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2018.03.27

奥谷から水戸城下

水戸駅前のホテルで宿泊して朝食を済ませ、7時18分発の奥ノ谷坂上行のバスに乗り、昨日歩き終えた奥ノ谷のバス停まで引き返し、今日で最後となる水戸街道歩きをスタートした。
歩き始めると直ぐに涸沼川(ひぬまがわ)があり、架かっている高橋を渡る。
進んで小鶴の交差点で、左に進み小鶴の集落へ入って行くと、亀甲模様のなまこ壁の蔵が目を引く佐久間米店がある。
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その次には「こどもや」の看板のお店がある。昭和3年建築で郷愁をそそられる。
その次は、江戸時代の創業という老舗旅館の中多屋である。
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その先の左手の小山の上には、村社の諏訪神社がある。その隣には如意輪寺。本尊は如意輪観音像で、徳川光圀の寄進といわれているとのこと。
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涸沼前川(ひぬまがわ)に架かる長岡橋を渡ると長岡の集落である。ここには、長岡名物のみそまんじゅうを作る藤屋製菓がある。
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街道は上り坂となって続いていて、上りきると、茨城県指定文化財の木村家住宅がある。木村家は戦国時代からこの地に住み、江戸時代には脇本陣・問屋・庄屋を務めた名家とのこと。残念ながら早朝のため、門も閉じられたままであり、塀の上部から写真撮影辛うじて行った。
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木村家住宅を過ぎて、1.5Kmほど進むと街道は水戸バイパスに合流し、更に進むと北関東自動車道のインターチェンジを越えることになる。2つの歩道橋を跨いで通過することになった。通り過ぎて少し進むと水戸街道は水戸バイパスと左に分かれるが、街路樹として植えられている桜は、まだチラホラ咲きの状態であった。
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進んで吉沢町交差点で、更に右に別れると熱田神社がある。3Kmほど見るべきものもなくひたすら歩く。すると右手方向に天神社があった。
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更に、!Km程先には、元吉田の一里塚がある。形は崩れているが、榎の大木が保存樹として守られている。
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次に水戸倍バイパスを横切ると、金山稲荷神社がある。
その後、枡形を2度曲がって進むと、左側に長い参道を持つ天台宗の薬王院の赤い山門が見えてくる。仁王門と呼ばれる江戸時代建立の門で、県指定文化財である。
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仁王門は閉じられたままなので、右方向に回って本堂の前に出る。本堂は国指定重要文化財で全体的に唐様で享禄2年(1529)の建立で入母屋造りの端正な造りである。本堂に向かって右方向には、回向堂、書院、客殿があり法要などに使用しているとのこと。
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街道に戻り進むと、左側に清巌寺がある。大永元年(1521)に常福寺の八世空誉上人が久慈郡新宿村(現常陸太田市誉田)の地に開基したといわれ、その後、火災に遭い焼失し、文禄3年(1594)に現在の地に移ってきたといわれる。さらに進むと五差路に差し掛かるがその先は藤柄坂で、下って信号のある交差点の左側に長い石段が見えてくる。上ると日本武尊命を祀る吉田神社がある。境内の枝垂れ桜が美しく咲き誇っていた。
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歩行ルートを示す地図を作成してプリントしたのを頼りに備前堀に向かって進む。金刀比羅神社を見て右折すると直ぐに銷魂橋(たまげばし)である。
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橋を渡ると江戸街道起点の石碑が立っていた。備前堀に枝を差し伸べている桜もあと一息で見頃となる様子であった。なお、ここの橋は元々は軒町橋と呼ばれていたのを光圀公が銷魂橋(たまげばし)と命名したとのこと。
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銷魂橋を渡ると、水戸街道の踏破完了であるが、少し足を伸ばして、次の信号を右折する。ここの通りは近年ハミングロードと呼ばれており、本町一丁目から二丁目へと進んで行く。途中路地を右に入ると水戸光圀公ゆかりの能化稲荷神社がある。商店街の中には江戸(水戸)街道宿場跡の新しい石碑が立っていた。
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ハミングロードは本町二丁目と三丁目の境界にある交差点で終わるが、街道はここから岩城相馬街道となって続いている。小さな陸前浜街道起点碑が立っていたのであるが、目にしていても小さい石碑で起点碑であることを見逃してしまった。それにしても全く趣の感じられない交差点であった。ここから、水戸駅の方に進み駅前の歩道広場に建つ水戸黄門と助さん角さんの像をカメラに収めて、終結とした。

2018.03.26

石岡から奥谷

本日の歩行距離20Km(石岡から奥谷)
水戸街道歩きは、昨年11月22日から冬の間はお休みしていたが、ようやく桜も咲き暖かくなってきたので再開した。
9時4分に石岡駅に到着して、駅前通りを旧街道に向かって歩き始めた。

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国府三丁目の丁字路で右折するが、ここで少し道をそれて浄土宗照光寺に立ち寄った。このお寺には、常陸府中藩主松平家墓所がある。府中松平家は初代水戸藩主徳川頼房の五男頼隆を祖として2万石を与えられ、水戸徳川家の分家四藩(高松・守山・宍戸・府中)の一つであり、十代頼策のときに明治維新を迎えたのである。
北に進んで国分町府中3丁目で右折して、常磐線を跨線橋で越えると県道両脇の歩道には、水戸街道の各宿場を紹介したタイルが路面に設置されていた。
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進むと江戸から23里めの石岡の一里塚があった。道路工事で削られているが、道の両側に残っているのは多くはない。
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一里塚を過ぎて、県道を進むと左側に日本刀研磨と書かれた家が目についた。いわゆる日本刀の研ぎ師の店であろうか。初めて見る店である。
その後2Kmほど進むと行里川の集落で不動尊の小振りのお堂が建っていた。
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不動尊の先には、とても立派な長屋門の家があった。水戸街道を歩いていると長屋門をよく見かけるが、ここのは特に立派であった。
その先で園部川を郡橋で渡る。
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進んで、竹原宿に入って行くと竹原神社がある。小振りな神社ながら神輿(みこし)があり、総欅造りで美術工芸品として価値も高く、毎年7月下旬に行われるアワアワ祇園という祭礼時に繰り出されるという。
T字路の竹原交差点に突き当り左折して進んで行く。一里塚跡も残っておらず、2Kmほど進んで中野谷の集落に入って行くと馬頭観音と地蔵が立っていた。
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少し先には、「北辰一刀流 故大貫先生政成之碑」と刻まれる石碑が建っていた。北辰一刀流と言えば流祖は千葉周作で水戸藩に召し抱えられ弘道館で教授していたが、ここの碑の大貫先生も免許皆伝に達した人物であろうか。
歩いて行くと道端に石仏が散見される。
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堅倉集落を進むと、加藤家の復旧門が建っている。元治元年(1864)加藤家は名主職を勤めていた関係で水戸天狗党により母屋と門が焼き討ちにあい、門の前柱2本を残し焼失してしまった。歴史を残すため焼残った柱二本を使用して復旧したそうである。下の右の写真は、焼き討ち後に建てられた加藤家である。
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T字路で左折する角に”旅館かと家”がある。角屋の屋号で江戸時代末期にはここで旅籠を営んでいたが、現在この建物は使われておらず、国道沿いの新館で旅館業を続けている。近年になって作られたとみられる双体の道祖神も見受けられた。
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小岩井の集落に入って行くと、また石仏があり、西郷地に入ると石船神社がある。元禄期から大正にかけて、村内の色々な神社が合祀された神社とのこと。
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西郷地北端に西郷地小学校跡がある。明治10年(1877)小幡法円寺の寺である広諦寺本堂を校舎として西郷地小学校は開校したが、明治19年(1886)堅倉小学校に合併して廃校となった。その先で右側に続く参道をたどると山中薬師堂がある。建築年代は不詳だが、水戸吉田町の薬王院と建築様式が類似しているという。安置される二体の仁王像はこの地にあった広諦寺山門のもので、明治末期の火災の際に搬出されて難を逃れたとのこと。
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小幡宿に差し掛かったところの林の中に石段と愛宕神社のお社が見えてくる。愛宕神社は防火の神様であるが、戦国時代に小幡城主が奨励したという伝統芸能”小幡ひょとこばやし”の発祥地とのこと。
その先すぐに方圓寺がある。水戸藩主の専用宿泊所であったとのこと。
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法園寺から1.5Kmほど進むと街道は国道6号線に合流するが、その合流点の手前に鳥居がありその脇に青龍大権現の石碑が建っていた。高台の方にコンクリートの道が通じているので上ってみると石造りの祠が祀られていた。
6号線を少し進むと千貫桜碑と千貫桜歌碑が建っていた。それによると、かつてこの地に桜の巨樹があり、義公(水戸光圀)が終日めでて「千貫の価値がある」と賞賛したと言う。現在はその桜の木は枯死してしまったが、当時のことを偲んでこの地を千貫桜と呼んでいるとのこと。
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千眼桜の碑を見終わって時計を見ると15時16分であった。今日は、奥ノ谷から関鉄バスで水戸駅に向かって駅前で一泊の予定である。奥ノ谷バス停は3Kmほど先であるので、特に歴史的な遺構も見られないのでひたすら歩く。冬の期間お休みしていたので足の疲れも募って来たが、16時に奥ノ谷バス停に着き、16時10分のバスに無事乗ることができた。