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2007.11.17

日本橋から浦和・・・(中山道)

本日の万歩計46,761(31.3Km)
10月27日に京都三条大橋に到着し東海道を歩くことは達成出来たので、次は中山道と考えていたが何かと引っ掛かりが生じ体が空かなかった。
やっと、空いたので本格的なアッタクは来春としても、市街地脱出はぐらい開始しておこうと出発した。
日本橋からのスタートなら、それほど早く出かける必要もないと思っていたが、何だか早く目が覚めて6時を少し回ったところで日本橋に到着した。さすがに、冬は夜が明けるのが遅く橋の欄干のライトが点っていた。
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urawa_04.jpg再びレプリカの道路元標を見て、歩き始めると左側に三越本店があり、既にクリスマスの飾り付けであった。この辺りは伊勢、近江などの江戸店(えどだな)が軒を並べていたところである。
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17号線を進んで行くと、しばらくして神田駅に着きJR線のガードを潜るが、ガード下に田中昭作の「健やかに」のブロンズ像があった。さらに進んで、JR中央線に接しようとするところに交通博物館がある。学生時代に秋葉原に通った折に何度か入ったことがあるが、2006年5月14日に閉館となり今は取り壊し中のようであった。
なお、後継施設として鉄道博物館が2007年10月14日に埼玉県さいたま市大宮区・北区大成町に開館したとのこと。
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神田川を昌平橋で渡ろうとしたら、この辺りでもカモメが飛んでいるのには驚いた。早朝で人通りも無く、のんびりとした時間を過しているのだろうか。昌平橋の名前の由来は、将軍綱吉が湯島に聖堂を建設したとき、相生橋(芋洗橋)と呼ばれていたのを、孔子誕生地の昌平にちなみ昌平橋と改名したという。
そして、江戸時代の朱子学の学問所の「湯島聖堂」。早朝で一部しか見られなかったが、豪壮な建物であり、今でも論語素読、易経講義、孟子講読などの予定表が掛かっている。
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「湯島聖堂」と中山道を挟んで反対側に「神田明神」がある。天平2年(730)の創建で、大手町の将門塚あたりあったのを、徳川家康が現在の位置に移し、その後は「江戸総鎮守」として今に至るも隆盛を極めている。
また、神田祭は天下一の祭礼としてつとに有名である。
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urawa_13.jpg東京医科歯科大の裏を通って本郷3丁目に達すると、その交差点に「かねやすビル」が道路の左側にある。写真は道路の右側から交差点を通り過ぎて対角線のような感じで振り返って撮影したものである。江戸の川柳に「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」と詠まれたというが、内口中医師(今の歯科医)兼康裕悦がここで乳香散という歯磨き粉を売り出したら江戸中の評判になったところである。また、火災を警戒して町奉行より本郷までは塗屋、土蔵造りを勧め、屋根は茅葺を禁止し瓦葺とした。その境目がこの「かねやす」で、現在もビルとなってその名を留めている。
本郷3丁目の交差点を過ぎると、しばらくして、有名な東大の赤門。説明板には、11代将軍家斉の娘溶姫(やすひめ)が加賀藩に嫁ぐ時に前田家で建造したもので、正式には御守殿門といい、重要文化財に指定されている、とある。そして、本郷追分で分かれるまで、700mほども続く長い東大の塀。また、追分には最初の一里塚があったとのこと。
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東大から分かれて700mほど進み、白山1丁目の交差点で左折して細い坂道を下ってゆくと、直ぐに円乗寺の入り口がある。小さくて本堂のみで境内もほとんど無いようなお寺だが、「八百屋お七の墓」があることで有名である。井原西鶴の「好色五人女」で有名になったが、八百屋お七は寺小姓佐兵衛に会いたさに、火付けをして、鈴が森の刑場の露と消えた。
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巣鴨までは2kmほどの距離である。巣鴨駅を過ぎると直ぐに、左側に真性寺があり、笠を被った大きなお地蔵さんがある。江戸六地蔵の一つで正徳4年(1714年)に建立されたものであり、以前は巣鴨の地蔵と言えば、この地蔵を指したが、最近は「とげぬき地蔵」の方が有名になった。
あまり、広くない境内には芭蕉の句碑もあり、「白露もこぼれぬ萩のうねりかな」と書かれていた。
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おばあさんの原宿と言われる「巣鴨の地蔵通り」に進んで行く。朝の9時で、まだ閉まっていて開店の準備を始めたばかりの様相であった。しばらく進むと、「とげぬき地蔵」で有名になった、高岩寺がある。明治24年に下谷屏風坂(現上野駅付近)からこの地に移設されたお寺であり、昼間は行列ができるほどの賑わいというが、まだ閑散としていた。ちなみに、本尊は延命地蔵尊であるが、秘仏で非公開である。
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長い「巣鴨の地蔵通り」を進んで「都営荒川線」の庚申塚駅に向かう。踏み切りに達する少し手前に、「巣鴨の庚申塚」がある。江戸時代は名所として賑わったという。そして、懐かしい、今でも残っている路面電車の「都営荒川線」を見る。
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板橋に到着した。駅前には生き残った「永倉新八」が作った「近藤勇」と「土方歳三」の墓がある。もちろん、「永倉新八」の墓もある。旧東海道歩きで本宿(赤坂と藤川の間)の宝蔵寺でも近藤勇の墓(首塚?)があったが・・・
また、駅前広場には、北村治禧(きたむらはるよし)という人の「麗新」と題したブロンズ像もあった。
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JR板橋駅は東口から西口に行くには、踏み切りを跨いで回り込む必要がある。西口駅前広場には「むすびのけやき」と名付けられた立派な「けやきの木」があった。後に出てくる「縁切榎」と対照されて面白い。
urawa_27.jpg旧道を歩いて首都高速にぶつかり、その下を走る17号線を渡り、そのまま進むと「宇喜田秀家の墓」のある「東光寺」がある。「宇喜田秀家」は秀吉の時代は5大老と言われるまでになったが、関が原の戦いで副大将として奮戦したことが災いして、改易され、その後、島津、前田の懇願で死罪は免れるが八丈島に流される。しかし、長男と次男の子孫が八丈島で血脈を伝え、明治になり、この東光寺に墓を作ったという。
旧道を進んで行くと、「板橋宿」の名前の由来となった、「板橋」がある。現在はコンクリートの橋であるが、板の雰囲気を保とうとはしているようだ。それにしても、橋の左側に車が3台も停められているのはいただけない。さらに、進むと、この木の下を嫁入り、婿入りの行列が通ると不縁になるという「縁切榎」がる。和宮様の降嫁のときも迂回路をとり、ここは通らなかったという。菰でこの木を包んだとする説もあるが、これは不浄なものは菰で包むようにとの伝達からの誤りとのこと。
いずれにしろ、JR板橋駅前の「むすびのけやき」に比べ、小さな木であり植えられている土地も小さいものである。やはり「縁結び」に比べ「縁切り」は歓迎されないものなのであろう。
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再び17号線に合流して進み、志村に達すると、「志村の一里塚」がある。写真の左側は、道路の左側の一里塚である。一里塚は土砂の崩れを防ぐため、四方を石垣で囲んでいるが、ほぼ原型のままの一里塚が都内でしかも道の両側に残っているのは、素晴らしい。
一里塚は幕末以降に管理がなされず、荒れはてたので明治9年に取り除くべく通達が出て、多くが破壊されたとのこと。残念なことである。
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志村坂上の交差点で交番の横から細い道路に入って行く。舗装が綺麗な道で中山道であることを主張しているようだ。歩いて行くと民家の玄関先に庚申塔と書かれた古い石碑があり、旧道であることが分かる。また、清水坂と書かれた石碑があるが、この清水坂が中山道で最初の難所であり、急に曲がることから富士山が右に見える名所であったとのこと。東海道では茅ヶ崎と吉原宿で左富士の名所があったが、中山道では右富士だ。
urawa_32.jpgurawa_33.jpgurawa_34.jpg17号線に戻り、志村橋を渡り、直ぐに荒川橋に掛かる戸田橋を渡る。戸田橋は大きな橋で、右側には東北・上越新幹線の鉄橋が見え、ひっきりなしに列車が通るが、防音壁のため総2階建て列車の2階部分以外は、まるで見えない。
戸田橋を渡り2kmほど進むと、17号線から旧道に入り、「蕨宿」となる。下の写真の左側は、織物買継商の家を整備した歴史資料館別館であり、左は昭和初期の木の看板であるが、ずいぶんと立派である。
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少し進み、道路の右側に入ると「三学院」という真言宗のお寺がある。江戸時代は寺領20石を与えられ、関東七ヶ寺の役寺として格式の高い寺であったという。境内には目疾(めやみ)地蔵と呼ばれる地蔵があり、目に味噌を塗り、願いをかけると目の病が治るという。3重の塔も立派に見える。

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17号線を横切って進むと、少し古い雰囲気の家も見られるようになり、緩やかに曲がっている旧道を進むと外環状線の下を潜ることになる。やがて再び17号線を横切って進むと、急な上り坂があり「焼米坂」の石碑が建っていた。かつて、ここに「焼米」を売る茶店があったという。ここを過ぎると「浦和宿」になる。
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浦和宿に入ると、右側に「調神社(つきじんじゃ)」がある。調神社の調は「租庸調」の調である。社伝によれば開化天皇3年(紀元前156年)に創建されたとされ、非常に古い。崇神天皇の時代に伊勢神宮の斎主・倭姫命が参向し、境内に神宮に献る調を納めるための倉を建て、武蔵・総国の調の集積所と定めたという。物資の出し入れのため、鳥居は設けなかった。
調を「つき」と読んで月に通じるところから、手洗い水を吐き出しているのはうさぎで、狛犬も犬ではなく狛兎である。
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urawa_44.jpg今は7,5,3の季節とあって、着飾った女の子と、両親、祖父母等の一団を多く見かけた。「調神社」から出て、今日はここで終わることにして、左折して「浦和駅」に向かった。
今日は記念すべき中山道の第一日目であったが、順調に30Kmほどを歩くことができた。

2007.11.24

浦和から鴻巣・・・(中山道)

本日の万歩計47,527(31.8Km)

3連休の初日は所用でつぶれ、満を持して出発。浦和の駅には6時30分ころに到着した。まだ明けやらぬ様相。寒くなったので、備えはした積りだが、何しろ空気が冷たく、顔を刺す。ともかく、駅前のファーストフードでちょっと腹ごしらえをして歩き始めた。
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前回引き上げた元の街道に戻ると、車道と歩道の境界線に、石柱が建っており、中山道浦和宿と書いてある。早朝で人通りは多くはないが、日中は大変な通りらしい。少し行くと、左手に少し入ったところに玉蔵院がある。平安時代の創建の真言宗豊山派の古刹で、感じの良さそうな石庭が見えたが、早朝で門は閉まっていた。
kohnosu_03.jpgkohnosu_04.jpgkohnosu_05.jpgさらに進むと、常磐公園に通じる市場通りがあり、その入り口には、かつて、ここで市が開かれていたことを示す、野菜などを売る農婦の銅像があった。月の2と7の付く日(計6日)に市が開かれていたことから六斎市(ろくさいいち)と呼ばれていたという。
kohnosu_07.jpg道は、JR線を跨いで北浦和に進む。特に記すべきものもなく、ひたすら歩いて与野駅入り口交差点に達すると、大きな欅(けやき)の古木がある。一里塚と一里塚の中間にあるので半里塚というとの説があるが、真偽は不明である。もし、半里塚であったとしても、残っているのはここだけであろう。
やがて、「さいたま新都心駅」が近づくと、新しく建てられた国の庁舎群が見えてくる。そして、立派な欅並木が続いていて、歩道もしっかりと確保されていて感じが良い。
kohnosu_08a.jpgkohnosu_08.jpgkohnosu_09.jpg欅の並木が切れたころ、「火の玉不動尊・お女郎地蔵」がある。最近、作り直したようで真新しい社(やしろ)になっていて、中には詳しい説明板も設けられていた。要約すると、「大宮宿に千鳥と呼ばれる大変綺麗な女郎がいて、材木屋の若旦那と末は夫婦にと約束していた。が、泥棒の神道徳次郎が横恋慕し千鳥を身請けし、身請けを承知しないなら宿に火をつけると凄んだ。千鳥は主家に迷惑は掛けられないと進退窮まり、近くの高沼用水に架かる高台橋より身投げしてしまった。そのころから千鳥の人魂が飛ぶようになったので、近所の人が地蔵を立て霊を慰めたという。
またそのころ、夜になると火の玉が毎夜の様に現れるので一人の男が、火の玉に切りつけたところ叫び声と共に火が消え、そこに物凄い顔をした男が立っていた名を問うと不動明王と答えた。翌日、近くの高台橋に、剣を切り取られた不動明王があった。以後、この不動明王を「火の玉不動」と呼ぶようになったとか・・・
kohnosu_10.jpg直ぐに「氷川神社」の一の鳥居が見えてきて、2Kmにもおよぶ欅の見事な参道が続く。「氷川神社」は武蔵野国の一の宮で、大宮の名の由来も大きな宮に起因していて、いわゆる門前町であった。中山道はかつては、この参道を通って行くものであったが、通行量も増し、寛永5年(1628年)に関東郡代の伊能忠次が、神域を通るのは不敬として参道の左側に新しく道を作り、その両側に宿を移転させ、大宮宿としたという。

kohnosu_11.jpgkohnosu_12.jpgkohnosu_13.jpg長い参道もようやく終わり、太鼓橋を渡り朱に塗られた「桜門」を通ると、舞殿と拝殿が見えてくる。日本の神社の特徴として、全国氷川神社の総本山といえども、それほど華美に流されることは無い。
東京奠都の際、明治天皇が当社を勅祭社と定め、明治元年(1868年)10月28日に当社にて親祭を行った。以来、例祭には勅使の参向があり、宮内庁楽師による歌舞が奉納される。
また、本殿の裏の境内には、青木昆陽の碑が建っていたが、これは昆陽が広めたサツマイモが埼玉県の名産になったことの記念のようであった。それにしても境内には桜の古木が多く、花の季節は見事であろう。
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元の中山道に復帰して、どんどん進み「宮原駅」を過ぎてしばらく行くと、右手に「加茂神社」がある。小さな神社だが、祀神は別雷命(わけいかづちのみこと)、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉冉命(いざなみのみこと)、菅原道真公となっており、菅原道真公は例外としてとても古い神が祀られている。大国主の命に使えた加茂族の一部が、この地に移り住んだのであろうか。
さらに、16号のバイパスを潜って進むと、「南方神社」があり、地元では「お諏訪さん」と呼ばれているそうである。確かに、九州地方では「諏訪神社」の系統の神社は「南方神社」と呼んでいるが、何故ここで「南方」なのであろうか。小さな神社で境内に人気はなかったが、境内に建つ集会所の建物からは中学生であろうか、太鼓の練習をする声と音が聞こえていた。
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上尾に向かって歩いて行くが、見るべきものも無く寂しいと思っていたら、道端に道標を兼ねた不動明王が建っていて、川越への分岐点となっていた。やっと、「上尾駅」が近づき、「氷川鍬神社」があった。この辺りは鍬(くわ)や鋤(すき)を作る職人が多く住み着き、ここで作られたものは評判もよく近隣からも多く買い求めに来たという。それで、鍬二丁をご神体とする神社が作られ、その後、氷川女体神社と合祀したので氷川鍬神社と名を変えたものである。小さな境内であるが、7,5,3の参拝客がちらほら見られ、また右手の方には聖徳太子の線刻碑もあった。

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お昼時になり、お腹も空いたので上尾駅前の丸広デパートに入って昼食をとり、しばし休憩の後に歩き始めると、駅前には近代的なモニュメント。健康的だ。
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桶川宿に入ると、江戸時代に「紙屋半次郎」の名前の旅籠であったのが、今に続いてビジネス旅館として営業している「武村旅館」がある。繁盛しているのであろうか。今なら泊まるが、現役時代に仕事で来ることがあってもこの旅館を選んだかどうか。そして、少し行くと本陣の遺構が残っていた。門のみで中は、単なる小広場。
kohnosu_23.jpgkohnosu_24.jpgkohnosu_25.jpgそして、敷石の通路が美しい「大雲寺」。この寺で珍しいのは、境内にある3体の地蔵の内の右端の地蔵である。この地蔵は「女郎買い地蔵」と呼ばれ夜な夜な女郎を買いに行くので、怒った住職が鎖で縛りつけたという。そのための、鎹(かすがい)が背中に残っている。「桶川宿」には「飯盛り女」が多かったことをうかがわせる話しだが、若い修行僧に対する戒めとして行ったのであろう。

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間の宿である「北本宿」に着くと「多門寺」があり、境内に樹齢200年という天然記念物の「無患子(むくろじ)」がある。古木で瘤だらけで、幹回り3.6m、根回り7.6m、樹の高さ27mとある。属名のSapindusは、ラテン語で“石けん”を意味する“sapo”と“インド産”を意味する“indus”をつなぎ合わせたもので、丸い実がなり、この皮をこすり合わせると泡立ち、アジア諸国では今でも洗剤として利用されているとのこと。また、中にある種子は硬くよく弾むので、羽根突きの羽に用いられた。しかし、今の日本では、果実は全く利用されなくなったとのこと。
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北本駅の近辺はJR線が作られたとき、中山道は崩されたようで現在中山道と呼ばれている道路から外れて、JR線の踏切を渡り線路に沿って歩くと、一里塚がある。訪れてみると、確かに一里塚らしい土山があり、説明板も設置されていた。馬室原の一里塚である。
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「鴻巣宿」に入ると「人形店」が、次から次へと現れる。街の名前も人形町。1580年頃に京都伏見から人形職人が移り住み、参勤交代の大名も人形を土産に買い求め、発展したそうである。そして、本町交差点の近くの「勝願寺(しょうがんじ)」。勝願寺は約700年前に創建され、現在の寺院は、天正元年(1573年)に再興されたものである。寺に三つ葉葵の紋があるのは、かつて家康が鷹狩で度々この地を訪れ当寺の不残上人の学識に感銘して帰依し、葵の紋を使用することを許したとのこと。

関東郡代の伊奈忠次、忠治の墓や譜代の牧野家信州真田藩祖真田信之の夫人・小松姫、信之の3男真田信繁夫妻の墓等が残されている。人形の供養碑も境内に築かれているのは、人形の街の鴻巣らしい。(実は郡代の墓は撮り忘れ、後日撮りに行ったもの)

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既に、時刻は3時半を回り、今日はここまでとすることとし、鴻巣駅に向かった。10分ほどで幸いにも湘南新宿線の小田原行きが来た。

2007.12.15

鴻巣から籠原・・・(中山道)

本日の万歩計42,030(28.2Km)
12月は集まりなども多く、それに加えて風邪を引いたりで、なかなか歩きに出かけられなかったが、今年も今日ともう一回歩くチャンスがあるかどうかだと思いながら出かけることとした。
それにしても、日が短くなり朝6時9分の電車に乗っても、まだ暗い。前回切り上げた「鴻巣駅」には8時頃に着き、歩き始めた。鴻巣ではその地名が示すように歩道にコウノトリの絵が嵌め込まれていた。昔はこの辺りでもコウノトリが普通に見られたという。
そして、少し進むと、右側に「鴻神社」。鴻神社は雷電、氷川、熊野神社が合祀されたもので、この辺りの地名には雷電町の呼び名が残っている。
kumagaya_01.jpgkumagaya_01a.jpg加美の交差点で国道と別れ左の道を進んで行くと、「箕田(みた)」の集落に入る。この辺りは「箕田武士」の発祥の地で、「箕田観音」がある。この観音は永延元年(987年)に箕田源氏の渡辺綱(わたなべのつな)が源経基(みなもとつねもと)ゆかりの馬頭観音を守り本尊としてここに安置したと伝わる。
さらに進んで行くと、左手に「氷川八幡神社」があり、「箕田の碑」が建っている。また、説明板には下記のように書かれている。
「清和天皇の第6皇子、貞純親王の子である源経基が平安時代中期頃、武蔵介としてこの地方を治め源氏繁栄の礎を築く。その後、嵯峨源氏の流れをくむ源仕(みなもとのつこう)がここに土着し、箕田源氏を名乗る。知勇を兼ね備え、経基をよく助け大功があった。その孫である渡辺綱(わたなべのつな)は摂津源氏の源頼光に仕え剛勇の誉れ高く、頼光四天王の筆頭として活躍した。
箕田源氏三代(源仕・源宛(みなもとのあつる)・渡辺綱)の館跡は満願寺の南側の地と伝わる。」
清和天皇の流れを汲むものが住むところに、後に嵯峨天皇の血筋がやってきて「箕田武士」が形成されたようである。ともかく、神社に向かって二拝二拍手一拝。
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神社裏手の宝持寺は渡辺綱が祖父・仕(つこう)と父・宛(あつる)を追善するために建てたものとのことだが、参道の両側は「棕櫚の木」で、境内には「一休さん」の像があって面白い。
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直ぐに「武蔵水路」を渡るが、水量が豊富だと思っていたら、東京の飲み水とのこと。
そして、民家の軒先に「伊藤の一里塚跡」の碑が半分文字の消えた状態で、誰にも注意されなげに建っていた。
kumagaya_07.jpgkumagaya_08.jpgkumagaya_09.jpgその後は、車の通行量が多く、細くて満足に歩道も無い道を、ひたすら早く過ぎることを念じながら進んで行くが、北鴻巣を過ぎ、吹上駅前を通って本町で左折すると、やっと車の数が減る。直ぐにJR高崎線を横切ることになるが、バイパスもJRを横切っているので、これを利用して通路を設けてある。また、橋の下には「間の宿吹上」の凝った案内板があった。
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進むと、ほどなく「権八地蔵」のお堂があった。鳥取藩士を父に持つ、平井権八(江戸は”ひ”と”し”の区別がつかず、白井となって歌舞伎では演じられる)が、江戸に向かう途中、金に困ってここで辻斬り強盗をし、その現場をお地蔵さんに見られ「誰にも言うな」と言ったところ、「わしは言わぬが、お前も言うな」と地蔵に言われたという。
しかし結局権八は自分でそのことを言い延宝七年(1679年)に磔刑となり鈴ヶ森に晒された。
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地蔵はそれを見通した上で、上記の様に言ったとか、それ以来、この地蔵は「権八ものいい地蔵」と呼ばれる様になったのだという。お堂を覗き込むと、比較的新しそうで、柔和なお顔のお地蔵さんが安置されていた。もちろん、ものを言いそうには見えない。
そして、右には荒川の堤防への上り道。もう、この辺りは上州に近く、上州と言えば冬のからっ風。この堤防を「熊谷堤」と呼ぶそうだが、冬はとても寒いと脅かされて厚着をしてきたが、今日は風もなくほぼ快晴で途中でセータを脱ぐ羽目になった。
遠くまで眺望が利き気持ちがよいが、快晴に近いが富士山や浅間山を望めるまでには至らなかった。この「熊谷堤」は堤防と言っても、川筋は見えず、田園風景が広がるのみで、所々に屋敷林のようなものも存在する。これは、あまりにも激しい荒川の水害を避けるため、昭和15年に当時の新川村の移転計画が決定され、村の半分は堤防外に移転し、昭和22(1947)年のカスリーン台風で、ほとんどが村を去ったが、田畑はそのまま耕作を続けているからである。
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堤防を歩いて行くと昭和22年に日本を襲った「カスリーン(KATHLEEN)台風」の時に決壊したことを示す「決壊の跡の碑」が建っていた。このときは「利根川」も決壊し、東京の江戸川区、葛飾区なども水に襲われ1000人以上の死者をだし、甚大な被害となった由。向こう側が見えない(1km以上?)ほどに広い河川敷で、これが一杯になるのは想像し難い。 しかし、昭和57年にもも決壊はしなかったが、水位は堤防の上端ギリギリまで達したという。
また、進んで行くと、土手の下に「久下(くげ)の一里塚跡」。なぜか小さなお堂が祀られている。そして、近くには古い馬頭観音も・・・。
堤防の土手は子供たちの遊び場として最適に見えるが、子供は1人も見えない。
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2.5Kmほどの長い堤防を歩いて、やっと堤防を下ると「久下神社」がある。久下は南北朝時代に足利方として活躍した久下氏の発祥地である。家祖である久下直光は八幡太郎源義家の七男の源義隆の子として産まれ、南北朝時代には足利方として数々の武勲をあげ、全盛期を迎える。しかし室町時代末期の明応2年(1493年)の政変で将軍足利義材(よしき)についたことがわざわいして衰退の一途を辿り、ついには戦国時代、明智光秀による丹波攻略によりその地位を追われ、久下氏の名は歴史から消えた。
そして、民家の前に現在の街道碑。
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少し先の左に「東竹寺」。久下村の領主であった久下直光(くげなおみつ)の開いた寺で一族の墓があるとのことだが、分からなかった。
そして、少し行くと「元荒川」の源流付近で綺麗な流れを渡る。現在の荒川は洪水を防ぐために、寛永6年(1629年)に関東郡代の伊奈忠治によって熊谷市石原で入間川水系の和田吉野川筋に付替えられたが、残された元荒川は湧き水と荒川の水産試験所の水を集めて現在の川となっている。ここには、「ムサシトミヨ」という「とげうお」の一種で背びれや腹びれに棘があるのが特徴な魚が、世界でここだけに生息する。以前は、関東一円の綺麗な水のあるところに生息したが、いまではここだけだという。
kumagaya_19.jpgkumagaya_20.jpgkumagaya_21.jpg熊谷の街が近づいた。住宅街の小公園には、「八丁の一里塚跡」があった。時刻は12時半。だいぶお腹も空いてきた。秩父鉄道の踏切を渡り、直ぐに上越新幹線の高架下をくぐって、また高崎線の踏切を渡ると、やっと熊谷市街で、手近なレストランに飛び込み、少し遅い昼食をとる。空腹で何を食ってもうまい。
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腹も満たされ、歩き始めて市役所通りに達し、高城神社を訪れる。創建は不明だが熊谷直実も氏神として崇拝していたという。境内入口付近には天保12年(1841年)に建てられた青銅製の常夜灯がある。台座には熊谷をはじめ、各地の紺屋の名前が150名も刻まれており、江戸時代の藍染業の活況を示している。
本町を過ぎ、鎌倉町に達すると、凝った作りのバス停留所。「八木橋デパート」の横の道を通って、「熊谷寺(ゆうこくじ)」に行くが、境内の開放は日曜日のみで入れなった。ここはかつて、熊谷氏の屋敷があったところで、出家した熊谷直実が元久元年(1204年)に蓮生庵(れんせいあん)を建てた所。その後、天正年間(1573?1592年)に幡随意上人が蓮生庵の跡に熊谷寺(ゆうこくじ)を建立。見られなかったが、本堂左手に、熊谷直実の墓と伝えられる塔が建っているという。
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本陣は明治17年(1884年)の火災と昭和20年(1945年)の戦災で跡形も残っていないが、近くに本陣竹井家の別邸であった庭園が星渓園の名で公開されている。これは竹井澹如(たけいたんじょ)が慶応年間(1865?68年)から明治初期にかけて作った回遊式庭園で、玉の池の周りに施された木々と名石を優雅に楽しむことができる。明治になり、大隈重信、徳富蘇峰などの名士の他、昭憲皇太后も来遊されたり、三笠宮が宿泊されたりしている。
kumagaya_24.jpgkumagaya_25.jpgkumagaya_26.jpg「八木橋」のデパートの敷地内を旧中山道が横切っていて、律儀にデパートの出口には旧中山道跡の石碑が建っていた。旧街道は直ぐに国道17線に合流するが、熊谷警察署の前を過ぎると500mほどで国道から左に分かれ、進んで行くと「新島の一里塚」がある。日本橋から16里の一里塚で樹齢300年のケヤキの大木が立派である。
そして、「忍領の石碑」。忍領(おしりょう)が他藩との境界に建てた16個の境界碑の1つだが、明治になって撤去されたのが、昭和14年に石碑が再発見され、立て直したという。そういえば立派な枠の石に囲まれているが、これは最近に作ったもののようだ。「従是南忍領」と彫られている。
また、進んで行くと、ミニ開発らしい建物の前に国土交通省の一等水準点があった。こんな場所にと思える場所で、なんの特徴も無い場所である。珍しいので撮影した。
kumagaya_27.jpgkumagaya_28.jpgkumagaya_29.jpg玉井の町に入ってくると、熊谷市玉井団地と書かれた看板のある小さな小公園があり、大きな玉が飾られていた。若い母親が娘とラグビーボールを投げあっていたが、大きな玉と下の枠の井で「玉井」ですねと話しかけたが、そうなんでしょうかと、考えたことも無いという反応。それにしても、母と娘でラグビーボールと言うのも珍しい。
時刻は3時になり、今日は「深谷」までと思っていて時間はありそうだが、久しぶりの歩行で足が痛く、とても深谷までは歩く気がしない。左折して「籠原駅」に向い、3時33分の電車で自宅に向かった。

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