2008.06.15
十二兼から大妻籠・・・(中山道)
本日の万歩計52,351(35.1Km)・・・十二兼から中津川までの歩数
昨日宿泊した中津川から電車で十二兼に7時12分に戻ってきて歩き始めた。しばらく進むと、柿其渓谷(かきぞれけいこく)へ渡る「柿其橋」が木曽川に架かっている。この橋を渡ることは無いが、中央付近まで進み木曽川の景観を見物する。
この辺りの木曽川は「南目覚」と呼ばれているらしいが、なるほど「寝覚の床」の景観に似ている。白い花崗岩と青い水の対比が美しい。
さて、国道に合流して進むが、これから一里ほどは「羅天の桟道(らてんのさんどう)」と言われた、木曽路屈指の難所であったところである。木曽路名所図会にも、「道は深き木曽川に沿い狭きところは木を切り渡し、つた・かづらをからめてその巾をおぎない・・・」とあるとのこと。しかし、現在では近代土木工事の技術の成果として、全く危なげなく大型車がうなりを上げて走る国道となっている。歩くにはつらい道である。
3Kmほど進むと国道と木曽川の間に数軒の家がある。「金知屋(かなちや)」という集落である。これを過ぎると、国道から左に外れ、県道264に入って行く。車もめったに通らず、樹木の緑も美しく、国道に比べると極楽である。
この辺りは今は南木曽町であるが、かつては「読書村(よみかきむら」であり、今も地域名としては残っている。この名前は、左手の方が与川村(よ)、向かっているのが三留村(み)、木曽川の向こう側が柿其村(かき)であったため、この三村が明治7年に合併して頭文字を取って「よ・み・かき」で「読書村」としたという。なかなか面白い命名である。
そして、三留宿である。連子格子の美しい家屋を見ながら進んで行く。
歩いて行くと、古い木の「蛇抜橋」。蛇抜とは、木曽地方では土石流を指し、梅雨時などに大雨になり、山津波に襲われることが、多々あり恐ろしいさも込めて蛇抜けと呼んだのであろう。それにしても、この橋の下を流れる沢は、恐ろしい災害をもたらしたとは思えないほど小さな流れであった。
木の橋も相当老朽化しているように見え、車が通るのに耐えられるのが不思議だと思ったが、橋の下は鉄骨で補強されているようだ。
三留宿も終わりに近づくと、右手に木材の集積所がある。そして、南木曽駅を通過する。
駅を過ぎると、薮原にもあったD51の蒸気機関車を展示したSL公園がある。何故木曽路はSLの展示が多いのであろうか。SL公園を過ぎて進んで行くと神戸(こうど)の集落があり、どの家も庭木が美しい。
神戸を過ぎると、「振り袖の松」がある。木曽義仲が弓を射ろうとしたが、松の木の枝がじゃまになったので、巴御前が振り袖の袖を振って木の枝を払ったとか。何とも、荒唐無稽な話しだが、木曽の人々は木曽義仲と巴御前をよほど敬っていたのだろう。
そして、直ぐ近くに木曽義仲が創建した「かぶと観音」がある。「木曾義仲が、平家追討のため、北陸道から上京するとき、木曾谷の南の押さえとして妻籠城を築き、その鬼門にあたるこの神戸の地に、祠を建てた。 その際、かぶとのてっぺんに飾っていた安全祈願の八幡座の観音像を祭った」という。江戸時代に参勤交代で通り過ぎる大名も必ず御参りしたという、観音堂である。
「かぶと観音」を過ぎて、しばらく進むと石畳の道になる。道の両側の緑が心地よい。さほど長くない坂道を上りきると、上久保の一里塚がある。南木曾町には一里塚が4箇所あったが、原型を留めている一里塚はここだけで、草が茂って少し分かり難いが、見事に道の両側に残っている。
本当に緑が美しい。このような道なら、幾らでも歩けると思いながら進んで行くと、今は廃墟と化した「しろやま茶屋」があり、直ぐ横が「妻籠城跡」への上り口である。
誰も城跡には上らず真っ直ぐ妻籠に向かうようであるが、上ると展望がよいと分かっていたので、竹林と林の道を上ることにした。築城は室町時代のようだが、誰が築いたかは分からないとのこと。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、木曽義昌の家臣の山村甚兵衛良勝がここに籠もって徳川軍を防いだという。典型的な山城で、掘割も何箇所か残っている。
最後の上りは、きつかったが頂上の城跡は広場になっていて、講の石碑などが建ち、期待通り妻籠宿が一望できた。
妻籠城跡上り口まで戻り、妻籠への道を進むと直ぐに「妻籠の入り口」で家屋が数軒建っている。ここには、有名な「鯉ケ岩」がある。明治24年の大地震で形が変わり、鯉らしくなくなり、しかも蔓が茂って、少しも鯉には見えない。しかし、この地域の名前の「恋野」という粋な名前も、この「鯉ケ岩」から来たと言われている。
いよいよ、街の中心に向かう。まず高札場である。高札場は旅人に読ませるのが主目的か、宿の入り口、出口付近に設けられている。入ってゆくと素晴らしい宿である。1軒の店に入り、コーヒーと五平餅を食べて休息しているときに聞いたのだが、妻籠は貧しくて誰も新しい家を建てることができず、古い家屋のまま我慢して住み続けていたのが幸いして、保存地域に指定され古い家をそのままの形で整備できた。しかし、保存地域となると、自分の家でも改修などは出来ず、快適な住まいとは言い難いと話されていた。たしかに、旅行者にはよくても、実際に住むとなると不便なことも多いであろうことは、想像に難くない。
島崎藤村の母ぬいが生まれ、次兄の島崎広助が養子に来て最後の主人となった、妻籠本陣である。そもそも、妻籠と馬籠の本陣は同族で遠く三浦氏の出であると「夜明け前」にも書かれている。上がりかまち、玄関の間、上段の間等々を見学した。
本陣と道路を隔てた向い側には「脇本陣」があり、合わせて見学した。明治10年に建設された、総檜作りで国の重要文化財に指定されている見事な建物で貴重なものである。脇本陣は問屋も勤め、「奥谷」の屋号で現在も酒造業を行っている林家が営んでいた。馬籠の酒造業の「大黒屋」の娘で島崎藤村の初恋の人と言われる、おゆふさんの嫁ぎ先でもある。島崎藤村がおゆふさんに贈った詩なども飾られていて、縁側からは妻籠城のあった城山も良く見える。案内してくれるおばさんの解説が面白く見事である。
妻籠の郵便局は流石に江戸時代の遺構では無いであろうが、街並にマッチした建物で、郵便ポストも「夜明け前」に描かれている当時のものを再現したもの。ただし、材質は金属(鉄)になっている。
進むと、道は枡形に入って行く。
宿の街並みはまだまだ続くが、桧笠屋さんがあった。帽子と違って頭に密着しないのでとても涼しいという。欲しかったが、これをかぶって街道を歩く勇気が無く断念した。釣りをする人は買っていた。
妻籠を過ぎて、次は間の宿(あいのしゅく)の「大妻籠」に向かう。大妻橋を渡って樹林帯の中を上って行くと神明集落があり「大妻籠」の大きな看板が現れる。
さらに進むと民宿を営んでいる立派な家3軒続いている。大妻籠である。このなかで「つたむらや」は秋篠宮様、紀子さまが独身時代に友人と訪れ宿泊されたところである。宮様が来るというので、慌てて水洗トイレに改修したそうである。
大妻籠の最後には大きな塚があり、頂上付近には庚申塔が見える。一里塚であった塚である。そして、直ぐ側には民宿の「こおしんづか」がある。
さて、これ以降は馬籠に向かう道を歩むことになる。
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