販売機もない道なので困ったと思っていたら、茶屋の前に水舟があり水を補給できた。冷たく美味しい水であった。
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標高801mの馬籠峠への最後の上りは、きつかった。ようやくたどり着いたら、峠の茶屋が1軒建っていた。平成の大合併で馬籠が中津川市に入り、ここが長野県と岐阜県の県境となった。
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茶屋の横には正岡子規の歌碑がある。「白雲や青葉若葉の三十里」とある。あとは、ひたすら馬籠宿に向かって下って行く。道に白と土色の小片を混入させており、桜の花びらが散ったようにも見える。
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急坂を下ると、峠の集落で、ここは馬方ならぬ牛方が大勢住んでいて荷物輸送を担っていた。道が厳しいので馬ではなく牛を使ったのである。島崎藤村の「夜明け前」にはこの牛方が輸送賃をめぐってストライキを行う場面が出てくる。集落のはずれには、牛方を顕彰した「峠之御頭頌徳碑」がある。
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急な下り坂を下りて行くと、十辺舎一九の大きな碑とともに休憩所があり、「渋皮の むけし女はみえねども 栗の強飯ここが名物」と刻まれていた。さらに、車道を何度か横切りながら進んで行くと、沢に架かる橋を渡って車道と接するところに、「樹梨」と言う名の食事処があったので、山菜天婦羅定食を頼み遅い昼食とした。栗の強飯は美味しかった。77歳という地元の老人も食事をしていて、木曽について色々と話してくれた。
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食事を終えて進むと、直ぐ石畳の道になり上りきると、民家にぶつかりその軒下を通るような場所がある。
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magome_19.jpgさらに、車道を何度か過ぎりながら下って行くと、ようやく陣場と呼ばれる、見晴らしの良い場所に到着する。ここには島崎藤村の「夜明け前」の一節、実父の島崎正樹の漢詩、岐阜県になった記念碑などなど沢山の碑、看板が建っていた。遠くには恵那山も見える。若いカップルが沢山ベンチに座って景色を眺めている。
この陣場は、家康、秀吉の小牧・長久手の戦いで馬籠城と妻籠城を攻めるため、家康軍が陣を張ったところである。このとき、馬籠城は島崎重通が木曽義昌の命で守っていた。
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例によって、高札場は宿の街並みへの入り口にあった。流石に、ここからは観光客が多い。進んで行くと「夜明け前」の描写の通りに「大黒屋」がある。既に酒造業はやめているが、大きな杉玉がある。そして今はお土産屋になっている。
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magome_26.jpgそして、大勢の人通りに追われるように道の反対側の本陣跡である藤村記念館に入る。
急いで飛び込み、外から冠木門を撮るのを忘れてしまった。もう、本陣の建物は残っておらず土地も「大黒屋」の持ち物となっていたそうだが、長野県で馬籠宿に観光客を呼び込むための整備計画の段階で町に寄贈されたとのこと。唯一残っていた建物は祖父母の隠居所であるが、藤村(春樹)はこの隠居所の二階の座敷で、座敷牢で狂死した国学者の父、正樹(青山半蔵)から四書五経の素読を受けたと言う。また、お城のような石垣に囲まれた通路を見ると、半蔵が裏口から友を逃がす場面が頭に浮かぶ。
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今は梅雨の季節だが、よい天気に恵まれ観光客も大勢訪れていた。家並みはすっかり整備されて素晴らしいが、少し手を入れすぎな気もするがどうであろうか?
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magome_30.jpg街の通りから僅か200mほど離れたところに、島崎家の菩提寺の「永昌寺」がある。ここを訪れる観光客は居ないのか、静かに静まり返っている。島崎家の先祖代々の墓所は、あっさりとしたものであり、正樹の墓は少し離れて妻の縫子とともに眠っている。また、全く新しい場所に、島崎家の10人ほどの石碑を配した墓所があったが、島崎家の子孫が墓地を購入して最近整備したものか?島崎藤村の墓は大磯の地福寺にもある。

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階段の道は京口の枡形である。これを過ぎると、いよいよ馬込宿も終わりで「落合宿」への道を歩んで行く。しばらく行くと、馬籠城跡の説明板があった。既に城跡は私有地になり、もとの城域は判然としない。小牧・長久手の戦いでは島崎重通が守っていたが、徳川方のあまりの大軍に恐れをなし、夜陰にまぎれて木曽川沿いを通って妻籠城に逃れたと書かれていた。
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少し先には島崎正樹の顕彰碑。さらに進んで新茶屋という集落で「信州サンセットポイント百選」という場所があり、正岡子規の歌碑「桑の実の 木曽路出づれば 穂麦かな」があった。昔の人も長い木曽路を歩いてきて、大きく開けた景色に接してほっとしたのではなかろうか。そして、新茶屋の一里塚跡を見て、石畳の道を下って行く。
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magome_41.jpg落合の石畳の道は、少しの距離だろうと思っていたが、案外長く、しかも4ケ所ほどは江戸時代のものがそのまま残っていたという。石畳が終わり、しばらく行くと「医王子」がある。有名な枝垂桜は伊勢湾台風で折れてしまったが、今は二世が大きく育っている。

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やっと、落合宿に入ってきた。もう、昔の宿の雰囲気が損なわれていると思いながら歩いて行くと、本陣があった。私邸であり公開はされていない。
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magome_46.jpg「落合宿助け合い大釜」と言うのがあった。容量は1000リットル以上で、寒天を煮ていた釜だという。今はお祭りに千人キノコ汁を作ったりしているが、災害時の緊急用も兼ねているとのこと。落合も旧中山道には白い小片を混ぜた舗装で歩くのに間違いなく、安心して歩ける。そして、このような分かり良い道は中津川の近くまで続く。歩いて行くと、与野の立場跡の碑があった。
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magome_48.jpgそして、尾張藩の「白木改番所跡」の碑。ここで、「ひのき、さわら、あすなろ、こうやまき、ねずこ」の木曽5木を取り締まった。改番所は明治4年に廃止されたが、明治新政府の材木に対する取り締まりは、より苛烈を極め、島崎正樹(藤村の父)はこの闘いで精神に異常を来たした。
これを過ぎると、後は中津川まで一気に進めると思ったのが大間違い。急な上り下りが2回あって、相当にへばってしまった。しかし、芭蕉の「山路来て 何やらゆかし すみれ草」の句碑を見ると、もう中津川だ。急坂を下ると高札場があり、真っ直ぐに中津川駅に向かうことにした。
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magome_50.jpgその後16時34分のセントラルライナーで名古屋に出て、東海道新幹線で帰宅についた。セントラルライナーは初めて乗った列車だが、名古屋に住む子供たちに会いに行くという女性と隣り合わせになり、色々と話していたら新幹線で食べるようにと、大きな「ほうば寿司」を二個頂いた。ともかく、中山道歩きで、始めての東海道新幹線利用となった。

十二兼から大妻籠

本日の万歩計52,351(35.1Km)・・・十二兼から中津川までの歩数
昨日宿泊した中津川から電車で十二兼に7時12分に戻ってきて歩き始めた。しばらく進むと、柿其渓谷(かきぞれけいこく)へ渡る「柿其橋」が木曽川に架かっている。この橋を渡ることは無いが、中央付近まで進み木曽川の景観を見物する。
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この辺りの木曽川は「南目覚」と呼ばれているらしいが、なるほど「寝覚の床」の景観に似ている。白い花崗岩と青い水の対比が美しい。
さて、国道に合流して進むが、これから一里ほどは「羅天の桟道(らてんのさんどう)」と言われた、木曽路屈指の難所であったところである。木曽路名所図会にも、「道は深き木曽川に沿い狭きところは木を切り渡し、つた・かづらをからめてその巾をおぎない・・・」とあるとのこと。しかし、現在では近代土木工事の技術の成果として、全く危なげなく大型車がうなりを上げて走る国道となっている。歩くにはつらい道である。
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tsumago_05.jpg3Kmほど進むと国道と木曽川の間に数軒の家がある。「金知屋(かなちや)」という集落である。これを過ぎると、国道から左に外れ、県道264に入って行く。車もめったに通らず、樹木の緑も美しく、国道に比べると極楽である。
この辺りは今は南木曽町であるが、かつては「読書村(よみかきむら」であり、今も地域名としては残っている。この名前は、左手の方が与川村(よ)、向かっているのが三留村(み)、木曽川の向こう側が柿其村(かき)であったため、この三村が明治7年に合併して頭文字を取って「よ・み・かき」で「読書村」としたという。なかなか面白い命名である。
そして、三留宿である。連子格子の美しい家屋を見ながら進んで行く。
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tsumago_08.jpg歩いて行くと、古い木の「蛇抜橋」。蛇抜とは、木曽地方では土石流を指し、梅雨時などに大雨になり、山津波に襲われることが、多々あり恐ろしいさも込めて蛇抜けと呼んだのであろう。それにしても、この橋の下を流れる沢は、恐ろしい災害をもたらしたとは思えないほど小さな流れであった。
木の橋も相当老朽化しているように見え、車が通るのに耐えられるのが不思議だと思ったが、橋の下は鉄骨で補強されているようだ。
三留宿も終わりに近づくと、右手に木材の集積所がある。そして、南木曽駅を通過する。
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駅を過ぎると、薮原にもあったD51の蒸気機関車を展示したSL公園がある。何故木曽路はSLの展示が多いのであろうか。SL公園を過ぎて進んで行くと神戸(こうど)の集落があり、どの家も庭木が美しい。
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神戸を過ぎると、「振り袖の松」がある。木曽義仲が弓を射ろうとしたが、松の木の枝がじゃまになったので、巴御前が振り袖の袖を振って木の枝を払ったとか。何とも、荒唐無稽な話しだが、木曽の人々は木曽義仲と巴御前をよほど敬っていたのだろう。
そして、直ぐ近くに木曽義仲が創建した「かぶと観音」がある。「木曾義仲が、平家追討のため、北陸道から上京するとき、木曾谷の南の押さえとして妻籠城を築き、その鬼門にあたるこの神戸の地に、祠を建てた。 その際、かぶとのてっぺんに飾っていた安全祈願の八幡座の観音像を祭った」という。江戸時代に参勤交代で通り過ぎる大名も必ず御参りしたという、観音堂である。
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「かぶと観音」を過ぎて、しばらく進むと石畳の道になる。道の両側の緑が心地よい。さほど長くない坂道を上りきると、上久保の一里塚がある。南木曾町には一里塚が4箇所あったが、原型を留めている一里塚はここだけで、草が茂って少し分かり難いが、見事に道の両側に残っている。
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本当に緑が美しい。このような道なら、幾らでも歩けると思いながら進んで行くと、今は廃墟と化した「しろやま茶屋」があり、直ぐ横が「妻籠城跡」への上り口である。
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誰も城跡には上らず真っ直ぐ妻籠に向かうようであるが、上ると展望がよいと分かっていたので、竹林と林の道を上ることにした。築城は室町時代のようだが、誰が築いたかは分からないとのこと。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、木曽義昌の家臣の山村甚兵衛良勝がここに籠もって徳川軍を防いだという。典型的な山城で、掘割も何箇所か残っている。
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最後の上りは、きつかったが頂上の城跡は広場になっていて、講の石碑などが建ち、期待通り妻籠宿が一望できた。
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妻籠城跡上り口まで戻り、妻籠への道を進むと直ぐに「妻籠の入り口」で家屋が数軒建っている。ここには、有名な「鯉ケ岩」がある。明治24年の大地震で形が変わり、鯉らしくなくなり、しかも蔓が茂って、少しも鯉には見えない。しかし、この地域の名前の「恋野」という粋な名前も、この「鯉ケ岩」から来たと言われている。
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tsumago_25.jpgいよいよ、街の中心に向かう。まず高札場である。高札場は旅人に読ませるのが主目的か、宿の入り口、出口付近に設けられている。入ってゆくと素晴らしい宿である。1軒の店に入り、コーヒーと五平餅を食べて休息しているときに聞いたのだが、妻籠は貧しくて誰も新しい家を建てることができず、古い家屋のまま我慢して住み続けていたのが幸いして、保存地域に指定され古い家をそのままの形で整備できた。しかし、保存地域となると、自分の家でも改修などは出来ず、快適な住まいとは言い難いと話されていた。たしかに、旅行者にはよくても、実際に住むとなると不便なことも多いであろうことは、想像に難くない。
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tsumago_28.jpg島崎藤村の母ぬいが生まれ、次兄の島崎広助が養子に来て最後の主人となった、妻籠本陣である。そもそも、妻籠と馬籠の本陣は同族で遠く三浦氏の出であると「夜明け前」にも書かれている。上がりかまち、玄関の間、上段の間等々を見学した。

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本陣と道路を隔てた向い側には「脇本陣」があり、合わせて見学した。明治10年に建設された、総檜作りで国の重要文化財に指定されている見事な建物で貴重なものである。脇本陣は問屋も勤め、「奥谷」の屋号で現在も酒造業を行っている林家が営んでいた。馬籠の酒造業の「大黒屋」の娘で島崎藤村の初恋の人と言われる、おゆふさんの嫁ぎ先でもある。島崎藤村がおゆふさんに贈った詩なども飾られていて、縁側からは妻籠城のあった城山も良く見える。案内してくれるおばさんの解説が面白く見事である。
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妻籠の郵便局は流石に江戸時代の遺構では無いであろうが、街並にマッチした建物で、郵便ポストも「夜明け前」に描かれている当時のものを再現したもの。ただし、材質は金属(鉄)になっている。
進むと、道は枡形に入って行く。
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宿の街並みはまだまだ続くが、桧笠屋さんがあった。帽子と違って頭に密着しないのでとても涼しいという。欲しかったが、これをかぶって街道を歩く勇気が無く断念した。釣りをする人は買っていた。
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妻籠を過ぎて、次は間の宿(あいのしゅく)の「大妻籠」に向かう。大妻橋を渡って樹林帯の中を上って行くと神明集落があり「大妻籠」の大きな看板が現れる。
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さらに進むと民宿を営んでいる立派な家3軒続いている。大妻籠である。このなかで「つたむらや」は秋篠宮様、紀子さまが独身時代に友人と訪れ宿泊されたところである。宮様が来るというので、慌てて水洗トイレに改修したそうである。
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大妻籠の最後には大きな塚があり、頂上付近には庚申塔が見える。一里塚であった塚である。そして、直ぐ側には民宿の「こおしんづか」がある。
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さて、これ以降は馬籠に向かう道を歩むことになる。

2008.06.14

須原から十二兼

本日の万歩計29,958(20.1Km)
木曽路に入ると、電車の便が悪く必然的に1泊して2日間の歩行となる。このため、ブログの記事を書いたり、次の予定区間の下調べ、宿泊ホテルの予約などを考えると連続した週の歩行は厳しい。しかし、既に梅雨の季節に入って晴天を逃せば、次はいつになるか分からないと考え強行した。
前回帰途に着いた須原駅に12時8分に着いた。これが、一番早い到着なのである。
もちろん、須原駅は無人駅で、駅前には江戸時代から「桜の花漬け」を製造販売する「大和屋」が店を開いていて、菓子やアイスクリームなども置いている。脇本陣と問屋を務め、現在も地酒「木曽のかけはし」の蔵元を続ける西尾家の店である。
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須原では、木の丸太をくりぬいて水場を作っているのを見かける。これを「水舟」という。左の写真のタイプがほとんどであるが、右のタイプもたまにはある。コップを置いてある水舟は飲料可能のサインのようであり、旅人も自由に喉を潤してゆく。
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もう、歴史的な遺構は少ないが街並みは街道の様相を見せており、右の写真は鍵屋の坂で、水路を挟んで両側に道がある。江戸時代の一般的な街道の様を残しているとのこと。
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塩尻からの電車の中で、隣に座った千葉在住で小学校の同窓会に出るため「寝覚の床」に行くと話した年配の方から、須原で是非寄りなさいと言われた「定勝寺」に向かう。臨済宗妙心寺派の寺で嘉慶年間(1387年?1388年)に木曾氏により創建されたとされる名刹である。山門脇には水舟があり、美しく素晴らしい庭園を持ち、樹木の緑が殊更に映えるお寺であった。
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須原宿を過ぎ、長坂と呼ばれる坂を上って、進むと山の斜面にヤグラを組んで配置されたお堂がある。岩出観音と呼ばれ、馬頭観音が祀られている。江戸中期の建立と伝えられる。
その後、道は左に曲がって山を回りこむような感じで大桑の集落に向かう。どこか懐かしい、のどかな田舎の道が続いている。
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途中、文禄年間(1592?1596)定勝寺七代天心和尚の開山の地久山天長院がある。須原の定勝寺の末寺である。色々な表情の小さな地蔵が並んでいた。東海道の興津の清見寺の五百羅漢を思い出した。
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天長院の辺りから見る風景は、日本の田園風景の原点のように感じられ美しい。のどかな道が続き大桑駅が近い。
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大桑駅を過ぎて国道に合流すると、「道の駅大桑」があり立ち寄って一休みし、しばらくは国道を歩くこととなった。ようやく国道を離れて野尻宿に入って行くと、「本陣跡」の木の立て札があったが文字が相当に薄れている。どうも、野尻宿は中山道の遺構の保存には無頓着らしい。それでも街並みはそれらしい姿だ。
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野尻宿を過ぎて、JRの踏切を2回渡って、進んで行くと国道の下にトンネルがあり、ここを潜るようになっていた。元来、水路としてのトンネルで、その中を人が通れるようにしたもののようだ。メッシュの底板の下には水が流れていて涼しい。夏に涼みにくるとよいのではと思われた。
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JR十二兼駅に着いた。時計を見ると午後4時17分。駅で列車の時刻表を見ると、中津川方面行きは4時24分である。少ない本数の木曽路の列車で、全くドンピシャリと言える時刻だ。迷うことなく、今日はここで終えることにして、今日の宿を予約してある中津川に向かった。

2008.06.08

木曽福島から須原

本日の万歩計38,074(25.5Km)
木曽福島で一泊して朝が来た。夜の間に雨が降ったようで、道路は濡れていて、しかも今にも降りそうな雰囲気。テレビの天気予報では木曽地方は曇りと言うのを信じて、7:30amに宿を出発して、今日の起点の木曽福島駅に向かう。
駅から路地のような細い道に入って行くと、木曽町役場にぶつかり右に回り込むような感じで進み、木曽福島の街並みが一望できる場所を通り、なお木立の中の小道を進む。
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小道を抜けて進んで行くと、右手に「木曽取水ダム」が見える。雨が多かったためもあり、豊かな水量である。
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一度県道に出るが、直ぐに静かな道を上って行き国道の下をくぐると、ぽっかりと口を空けたトンネルが見える。明治43年にJR中央線のために作られたトンネルだが、今は使われておらず、このトンネルを通り抜ける。あまり長いトンネルではないが、照明はあっても、中央部はかなり暗い。
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そして、神戸(こうど)の集落に進んで行くと鳥居峠とここの2ケ所の御岳山の遥拝所がある。そして、草の茂った道を通って行くと「沓掛馬頭観音」のお堂である。木曽義仲が名馬の死を悼み建立したと書かれていた。
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国道を進むと、有名な「木曽の桟(かけはし)」がある。今は、建設技術の進歩で大型トラックが激しく走ってもビクともしないが、昔は難所であったとのこと。桟道(さんどう)と言えば三国志に出てくる蜀の桟道(しょくのさんどう)が有名であるが、ここも同じく難所であったが、尾張藩の工事でずいぶんと改善されたらしい。下の右側の写真は、木曽川を渡ったところにある、桟温泉(かけはしおんせん)である。
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木曽の桟を過ぎて、長い国道あるきが続くが木曽川沿いであるので、流れる水を見ながら歩くと、気持ちも安らぐ。途中、釣りを行っている人も居た。
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やっと、国道19号から右に分かれて「上松宿(あげまつしゅく)」に進んで行く。宿場らしい街並みで、カーブしているのは鍵の手であろうか。
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上松の街の中心部は、あまり歴史的な遺構は残っていないが寺坂という細い坂道を上って行き上松小学校で茂吉の歌碑、藤村の文学碑を見て寝覚めの集落に達する。ここには、江戸期に茶屋本陣であった「田瀬屋(たせや)」、十返舎一九の「道中膝栗毛」にも登場する蕎麦屋の「越前屋」がある。浦島太郎が目覚めたとの伝説の「寝覚の床」は、この有名な2軒の間を下って行く。話しが前後するが、「寝覚の床」を見学して坂道を上がってきたら、家の石垣の上の草むしりをしていた、「田瀬屋」のおばあさんが、歩いているの?、よって行きませんかと声を掛けてくれた。「田瀬屋」は今では「民宿」を営んでいるようだが、江戸時代の建物が今に続く貴重なもので、釘が1本も使われていないとのこと。おばあさんいわく、私が嫁に来た時から建物の様子は全く変わっていないとのこと。長い江戸時代にここで、休んだ大名の記帳簿が何冊も残っていて、名前の知れた大名の名前が続いていた。話し好きのおばあさんで、ずいぶんと色々お話を伺った。
さて、「寝覚の床」である。坂道を下って、国道を渡ると「臨川寺」があり、入場料200円を払う。寺に入らなくても川に下りてゆけるが、大きく迂回する必要があるので200円払った方が便利だし、上から真下に見るのも趣がある。それに、何と言っても浦島太郎の「釣竿」が見られるのが面白い。誰も信じていなくても見たくなるものだ。
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他にも「臨川寺」には、尾張藩の4代藩主の徳川吉通が母堂の長寿を祈って建てた弁天堂や、浦島太郎が自分の姿を映した「姿見の池」がある。

kfuku_17.jpg kfuku_19.jpg水の流れが花崗岩を長い時間を掛けて削り、作り出した「寝覚の床」は、水の緑と花崗岩の白の対比が美しく、木曽で一番の景勝地と言われるのもうなずける。

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元の中山道に復帰して、進むと「上松町」で一番大きい「桂の木」。胴回りが4.1mもある。道は最後には草道になって、上松宿から離れて行く。
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国道に出てしばらく歩くと、広重・英泉 合作の中山道69次の浮世絵にも描かれた「小野の滝」がある。いまは、JR中央線の鉄橋が上に架かり、目の前には大型トラックがうなりを上げて通り過ぎる国道がある。それでも、かつては名所の1つであったことを十分に窺わせる風情が感じられる。
この辺りは、国道の開通で断ち切られた旧街道がポツポツと国道の両側に残っていて、小野の滝を過ぎると荻原の集落があり、少し進むと国道に出て次に4軒ほどの家が残っている宮戸の集落で草道を通って、再び国道に出る。
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またまた、国道を離れて立場のあった立町に入ると、なんと木曽川に架かる吊橋があらわれた。橋の中央あたりまで進んでみたが、ワイヤーが錆付き、かなり老朽化している。もう少し古くなったら修復するのだろうか、それとも朽ちるのにまかせるのか。
kfuku_28.jpgkfuku_29.jpgkfuku_30.jpgようやく、「倉本駅」に到る。鉄道により旧街道は完全に分断されており、駅を大きく迂回して、線路の反対側に出て残っている旧街道を進む。小さな集落が残っているだけだが、最後に国道に復帰するところは、感じのよい草道であった。本来、これが歩く道なのであることを感じさせてくれる。草の軟らかい感触が靴を通しても伝わってきて心地よい。そして、車のためであっても人のためでない道へと進んで行く。
単調な道が続き、何か変化のあることを期待していたら、何と踏み切りでもないところで、線路を跨ぐことになった。細い道が線路の両方にまで伸びてきているのだが、肝心の線路に踏切がないのである。「危険につき線路横断禁止。近くの踏み切り等を通行してください」の立て札がある。そんなこと言ったって1km以内には踏み切りは無い。責任を果たしたという免罪符としての立て札だろう。
渡ると、養魚池があり、ほどなくまた、同じ立て札のある場所で線路を跨ぎ国道に復帰する。
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国道脇に素晴らしい枝垂桜の木がそびえていた。花の季節は見事なものであるに違いない。やっと、今日の最終目標地の須原の駅に着いた。幸田露伴の文学碑があった。時刻は14時50分で、電車は15時17分だ。まだ早い時刻なので次の駅まで歩きたいが、15時17分の電車を逃すと、18時近くまで電車がない。これでは家に着くのが真夜中で遅すぎる。恐ろしいほどの不便さだ。今日はここで諦めて、帰宅することにした。
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2008.06.07

薮原から木曽福島

本日の万歩計31,683(21.2Km)
5月は雨が多く、また仲間の集まりなどもあり、一月ぶりの歩行である。
木曽は各駅停車の列車の本数が極端に少なく、塩尻に9:30分に着いても10:50まで木曽方面の列車が無いはずであったが、ラッキーなことに9:46分に薮原行きの臨時列車があった。奈良井の漆器祭りのお蔭だ。途中、特急の待ち合わせがあったりしたが、10:30に薮原に着き歩き始めた。
中山道は駅の出口と逆方向なので、前回線路を潜った通路を逆に通って、歩き始めると木祖村民センターがあり、一里塚跡の碑とD51の蒸気機関車が飾られていた。しばらくは国道の歩道を歩かざるを得ないが、狭い谷あいで緑が美しいのが救いだ。
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さらに進むと、谷は益々狭まり国道は「吉田洞門」へ。車の通りは激しいが、歩道は木曽川に面して歩き易い。
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10分ほど進むと、国道は「山吹トンネル」に入るが、トンネルを迂回するように走っている旧国道を進む。江戸時代に大勢の通行で賑わった旧中山道も、国道だ出来て忘れられ消え去ったところも多いが、その国道もより高速通行を図るためトンネルを穿ち、部分的に放棄された場所もある。そして、このような場所では自然が元の姿を回復すべく直ちに活動を開始しているのを見ることができる。そのせめぎあいを木曽川が横目で眺めながら滔々と流れて行く。
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少し進むと、ようやく国道から離れ「宮ノ越宿」の方に進む。車の騒音から逃れられてほっとする。電車の線路を上に見て進むと、直ぐに「巴淵」に着く。水が巴状に渦巻いていたから「巴淵」と呼ぶようなったとか、「巴御前」がよく水浴びをしていたからとも言われているそうだが、「巴御前」はこの淵に住む龍神の化身だというものまであるそうだ。大して大きな淵でもなく、少し木曽川の流れが澱んで青く見えるだけである。淵の上の山は「山吹山」であるが、「山吹」も「巴」も木曽義仲の愛妾なので、二人の名前を付けたかったからと言うのが、本当のところではなかろうか。
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「巴渕」を過ぎて「徳音寺」と言う集落に入って行く。お寺の「徳音寺」と同じ名前の集落だが、お寺までの1Kmほどの道は、国道を歩くのに比べると極楽だ。のどかで本当によい道で、もちろん車は通らない。
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ほどなく、お寺の「徳音寺」に着く。木曽義仲、母小枝御前、愛妾巴御前、樋口兼光、今井兼平の墓があり、また義仲の霊廟もある。木曽義仲の墓は東海道歩きで大津で義仲寺(ぎちゅうじ)でもお目にかかった。巴御前の馬上の像も建っていたが、顔が可愛すぎるように思えた。
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「徳音寺」を出ると、ふるさと創生事業の一環として平成4年に建てられた義仲館。入館せずに、建物正面の義仲と巴御前の像を見て、「宮の越宿」に入って行く。本陣跡には明治16年の大火以降に建てられた村上家の家が残っているが、今では住む人も無く、荒廃している。
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そして、江戸時代に掘られた井戸で名水とされた「御膳水」。明治天皇が行幸の際に飲まれたので「御膳水」と名付けられたものであろう。「宮の越宿は」今は静かな集落と化してしまい、疎らな家の並びの中を街道は進んで行く。
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やがて、街道は間の宿の「原野」に入って行く。木曽を歩いて感じたのだが、お墓が多く、かつ立派だということである。お墓の入り口には、多くの石仏を配したものも多い。そして、山の中腹には「明星岩」と呼ばれる三角形の岩が飛び出して見える。相当に大きな岩であるようだ。
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左を向くと「木曽駒ケ岳」が望まれ、なんと「中山道中間点」の立て札があった。江戸、京都 双方に67里38町(268Km)とのこと。もう、半分歩いたかと思うし、まだ半分かとも思う。
中間点を過ぎると直ぐに、小沢の集落でかすかに踏み跡が感じられるような道を進むことになる。直ぐに川沿いに出て草原を進み、農家の方が田圃に行くのに通る、メッシュで川面が見える鉄の橋を渡って進む。大きく立派な蕗が茂った家があり、街道らしい家並みが続いている。栗本の集落である。
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yabuhara_26.jpgyabuhara_27.jpgyabuhara_28.jpg進んで行くと、中原兼遠が木曽義仲の学問成就を願って京の北の天満宮を勧請して作った「手習い天神」がある。急な階段を上ると、小さな境内だが、相撲の土俵もあった。江戸時代には、参勤交代の大名もお参りしたという、小さいながらも古社としての風格がある。
yabuhara_29.jpg「手習い天神」を過ぎると、直ぐに国道に合流して長い道のりを進むが、やっと、大きな関所の門が見えてきて「木曽福島関跡」に到着する。復元された関所を見学するが、陳列されていた、ジオラマが当時の様子を良く表しているのでなかろうか。
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関所を過ぎると、島崎藤村の姉の園が嫁いだ「高瀬家」がある。代々木曽福島の関所番を勤め、藤原氏の流れをくむという名門である。江戸時代には公方さんにも献上したという「奇応丸(きおうがん)」も有名であったとか。展示館を作って色々なものを展示していたが、やはり島崎藤村に関係するものが多い気がした。そして、そこから下の道路に降りる、九十九折の坂道は「初恋の小径」と粋な名前が付いていて、初恋を歌った句が頻々と表示されている。
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「初恋の小径」を下りて、本町の商店街を進み「上ノ段」の方に曲がると「高札場」があり、古い町並みが見られる。距離は短くて10軒ほども続かないほどだが、格式を感じる家が並んでいる。
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木曽川は、音を立てて滔々と流れている。橋を渡って「山村代官」の屋敷跡に進む。
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ちょうど「ほうば祭り」が行われており、代官の屋敷跡の前の広場は、屋台なども出て、大賑わいだ。祭りの期間は代官屋敷見学は無料開放で見学できるとのこと。早速、入って、綺麗な庭園、使用されていた食器、鎖帷子などが展示されているのを見学した。
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yabuhara_43.jpg代官屋敷を見学して帰ろうとしたら、地元の人に中山道歩きですかと呼び止められ、そうなら木曽福島駅前の観光案内所で手作りの素晴らしい地図が貰えると教えてくれた。早速、駅に行き「素晴らしい地図」を貰って、今日の宿泊旅館の「さらしなや」に向かった。