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2007.09.16

池鯉鮒(知立)から宮・・・(旧東海道)

本日の万歩計41,630(27.43Km)
昨日は疲れて、9時頃には寝たので、5時に目覚め5時30分にホテルを出て、名古屋の金山駅に向かうと、駅に着く直前で激しく雨が降ってきて、今日の多難を予感させた。ともかくコーヒーで簡単な朝食をとり、名鉄で知立に向かうが、知立駅に着いたときは、今にも降りそうな空模様だが、ともかく雨は止んでいた。
歩き始めに雨が降っていると気勢をそがれるので、まずは良かった。
最初に出くわしたのは、知立城跡。いまは子供の遊び場の小公園になっている。そして、突き当たりに、了運寺。階上が鐘楼になった門が珍しい。
chiryu_01.jpgchiryu_02.jpgchiryu_03.jpg知立神社に立ち寄ろうとして、横道にそれて行くと、知立公園があり、明治神宮からいただいたという「花菖蒲」が一面に植えられていた。明治天皇ならびに昭憲皇太后御遺愛の名品種が60種類あるとのこと。開花期にはさどかし綺麗だろうと思われる。
chiryu_05.jpgそして、知立神社。当日の午後3時からお祭りのようで、鉢巻を締めた若衆が大勢詰め掛けていた。
多宝塔も、美しい曲線を見せ、「池鯉鮒」の語源となった太鼓橋の架かった池が見える。水が富栄養化しているためか、黄緑色に濁っていて池の鯉が可哀想だ。何とかする必要があるのではなかろうか。
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次に家康の側室の「お万の方」の生誕地といわれる「総持寺」があった。境内には「水子地蔵」があり、地蔵に水を掛けると、「水琴窟」になっていて、綺麗な音がかすかに聞こえるようになっていた。
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そして、「逢妻橋」を渡ると、しばらくして国指定史跡の「阿野一里塚」。
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阿野の一里塚を過ぎて以降は、尾張と三河の境に架けられた「境橋」以外は、さしたるイベントもなく、ひたすら「中京競馬場駅」に向かって歩き続ける。
駅に近づくと「桶狭間の古戦場」があり、小公園になっていて「今川義元の墓」もある。
今川義元の墓というと、「鳴海城」に陣取って頑張っていた今川家臣の岡部元信が信長に城を明け渡して首を返してもらい、駿河に持ち帰り、雪斎が住職であった、今川家菩提寺の臨済寺に葬ったので、こちらが本当の墓所で桶狭間は、残された首の無い胴体を葬ったのであろうと思っていた。
しかし、義元の胴体は家来が持ち帰ろうとしたが、腐敗が進み三河国宝飯郡(愛知県豊川市牛久保町)の大聖寺に胴塚として埋葬され、いまも胴塚は存在する。
また、墓所も豊明市の高徳院、東京都杉並区の観泉寺にもある。この古戦場、臨済寺と合わせると4ケ所となり訳がわからない。
chiryu_10.jpgchiryu_11.jpgchiryu_12.jpg古戦場跡の公園の隣には「高徳院」と言うお寺があり、こちらも今川義元本陣跡、古戦場跡と宣伝されていた。
このお寺は弘法大師の建立とのことだが、国道には派手な案内板、山門の派手さからあまり良い印象をもてなかったが、境内に入ってみると落ち着いた雰囲気のお寺であった。

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桶狭間を過ぎて、しばらくして国道を過ぎり、有松に入って行く。鳴海の宿の手前1里の有松村は尾張藩の保護を受けた有松絞りで栄えたところで、立派な構えの家が多く、町並みの保存地区でもある。
この、絞りは現在にも続いていて、今も絞りで作った衣料品を扱う店があり、問屋も存在する。また、軒先に「ありまつ」の暖簾を掛けることを統一して行っているようだ。
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有松を過ぎて進んで行き、扇川に架かる中島橋を渡って鳴海の宿に入る。
まず最初に、みごとな建築の瑞泉寺。そして、芭蕉供養等のある誓願寺。
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瑞泉寺の前を通って少し坂道を上った右側に鳴海城跡がある。今は、鳴海城の守り神であった天神社となっている。ここにも芭蕉の「京までは まだ中空や 雪の雲」の句碑があった。
chiryu_23.jpgchiryu_24.jpgchiryu_25.jpgその後、しばらく特徴の無い町並みを進み、「本笠寺」が近づいたとき「笠寺一里塚」に出会った。
とても立派な一里塚であった。中心に植えられた榎の木はうろが出来、元気がなくなっていたのを地元で200万円掛けて、穴をふさぐ施術を行い、蘇ったのだという。確かに樹勢も強く、一杯に葉を茂らせている。
しばらく進むと、まず正面に多宝塔が見えてきたが、玉照姫で有名な笠寺観音である。当日はお祭りで境内には屋台も出て賑わっていた。
寺の由来を簡単に紹介すると、笠寺観音はもと小松寺といい、天平五年(733)浜に流れ着いた霊木に僧禅光が十一面観音像を刻み、小堂を建てて安置したことに始まる。その後荒廃し、観音像が雨露にさらされているのを見た土地の娘が自らの笠をかぶせた。このとき、通りかかった藤原兼平が雨に濡れて立っている美しい娘を見て、訳を聞きその優しさに心を打たれて都に連れ帰り妻とする。この後、彼女は玉照姫と呼ばれるようになる。
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笠寺観音には、本堂以外に美しい多宝塔、藤原兼平、玉照姫夫婦のお堂などなど沢山のお堂があり、宮元武蔵の碑まである。
それにしても、関白藤原基経の息子の兼平が、名も無い娘であった玉照姫の付属品扱いなのが面白い。
chiryu_29.jpgchiryu_28.jpgchiryu_30.jpgさすがに、お腹が空いてきた。今日の食事は¥980-の蕎麦、天婦羅定食だ。やはり、この値段でこのボリュームはお値打ちだ。味もなかなか美味しかった。
chiryu_31.jpg いよいよ名古屋市街に入ってきた。伝馬町のアーチ状の飾りにも旧東海道の文字が入っていて、ここが、かつての東海道のメインストリートであることを主張している。それにしても車の走る大通りと較べて、なんと静かなことか。雨が激しく降ってきたが、10分ほどで止んだ。
そして、終に「七里の渡し跡」に到着した。常夜灯と時の鐘の鐘楼が建っている。時間は午後3時近くだった。
東屋のような休憩所も建っていて、街道歩きの人達が5人ほどが、たどり着いた感想などを述べながら歓談していた。残念ながら「七里の渡し跡」がある「堀川」は、汚染が酷く少し匂う。
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日本橋を出発して、やっとここまで来た。京がぐっと近づいた感じがした。
しかし、先にも述べたが2ケ月半のブランクと2日連続の歩行は厳しいものがあった。お昼には着けると思っていたが、だいぶ遅れた。もう、駅の階段の上り下りも辛い状態であった。 なんとか地下鉄で名古屋駅に辿り着き、新幹線の新横浜停車の「のぞみ」16:04発で帰宅の途についた。


コメント

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「藤原兼平が玉照姫の付属品扱い」という表記は,お寺様に対して不適切であろう。高力猿候庵の著作「笠寺宝塔出現絵詞伝」(尾張名所図絵より古い)
によれば,笠寺観音が戦後,世襲制になるずっと以前に塔頭寺院の一つであった泉増院の第七世,實道上人が,藤原兼平像とともに玉照姫像を造立し,笠寺観音の大願主「藤原兼平」像を出開帳している様子がくわしく描かれている。詳しく聞き取り等せずに,冒頭のような記述は,避けたいものである。

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