2008.06.15
大妻籠から中津川
大妻籠を過ぎて、九十九折(つづらおり)の石畳の道を上ってゆく。石畳の道が終わって小さな木の橋を渡ると、道の左の少し高いところに「倉科祖霊社」がある。松本城主小笠原貞慶の重臣倉科七郎左衛門朝軌が、主命で秀吉の関白就任祝いに行った帰り、馬籠峠で土豪の襲撃を受け、この地で従者30人とともに討ち死にした場所であり、その霊を弔うために建てられたお堂である。当時小笠原氏と木曽氏は何度も戦っており、そうした因縁からかと言われている。
男だる川の「雄滝」(左写真)と一石栃沢の「雌滝」がある。滝の作り出す冷気が上り坂を歩いて汗ばんだ体に心地よい。吉川英治の宮本武蔵の舞台となったところとのことだが、筆者は読んでいない。
「雌滝」から沢を渡り急坂を上ると車道にでるが、ほどなく沢に沿った心地よい道を進むことになった。馬込峠から下ってくる何組かの人達にも出会った。そして、車道を横切って進むと石畳の道になり、直ぐに「さわらの大木」がある。300個の風呂桶が作れる大きさと書かれている。下枝のかたちから神居木(かもいぎ)と呼ばれる木で、山の神、天狗が休む木で、傷をつけたりすると祟りがあると信じられていて、杣人は側を通ることもいやがったという。言われると意思を持った木のようにも見える。
林の中を歩き、急に開けてきたと思ったら「一石栃の白木改番所跡」である。木曽から移送される木材を取り締まるために設けられたもので、檜の小枝一本まで許可を示す焼き鏝を押してあるか調べたという。そして、大妻籠で残り少なくなっていた飲み水がなくなり、自動販売機もない道なので困ったと思っていたら、茶屋の前に水舟があり水を補給できた。冷たく美味しい水であった。
標高801mの馬籠峠への最後の上りは、きつかった。ようやくたどり着いたら、峠の茶屋が1軒建っていた。平成の大合併で馬籠が中津川市に入り、ここが長野県と岐阜県の県境となった。
茶屋の横には正岡子規の歌碑がある。「白雲や青葉若葉の三十里」とある。あとは、ひたすら馬籠宿に向かって下って行く。道に白と土色の小片を混入させており、桜の花びらが散ったようにも見える。
急坂を下ると、峠の集落で、ここは馬方ならぬ牛方が大勢住んでいて荷物輸送を担っていた。道が厳しいので馬ではなく牛を使ったのである。島崎藤村の「夜明け前」にはこの牛方が輸送賃をめぐってストライキを行う場面が出てくる。集落のはずれには、牛方を顕彰した「峠之御頭頌徳碑」がある。
急な下り坂を下りて行くと、十辺舎一九の大きな碑とともに休憩所があり、「渋皮の むけし女はみえねども 栗の強飯ここが名物」と刻まれていた。さらに、車道を何度か横切りながら進んで行くと、沢に架かる橋を渡って車道と接するところに、「樹梨」と言う名の食事処があったので、山菜天婦羅定食を頼み遅い昼食とした。栗の強飯は美味しかった。77歳という地元の老人も食事をしていて、木曽について色々と話してくれた。
食事を終えて進むと、直ぐ石畳の道になり上りきると、民家にぶつかりその軒下を通るような場所がある。
さらに、車道を何度か過ぎりながら下って行くと、ようやく陣場と呼ばれる、見晴らしの良い場所に到着する。ここには島崎藤村の「夜明け前」の一節、実父の島崎正樹の漢詩、岐阜県になった記念碑などなど沢山の碑、看板が建っていた。遠くには恵那山も見える。若いカップルが沢山ベンチに座って景色を眺めている。
この陣場は、家康、秀吉の小牧・長久手の戦いで馬籠城と妻籠城を攻めるため、家康軍が陣を張ったところである。このとき、馬籠城は島崎重通が木曽義昌の命で守っていた。
例によって、高札場は宿の街並みへの入り口にあった。流石に、ここからは観光客が多い。進んで行くと「夜明け前」の描写の通りに「大黒屋」がある。既に酒造業はやめているが、大きな杉玉がある。そして今はお土産屋になっている。
そして、大勢の人通りに追われるように道の反対側の本陣跡である藤村記念館に入る。
急いで飛び込み、外から冠木門を撮るのを忘れてしまった。もう、本陣の建物は残っておらず土地も「大黒屋」の持ち物となっていたそうだが、長野県で馬籠宿に観光客を呼び込むための整備計画の段階で町に寄贈されたとのこと。唯一残っていた建物は祖父母の隠居所であるが、藤村(春樹)はこの隠居所の二階の座敷で、座敷牢で狂死した国学者の父、正樹(青山半蔵)から四書五経の素読を受けたと言う。また、お城のような石垣に囲まれた通路を見ると、半蔵が裏口から友を逃がす場面が頭に浮かぶ。
今は梅雨の季節だが、よい天気に恵まれ観光客も大勢訪れていた。家並みはすっかり整備されて素晴らしいが、少し手を入れすぎな気もするがどうであろうか?
街の通りから僅か200mほど離れたところに、島崎家の菩提寺の「永昌寺」がある。ここを訪れる観光客は居ないのか、静かに静まり返っている。島崎家の先祖代々の墓所は、あっさりとしたものであり、正樹の墓は少し離れて妻の縫子とともに眠っている。また、全く新しい場所に、島崎家の10人ほどの石碑を配した墓所があったが、島崎家の子孫が墓地を購入して最近整備したものか?島崎藤村の墓は大磯の地福寺にもある。
階段の道は京口の枡形である。これを過ぎると、いよいよ馬込宿も終わりで「落合宿」への道を歩んで行く。しばらく行くと、馬籠城跡の説明板があった。既に城跡は私有地になり、もとの城域は判然としない。小牧・長久手の戦いでは島崎重通が守っていたが、徳川方のあまりの大軍に恐れをなし、夜陰にまぎれて木曽川沿いを通って妻籠城に逃れたと書かれていた。
少し先には島崎正樹の顕彰碑。さらに進んで新茶屋という集落で「信州サンセットポイント百選」という場所があり、正岡子規の歌碑「桑の実の 木曽路出づれば 穂麦かな」があった。昔の人も長い木曽路を歩いてきて、大きく開けた景色に接してほっとしたのではなかろうか。そして、新茶屋の一里塚跡を見て、石畳の道を下って行く。
落合の石畳の道は、少しの距離だろうと思っていたが、案外長く、しかも4ケ所ほどは江戸時代のものがそのまま残っていたという。石畳が終わり、しばらく行くと「医王子」がある。有名な枝垂桜は伊勢湾台風で折れてしまったが、今は二世が大きく育っている。
やっと、落合宿に入ってきた。もう、昔の宿の雰囲気が損なわれていると思いながら歩いて行くと、本陣があった。私邸であり公開はされていない。
「落合宿助け合い大釜」と言うのがあった。容量は1000リットル以上で、寒天を煮ていた釜だという。今はお祭りに千人キノコ汁を作ったりしているが、災害時の緊急用も兼ねているとのこと。落合も旧中山道には白い小片を混ぜた舗装で歩くのに間違いなく、安心して歩ける。そして、このような分かり良い道は中津川の近くまで続く。歩いて行くと、与野の立場跡の碑があった。
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そして、尾張藩の「白木改番所跡」の碑。ここで、「ひのき、さわら、あすなろ、こうやまき、ねずこ」の木曽5木を取り締まった。改番所は明治4年に廃止されたが、明治新政府の材木に対する取り締まりは、より苛烈を極め、島崎正樹(藤村の父)はこの闘いで精神に異常を来たした。
これを過ぎると、後は中津川まで一気に進めると思ったのが大間違い。急な上り下りが2回あって、相当にへばってしまった。しかし、芭蕉の「山路来て 何やらゆかし すみれ草」の句碑を見ると、もう中津川だ。急坂を下ると高札場があり、真っ直ぐに中津川駅に向かうことにした。
その後16時34分のセントラルライナーで名古屋に出て、東海道新幹線で帰宅についた。セントラルライナーは初めて乗った列車だが、名古屋に住む子供たちに会いに行くという女性と隣り合わせになり、色々と話していたら新幹線で食べるようにと、大きな「ほうば寿司」を二個頂いた。ともかく、中山道歩きで、始めての東海道新幹線利用となった。