2017.06.12

小菅から北松戸・・・(旧水戸街道)

本日の万歩計31,996(20.8Km)

第一回は、日本橋から北千住までの歩行であったので、今日からが本当の旧水戸街道歩きということになる。幸いにも、天気は晴れだが、気温は23℃ほどで、この季節にしては涼しくて快適な環境であった。

さて、小菅駅を8:30amに出発して、直ぐに荒川の堤防に出て、旧街道に合流すべく歩きだした。堤防からは、スカイツリーを始め東京のビル群も眺望され、気持ちが良い。

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そして、旧街道の合流地点で堤防から降りて進む。当然だが、もう旧街道の面影は感じられなく、ありふれた街のなかの道の風情である。真っ直ぐ進むと綾瀬川にぶつかり、かつて橋がかかっていた地点に、この橋にまつわる物語の説明板が設置されていた。水戸光圀の威光を示すために書かれた、いかにも取ってつけたような説明が書かれていた。いわく、この橋には、親を殺された子狸が妖怪と化して出るので、光圀公が自ら筆をとって水戸橋と橋の親柱に記した。

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水戸橋は近年取り壊され、左に少しはなれて、歩行者通路も設けられた新水戸橋があるので、これを渡る。渡って直ぐに右に進むと、小菅神社があるのだが、参道に入ってすぐに稲荷神社が合祀されている。これには、少々訳がある。明治2年に小菅県が設置され、現東京拘置所となっている場所に県庁舎が設けられ、庁内に伊勢神宮から勧請し県下356カ町村の守護神とした。しかし、明治5年に小菅県は東京府に編入され神社も小菅村の鎮守である田中稲荷神社の境内に移設されたのである。

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街道に復帰して進むと、蓮昌寺がある。正安2(1300)年、日蓮大上人の孫弟子・松本阿闍梨日念上人によって開基とのこと。
その後、特に注目すべきものもなく街道を辿って行く。亀有3丁目あたりまで進むと、道路の右側に一里塚の碑が建っていた。日本橋から3里の一里塚跡であるが、一里塚そのものは完全になくなって水戸黄門と助さん、角さんのモニュメントが設置されていた。顔はもう少し明るい感じにした方が良いように思うが。

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進むと、左手にアリオ亀有という大きなモールが見えてきて、イトーヨーカドーの大きな看板も見える。
この先で中川を渡るが、この川までが千住宿で中川橋を渡ると新宿(にいじゅく)になる。大きな荒川が、宿の境界のような感じに襲われるが、江戸時代には現在の荒川はなかったので、中川が境界で不思議はなかったことであろう。

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橋を渡ると、最初に目についたのは寶蓮寺。天文元年(1532)に栄源が中興開基となり創建したと伝えらる。本尊は薬師三尊立像。境内のイチョウの古木が立派である。

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街道を右折して進むと、西念寺がある。文安5年(1448)僧浄円が結んだ草庵を起源とし、天文元年(1532)覚蓮社法誉が寺院として創建したと伝えられる。江戸時代には将軍が鷹狩にきた際に、この地の魚を献上したと言われている。

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街道を突き当たると、日枝神社がある。永禄2年(1559)頃に創建したものと推定され、江戸時代には新宿宿の鎮守であり、祀神は大山咋命(おおやまくいのかみ)。
この辺りは東京のベッドタウンとして宅地開発が進み旧街道が入り組んだ感じになっており、途中何度か道を間違えたが、1Kmほど進んで京成金町線の踏切を渡った。ちょうど電車が通りかかった。単線である。

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踏切のあとは順調で、常磐線をくぐった先に水戸街道の石碑が建っていが、表面が摩耗して文字はほとんど読めなかった。しかし、少し先には。葛西神社の大きな石柱が行く手に確信を与えてくれた。

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さて、立派な葛西神社だが、1185年に葛西清重が、上葛西、下葛西33郷の総鎮守として、香取神宮の分霊を勧請したと言われている。江戸時代には徳川家康から御朱印10石を賜り、11月を例大祭とするようになり、葛西囃子発祥の地として知られているほか、毎月11日に酉の市が行われる。

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街道に戻って進むと、江戸川に突き当たる。この川で新宿(にいじゅく)が終わり、川を渡ると松戸宿である。
堤防道路に出ると河川敷にゴルフコースが見え、上流をみると298号線の上下線の葛飾大橋とその更に先に54号線の葛飾橋が見え合わせて3つの橋がかかている。海から19Kmの表示もあった。下流には矢切の渡もある。

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松戸宿に徒歩で渡るのは一番奥の54号線の葛飾橋の歩道だが、足が疲れてきた身には、1Kmほどの長さと思ったが、後で調べると450m程度であった。

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葛西橋を渡って、すぐ左折して堤防道路を進むと、右に小階段が現れ、降りた先には松戸宿の碑が建っていた。江戸期には渡し場の近傍に木製で傍示杭が建てられていたはずであるが、ロータリークラブが新たに立てたものである
少し先で左折して進むと、松戸郵便局が左側にあるが、ここは元脇本陣のあった場所とのこと。その先の信号で左折すると本陣跡の表示版があるとの記述をネットで見かけたが、見つからなかった。
その先には、松戸神社への参道があり、進むと寛永3年(1626)に社殿建立、明治15年(1882)に御嶽大権現より松戸神社と改称された立派な神社がある。

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祭神は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)で、水戸街道筋にあったため、水戸光圀や水戸徳川家からも崇敬されたとのこと。
街道に戻り進むと、街道筋らしい家が建っていた。福岡家の店舗として建てられたものであるが、今は住居として使われているとのこと。なお、福岡家は江戸期以来の松戸きっての資産家で「福岡薪炭店」を営んでいた。
さて、お昼時間も過ぎ昼食をとるお店を探すことにした。極度に疲れると、脂っこいものは胃が受け付けない気がして、前回と同じく蕎麦屋を探すが見つからない。一軒良さそうなお店が見つかったが、月曜日は休みとのこと。松戸は大きな街なので蕎麦屋は容易に見つかるだろうと思っていたが、まるで見つからない、中華系の店が多い。相当疲れて足も痛くなってきている。結局、生魚の丼ものの店で昼食をとった。
その後、戸定邸を見学しようと痛む足と疲れた体にむち打ち訪れるが、やはり月曜日は休みであった。まことに残念。

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街道にもどり、進むと真言宗豊山派の善照寺がある。こ辺りには北辰一刀流を創出した千葉周作が剣術の修行をした道場があったという。また、その先には、真宗大谷派の西蓮寺がある。

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mito02_29.jpg西蓮寺を過ぎると、注目すべきものもなく、痛い足を引きずりひたすら歩く。常磐線に沿う場所まで来ると、跨線橋(こせんきょう)があり、渡って進む。右側に雷電神社が見える。祭神は別雷命(わけいかづちのみこと)である。もう、お参りする気力も残っておらず、先を急ぐ。ようやく、北松戸駅にたどり着き、例によって駅前のコーヒーショップで休息の後、帰宅した。


2017.05.31

日本橋から北千住・・・(旧水戸街道)

本日の万歩計17,692(11.5Km)

2012年5月24日に奥州街道の一戸まで歩いたところで都合により停止したが、5年が経過して健康維持の観点から街道歩きを再開することにした。 幸いにも、四国の88箇所のお遍路巡礼を始めた友人が私の街道歩きに付き合ってくれることになった。しかし、5年のブランクが有り、加齢と怠惰な生活による体力の低下、なかんずく脚力の衰えは覆うべくもない状態だが、無理をせず、のんびりと歩き始めることとした。
さて、水戸街道であるが、日本橋から北千住までは日光街道と共通であり、一般的には北千住からスタートするようであるが、友人は歩いたことがないこと、以前に日光街道を歩いたのは2009年で、8年経過して街の変わりようも見る意義があるのではと考え、再度日本橋をスタートすることとした。

東京駅の八重洲口で8時に待ち合わせ、歩き始めたが東京駅の八重洲口も美しく変貌していて、職場に足早で向かう人達を眺めながら日本橋に向かった。

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日本橋は全く変わらず、アリバイ証明のような感覚で、その佇まいと道路元標の表示柱をカメラに収め次に進むこととした。

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日本橋を後にしてスルガ銀行の角を右折して100mほど進んだ左側にある三浦按針の屋敷跡の碑を見に行った。以前に日光街道を歩いたときに見逃したが、今回も見つからず、諦めて戻ろうとした時に、小型トラックが止められている向こう側に、少しだけ見え何とか撮影できた。停車しているトラックのために、今回も見逃すところであった。三浦按針は、英国人ウイリアム・アダムスで、徳川時代初期に日本に漂着した水夫でイエズス会の宣教師たちが処刑を要求するなかで家康に重く用いられ大伝馬町の名主の娘お雪と結婚し1男1女を設けて生涯を過ごした人物だが、詳細はネットで検索すれば容易に見つかるので省略する。
元の通りに引き返し、特徴のある三越のライオン像を左手に見ながら進む。

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進んで日本橋三井タワーを左に見て、右折して大伝馬町本町通りに入って行く。昭和通りの交差点を過ぎて150mほど進んだ右手には、以前ホテルギンモンドがあったが、今は無く工事囲いの僅かな隙間に旧日光街道本通りの石碑が、侘びしげに建っていた。

少し街道から離れて、左に進み江戸通りを越えたところに、十思公園がある。ここは、江戸牢屋敷と刑場があったところで、公園の左にある老人ホームの前に、牢屋敷の発掘された石垣とその説明板が建っていた。公園には、以前にはなかった子供用の遊具なども設置されていて、かつての面影を偲ぶべくもないが、吉田松陰終焉の地の石碑と江戸市中に時を知らせた「時の鐘」は、残っていた。罪人の処刑もこの時の鐘を合図になされたとのことで、鐘撞(かねつ)きの辻源七という男はそんな時、わざと遅らせて鐘を撞いたという。

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返すがえすも残念なのは、吉田松陰の処刑で、生きておれば明治に大きな活躍をしたであろうと思えるが、井伊直弼は日本の大きな宝を無くしてしまったのである。元の通りに戻って進むと、馬喰町で、衣料問屋の集まっているところである。かつては、「小売お断り」と書いた貼り紙の店も多かったが、今回は一軒も見つからなかった。大規模店舗が増え、問屋を通さず直に仕入れることが多くなり、問屋の必要性がうすれ、やむなく個人客を受け入れざるを得なくなったと考えられる。まるで、衣料品の安売り商店街の様相である。

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大きな交差点にぶつかり、神田川を浅草橋で渡る。今も変わらず屋形船が多く係留されている。そして進むと人形で有名な久月本店があり、道路の向こう側には吉徳がある。

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蔵前橋通りの交差点を過ぎ、蔵前二丁目交差点で右にむと、駒形町でやがて左に有名な「駒形どぜう」が見えてくる。創業200年で、当時「どぢゃう」と表記するのが一般的だったが、初代店主が縁起の良い奇数文字数をと考え「どぜう」としたとのこと。そして、駒形橋西詰交差点を北進すると、雷門が見えてくる。観光客で賑わっている。近づくと、多くの外国人観光客が、雷門の大提灯をバックに記念撮影をしていた。

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浅草の仲見世は、大変な混雑ぶりである。8年前とは、大違いである。修学旅行の学生と外国人観光客が多く、まともに歩けない程であった。

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本殿の前で右折して、二天門を出て進むと花川戸公園があり、「姥ヶ池」の碑が建っていた。この辺りは、浅茅が原とよばれていて、その中の一軒家に老女と若い娘が住んでいた。旅人に宿を貸しては深夜になって旅人を殺し、金品を剥ぎ取っていたが、殺された人が 999人になったとき浅草観音は若者に変装して老女のところに泊まった。老女はいつもように若者を殺して、明かりをつけてビックリ、殺した相手は旅人ではなくて自分の娘だった。老女は大いに嘆き、仏眼を開いて悔い、大きな竜となって池の中へ消えていったという。
そのまま進むと、隅田川に突き当たり、スカイツリーがよく見える。川沿いの隅田公園の入口付近にも観光客が群れており、ここでも記念撮影である。

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隅田川の堤防に上れば、言問橋とスカイツリーが見え、これも新しい風景である。ところで、東武伊勢崎線は愛称を東武スカイツリーラインと呼ぶことになったが、業平橋駅はスカイツリー駅に改称になった。在原業平が、「名にしおはばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」詠んだ由緒のある場所の名前を変えるとは、いささか軽薄な気がする。まさか、言問橋をスカイツリー橋と変えることはないとは思うが。
更に隅田公園内を進むと、滝廉太郎作曲の花の歌碑が建っていた。作曲は滝廉太郎であるのは有名だが、作詞者が武島 羽衣(たけしま はごろも)であるのは、あまり知られていない。明治5年生まれの国文学者である。

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隅田川公園を離れて、待乳山聖天(まつちやましょうでん)に寄る。入り口の階段を上ると、7つの石仏が並んでいる。聖天の立地は10m程度の低い山上であるが、周りが平坦なため、江戸時代にはここから見る隅田川の眺望が良く江戸名所の一つであったとのこと。良縁成就、夫婦円満、そして商売繁盛のご利益があるとして広く信仰を集めてきたというが、現在でもお乳の出るように祈る女性が多いとのこと。

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吉野通りに出て進むと、山谷堀公園がある。吉野橋の名の橋柱が残っているが江戸期には「山谷掘」があり、「新吉原」に通う舟で賑わったという。

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時刻は、11時半。そろそろ昼食を考える時間で、目ぼしい食堂を探しながら進んで行く。ほどなく、良さそうな「蕎麦屋」があり、昼食をとった。
昼食を済ませしばし休息をとり、出発すると泪橋の交差点。昔はここには思川(おもいがわ)が流れていたが、今は暗渠になり交差点の名前として橋の名前が残っている。品川も鈴が森の刑場が近づいたところに、「泪橋(現在では浜川橋)」があったが、ここでも小塚原刑場を控えて家族が涙で見送ったのだろう。
少し先で、常磐線の貨物駅への線路を横断橋で渡ると延命寺があり、ここは小塚原刑場跡である。大きな石造りの「首切り地蔵」が野外に鎮座していた。刑場跡は、どこも気持ちの良いものではない。

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そして、つくばエクスプレスと常磐線の本線をくぐり抜けると、小塚原回向院があり、墓所は現在の墓地と歴史的な遺跡の意味もある墓所に別れていて、歴史的墓所の入り口を入ってすぐに226事件で銃殺刑となった磯部浅一とその妻登美子の墓がある。磯辺は吉田松陰を尊敬しており、松陰の近くに弔って欲しいと言っていたという。勤皇の志士を弔う大きな石碑も建てられている。また、一番奥には、松陰二十一回猛士墓」と書かれた、吉田松陰の墓がある。二十一回猛士とは「生きてるうちに二十一回の猛を発する」という意味で松陰が自分で名づけたという。松陰の墓に到る通路の両側には安政の大獄で刑死した多くの尊王の志士の墓石がある。

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鼠小僧次郎吉、片岡直二郎、高橋お伝、腕の吉三郎の墓も並んでいる。いずれも名うての悪人として名高いが、ここに墓石を置いているとは大したものである。大悪人の面目躍如といったところか。
回向院の入口横には、「吉展ちゃん誘拐事件」で亡くなった吉展ちゃんを弔うため、ご両親が建てた「吉展地蔵尊」がある。日本で始めての身代金誘拐事件で、大きな反響を呼んだ。

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進んで国道4号線に合流すると、このあたり一帯の総鎮守である素盞雄(すさのお)神社があり、少し先に隅田川にかかる千住大橋が見えてくる。

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千住大橋には、左側に歩道が付いており、渡って直ぐに左側から、橋の下に降りられるようになっている。階段を下ると奥の細道 旅立ちの地の大きな絵がコンクリート壁に描かれている。千住大橋の反対側に通じる鉄橋がかかっていたので、それを渡り、階段を上って国道4号線に添って進み、千住宿に入って行く。

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国道から旧日光街道が分かれるところに設けられているのが、松尾芭蕉が奥の細道に旅立つことを表したモニュメント。この千住宿で芭蕉が奥の細道への旅立ちに際しての初の句「行く春や鳥啼き魚の目は泪」を詠んだのである。そして、千住の商店街に入って行く。

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商店街を進むと、チンドン屋に遭遇した。昨今チンドン屋に出会うのは大変珍しい。5街道を歩いた経験からも、甲州街道を歩いたときに、八王子近くで一度出会っただけである。
北千住駅に向かう道路と交差すると、千住宿も終わりが近い。道の右側に小じんまりとした「街の駅」を見つけて覗き込むと、地図等も用意してあるので、休んで行ってと声をかけられた。案内地図だけもらって先に進むと、右側に江戸期の商家の様子を今に残す、横山家がある。以前通ったときは、NTTの作業車が停まっていて、邪魔であったが、今日は悠然とカメラに収めることが出来た。

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少し進むと、旧日光道中と旧水戸佐倉道の分岐となる。細い表示柱が建っていて右折して進むと、常磐線のガードが見えてきて、右手に氷川神社がある。素戔嗚尊を祀る村社である。

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次に、常磐線のガードをくぐると日蓮宗の清亮寺がある。かつて水戸街道に面して古松が茂り水戸光圀公ゆかりの「槍掛けの松」として有名であったが、今は山門を入ったところにある説明板に写真として姿を残すのみである。

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さて、つくばエクスプレスのガードを潜って、荒川に到達したが、この荒川は大正期に掘削された放水路で江戸時代の水戸街道は分断されることになった。当初、北千住駅から小菅駅まで電車で渡り、水戸街道を進む計画であったが、5年ぶりの街道歩きは、予想以上に筋肉の衰えが大きく足の太ももから股関節あたりにかけて痛みを感じる様になってきたので、今日はここで打ち切ることとして、北千住駅に向かい駅近くのカフェで十分に時間を費やし、帰宅することとした。


2012.05.24

摺糠(すりぬか)から一戸・・・(旧奥州街道)

本日の万歩計36,749(23.9Km)

摺糠(すりぬか)から一戸の歩行ルート

奥中山高原には温泉があり宿泊出来るとは知らず、盛岡駅前のホテルで宿泊し、7:32盛岡発のIGRいわて銀河鉄道で奥中山高原駅には、8:16に到着した。駅前に1台のタクシーが停まっていたので、昨日歩いた2kmをまた歩く気にもなれず、時間も節約したいと考え、タクシーを利用した。
昨日駅に向かった十字路から進むと、階段が続く神社のある丁字路に突き当たり右折して進む。
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またもや、摺糠(すりぬか)の標柱があり、100mほど進むと、民家の庭先を通る感じで左に旧街道の上り口がある。
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舗装されていない道を1Kmほど進むと、左の林を背にして「明治天皇御休憩之跡」の碑が立っていた。
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明治天皇碑より3000mほど進むと、突然に広い幅の舗装道路に出て、少し先には「奥州街道最高地点 標高484m」の標柱が立っていた。最高地点といってもそれほどの高地ではない。
進んで行くと、畑の向こうに「中山一里塚」が見えてくる。畑を開墾して街道の位置が変わってしまい、塚の片側もなくなってしまったのである。
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一里塚の横を通る道路に突き当たり、一里塚に近づいてみた。国指定の史跡だが、所有者(中嶋孫彦)が居る。
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一里塚から500mほどで、集落が見えて来る。旧中山集落である。入り口の左側には「青面金剛像塔」が建っている。説明板によると、安永4年(1775)と記銘され、一戸町で最も古い青面金剛像塔で、庚申塔として建てられたもの。庚申塔は、集落の入り口や分岐点に建てられることが多いと記されていた。
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2Kmほど進むと、火行(ひぎょう)の集落で、集落の中ほどに「火行伝馬所」の説明板が立っていた。
集落を抜けると十字路があり、直進する道が「ヨノ坂」である。火行と小繋の2つの集落を結ぶ坂道で、奥州街道でもかなりな難所で、山あいの沢に沿って進む1.5Kmほどの道である。
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奥州街道の歩行で初めて、熊よけの鈴を取り出しリュックにぶら下げて歩くことにした。倒木も多く、なかなか歩きにくい。下り坂でも昨日マメを作った足にはかなり堪える歩行となった。
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1Kmほど下って行くと、「小繋一里塚」が左側にある。片側のみ残っていて、盛岡から12番目の一里塚である。
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長い「ヨノ坂」を抜けて小繋の集落に入ると、直ぐの左側に「小繋御番所跡」の説明板が立っていた。盛岡以北で最初の御番所で、材木、馬、漆、蝋などの物資のほか女性の移動も監視したとのこと。
街道は集落を真直ぐ貫き丁字路にぶつかり右折する。
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丁字路を右折すると、長楽寺がある。説明板によれば、天台宗のお寺で桓武天皇の御代に坂上田村麻呂が大同2年(807)に東征の折、当地に地蔵堂を建立して鎮撫祈願をしたのが始まりで、嘉祥年中(850年頃)慈覚大師が、諸国巡錫の途上に当地に至り6尺5寸の延命地蔵尊を彫刻して授けたと伝えられている。南部藩主入国以来尊崇すること厚く隆盛を極めたが、度重なる火災でついに地蔵堂のみ残すことになった、と記されていた。 寺の脇には、「明治天皇御昼飯跡」と書かれた標柱も立っていた。
進むと下平踏切で、ここを渡って国道4号線に合流する。
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国道を2kMほど進むと、600mの長さの笹目子(ささめこ)トンネルである。国道のトンネルを歩いて通るのは初めてである。騒音が激しく、特に重量級のトラックが連続して走ると恐怖を覚えるほどである。
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トンネルを抜けると、右側に「笹目子トンネル」の大きな看板とともに「川底一里塚入口」
の手作りの道標が立っていた。
道標に沿って進むと、トンネルの外側を少し戻る感じになっていて、その後旧街道への細い取り付き道となって上って行くようになっている。
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旧街道に達すると、本来の道が左に続いているが、鉄道により遮断され通行できない旨の立て札が立っていた。右に進むのが一里塚への方向であり、下草刈りを行った歩きよい道が連なっている。先程通ってきたトンネルの上を通過して進む。
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200mも進むと。川底の一里塚である。この一里塚も国指定史跡だが、個人所有である。
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一里塚から600mほどで気持ちの良い旧街道の道は終わり、舗装道路に合流する。
舗装道路に出て進むと「上の井戸」がある。高地にある「高屋敷」の集落では、水の確保に貴重で重要な井戸であった。
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少し進むと「高屋敷」の民家が見えてきて、「中の井戸」がある。また。道端には「高屋敷」の標柱が立てられていた。
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そして、「下の井戸」を過ぎると、小さな集落はもう終わりである。
ちょうどお昼である。今日は食事をする食堂などはないところを歩くことが分かっていたので、コンビニで買っておいた、おにぎりを道の脇に積まれた材木に腰を落として食事とした。
坂道を小型トラックで上ってきた方に呼び止められ、先週50人の団体が通ったこと、小鳥谷駅までは3Km程度であることなどを伺い、奥州街道のこの辺りの案内パンフレットをいただいた。
集落から山道を下り2Kmほど進むと、左側に五月舘の追分石と呼ばれる石があり、「右ハ山道 左ハもり岡」と刻まれている。説明板には、追分石は街道を歩く人の目印となるよう造られ多くの道の分岐点に設置されている。「五月舘の追分石」は、南北に伸びる奥州街道と南西の尾根へと向かう道の分岐点に設置された、と記されていた。
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山道を抜けて小鳥谷(こずや)バイパスのガードをくぐり進む。左側に立派な建物と「明治天皇御小休所跡」の標柱が立っていた。この建物は、小鳥谷村長をされていた庄屋さんの住居だったとのこと。
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小鳥谷小学校の方に進むと、その先に国指定天然記念物の藤島のフジがある。樹齢は数百年で日本一大きいフジとして知られてるとのこと。元々はすぐ隣のカツラの木に巻き付いていたが、重みでカツラの枝が折れて、現在は鉄骨のヤグラと支柱で支えられている。この地は、古くから仁昌寺の境内に相当し、天正19年(1591)九戸政実の乱の際には豊臣秀吉軍の蒲生氏郷が姉帯城攻略のため陣を張った場所とも伝えられている。当時、フジのあるところは周囲三方に掘りが巡り、あたかも島のように見えたことから藤島の呼び名がおこったようである。
すぐ近くの観音堂の敷地の端に「観音堂の藤」がある。こちらも随分大きく立派である。
地元の人の話では、あと3日ぐらいで相当に花が開き見ごたえのある様になるであろうとのことであった。
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街道に戻り進むと、小鳥谷駅がある。写真は駅前通りである。さらに進むと、木で作った人形が庭の藤棚でチェーンを使ったブランコに乗っていた。兄と弟を表したのか、可愛いものである。
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真っ直ぐ進んで国道4号線を横切り、馬渕川に沿うように進む。やがて道は右に折れて急な坂道となる。上り切ると小性堂の集落である。
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小さな集落で、通りすぎて進むと左側に「明治天皇御野立所の碑」がある。明治9年と明治14年の巡幸記念の碑であるようだ。
ドンドン坂道を下って行くと、左側に「雷電神社」があり、その先は丁字路となっている。
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丁字路には「女鹿口」の標柱が立っていて、ここで左折すると、直ぐに橋を渡って進み、舗装道路から右に別れて荷坂と呼ばれる急な山道を上って行く。
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荷坂の坂道を上り詰めたところに、老ヶ舘(おいがたて)の標柱がある。この先で道が2つに分かれているが、事前学習により右の道を下りて行く。少し下ると「国指定史跡 奥州街道 白子坂」の標柱があり、正しい道であることが分かる。
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白子坂を下ってゆくと、「百姓一揆終結の地」の石碑と説明板が立っていた。
説明板によれば、天保7年(1838)、連年の凶作と重税、高利貸しの悪徳商法で困窮を極めた農民が窮状を代官に訴えることとしたが、血気にはやって町内になだれ込み、商店を壊し、果ては御番所にまで乱入した。その結果多くの農民が捕らえられ訴えは失敗に終わった。そして、1年後、女鹿の大工・佐吉は首謀者として関屋川原で打首となり、他の主だった人達は遠隔地に追放された、とある。
直ぐ先で、IGRいわて銀河鉄道のガードを潜ると、馬渕川沿いの広い道路に出る。左折して一戸駅に向かって進む。
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1Kmほど進むと、一戸中学校への馬渕川に架かる立派な橋があり、男女の学生像のモニュメントが配されていた。
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ようやく、一戸駅にたどり着いた。3日目の歩行で疲労も溜り、なにより足のマメが痛むので、今日はここで切り上げることとしたが、二戸に向かう列車が直ぐに来るタイミングであったので、急いで切符を買い、一戸駅の写真を撮る間もなく、二戸に向かった。
しかし、二戸では15:10分の新幹線がちょうど出た直後で、次は16:40で1時間30分も待つ事となってしまった。時間があるので、駅の周りをウロウロしたが、下の写真は二戸駅の西口側である。
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続いて二戸駅の東口である。町はこちらの方が賑やかな側である。
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街道を歩き始めて2泊3日の歩行は初めてであったが、2日目に足にマメを作ってしまったのが悔やまれる。いずれにしろ、3日連続の歩行は、私にとってかなりハードと感じられるが、こなせないことはないと自信を持った。


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