2012.05.07

花巻から日詰・・・(旧奥州街道)

花巻から日詰(紫波中央駅まで)の歩行ルート

4月になっても、天候不順の日が多く、5月の連休は避けたいと思っているうちに日が経ち、今日の歩行となった。なんと、今回は、万歩計まで忘れてしまった。
北上駅で新幹線から東北本線に乗り換え、花巻駅から歩き始めたのは、9時半近くであった。
花巻駅の駅前広場には、風車のように風で回るモニュメントがたくさん立てられていた。
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駅前広場から右に坂道を下って行くと、坂本町の交差点で、その左に瑞興寺がある。
応永4年(1397)、この地を支配していた稗貫氏の開基と伝えられ、かつて、鳥ケ谷崎城(後の花巻城)の地に建っていたが、天正19年(1591)にこの地方が南部信直の所領となり、家臣の北秀愛(きたひでちか)が鳥谷ヶ崎城を「花巻城」と改め整備したとき、現在地に移設されたものである。
坂本町の交差点から北に向かうと、この辺りが町の中心地で、江戸期には本陣、旅籠等がならび、盛岡藩、八戸藩、松前藩主一行が宿泊した場所である。
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花巻信金が左にある、交差点で左に折れ、直ぐに左折して大通りより一本左の道を進む。
これが街の枡形である。少し進むと、左に「花巻城下町発祥の地、四日町、一日市町」と書かれた標柱が立っていて、奥まったところに「明治天皇御聖跡碑」が立っていた。
説明板によると明治天皇は、明治9年に当地を訪れ渡辺宅に宿泊され、明治14年にも再び訪れられ伊藤宅に宿泊されたとのことである。
直ぐに道は丁字路にぶつかり右折して大通りにでると、古い家屋が一軒残っていた。
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北進して、四日町三丁目の交差点で右折して、国道4号線をぶつかって左折する。直ぐに枇杷沢川(びわさわがわ)を渡る。北上川に注ぐ川であり、上流には水辺公園が整備されているとのこと。
枇杷沢川の直ぐ先には、釜石線の高架線路があり、ガードを潜って進む。
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さらに進むと、瀬川にかかる瀬川橋とその先に釜石自動車道が見えてくる。下の右の写真は、瀬川の上流方向であるが、昨日までの雨で濁っている。この川も下流で北上川に合流する。
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右の方から花巻バイパスが合流すると、右手に広大な花巻空港の始まりである。
国道4号線は空港に沿うように北上していて、1Kmほど進んだ交差点の左に「照見地蔵」が立っている。出羽三山零場、羽黒山の分霊を奉載し、交通安全加護を祈願し、かねて事故により物故されたみ霊の冥福を祈念して昭和41年(1966)に着手して3年の月日を経て建立された旨説明板に書かれていた。また、台塔には、交通事故犠牲者の過去帳も奉納されているとのこと。
右の空港側を見ると、花巻市交流会館の建物が見える。以前は旅客ターミナルビルであったのが、新ターミナルビルが平成21年(2009)に落成したのにともない交流会館として利用しているのである。社会人になってまだ数年のころ、このビルより羽田行きの飛行機を利用したのを思い出す。
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空港の管制塔のあるビルは、気象庁の花巻空港出張所も同居している。フェンスの間から、2500mの滑走路を覗いてみた。発着本数は、極めて少ない感じで眺めてる間には、発着は見られなかった。新幹線の利用と、県南地域では仙台空港の利用の方が便数も多く便利であり、厳しい運行状態となっているようだ。
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空港を右に見ながら進むが、流石に2500mもの滑走路の空港は、通り過ぎるのに骨が折れる。
左側に林テレンプという会社で、タイルのモザイクでこの地方で有名な鹿踊りを表現した壁が現れた。自動車の内外装の部品を製造している会社とのことだが、なかない良い選択である。
そして、空港も終わりに近づくと、左に「新提」という大きな溜池が見えてきた。
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溜池の直ぐ脇には、油沢川の名の小さな流れがあり、ここの「花巻空港駅口」交差点で、左折するとJR東北本線の花巻空港駅である。大正11年(1922)に二枚橋信号所ができ、昭和7年(1932)に駅に昇格して二枚橋駅となり、昭和63年(1988)に花巻空港駅に改称された駅である。
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花巻空港駅口の交差点には、県立花巻農業高等学校の大きな案内標識がある。この高校は宮沢賢治が教諭として勤務した花巻農学校の後身に当たる学校としても知られているそうである。
進むと江曽地区となり、少し先に区画整理の碑と石塔が立っていた。碑文によると、この江曽部落は、平安中期の紀元1469年の計画移民地区で紀元1912年(建長3年:1251)には、大和国高市郡より藤原源太夫弘長が、ここ江曽館に居住し開発したと伝えられている。
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真っ直ぐに進む国道4号線を歩いて行くと、右側に江曽一里塚が残っていた。おそらく左側は国道4号線の敷設とともに消え去ったのであろうが、片方だけであるが保存状態は良好である。そして、その脇には、「明治天皇江曽御小休所」の石碑が立っていた。
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次には、国道の左側に「小森林(小森)館跡」の説明板が立っていた。説明書きによれば、館跡は、中世に稗貫郡を統治した稗貫氏の家臣・小森林氏の居館跡と伝えられる。小森林氏が、いつ頃からこの館に居住したかは不明であるが、永享7年(1435)の和賀地方の兵乱の記述の古文書には、小森治部少輔の参戦の記述があり、この頃には居住していたと考えられる。
また、館跡の規模は。東西・南北ともに400mで、現在確認できる稗貫氏家臣の館跡の中では最大の面積を有していることから、小森林氏の勢力が強大なものであったことが伺われるとある。
なお、稗貫氏は時勢に疎く天正18年(1590)の小田原の役に参陣せず、所領を没収されて滅亡した。この時小森林氏も滅亡したものとみられ、翌年から稗貫地方は南部氏が統治することとなった。
小森林氏の居館跡の北の端には、逆ヒバ(さかさヒバ)がある。伝説によると、今から1200年ほど前に、弘法大師が諸国を巡業の折、この地に立ち寄り、湧き水でのどを潤そうとして休憩し、その際、地面に挿した杖が根付いたのが逆ヒバといわれ、杖はそのまま根を張って大きくなったといわれている。
この逆ヒバは、植物名をクロベやクロビ、またはネズコと呼ばれ、これは心材が黒いヒノキ科の一種としての意味からであるという。根本の直径は2mあり、幹の周囲が4.75mとのこと。
脇には、昭和59年に再建された新しい観世音の石仏が立っていた。元々は小森林の館の守りとしての観世音が建っていたようである。なお、逆ヒバの根本付近からの湧き水は、近年の環境変化のためか、枯れつつあるようだ。
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逆ヒバを過ぎると直ぐに、滝池川があり、滝沢橋で渡る。続いて耳取橋で、流れる川の名も耳取川である。この辺りは、本当に川が多い。2本の川は、どちらも似たような川に見えるが、耳取川は一級河川である。川の名前は、阿倍軍が源氏軍に敗れ、阿倍の兵士の耳が集められたところとの説があるが、ハッキリしない。
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耳取橋を渡ると、向こうに石鳥谷バイパス南口の信号が見えてきて、ここで街道は右に国道4号線から別れて進む。
少し先に「八幡小学校」が見えてくる。明治6年開校の歴史を持つ小学校である。
学校の少し先で街道に面して、八幡村役場農協事務所跡の新しい碑が立っている。「光陰は百代の過客なり」との題名で重圧に耐えた藩政時代の八幡村から現在までの歴史が刻まれている。
明治22年(1889)に近隣の村が合併して八幡村となり、昭和30年(1955)には1町3村が合併して石鳥谷町となる。さらに、平成18年(2006)に花巻市、石鳥谷町、大迫町、東和町が合併し新花巻市となることが刻まれている。
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進んで「葛丸川」を渡る。奥羽山脈を源とする川で、上流では、バードウォッチングや森林浴、渓流釣りにハイキング、そして紅葉狩りなど、自然に親しむのに絶好なところで、宮沢賢治の童話『楢の木大学士の野宿』などの舞台となったところである。また、上流の 冬には「たろし滝」といわれる氷柱がみられ、毎年2月11日には、氷柱の太さを測り、その年の米の作柄を占う伝統行事「たろし滝測定会」が行われる。 氷柱の高さは13メートルあり、太さは、記録として残っているものでは、大豊作となった昭和53年の8メートルが最大とのこと。なお、この地方では「つらら」のことを「たろし」ということから、「たろし滝」の名が付いたという。
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5月の連休前までは、寒い日もあったが、既に田植えの準備の季節に差し掛かっており、所々で農業機械による代かき作業も見受けられた。
葛丸川より、1.5Kmほど進むと、道路の右側に「名木・杉生桜」がある。地上5mほどの高さで切られた太い杉の幹に寄生した山桜の木である。切られた杉は、奥州街道の路線変更が行われた明暦4年(1658)当時のものと推定され、昭和58年(1983)、安全対策上の理由で現在の高さで切断された。桜は毎年開花し、杉生桜の名を今にどめている。
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平成の合併で、花巻市となり石鳥谷町(いしどりやちょう)は廃止されたが、石鳥谷地区に入ると、凝った街路灯が目に付く。名産品などをデザインした絵を配したものの中で、南部杜氏(なんぶとうじ)の絵柄が一際目に付く。この石鳥谷の杜氏(酒造りの技術者の長)は、日本酒を造る代表的な杜氏集団の一つで、杜氏の流派として捉えたときには南部流(なんぶりゅう)と称される。杜氏組合としては、全国最大の規模を誇る社団法人南部杜氏協会を持つとのこと。この地方に酒造所が多いのもうなずける。
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街の中心付近には、好地一里塚(こうちいちりづか)の表示説明板が立っていた。実際の塚は壊され、跡形も残っていない。江戸から133番目の一里塚であった。
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一里塚の次の信号は、東北本線石鳥谷駅への入り口である。先に進むと、薬師堂川があり、下流は大きな水門を配して、北上川に合流している。
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北上川の堤防に出て眺めると、流石に北上川は大河である。一人の老人が水門付近で釣り糸を垂れていたが、川の濁りが強くて釣れそうにないと言っていた。
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街道に戻ると、左側に酒造「菊の司」がある。創業元和年間(1615~1623)、伊勢松阪から陸中郡山に移った初代が御宿を開業したのが始まりで、造り酒屋として220年もの伝統を築き上げてきた。現在は「菊の司蔵」と石鳥谷の「七福神蔵」の二つの蔵で醸造を行っているとのこと。
少し先に、「まちの駅いしどりや・酒蔵交流館」というのがあった。古い酒蔵を利用した施設のようで、各種イベントや集会などの会場として無料開放している他、内部には市民手作り小物の展示販売や、本が読めるリサイクルブックコーナーがあり、採れた野菜も販売している。立ち寄ってお茶をご馳走になり、休憩させてもらった。
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進むと、左に木の茂みが見えてきた。菊池数馬の墓である。説明板によると、数馬は、幼名を五郎と言い藤原道隆の後裔で延久2年(1070)に藤原則隆が肥後国(現在の熊本県)菊池郡に下向し、以降地名にちなんで菊池氏を称していた。北条氏が小田原城に入って後は、この北条氏に仕えていたが、小田原城の落城によって父正宗は殉じ、数馬は豊臣秀吉の助命により奥州に落ちのび石島谷に住むようになった。
五郎数馬は、石鳥谷を愛し新田の開拓や道路・橋の新設、改良などに力を尽くし、また犬淵村との境界争いにしばしば活躍し、境の平安を守ったといわれている。万治2年(1659)9月27日に75歳で亡くなるが、危篤の際に村内の若者たちを集め、自分が境の鬼となって好地村を守るので境に埋めてほしい」と遺言した。 遺言にもとづいて長坂の長根に葬り、それからはこの地を「数馬長根」といい、石鳥谷開発の恩人として崇敬されているとのこと。
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数馬の墓の直ぐ先には、境塚があった旨の説明板がある。石鳥谷町と紫波町(江戸時代は好地村と犬淵村)の境界で、また稗貫郡と紫波郡の郡界でもあった。境界に沿って、北上川から東北本線の間に9基の塚が築かれていて、周囲が10~13m、高さが0.5~1mとのこと。
この先で街道は、国道4号線に吸収されるが、この辺りは、時々形の良い松の木が名残の松として残っているところである。
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進んで滝名川を渡る。橋は道路舗装の補修中であり、川面の写真(下流方面)を撮るのが精一杯であった。滝名川上流には、農業の灌漑用水としてのダムがある。天保年間から大正時代に至るまで、水争いの絶えない地域に、この解決のために昭和27年(1952)に設けられたダムである。
平安を願って、ダム本体には上端から順に「平安・山王海・1952」の文字が植樹により描かれている。
滝名川橋を渡ると、少し先に、国道の左に馬頭観音が立っていた。
更に先には、民家の庭先に揚水紀年碑が立っていた。「昭和元年創建、甘木?耕地組合」と刻まれていた。昭和元年には、まだダムはなかったことでもあり、何の記念かは不明である。
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進むと、小さな流れの山吹川を渡る。橋の名前も山吹橋である。赤沢地区を支配していた藤原清衡の孫の樋爪俊衡(ひつめとしひら)が、頼朝の侵略に遭って樋爪舘を焼き払った時に、五郎沼の西を流れる川に砂金を投げ捨てたため、山吹(やまぶき)色に輝き、その後、山吹川という名で呼ばれるようになったと言われている。
山吹川に接するように五郎沼がある。藤原清衡の4男の藤原清綱の長男の俊衡の代に至り志和郡を治めることになり、姓を樋爪氏に変えたと言われているが、俊衡は、暴れ川だった滝名川の氾濫を防ぐと共に、灌漑の役割も担って五郎沼を造営した。俊衡の弟・五郎季衡(すえひら)がよく泳いだことが名前の由来と言われている。
現在は、当時より面積は小さくなったが、桜の名所として、また藤原泰衡の首塚から発見された蓮の種から発芽させた蓮が沼の隣に植えられていることで有名である。
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五郎沼の北東角から100m程度手前の桜の大木の脇に大きな石柱が立っている。地上に出ている部分だけでも2㍍以上の巨石だが、大部分が土中に埋まっているという。
五郎沼は造営直後は、何度か決壊することがあり、水神の怒りを鎮めるために人柱を立てることになり、付近に住む農家の娘が選ばれ、土手に生き埋めにされたという。娘が埋められた土手の上には巨大な石が供養碑として立てられたという。これにより大雨で堤防が決壊することはなくなったが、不思議なことが起こり始めた。夜に石の近くを通ると、しくしくという悲しげな娘の泣き声が聞こえ、いつしか夜泣き石と呼ばれるようになった。娘の遺体はその後、大荘厳寺に移されて手厚く葬られたという。巨石には何の刻印もないが、風化で消えたのか、最初からないのかは不明である。よくある人柱にまつわる言い伝えである。
流石に、普通に咲く桜は葉桜となっていたが、遅咲きの八重桜は、まだ美しさを保っていた。
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五郎沼を過ぎると、左側に旧家と思える広大な屋敷の家屋が見えてきた。そして、その先には東北新幹線のガードがある。
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ガードをくぐると、直ぐに「日詰駅入口」の交差点があり、その先の左側に大日堂がある。由緒は定かでないが、樋爪氏が山王権現薬師如来を館内に勧請し、四方に五智如来を鎮座したとの言い伝えがあり、その如来のひとつではないかと推察されている。境内には、多くの石塔、石仏が立っていた。
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大日堂の先で、街道は国道から右に別れて進む。車の騒音が軽減されてやれやれである。
1kmほど進むと、右側に志賀理和気神社(しかりわけじんじゃ)の赤い鳥居がある。この神社は、日本最北にある延喜式内社の南部一ノ宮であり、通称、赤石神社、赤石さんと呼ばれる神社である。
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鳥居を潜ると、参道の左に「南面の桜」がある。元弘2年(1332)、後醍醐天皇の命により陸奥に下った尊良親王(たかよししんのう)に同行した藤原頼之という公家が河東の領主川村少将の娘・桃香は、相思相愛となり、ここに桜を植えて、爛漫の春を夢見ていた。
しかし、命により、頼之は都へ上ることになり、二人は再会を固く誓って別れた。
やがて、植えた桜は見事に咲いたが、不思議にも、すべて花は南を向いて開いていた。桃香のやるせない心が、桜に宿ったものであろうか、と記されていた。
そして、桃香の歌が一首、
南面(みなおも)の桜の花は咲きにけり 都の麻呂(ひと)にかくとつげばや (桃香)
歌を受け取り、桃香のひたむきな思いに心を打たれた頼之は、ほどなく桃香を都に呼び寄せたという。
ともかく、この神社は延暦21年(802)に征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷の首長アテルイを滅ぼし、翌年、盛岡市太田に志波城を造営した後の延暦23年に、民衆を統制するための官社として定められた神社である。延長5年(927)に作られた全国の官社とされていた神社の一覧「延喜式神名帳」に「陸奥国斯波郡一座・小・志賀理和気神社」とあることからも、平安時代にすでに存在していたことが記録として残されている。神社名の「しかりわけ」は北海道の石狩川と同じくアイヌ語の「シカリ」と同じ語源からで、川がうねっている様子を表現する言葉で、すぐ近くを流れる北上川の大きなうねりを表現したアイヌ語由来するとのことである。
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志賀理和気神社を後にして進むと、右側に広大な紫波運動公園が見えてくる。
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そして、信号機のある交差点を過ぎると、左側に立派な建物がある。明治大正期の実業家12代平井六右衛門が建てた、店舗併用屋敷である。
平井家の初代は伊勢松坂の出で、代々六右衛門を襲名し、清酒,醤油の醸造業を営み、また大地主でもあった。12代六右衛門は明治26年(1893)に家督相続し、以後、岩手、盛岡、花巻の各銀行や南部鉄道、岩手軽便鉄道、盛岡電気など、岩手県内の有力企業の役員を兼任し、県内有数の実業家として活動した人物である。原敬とも親交があり大正4年(1915)に衆議院議員(政友会)に当選、8年には貴族院議員に選任されるが在任中に死去した。この屋敷に続く賑やかな街が日詰商店街の中心である。
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商店街を進むと、道の左に銭形平次の手形のモニュメントがあった。よく見ると銭形平次役をこなした北大路欣也の手形であった。この地出身の野村胡堂にちなんだモニュメントである。
なお、野村胡堂は、1882年に岩手県紫波郡彦部村(現在の紫波町)に農家の次男として生まれ、小学校時代に熱心に呼んだ「水滸伝」の登場人物の一人で投石を得意とした没羽箭張清(ぼつうせんちょうせい)は、後に銭形平次の投げ銭を考案するときのヒントになったという。第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学に入学するが、学資が続かず退学し、1931年から 文藝春秋の依頼で銭形平次を主人公にした「金色の処女」を発表し、以降第二次大戦を挟んで1957年までの26年間、長編・短編あわせて383編を書いた。1963年4月14日 肺炎のため享年80歳で死去するが、死の直前、私財のソニー株約1億円を基金に財団法人野村学芸財団を設立。同財団は、経済面で学業継続が困難な学生等への奨学金の交付を目的のひとつとしており、これは学資の問題で学業を断念した胡堂の経験が背景になっている。
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街道左に、ふれあい公園の名の小公園があり、明治天皇聖跡碑が立っていた。
そして、その先の十字路で左折して紫波中央駅入り口の交差点を通り過ぎ、紫波中央駅に向かう。元々今日は日詰駅で切り上げる予定であったが、途中で紫波中央駅から電車に乗ることを強く勧められ急遽予定を変更したものである。
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駅までは、700mほどもあろうか、疲れた足にはこたえる距離である。しかも、紫波中央駅は東側には、入り口がなく東北本線のガードを潜って、大きく回って行く必要があった。
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紫波中央駅は、平成10年にできた新しい駅で、無人駅にもかかわらず、有人駅を上回る内容を誇っている。そもそも、首都圏でもないのに新しい駅ができるというのはかなり異例で、しかも中央駅のネーミングも都市圏でこそ見られるものと思われる。
調べると、ここは、、町役場からも近く、本来駅があってもおかしくない場所であるにもかかわらず日詰と古舘という2つの駅間に挟まれて100年に渡る新駅の請願も取り上げられることはなかったという。そして、終に地域住民がお金を出し合って、新駅設置費用約2億円を集め、この住民の動きに合わせて、駅の待合施設という名目で、町も建物を建設。しかも町産材をふんだんに使ってできたのが今の駅舎となっているとのこと。これで、紫波中央駅からの乗車を強く勧められた意義が分かった感じがした。
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紫波中央駅で切符を買ってホームにでると待つ間もなく電車が入ってきて、盛岡駅に到着した。
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駅前には、啄木の歌碑があり、今夜の宿泊のホテルルートインも見える。
後は、夕食を済ませ風呂に入って寝るだけである。


2012.04.17

金ケ崎から花巻・・・(旧奥州街道)

本日の万歩計45,800(29.8Km)

金ヶ崎から花巻の歩行ルート

水沢のホテルで一泊し、電車で金ケ崎まで引き返してきた。ちょうど8時である。
ホテルで朝食をするとどうしても遅くなり、この時間になってしまう。
さて、金ヶ崎駅舎は、昨日のブログにも書いたように地元商工会も同居しているので、PRのためのハリボテの布袋様のような像が置いてあった。
少し寂れた駅前通りを進み、県道で左折すると、すぐに正面に千田正記念館の案内板が見えてきて、街道は左に別れて行く。
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少し進むと、特に信号がある訳でもないのに、道路に長く車が停車しているのが目についた。
何と、保育園に子供を送ってきたお母さん達の車の列である。子供を預けて、それぞれの職場に向かうようだ。なるほどと思わされる光景であった。
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車の通りも少ない道を進んで行くと、宿内川に架かる宿内川橋が見えてきた。
宿内川は、駒ケ岳山系を水源として千貫石溜池に注ぎ、田畑を潤し北上川に合流している川である。千貫石溜池は天和2年(1682)仙台藩主・伊達綱村の命により、胆沢郡相去村六原の灌漑用水源として着工された。普請奉行は水沢領主・伊達宗景が務めた。初めの三年間は毎年大破したので「おいし」という若い女性を銭千貫で買い、牛とともに人柱にしたと言う悲しい伝説が残る。この池の名前の由来は「千貫で買ったおいし」から命名されていると伝わっている。
なお、北上川との合流地点には、金ヶ崎城があったとのこと。
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丸子館跡入り口の表示杭と案内板が立っていた。ここは室町時代の文安年中(1444~1448)に江刺七郎清義が丸子館主になり三ヶ尻(みかじり)と名乗った。その後、豊臣秀吉の奥州平定によって三ヶ尻氏はこの地を追われることとなった。三ヶ尻氏がこの地を治めたのは約150年間で江戸時代には伊達領になったとのことである。
その先の左側に、千田正記念館が見えてきた。まだ、朝が早く閉まっていたが、金ケ崎町出身で参議院議員3期、岩手県知事を4期務めた「千田正」の功績を後世に伝えるため整備さたものである。昭和5年建築の千田家主屋と昭和2年築の板倉、正光館と呼ばれる旧岩手県知事公舎の応接室からなり、少年時代から知事の時代に至る資料が展示されているとのこと。
千田記念館の案内標識には、アテルイの里の語句も記されている。アテルイは、平安時代初期の蝦夷(えみし)の大将で、延暦8年(789)に日高見国胆沢(現在の岩手県奥州市)に侵攻した朝廷軍を撃退したが、坂上田村麻呂に敗れて降伏し、田村麻呂の助命提言にもかかわらず京にて処刑された。
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進むと、道路の分岐があり右か左か一瞬迷ったが、よく見ると奥州街道の表記と矢印のある杭が立てられており、左側であるのが分かり有りがたかった。
しかし、右は歴史のある三ヶ尻小学校に通じており、それを見逃すことになってしまった。明治6年滴水小学校として民家を借用し創立し、児童数22名であったとのこと。
その先には、下渋川橋がある。下を流れる渋川の下流方向の写真を載せたが、この川も下流で北上川に合流する。
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渋川を後にして、進むと「瘤木丁(こぶきちょう)」という、珍しい地名の町に入る。右側には、大きな案内地図が掲げられており、そのすぐ横には赤い鳥居の神社が祀られていた。
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瘤木丁を進んでゆくと、途中で舗装が切れ三菱製紙の社有地となって行き止まりになる。写真のゴミの収集の保管ボックスのあるところで左折して六原駅の脇を通り、国道4号線に出て迂回する必要がある。
実は、この左折ポイントも少し先の右側に奥州街道と書かれて前方法を指し示す表示杭があり、進めるものと思ってしまう。通れるか否かにかかわらず、奥州街道の方向のみを示しているのだろうが、極めて不親切と言わざるを得ない。迂回路の方向を示す小さな注書きでも欲しいものである。
ともかく、花沢踏切という簡易な踏切が六原駅の脇にあるので、渡って六原駅に向かう。
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昭和12年2月、東北本線の信号所を廃止して開駅した六原駅であるが、無人駅かと思っていたが、駅員さんが1人勤務されていた。朝の通勤時間が過ぎると、電車の本数が極端に減るので、駅構内には誰もおらず、のんびりとしたものである。
タクシーも駐車していたが、商売になるのであろうか。
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国道4号線に出て北に向かうと、左側に立派な赤い鳥居がある。二ツ森稲荷神社の鳥居で社殿は4.7Kmも先にあるとのこと。延宝2年(1674)伊達候が勧請した神社である。明治維新の皇道復興のおりに布告あり、続いて明治4年(1871)胆沢県神社の格定めに当り村社に列した。
鳥居を過ぎて北上金ケ崎ICの信号で右折し、東北本線の踏切に向かう。この辺りは、平地でもところどころ、杉林が残っている。
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先に、右に進む小道があり、進むと「正作踏切」があり、線路を渡ることができた。信号機も付いていない踏切である。渡ると未舗装の小道で、進んで北上浄水場から続く街道に復帰する。振り返ると浄水場の威容が見えるが、三菱製紙と協調して街道歩きに便宜を図って欲しいものである。
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しばらくは顕著な歴史遺構もなく進むが、やがて東北新幹線の高架線路が見えてきた。ガードを潜る手前の左には、相去白山神社がある。
白山の神は、延暦21年(802)鎮守府胆沢城が築かれてからの平安前期頃に創祀されたと伝えられている。徳川時代に至り、仙台伊達と盛岡南部の藩境が定まり、宝永8年(1711)伊達藩命により神社として創建された。以来300年、奥州街道伊達藩境の町相去の氏神様として崇敬されてきた。創祀以来、相去を見下ろす高前壇の地に鎮座していたが、東北本線開通の明治23年、現在地に遷座したとのことである。
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相去(あいさり)は伊達藩の一番北の町で、南部藩と接していたところである。進むと、左側に相去御番所跡の説明板が立っていた。明暦2年(1656)伊達藩主二代忠宗公の時、北境の備えとして番所を設置、街道を挟んで両側に軽臣(足軽)102名を置いたとのこと。番所には、通行人を取り調べた建物と番所役人の控えの建物が配置されていて、番所トップの武頭は100日交代で仙台よりの出張だったとのことである。
番所跡より300mほど進むと、南部領と伊達領の領境塚がある。この塚は資料に基づき後日復元したものだが、同じ徳川幕府に従属する藩であっても、隣どうしで厳しく対していたことが窺われる。
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少し先には、鬼柳関所跡がある。鬼柳御番所とも言われ、江戸方面の関門として藩内に幾つかある関所の中で、最も重きをなしたという。通行人を取り締まる本来の関所の機能に加えて。鬼柳には藩主・公儀用の宿泊・休憩施設である御仮屋と、馬を継ぐ伝馬所などの小規模ながら宿駅の機能も備えていた。
そして、その先で東北新幹線と東北本線のガードをくぐる。手前が新幹線でその向こうに少し低く東北本線が見える。
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鉄道のガードをくぐって進むと、500mほどで道は右にカーブして和賀川に架かる9年橋を渡る。和賀川は、長さ75.3キロで北上川支流では最長である。雨のためか少し濁っていたが、普段より水量は豊富なようである。なお、9年橋の名は、後9年の役に由来するものと思っていたが、明治9年の明治天皇巡幸に合わせて架橋されたことによるとのこと。
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九年橋を渡ると北上市市街に入って行く。北上市は、昭和29年に黒沢尻町、飯豊村、二子村、更木村、鬼柳村、相去村、福岡村が合併してできた市である。中心部は、旧奥州街道の間宿の黒沢尻であった。本町通りには、Warner Mycalの映画館も入っているさくら野百貨店もあり、ななか栄えている街並みである。反面、歴史的な遺構は残っておらず、脇本陣も表示杭として場所が示されているのみである。
そして、右側には諏訪町アーケード。諏訪神社の門前町として発展してきた商店街である。
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さくら野百貨店を過ぎて、次の信号のある交差点にも脇本陣の標識杭が立っていたが、ここを過ぎると、市街地も終わりその先に北上線の踏切が見えてくる。
北上線は、岩手県北上市にある北上駅と秋田県横手市にある横手駅を結ぶ、JR東日本の鉄道路線である。単線で電化はされておらず、全列車普通列車で気動車によるワンマン運転を行っている。
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踏切を渡ると、黒沢川があり本宮橋を渡る。街道は徐々に東北本線に近づき、常磐台の跨線橋が見えてくる。跨線橋に上るスロープの下には、山神と大書された新しい石碑が立っていた。
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跨線橋を渡り、直ぐに左折して2Kmほど進むと、二子一里塚がある。道の両側にほぼ原型をとどめて残っていて珍しい。この付近は明治12年に国道が切り替わり裏街道になったために幸か不幸か塚が残っているのだという。
二子一里塚の右側の塚の背後には、塚腰稲荷神社がある。神楽伝承百周年記念碑が立っていた。
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雨が降ってきた。強い雨ではなく小降りだが、傘をさしての歩行は嫌だし、困ったと思いながら一時村崎野駅に避難する。ここから、もう帰ろうかとも思ったが、まだ午後の1時半である。
幸い20分ほど経ったらやんだので、出発した。
街道に復帰して進むと。八重樫長兵衛氏之像と書かれた胸像が立っていた。大正2年飯豊町の旧家で生まれた郷土の先覚者で、北上市長も務め正七位勲五等双旭日掌を受賞した人である。
その横には、天照御祖神社、通称は伊勢神社の階段が続いている。江戸時代に南部藩士奥寺八左エ門定恒が伊勢神宮より勧請した神社で330年の歴史をもつ。
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昭和36年に設立した財団法人北上市開発公社の主要事業として造成整備した総面積127haの北上工業団地を通過していると、産業基盤、生活基盤の整備を進め目的達成して公社を閉めるのを期に記念碑を立てた旨の記述があった。工業団地を過ぎ、降雨の跡が残る道を進んで行く。
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飯豊川に架かる成立橋が見えてきた。そして、橋を渡って緩い坂道を上ると、成田一里塚がある。ここも、道の両方にほぼ原型をとどめて残っている。日本橋から129里(506.6Km)で盛岡まで10里(39.3Km)である。原型のまま残っているのは、こことひとつ手前の二子一里塚だけとのこと。
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成田一里塚を過ぎると、左側に多くの石仏、石塔が集められた場所があった。この先で花巻市に入って行く。花巻市に入って2Kmほど進むと、右側に薬師神社がある。江戸期には薬師堂で開基は江戸初期とのこと。
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薬師神社と道路を挟んだ反対側の左には、円通寺がある。
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円通寺を後にして進むと、花巻東バイパスに突き当たり行き止まりとなる。しかし、直ぐ左の僅かの高さの土手を上れば、バイパスを渡る交差点に出られる。
バイパスを渡って進むと、南城小学校があり、上館の歴史の説明板が立っていた。前9年の役(1051-1062)で源頼義が陣所を置いたところと伝えられ、その後諸氏が館を作って住んだとのこと。
小学校の校庭には、奥州街道名残の松があり、寛文5年(1665)、南部藩士奥寺定恒が花巻から伊達藩と境界である鬼柳まで植えた松の一部との説明が、当時の街道図と合わせて書かれていた。
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進んで行くと、右側に花南地区コミニティ消防センターと書かれた、瀟洒な建物が立っていた。又、その先の信号には、宮沢賢治記念館への案内板が立てられていた。
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右折すると、茅葺きの同心家屋が見えてくる。同心の始まりは天正19年(1591)に起こった「九戸政実の乱」により豊臣方に従軍した浅野長政の家臣の一部が花巻に留まり、そのまま南部氏の家臣である北氏の配下に組み入れられた事による。当初は花巻城の二の丸にある馬場口御門付近に住んでいたが、延宝8年(1680)に同心組30組が現在の桜町に移り住んだという。
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今川家と平野家の住居である。
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同心家屋から北に向かう小道は、化粧タイルを配した散歩道のような様相で、進むと国道4号線を渡って元の街道に復帰する。そして、直ぐに豊沢川を豊澤橋で渡る。ここからいよいよ花巻市街である。
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豊沢川を渡って直ぐの交差点には、豊沢町一里塚表示板が立っていた。日本橋より130里の一里塚で、城下町花巻の表玄関に威容を誇っていた。別名錦塚ともいうと書かれていた。
街道は次の信号で左折する。突き当たると、松庵寺で、外観は石造り、屋根にはインド、ネパール等の寺院にあるパゴダ(仏塔)が立ち、堂内はタイル張りの床に椅子が並ぶ異風な寺である。
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この寺は昔、真言宗の学寮だったが念仏行脚の僧が足を留め、念仏の教えを広めた。後の永禄5年(1560)広隆寺5世良縁上人を開山に念仏庵となった。また慶長5年(1600)花巻城夜討ちの難のおり、当時住職の存泰和尚が止宿中の津軽浪人3名と共に城を守った功によって、城代北松斎公から寺名に「松」の一字をもらい、「松庵寺」と呼ぶことになったという。江戸期にはたび重なる飢饉、疫病に苦しむ庶民たちに奉行所の蔵を開放させ、施粥釜(せがゆがま)を施し、このお助け粥により多くの民の命を救うことができたという。また、高村光太郎が宮沢賢治を慕って花巻に疎開していた時、妻智恵子や父母の法要を行い、その菩提を弔った歌詞も残っている。
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松庵寺を出て北に向かうと、この辺りが宮沢賢治生誕の地だとのことであるが、今は面影もない。そして、花巻市役所で右折する。
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市役所の角には、大手門跡の碑と花巻城の時鐘がある。正保3年(1646)、南部氏28代目の城主重直が、盛岡城の時太鼓を鐘に改めるために時鐘として作ったが、小さいので花巻城に移したものである。明治維新までは、二の丸(現花巻小学校敷地内)にあったが、ここに移され、午後6時に打鐘して時を報せている。
なお、この時鐘は、当時の冶工鈴木忠兵衛、忠左衛門によって造られたもので、市の指定文化財に指定されている。
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大手門跡を過ぎ、進んで行くと、右側に四百年以上の歴史を持つ花巻祭りの山車の車庫が見えてきた。山車は高さ13mもあるので、車庫もビルの3階建てより高いほどである。
さらに、200mほど進むと、左に円城寺門がある。この門は、慶長19年(1614)に盛岡藩主南部利直の命により花巻城主南部政直が「花巻城」の築城整備を行った際に、飛勢城跡から花巻城三之丸搦手「円城寺坂」の上に移築したもので、「円城寺門」の呼び名は、これに因んでいる。現在の門は戦中戦後の混乱で荒廃していたのを昭和36年(1961)修復したもので、花巻城で唯一残る建造物として重要な文化財となっている。
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円城寺門を観て、引き返し途中で花巻小学校の方に進む。街道は花巻小学校の校舎とグラウンドの間を通っており、小学校の校庭らしい銅像も建っている。また、校舎の2階の壁には宮沢賢治のシルエットが描かれていたが、通りかかった小学低学年の女の子2人に、あの絵は誰と聞いたら、口を揃えて宮沢賢治との答えが返って来た。やはり郷土の誇りの人物なのである。
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小学校の北の端に接しているのは、花巻城址である。花巻城の地に最初に城柵を築いたのは、阿部頼時で、戦国時代は稗貫氏の本城となり、秀吉の奥州仕置の後は、稗貫氏は領地を没収され浅野長政の家臣浅野重吉が代官として入城した。江戸期には、南部氏家臣の北氏が入場したが、北松斎は慶長18年(1613年)に死去し、その後は、南部利直が次男政直に2万石を与え花巻城主とした。政直急死の後は城代を置いて明治維新を迎えるまで続いた。
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今日の歩行はここまでにして、花巻駅に向かう。駅前には「やすらぎの像」と書かれた銅像が立っていた。駅のホームには、鹿おどりの衣装が飾られていた。
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久々の街道歩きで足が悲鳴をあげていた。体も疲労困憊で、北上駅まで東北本線で戻り、新幹線に乗ってからは、東京駅に着くまでほとんど眠っていた。足の回復にも2~3日掛かりそうである。


2012.04.16

前沢から金ケ崎・・・(旧奥州街道)

本日の万歩計39,437(25.6Km)

前沢から金ヶ崎歩行ルート

昨年の10月12日以来の久しぶりの街道歩きである。今年に入っても寒い日が続き、ようやく暖かくなってきてのスタートである。
一ノ関で新幹線から東北本線に乗り換え、前沢駅には9:15着であった。これが我が家からの最も早い到着である。在来線は、通学の高校生であふれていた。

さて、駅を出発して駅前道路を進み街道に出て右折すると、岩手県指定文化財の太田家住宅が建っていた。「太田家住宅」は、明治43年、県内有数の資産家であった太田幸五郎によって、凶作などで疲弊した地元の救済事業(お助け普請)として建築された屋敷である。屋敷には1600坪の敷地に、主屋と炊き場、前座敷、土蔵、門、塀、庭園が配されており、明治期富裕層の屋敷構成をよく残している。このうち主屋と庭園、土蔵などが時代性を反映した建物と屋敷構成であるとして平成9年に岩手県の有形文化財に指定された。
なお、太田家では初代から4代目までの当主は、幸蔵を名乗り、5代目から幸五郎と続くことから、地元では「太幸邸(だいこうてい)」とも呼ばれているとのこと。

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大田家住宅から進むと、左側に霊桃寺がある。承和5年(838)慈覚大師一刀三礼の十一面観音像を本尊として「北長谷漆寺(天台宗)」がこの寺の始まりで、その後文永6年(1269)北鎌倉の建長寺の第四世佛源大休正念禅師を勧請開山として迎え「宝林山興化寺」として復興された。さらに、天正年間(1573-91)に前沢領主大内定綱の菩提所として、「興化山宝林寺」に改められた。寛文6年(1661)に松島瑞巌寺の桂室和尚が入寺、その2年後に前沢領主飯坂内匠頭宗章が16歳の若さで亡くなり、宗彰公の法名「霊桃院殿心巌恵空大禅定門」から霊桃寺と改名され今日に至っている。また、墓所には、高野長英の母美也(みや)の墓がある旨が記されていた。

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階段を登って行くと、俳句の小道の石碑が立っていて、優秀作品の数々が歌碑として立っていた。上り詰めて本堂を眺めると、前沢領主の菩提寺に相応しいものであった。また、境内からは、前沢の街並みが眺望できた。

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霊桃寺の隣は、熊堅神社である。長い参道を進むと本殿がある。熊堅神社は熊野神社の異称なのか、調べたが分からなかった。

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街道に戻ると、直ぐに岩手銘醸の看板を掲げた、醸造会社がある。会社案内によれば、昭和30年、大正初期から続いた蔵元2社が合併し、胆沢郡前沢町に岩手銘醸株式会社が誕生。以来、岩手誉を代表酒に、大桜・陸奥の友のほか数々の銘酒を育てるとともに、近隣市町村の米を使用して、江刺の古歌葉・藤原の郷、胆沢町の胆沢舞、金ヶ崎町の宗任・白絲御膳など各地の地酒作りにも協力していると記されていた。
ちょうど、会社の朝の始まり時刻と見えて、商品を車に積んで出荷する風景を見せていた。
徐々に家並みも閑散としてきて、このあたりが前沢宿の出口付近であろうか、枡形の名残かと思える道路のカーブも見える。

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やがて、一級河川で下流で北上川に合流する「岩堰川」にかかる「岩堰橋」を渡る。

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1Kmほど進むと、明後沢川の名の小さな川を渡るが、この上流には竪穴住居跡の遺蹟があり、縄文土器等も多数発掘されたとのことである。

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さらに、1Kmあまり進むと折井の分岐点で、街道は国道4号線から左に別れてしばらくは静かな歩行となる。車の騒音からも逃れられ静かな街並みを歩くのは気持ちが良い。奥州街道の間の宿であった折居の集落である。

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進むと、入り口に鉄道の踏切の信号機を配した場所があり、一瞬こんな所に廃線でも残っていたかと思ったが、タミヤの鉄道模型屋さんであった。
そして、静かな通りは終わり、また4号線に合流すると、少し先に真城寺があった。

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真成寺の由緒は定かで無いかが、胆沢三十三観音霊場、第二十三番札所となっている。
金色の観音像が国道に面して立てられていた。

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満蒙開拓青少年義勇軍における自らの体験を綴った「土と戦ふ」という当時のベスセラーの著者で江刺郡福岡村口内出身の菅野正男を顕彰せんと、市内真城雷神の今野養市さんが昭和49年(1974)4月、独力にて建立した哈川神社(はせんじんじゃ)が左側にあった。
しかし、先日の強風のためか杉の大木が倒れかかり、鳥居も潜って進めない状態になっていた。満蒙開拓時代の記憶を薄れさせないためにに大きな存在であり、修復を願いたいものである。

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その先には、昭和稲荷神社があった。昭和稲荷神社と刻された石碑と、形の良い狛犬ならぬ狐の像が立っていた。
その少し先には、水沢市制50周年記念として、真城村役場跡の石碑が立っていた。
明治22年(1889)4月1日 – 町村制が施行され、中野村、秋成村の一部、常盤村の一部が合併し、胆沢郡真城村が成立した。その後、昭和29年(1954)4月1日 – 水沢町、姉体村、真城村、佐倉河村、黒石村、羽田村が合併し、水沢市となるが、それまでは、ここに村役場を置いていた。

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この辺りは、赤い鳥居の目立つ地域であるが、次に現れたのは、立木八幡神社である。
先に進むと、街道は左に国道4号線から別れる。すぐに真城の一里塚の案内板があるはずだが、見逃した。

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水沢市街が近付いてきて、左側に大林寺墓地の表示があったので坂道を上ると「斉藤實(さいとうまこと)」の大きな墓があり、墓標が立っていた。斉藤實は、水沢藩士斎藤耕平の子で、明治17年(1884)アメリカに留学、米公使館付武官を兼ねる。 1888に帰国し海軍参謀本部に出
仕、ついで多くの役職を歴任した。 1898年に海軍次官に就任、軍務局長・艦政本部長・教育本部長を兼任して軍政畑を歩き、西園寺内閣で海相となった。 以来5代の内閣に留任して在任9年におよんだ。大正元年(1912)大将に昇進、1919年の三・一独立運動勃発直後の朝鮮に総督として赴任、「武断政治」からいわゆる「文化政治」への転換をはかり、治安体制の整備拡充に務めた。 昭和2年(1927)ジュネーブ軍縮会議全権委員、枢密顧問官を勤めた。1929~31再び朝鮮総督に着任し、1931(5・15事件)の後を継ぎ内閣を組織。1935内大臣。2.26事件で暗殺された人物である。位階は従一位。勲位は大勲位。爵位は子爵であった。

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漸く、水沢市街の入口に到着して、近くの食堂で昼食を摂り、水沢公園に向かう。途中には古くから利用された水路が、整備された流れを見せていた。
公園への階段を上って、西の方に進むと、後藤新平のボーイスカウト姿の銅像が立っていた。後藤新平はボーイスカウトの初代総長だったのである。銅像は明治44年(1911)に建立されたが、太平洋戦争で応召し、その後昭和46年(1971)東北3県のライオンズクラブの年次大会で記念事業として再建が決まったとのことである。

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公園の北西の角には、陸中一宮の駒形神社がある。式内社で、旧社格は国幣小社で奥宮が胆沢郡金ケ崎町の駒ヶ岳山頂にある。祭神は「駒形大神」であるが、この神については、宇賀御魂大神・天照大神・天忍穂耳尊・毛野氏の祖神など多数の説があり、はっきりしない。現在は、天照大御神、天之常立尊、国之狭槌尊、吾勝尊、置瀬尊、彦火火出見尊の六柱の総称としている。駒形大神は馬と蚕の守護神とされ、馬頭観音あるいは大日如来と習合し、東日本各地に勧請されて「おこま様」と呼ばれている。馬の守護神とされたのは、古代、この一帯が軍馬の産地であったためと考えられる。
水沢公園を後にして、横町の交差点に差し掛かると、火消しのまといのような飾りがあり、心字の街と横町組長印の由来の説明板が立っていた。
水沢は、旧奥州街道の宿駅の一つとして形成され、江戸時代から宿場・街道交通関係や魚網生産等の産業で発展してきた。
町の中心である水沢城と六町(川口町、立町、柳町、大町、横町、袋町)は、防衛上の理由と繁栄の願いから「心」の字形を象って整備されたといわれている。この近世水沢の歴史は、度々起きた大火との戦いの歴史でもあったが、留守宗景の時代、江戸の大火を契機に、水沢でも火消しの原形となる組織が生まれた。その後、村景の時代、江戸の町火消組織に習い、六町に火消組が編成されたという。

その後始まった火防祭(ひぶせまつり)でも、先頭に並ぶ町印は、城主が火消組の印として六町にそれぞれ与えたといわれる。「仁心火防定鎮(じんしんかぼうじょうちん)」の6文字の一字、すなわち仁(川口町)、心(立町)、火(柳町)、防(大町)、定(横町)、鎮(袋町)が割り当てられた。ここは横町なので定である。

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横町の交差点から進んで最初の信号を左折して、日高神社の参道に向かう。600mあまりの長い参道である。最初の丁字路で右折すると、高野長英が9歳から江戸に出る17歳まで過ごした、母美也(みや)の実家がある。高野長英は、文化元年(1808)5月、水沢領主留守氏家臣の後藤惣助の3男として吉小路で生まれたが、9歳で父が没したため大畑小路の母美也の実家高野家の養子となり養父玄斎から蘭学を、祖父玄端から漢学を学んで育ったところである。
家は明治9年(1876)に一部改築されたが、開花の8畳、6畳は町営の居室としてよく保存されており、国の史跡に指定された。

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高野長英の育った家の左隣には、留守家の大番士を勤めた家臣の高橋家の家が保存されている。非公開であるが、屋敷内は江戸時代の建物配置をとどめ、明治7年(1874)から8年にかけて建てた母屋は唐破風の玄関と木彫りや障壁画で建物を飾り、当時としては珍しい窓ガラスやレンガも使った和洋折衷の建物でガス燈がひかれているとのこと。
ここからは、日高神社まで整備された美しい石畳の参道が一直線に通っている。

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日高神社の長い参道には、幾つかの武家屋敷が保存されており、趣きのある佇まいを見せる参道となっている。

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日高神社の創建は弘仁元年(810)嵯峨天皇の勅命によりこの地に勧請した事が始まりとされる。前九年合戦では源頼義が戦勝祈願し、源義家が安倍貞任を討った太刀を洗ったという「太刀洗川の碑」がある。また、境内には義家が酒宴で刺した箸が根付たとされる姥杉が奥州市指定天然記念物 となっている。その後も藤原氏、伊達氏などの支配者に崇敬され、特に初代伊達藩主政宗も参拝したという記録が残っている。水沢領主となった留守氏も代々の崇敬社としたとのこと。日高神社の本殿は寛永9年(1632)に建立された三間社流造の建物で国重要文化財に指定されている。神社の名称には諸説あり、前九年合戦の折、頼義が祈祷した所、雨が急に止み日が差し込んだ時に敵の将であった安倍貞任を討ったという謂れや、この場所は元々日高見国と呼ばれていた事などがある。

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日高神社の境内を後にすると、留守宗利の銅像が立っていた。留守宗利は、伊達政宗の祖父の伊達晴宗の3男に生まれ、晴宗の政略によって留守顕宗の養子となり、奥州の名族・留守氏を継ぐことになった留守政景の長男である。15歳で元服し父の移封に従い一ノ関に移ったが、18歳で父の政景が59歳で没し、その後金ケ崎城に移されたが、元和元年(1615)に願い出て許され、水沢城に移り、留守氏は幕末まで水沢城主として続くこととなった。宗利は水沢初代城主として、街区地割り、武士の住む四町八小路など水沢の街の建築、産業の育成などに力を注ぎ、多くの礎を築いたが49歳、道半ばで没した。嫡男宗直13歳のときであった。
日高神社を後にして、今度は新小路を通って引き返したが、途中で左に入ったところには、高野長英生誕の地の記念碑も立っていた。

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新小路にも幾つかの武家屋敷が残っていた。やがて大きな商業施設のメイプルが見えてくる。
元はジャスコ水沢支店であったが、撤退して地元資本に移ったようである。

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メイプルのある交差点で左折し、街道に復帰する。街中に「ひぶせまつり」のポスターが貼られている。進んで大町に入ると、やはり大町のシンボルの飾りが立てられていた。

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進んで乙女川を渡り、少し上流方向に向かうと、対岸に先人館がある。乙女川先人館では、山崎為徳、箕作省吾、吉川鉄之助の三先人についての資料等を展示している。
山崎為徳は、斉藤實、後藤新平と並び、郷土の3秀才と謳われ、学んだ同志社英学校でも開校以来の俊才と言われた。明治12年(1879)、郷里水沢の青年たちの招聘をうけ、夏季休暇中に帰郷、プロテスタントの教えを説いた。そのことが後に水沢にキリスト教を根付かせる要因ともなった。明治13年(1880)主著『天地大原因論』を発表。そのほか同志社英学校の校務や講演会など精力的に活躍するが、肺結核にかかり、明治14年(1881)京都市の新島邸宅内で24歳で死去した。

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乙女川の先の柳町の交差点を左折すると、ここから代官所跡までを立町で、かつては水沢宿の本陣、脇本陣が置かれ、土蔵を持つ豪商の店も立ち並んでいたが、鉄道の発達などにより商業の中心が大町や横町に移ったと言われている。途中に珍しく「太鼓屋」の看板があったが、二本松で見た太鼓店以来であった。しかし、覗きこんだ限りでは、閑散としてあまり繁盛しているようには見えなかった。

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突き当たって、立町の交差点には、代官所跡の石碑が立っていた。現在も立派な門構えの住居となっている。そして少し先には、もう馴染みとなった川口町の街のシンボル飾りが立っていた。

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街の火防飾りの隣には、大日堂がある。創建は不明だが、宝永5年(1776)の風土記「塩釜村御用書出」に、羽黒派九ヶ院の名前があり、その一つである喜楽院の修験道場が川口町にあったことが記載されている。
明治初年の廃仏毀釈で、修験道場は姿を消したが、現在は大日如来が本尊として祀られている。
少し先の境田堰に架かる不断橋の欄干に鉄道馬車(トテ馬車)のレリーフと説明がある。大正2年、水沢駅前からこの不断橋を通り岩谷堂船場まで約8キロメートルの間の運行を開始した。
ここは、水沢城下の北の出入口で、警備のために御不断組の家屋が配置され、「不断丁」(現不断町)と呼ばれていた。不断橋の名もこの不断丁に由来する。

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水沢市街を抜けて、進むと東北本線のと跨線橋がある。渡って左に下って行くと、赤い前掛けの地蔵さんが安座していた。
進んで中ノ町交差点を過ぎ、東水沢バイパスをくぐると、茂井羅堰中堰の細い流れがある。流れは細いが、用水路として重要な存在で歴史は古く、文書に見えるところでは、元亀年間(1570-72)に北郷茂井羅という女性が用水を開削したという言い伝えがある。しかし、土地に残された事物は、その遥か以前から水田が拓かれていたことを物語っている。
もう一つの重要な用水は寿安堰で、こちらは時期と工事を行った人がハッキリしている。江戸の初期、元和4年(1618)に伊達政宗の家臣、後藤寿安が着工し、一時の中断の後、地元古城村の千田左馬と前沢村の遠藤大学がこれを引き継いで寛永8年(1631)に完成した。

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堰の直ぐ先には、薬師堂温泉入り口の看板が見える。水沢区で始めて湧出した天然温泉で、日帰りの入浴、宴会場としての利用も多そうである。
道路の右側に高橋甚三郎先生碑と書かれた大きな石碑が立っていた。高橋甚三郎は、信長に攻められた朝倉義景が平泉寺に味方を頼むが断られ、また朝倉景鏡のは裏切りにあい六坊賢松寺で自刃したとき、鳥井与七郎とともに介錯し、その後、二人とも追腹を切ったことが信長公記第6巻に書かれている人物である。何故ここに石碑が有るのか不明である。追腹を切ってなくなったのは福井県で、地理的にも遠く離れている。もともとこの地方の出身であったのであろうか。

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田園地帯を進む道路である。少し先の左側に、鎮守府胆沢城の看板が見えてきた。この辺りが、胆沢城の南の入口付近である。

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左への道路を少し入ったところに埋蔵文化財調査センターがあり、発掘品の展示も行なっている。少し覗いてみた気がするが、先を考えると時間がなく諦めた。
少し先の右側には「史跡胆沢城跡」の大きな石碑が立てられていた。

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発掘調査に基づく、当時の建物の配置図も設置されていた。政庁の中欧に向かう道路も作られていたが、多賀城のようには整備されておらず、広大な土地の広がりがあるのみであった。

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広い胆沢城の北の端には、鎮守府八幡宮があり、鳥居を入ると前に広がる荒野然とした様相と異なり、手入れの行き届いて静謐な雰囲気が満ちていた。
神社に至る道は、仮舗装道路のようで細い道路であることからも予想しがたいものであった。
創建は延暦20年(801)に坂上田村麻呂が桓武天皇の命により東奥鎮撫のとき、胆沢城鎮守府に九州宇佐八幡宮神霊を勧請して鎮守府八幡宮と尊号したものである。
祭神は、應神天皇(誉田別尊)、神功皇后(息長帯姫命)、大市姫命である。
しかも、保有する宝物に、嵯峨天皇宸筆の八幡宮寳印、坂上田村麻呂奉納の宝剣と鏑矢、
源義家奉納の御弓、伊達氏奉納の太刀などと知れば、崇拝熱く大事にされているのも納得できる。当然2礼2拍手1礼でお参りする。

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八幡宮を後にして、県道に戻る手前に三代清水の名の湧き水がある。坂上田村麻呂、源頼義、義家の三代の飲用により命名されたと記されていた。昭和20年ころまでは、生活用水として使用されていたとのこと。
街道を歩いていると、かつての名水とされた湧き水が、使用不可になっている例が多いが、これは人の住む空間の広がりのみならず、使わなければ水脈が衰えるからであろうか。

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県道に出ると、直ぐに胆沢川にかかる再巡橋がある。胆沢川は、江戸時代初期までは徒渡りで、以後は船橋や舟渡しであったが、明治天皇の東北巡幸に備えたて橋が架けられた。しかし、最初に架けた橋が流失し、再度巡幸される時に架け直されたため、「再巡橋」と名付けれらたとのこと。
胆沢川は、岩手県南西部、奥羽山脈の焼石岳北麓に源を発し、奥州市北東部で北上川に注ぐ。途中石淵ダムに入り、尿前川、永沢川、黒沢川を合わせる。 平成7年(1995)に建設省河川局が行った「全国一級河川の水質現況」で、 胆沢川は全国で4番目の清流河川に選ばれている。

また、胆沢川は前九年の役(1052~62年)で、安倍貞任一族が、衣川の柵を捨て胆沢川の柵を楯にして戦ったところである。少し上流の黒沢川の合流点に、安倍氏12柵の一つ、鳥海柵(とのみのさく)があり、前九年の役では安倍宗任が柵主をつとめた。

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再巡橋を渡り、1Kmほど進むと県道から左に、金ヶ崎宿の入口がある。奥州街道と書かれた案内の表示杭が立っていて分かり易い。進むとお堂が建っていて南町集会所がある。ここで右折して進むと、奥州街道三十一里半杭跡の説明板が立っている。伊達政宗が幕府から命じられた一里塚の他に、独自に仙台青葉城を起点として一里杭、半里杭を建て、仙台藩領内統治の目安としたとのこと。従って、三十一里半とは、青葉城から約126Kmの地点を示している。なお仙台藩北端の相去御番所(相去村足軽町)の三十三里半杭が最終杭である。街道はここで右折する。

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再び県道に出て進むと、左側に金ヶ崎町役場が見え、さらに進むと矢来の交差点で、左折すると300mほどで金ヶ崎駅である。平成16年に改築されたばかりの駅舎で、新しく美しい。また改築以降、同一建物内に金ケ崎商工会、岩手ふるさと農業協同組合金ケ崎支店が入居している。今日はここで切り上げ、電車で水沢に戻り一泊する計画である。

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歩けば長いが、電車では10分ほどで水沢に戻り、駅前で予約してあるホテルに向かった。
水沢の駅前通りは、やはり賑やかである。

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