2019.03.08
湯浅(醤油の発祥の地)・・・(旅行)
醤油の発祥の地の和歌山県の湯浅町を訪れた。和歌山駅から紀勢線で40分ほどのところで、古い町並みが残っている。
ヤマサ醤油の記述によれば、醤油の元となるものを作ったのは、鎌倉時代、紀州由良(現在の和歌山県日高郡)の興国寺の僧であった覚心だといわれている。覚心が中国で覚えた径山寺味噌(金山寺味噌)の製法を紀州湯浅の村民に教えている時に、仕込みを間違えて偶然出来上がったものが、今の「たまり醤油」の原型だったとのこと。 ヤマサ醤油を創業した初代濱口儀兵衛は、醤油発祥の地である紀州湯浅の隣りの広村(現広川町)の出身で、濱口家の家長は代々、紀州広村にある本家と銚子を行き来していたという。
醤油の発祥の地と言われる湯浅町は、古い家並みが比較的よく残されている。家の軒下には、野口雨情の詩を記した行灯等も配置され、町の風情を温存しようとの意志が見受けられる。
歩いていると、「甚風呂」という名の幕末から昭和の終わりまで4代に亘り営業していた大衆風呂があった。屋号は「戎湯」というが、経営者の名前から「甚風呂」と呼ばれていたとのこと。中にはレトロな感じの浴槽があり、元の住居部分は、古い道具類の展示館として使用されていた。
「甚風呂」の近くに湯浅まちなみ交流館があり、中に入ると温かいお茶の無料サービスがあり、冷えた体にはありがたかった。また、色々な情報が聞けて、町の案内図等も頂いた。
伺った情報により、町並みの保存地域に向かうと、天保12年(1841)創業の角長があり、「醤油のふるさと手作り醤油」の大きな看板が掛かっていた。保存地域の北町通りを進むと、「北町ふれあいギャラリー」があり、立派なお雛様が展示されていた。
北町通りを進んで鍛冶町通りに突き当たるところに、麹屋の屋号で麹の製造販売をしていた津浦家の建物がある。この家屋は明治11年の建築とのこと。
鍛冶町通りを南に300mほど進むと、左手に「深専寺」があり、その山門横に「大地震津なみ心え之記」と書かれた碑がある。嘉永7年(安政元年・1854年)11月4日(新暦12月24日)の「安政東海地震」(M8.4)とその32時間後の「安政南海地震」(M8.4)が連続して和歌山を襲った。強烈な揺れを繰り返し、ついには、ここ湯浅地区や隣町の広村も大きな津波に襲われた。地震発生2年後、安政三年、深専寺住職善徴上人(承空上人)の代にこの碑が建立された。碑文の概要を記すと、
「昔からの言い伝えによると、井戸の水が減ったり、濁ったりすると津波が起こる前兆であるというが、今回(嘉永七年)の地震の時は、井戸の水は減りも濁りもしなかった。 そうであるとすれば、井戸水の増減などにかかわらず、今後万一、地震が起これば、火の用心をして、その上、津波が押し寄せてくるものと考え、絶対に浜辺や川筋に逃げず、この深専寺の門前を通って東へと向い、天神山の方へ逃げること」とある。
お寺は、奈良時代には行基の開祖による海雲院という寺院として創建されたとされるが、南北朝時代、寛正3年(南北朝時代、1462年(寛正3年)または1431年(永享3年)頃に、荒廃していた海雲院を、赤松則村の曾孫である明秀上人が、浄土宗西山派の教えを持って「深専寺」と改称し再興した。また永享3年(1431)頃に、荒廃していた海雲院を、赤松則村の曾孫である明秀上人が、浄土宗西山派の教えを持って「深専寺」と改称し再興した。境内には小さいながらも石庭があり、清浄感のあるものであった。
道町通りと寺町道りの交差点に立石の道標がある。この道町通りが昔の熊野古道であり、この地点が熊野古道と高野山への道の分岐点であったことを示している。
東面には頭に指で北を指した図が彫られ「きみゐでら」(紀三井寺)の文字。北面には「すぐ熊野道」の文字。「すぐ」というのは「近い」と言う意味ではなく、「まっすぐ」と言う意味である。南面には「いせかうや右」(伊勢・高野山は右へ)の文字がある。
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