2017.11.01

牛久から土浦・・・(旧水戸街道)

牛久駅から500mほど進み国道から直角に細い道を左に100mほど入ると薬師寺がある。真言宗 豊山派のお寺で入り口は狭いが境内は広い。弘仁7年(816)、徳一和尚の開基と伝えられているが、幕末のころより100年以上も無住となり荒廃した。しかし、不思議な御霊験により、現代に蘇ったという。蘇った経緯を明らかにしないことこそ不思議であるが、境内に入ると、右側に市指定文化財の宝篋印塔があり、正面には近年に金剛組の施工で建て替えられた立派な本蔵がある。

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薬師寺のあとは、短い一部分を除いてひたすら国道を進む。何とも味気ない歩行である。3Kmほども進んだであろうか、圏央道をくぐると、霞ヶ浦に注ぐ延長36.5kmの一級河川の小野川を渡る。渡る橋も小野川橋の名前である。川面を見ると、一級河川とは思えないのだが・・・。
進むと、ひたち野うしく駅に通じる学園西大通りを跨ぐ。なお、ひたち野うしく駅は筑波研究学園都市の研究所や高校・大学などつくば市方面の通学・通勤者の利用が主であったが、最近では駅周辺居住者の東京方面通勤が増えているとのこと。
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どこまでも続く国道歩き。なんとかならないかと思いながらも進むと、道路の右側に中根の一里塚、左に荒川沖一里塚がペアで残っている。江戸から17番目の一里塚であるが、道の両側にペアで残っているのは珍しいし、左右で呼び名が違う一里塚には始めてお目にかかった。
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一里塚を過ぎ約600m進むと、右手に妙興寺へ続く道がある。妙興寺はJR常磐線沿いにあり、山門の目の前が踏切になっている。静謐な境内は、心が癒やされる感じであった。
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ようやく、国道から離れて旧道を進む。荒川沖郵便局を過ぎると左側に茅葺きの家屋が見えてきた。元旅籠の佐野屋である。さらに、その先にも茅葺屋根。調べると鶴町たばこ店とのことであったが、営業しているようには見えなかった。
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荒川沖を過ぎて、3Kmほどは国道と旧道を交互に歩く。途中で中村宿を通り過ぎるが、これと言った歴史的な遺構を見ることもない。ようやく国道354号線にぶつかり、これを横切り花室川に架かる大川橋を渡る。歩道もない小さな橋だが交通量が多く要注意。花室川は大川橋から約5㎞先で霞ヶ浦の西側に注いでいる川である。
大川橋から100mほど進むと、左側に長い参道が見えてくる。
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奥に見えるのは真言宗 豊山派大聖寺(だいしょうじ)である。山門は薬医門型式で貞亨2年(1685)、土浦城主松平信興の寄進で、次の四脚門は茅葺きであった。
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大聖寺の来歴は平安時代まで遡る。一条天皇の御代、長徳元年(955)に醍醐寺成尊僧都により「今泉寺」として現在地より東約500m先の永国の中央、亀井墓地近辺に開山されたのが縁起だと伝えられている。北関東三十六不動尊霊場の三十一番札所となっており、納経所、売店もある立派なお寺である。御朱印はご本尊である「羽黒不動尊」とのこと。また、境内にある笠松は、高さ2.8m、葉張6.3m。土浦市指定名木・古木、樹種はクロマツで「大聖寺の笠松」と呼ばれているとのこと。
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大聖寺から1KLmほど進むと、馬頭観音の古い石碑があった。ここが水戸街道と布施街道の分岐点で、石碑の横の道が布施街道だが、いまは行き止まりになっているとのこと。さらに1kmほど進むと、道路が左にカーブしていて愛宕神社の鳥居と急な階段が見えてくる。
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疲れた足にムチ打って急な階段を上ると茅葺屋根の本殿がある。平貞盛によって開かれたとされ、戦国時代になると菅谷氏が崇敬し、江戸時代になると土屋氏が崇敬した。
次に桜川を銭亀橋で渡る。桜川は、茨城県の南西部を流れ霞ヶ浦に流入する利根川水系の一級河川である。
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ushiku_20.jpg茨城県道24号線にぶつかり、時刻は午後5時近くであった。今日はここまでとして土浦駅に向かうこととした。しかし、駅まで1Kmほどあり、疲れた足を引きずるようにして駅にたどり着いた。例により駅構内の店でコーヒーを注文してしばし休息の後に帰路に着いた。


藤代から牛久・・・(旧水戸街道)

本日の歩行距離27Km(藤代から土浦)

11月1日の朝は、大変寒い朝であった。8時22分藤代着の電車で到着して、直ぐに出発した。天候は良く晴れて、駅舎にも太陽の光が注がれていた。直ぐに歩き始めて進むと、小貝川の堤防下に八坂神社がある。この辺りが江戸期には川の渡しの船着き場があったところである。
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堤防下の道を北に進み、現在の渡り手段の文巻橋(ふみまきばし)で小貝川を渡る。河川敷に設けられたゴルフ練習場は、先日の台風にともなう大雨で大きな水たまり状態と化している。橋を渡ると、龍ケ崎市に入って行く。
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国道を進んで小通幸谷(ことおりこうや)の信号で右に折れ、常磐線を跨線橋で跨いで進み、馴柴小学校入口の信号で左折すると、関鉄竜ヶ崎線の踏切がある。竜ヶ崎線は佐貫と竜ヶ崎を結ぶ単線でわずか4.5Kmで非電化気動車1両編成の運転の路線である。途中の駅は入地駅のみで、30分に一本程度の運行となっている。
先に進んだ丁字路には道標として古い石碑が建っていた。表面の摩耗が著しく刻まれた文字も読みにくいが、正面には「水戸」、左側には「布川」、右側には「江戸」の文字が見て取れた。説明の石板によれば、水戸には16里、布川3里、江戸13里と書かれているとのことであるが、距離の表示は読み取れなかった。
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fujishiro_07.jpg道標のある丁字路で北に進んで行く。途中の上り坂が左に大きく曲がるところに八坂神社がある。京都の八坂神社を総本社とし、素戔嗚尊(スサノオ)を祭神とする神社で、日本全国に約2300社ある神社であり、水戸街道にも幾つか存在する。

八坂神社を過ぎて左に折れると「若柴宿」である。立派な門構えの家が散見されるが、田舎の集落の道を進んで行く感じである。500mほど進むと、今度は道は大きく右に曲がるが、その曲がり角から金龍寺への参道が続いている。金龍寺は、そもそも元享元年(1321)に新田義貞によって群馬県に創建されたお寺であるが、義貞の死後、新田氏の流れを汲む岩松氏が義貞の菩提を弔って諸堂を修営し、寺観を整えたとされている。その後、天正18年(1590)年、義貞の子孫由良国繁が太田金山城から牛久に国替えになったとき、寺も一緒に移したが、天保年間(1830-1843)に火災に遭い、再建されたものが現在の本殿とのこと。
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fujishiro_10.jpg本蔵から左に廻って行くと、新田義貞、新田貞、由良國繁の新田3代の五輪塔の墓石が建っていた。
若柴宿は牛久沼の南岸を通る国道6号線の水戸街道からは、ずいぶん離れているが、江戸期には、牛久沼も現在より大きく、周辺には湿地帯が広がっていたためである。現在では、土地改良と水路の整備等で牛久沼の近くまでの土地が利用可能となった。しかし、通りがかった人の話では、土地改良にともなう水利権は、現在でもなかなかに微妙な問題とのことでした。

fujishiro_11.jpgさて、元の街道にもどって進むと、道路の左側に星宮神社(ほしのみやじんじゃ)がある。星宮神社は、延長2年(924)の正月13日に、肥後国八代郡八代(現熊本県八代市)から分霊勧請して祀ったものと伝えられている。この社の祭神は天御中主大神で、つまり全和全能の創造の神様で、大宇宙に最初に現れたあらゆる創造物の総元締めで、天の真ん中に位置する神様と言う事なのである。星宮神社の名前の所以は、天の真ん中で輝く北極星から採ったと考えられている。

田圃の中の道をひたすら歩き、途中から雑木林に挟まれた道を進むと遂に常磐線の踏切に到達する。国道も横切り、牛久宿に入って行くと、黒塀をめぐらした旧家、飯島家の門脇に明治天皇牛久行在所跡の碑が建っている。これは明治17年の明治天皇が牛久沼野南の開拓地の女化原(おなばけはら)に行幸の際の宿所を記念した碑で、牛久という片田舎に明治天皇が訪れたことを物語っている。当時としてはビッグトピックで、牛久から女化間の臨幸道の改修や牛久沼東岸の新道の建設などが行われたとのこと。
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明治天皇牛久行在所碑から100mほど先には正源寺(しょうげんじ)がある。縁起は戦国の世も終わり近づく文禄元年(1592)、当時の牛久城主の由良国繁公により戦で命を散らした人々の菩提を弔う為に七観音八薬師の一つとして創建され、約四百二十年の歴史を刻んできた曹洞宗のお寺である。鐘楼門と石造りの仁王様があり、境内には、推定樹齢400年の日本特産のトチノキがある。また、池波正太郎作品『鬼平犯科帳・雲竜剣』にも登場する。
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正源寺を過ぎると、時間は丁度お昼時であった。牛久駅の近くのレストランで昼食を摂り、しばしの休息を取ったのち、次の宿の荒川沖宿に向かうこととした。


2017.09.22

我孫子から藤代・・・(旧水戸街道)

本日の万歩計27,561(19.8Km)

夏の間はお休みしていた水戸街道歩きだが、秋の彼岸に入り涼しくなってきたので再開した。今日は、8時50分に我孫子駅から歩きはじめて取手を越して藤代までの予定である。

我孫子駅入口の交差点から200mほど進むと、志賀直哉邸跡、嘉納治五郎別荘跡、白樺文学館等、文人・有名人に由来する場所の案内板が立っていた。興味はあったがスキップすることにしたが、手賀沼湖畔の風景が多くの文人等に気に入られたのであろうか。

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少し先に進には、我孫子宿本陣が単なる表示杭として残っているだけであったが、一方で天保2年(1831)建造の脇本陣の茅葺屋根の小熊家住宅は残っていた。今となっては、我孫子宿で唯一残る歴史的家屋であろう。

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その後、成田街道分岐点を過ぎ、常磐線のガードを潜って進むが、道路を水道局のある側に渡るのに手間取ったが、ようやく道路の左側に柴崎神社が見えてきた。創建は天慶元(938)年と伝えられていて、日本武尊が東国討伐の途次立ち寄り武運を祈り、また平将門も祈願所として崇拝し、土豪芝崎左馬督は社殿を改築した。相馬家一門も累代の守護神として崇め、相馬重胤は奥州に分社を建立したとのこと。

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柴崎神社の少し奥まった場所に曹洞宗の東源寺がある。天文9年(1540)に北条氏康が開基したと伝えられる。本堂正面の左手前には、樹高約16m、幹周約4.5mで樹齢250年のカヤの木があり、県指定天然記念物に指定されている。枝は四方に広がり、昭和時代初期までこの木の下で漢学塾が開かれていた。光音禅師のお手植えのカヤと伝えられ、師は信州に生まれ、江戸の呉服商の伊勢屋に奉公していたが、茨城県取手市の長禅寺の幻堂禅師の弟子になり、宝暦~安永年間(1751~81)に、四国八十八か所霊場を訪れたとされる。その後、相馬八十八ヵ所を開基して、東源寺は第75番札所で、しっかりした太子堂も本蔵の左側に存在する。

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元の街道に復帰して進み、国道6号線に合流する。6号線の歩道を歩いて進むが、予めネットで調べておいた並行して進む道路に分かれて、利根川の堤防に達した。しかし、大利根橋の歩道に行く道が見つからない。道路は橋に通じているが、歩道はなく、特に10mほどは歩道が無いばかりか、大型車が道路の幅いっぱいの状態でひっきりなしに通るので、強引に歩くことも出来ない。
相当距離引き返してようやく歩道にたどり着いたが、少しは歩行者のことも考慮して欲しいと思った。

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大利根橋の長さは、1,209mで千葉県と茨城県を繋ぐ大動脈である。下を流れる利根川は、坂東太郎の異名を持ち、日本一の規模をもつ大河である。

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途中、道路の進み方を間違えて手間取ったりしたこともあり、大利根橋を渡り終えたときには、11時を過ぎていた。少し早いが、取手駅前で昼食を取ることにした。しかし、食事を済ませて外の出ると雨が本降りであった。スマホで雨雲の状態を見て、直ぐには止まないと思って、持参した傘を取り出して長禅寺に向かって進んだ。

長禅寺は、臨済宗妙心寺派の古刹で、京都の妙心寺の末寺であり、本尊は延命地蔵尊である。朱雀天皇の代の承平元年(931)に、平将門が勅願所として創建したと伝えらている。将門没後は「御厨三郎吉秀」という人物が、密かに本尊を守り伝えてきたものの荒廃が甚だしかったとのこと。承久元年(1219)には義門和尚を開祖として再興が計られ、また「吉秀二十九代後胤織部時平」は、文暦元年(1234)に将門の守本尊で安阿弥十一面観音像(快慶の作と伝えられる)を安置するために「四間四面御堂」を建立するとともに、寺の再興を計ったとも伝えられている。

長禅寺の急な石段を上り山門をくぐると、正面に県指定文化財の三世堂がある。外観は2層だが内部3層で、「さざえ堂」の形式になっており、上り階段と下り階段があり、堂内では参拝者が交差せずにまわれるようになっているとのことであるが、特別公開日以外は入ることができない。宝暦13年(1763)に建立されたが大破したため、享和元年(1801)に再建された。

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三世堂の前を左に進むと、太子堂が2棟建っている。

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太子堂の前を回り込むように進むと本蔵があり、さらに進むと最初に潜った山門のところに戻るので、また急な石段を降りて進むと旧街道の通りにぶつかるので、左折すると田中酒造がある。創業は1655年。取手市は造り酒屋が多かったが、そのなかで唯一残った老舗とのこと。田中酒造で造っている銘柄は「君萬代」で「君(日本国)が萬年続くように。その国とともに萬年続けられるるように」と名付けられたという。明治天皇がこの地域に行幸した際、田中酒造の井戸水を献上した功によって下賜されたものとのこと。店先には、古い酒樽を利用したモニュメントが飾られている。

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田中酒造から100mほど進むと、旧取手宿本陣染野家住宅がある。公開は金、土、日の午前10時から午後4時までである。歩行再開を金曜日の今日とした理由でもある。

旧取手宿本陣染野家住宅は、寛政7年(1795)に建築された。染野家の当主は、代々取手宿の名主を勤めていたが、貞亨4年(1687)に水戸徳川家から本陣に指定されたと伝えられている。水戸徳川家の歴代藩主だけでなく、江戸と水戸を行き来する水戸藩士や、ほかの大名も染野家を本陣として宿泊や休息に利用した。

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中の間と上段の間の写真であるが、これ以外にも、広間、二の間、三の間、茶の間、納戸、中納戸等多くの部屋がある。
今まで、現存する本陣の幾つかを見てきたが、茅葺きの本陣は始めてであった。家具調度品が全く置かれていなかったのが、いささか寂しい感じがした。

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県道11号を進んで、ファミリーマートが見えてくると、県道から左に離れて進む。高台に阿夫利神社がある。神奈川県伊勢原市にある大山阿夫利神社の分神である。

阿夫利神社のところで右に曲がり進んで、吉田の信号のところで、旧街道に入って行く。民家の庭にはコスモスが咲き誇っていた。これからは、藤代宿手前の常磐線の踏切までほぼ真っ直ぐな道を4Kmあまりの距離を進む。

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道の両側には、ところどころ民家が散見されるが、ほとんど田圃の中の道をひたすら進む。2カ所ほど真新しい「水戸街道」の表示石柱が立っていたが、とにかく変化がなく、歩く以外には何もない平坦な道である。ようやく、常磐線の踏切に達して多少なりとも、気持ちに余裕がでて元気を取り戻す。

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藤代宿の中心部に入って進み、相馬神社のところで、右折すると藤代駅までもう一息である。遂に右手に愛宕神社を見て、その先で右折すると藤代駅であった。

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何時も歩行を終えてて駅前でカフェに入り、休憩して帰路につくのであるが、藤代駅周辺にはいっぱいのコーヒーを飲める店もコンビニもなく、駅は綺麗で新しい感じだが、いささか寂れた様相を呈した駅前であった。しかたなく、駅の売店で飲み物を買い、ベンチに座っていささかの休憩とする他なかった。でも、今までの街道歩きで、多くの無人駅に遭遇したことを思えば、良しとするべしと思った。


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