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2017.11.22

土浦から石岡

本日の歩行距離22Km(土浦から石岡)

11月22日の朝はとても寒く、寒さ対策をして8時41分に電車で土浦に着いた。直ぐに前回に街道より離脱した大町の交差点に向かって進む。途中には土浦のかつてのお城の規模をうかがわせる南門跡の新しい石碑が立っていた。
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大町の交差点から大手町方向に進むと直ぐ右に鍵の手に曲がっており、突き当りの奥には東光寺がある。本尊は大日如来で慶長12年(1607)に心庵春伝によって開山されたと伝えられている。 境内には元文4年(1739)に建てられた市の重要文化財指定の瑠璃光殿と呼ばれる朱塗り薬師堂がある。本堂裏の墓地には華岡青洲に学び土浦藩主の侍医を勤めた辻元順の墓がある。
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街道に戻り少し進むと右手に等覚寺がある。元は常陸藤沢にあった藤沢山三教閣極楽寺で、その開基は了信と伝えられている。 慶長10年(1605)に現在地に移り、寺号を蓮光山正定聚院(しょうじょうじゅいん)等覚寺とと改められた。本堂に向かうには市指定名木・古木の等覚寺のクロマツの下を通って行く。
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境内には市指定文化財の鐘楼があり、その中の銅鐘は、常陸三古鐘のひとつに数えられていて国指定重要文化財である。
tsuchiura_07.jpg建永年間(1206~07)に小田氏の祖八田知家が極楽寺に寄進したもので関東に現存する最古の梵鐘といわれている。 銘文の「大将軍」の文字は、知家の主君である源頼朝を指しているものと思われている。 また、梵鐘はかつて土浦城内にあり、代々時の鐘として用いられていたという。

再び枡形を通り抜けて進むと右側に明治初期に創業した老舗の蕎麦屋の吾妻庵がある。そして、最近改修された矢口家住宅。土浦では天保12年(1841)9月12日の大火後、町屋に十蔵造りと瓦葺屋根が出現し、矢口家住宅はその代表的な建物である。
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次には江戸時代末期に造られた、まちかど蔵「大徳」が右手にあり、改修されて観光情報を提供する街のアンテナショップとして利用されている。土浦市出身の高安関の旗も見える。街道を挟んだ向かい側には、まちかど蔵「野村」があり、軽食もとれるコーヒーショップとなっている。
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進んで駅前通りとの交差点の角には明治2年(1869)創業の保立食堂がある。駅前通りは今は埋められてしまったが、かつては川口川で水戸街道と交差する櫻橋西袂に位置し、その地の利から大いに繁盛したという。現在はひらがなで「ほたて食堂」と名乗っているが、その角にはかつてここに架かっていた桜橋の親柱が残されていた。
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街道から少し離れ、駅前通りを北に進み、土浦城跡の亀城(きじょう)公園に向かった。もう元の城の建物はほとんど残っていないが、二の丸入口にあたる二之門跡に建つ旧前川口門を潜った。中では老人達がゲートボールに興じていて、2階に大太鼓を置いて定時に打ち鳴らしたことから太鼓門とも太鼓櫓とも称される櫓門を見ることができた。櫓門は明暦2年(1656)に本丸楼門を改築したもので、関東地方に残る城郭建築の遺構としては最古の部類に入るとのこと。なお、土浦は度々水害に遭っているが、その際にも城は水没することがなく、水に浮かぶ亀の甲羅のように見えたことから亀城(きじょう)とも呼ばれるに至った由。
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tsuchiura_15.jpg元の街道に復帰して進み、突き当たって左に曲がり北上する。800mほど進むと街道は突き当たって左に曲がる。ここには月読神社(つくよみじんじゃ)がある。祭神は「神月夜見尊・つくよみのみこと」で「闇に光を届け人々を導く神様」である。その先で右折したあたりが、城の北門があったところで、城の規模が推定される。

その先の橋が新川(あらかわ)に架かる新川橋で、ここを渡ると真鍋宿に入って行く。
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街道を進むと真鍋宿の通りで、途中から真鍋坂となり、上って行くと善應寺がある。真言宗豊山派のお寺で本尊は大日如来であり、創建は南北朝時代頃とされる。 土浦城から北東の方角に当たる為、鬼門鎮護の寺院として庇護され 寛文10年(1670)に土浦城主土屋数直が観音像を寄進している。山門をくぐると観音堂がある。
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観音堂の右手奥には本堂があり、左手の石段を下ったところに照井の井戸がある。照井は寺の山号にもなっていて、古くから豊富な水量を誇る井戸で、寛文年間(1661~1672)に土浦城中へ通ずる上水道が設置され、飲料水の供給源として利用された。今も付近の人達がペットボトルを何本も携え水を汲みに来ている。飲んでみたが美味しい水であった。
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善應寺の先で街道は県道125号線合流し、少し先の右手に土浦一高がある。敷地内には、明治期の数少ないゴシック様式の木造洋風建築の旧土浦中学校本館があり、設計者は辰野金吾に師事した駒杵謹治という建築家で昭和51年(1976)旧制中学校校舎としては全国で初めて国重要文化財に指定されたというが、現在改修中で見ることはできなかった。街道は1Kmほど先で県道と分かれて右に進む。ここから1.5Kmほどは、板谷の松並木が続く。
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途中には江戸から20番目の板谷の一里塚が残されている。右側は、一里塚の中央に植えられている榎の木が無くなって盛り土のみ残っていた。
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再び県道と合流して進み、その先で土浦バイパスを跨道橋(こどうきょう)で跨ぐと中貫宿に入って行く。最初に出会うのは鹿島八坂神社であった。延喜元年(901)創建と伝えられる。
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次は左側に安穏寺(あんのんじ)である。鎌倉時代の文治元年(1185)開基という。
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境内の植木が綺麗に色づいていた。
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安穏寺を出て直ぐ右手に中貫宿本陣がある。本橋家が務めた本陣で、宿泊ではなく休憩のための本陣だった。元治元年(1864)水戸藩の尊皇攘夷激派・天狗党に焼打ちされたがすぐに再建されたもので、当初は萱葺きだったが今は銅版で覆われている。現在も民家として使われているため、内部の見学はできない。
しかし、住んでおられるお婆さんがお墓参りに出てこられたので、昭和12年ころ2里離れた女学校に自転車で通ったなどのお話を伺うことができた。
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中貫宿は立派門構えの家が多いが、その外れ付近に馬頭観音の石碑が建っていた。風化して文字は読み難いが、明治38年(1905)の建立。先で国道6号線に合流すると左側に小さな厳島神社があった。
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国道6号線は流石に車の通行が多い。2Kmほど進んで、お昼も近しと昼食をとり、進むとようやく右に旧街道の別れが見えてきて下稲吉の一里塚がある。国道6号の敷設による開削と拡張のため、標識がなければ一里塚とは気付かない状態であった。
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稲吉宿に入って行くと右手に坂本家住宅の稲吉宿本陣ある。ここも住居として使われているので内部は見学できない。道路を挟んだ対面に脇本陣があったということだが、今は取り壊されて痕跡は無い。
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その先には、旧旅籠皆川屋の木村家住宅がある。
tsuchiura_39.jpgかすみがうら市教育委員会の解説によると、江戸時代末期の建築で、桁行八間二階の総瓦葺という堂々たる構えをみせている。広い土間と板縁、上がりはなの階段、勝手、出格子、腰高障子、仕切り戸などが旅籠らしい。二階に上がると、客室の壁には墨痕も鮮やかに、遊びすぎて支払いに窮した思案の落書や愛しい女達の名前が記してあるのも面白い。旅籠「皆川屋」は水戸街道に残る唯一の旅籠とのこと。

稲吉宿の外れには、杉林の参道の長い香取神社がある。千葉県香取市の香取神宮が総本社である。境内には松尾芭蕉45歳の時の作句の歌碑があり、表面に「古の阿多利 眼爾見由類毛の皆涼し 者越翁」と芭蕉の句が刻まれ、裏には関 良可の「お那じ野耳 浅し婦可しや 風の雪」と刻まれています。関 良可は文化14年(1817)に角来村に生まれ、その後、下稲吉村に婿養子に来たとのこと。
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香取神社を後にして、天の川という小さな川まで下り、その後上り坂となって左にかすみがうら市役所を見て進む。周りにお店の一つもない田舎の真っ只中の市役所である。何もない田舎の道を1Kmほど進むと、十字路に観音寺がある。高野山真言宗のお寺である。山門の前には六地蔵。境内には観音堂、鐘楼もあり大きなお寺である。
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進んで国道6号に合流する。左の側道を進んで下に降りてトンネル潜って再び国道6号線の側道に出て常磐道をくぐると、左に階段がある。上ると、それ以上進むのが躊躇われるような雑木林の繁った小山があり、頂上に千代田の一里塚の石碑が建っていた。後で振り返って分かったことだが、国道6号の開削によって街道面は掘り下げられて、一里塚はちょっとした小山の状態になっているのであった。
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国道から別れて、市川集落を進んで1Kmほどで再び国道に合流し、恋瀬川を恋瀬橋で渡ると、府中宿(石岡市街)に入って行く。
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国道から別れ、県道35号を進み更に旧街道は左に別れる。坂道を上って行くと左に日天宮がある。直ぐに右折して県道に合流して進むと、左に清亮寺。府中藩の家老や郡奉行などの墓がある。
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次に金刀比羅神社がある。金刀比羅神社はは中世常陸国に勢力を得た常陸平氏の嫡流、大掾氏ゆかりの神社で古くは”森の社”と呼ばれた。文政10年(1827)讃岐国象頭山(香川県)の金刀比羅宮から御分霊を勧請して現社名とななった。その次には、昭和4年(1929)の大火で焼失を免れた江戸時代末期建築の商家の丁子屋がある。
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街道の右側には、大火後に再建された商家建築と看板建築の店舗が並ぶ。写真手前から福島屋砂糖店、久松商店、十七屋履物店でいずれも味のある佇まいである。
国府3丁目の交差点の少し手前の「パンとケーキの店ヴィオレ」の付近が府中宿本陣跡とのことだが、痕跡もない。そして、交差点を右折して真っ直ぐ進むと、石岡駅である。時刻は15時半。例によってカフェでしばし休息をとり、家路に着いた。
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2017.11.01

牛久から土浦

牛久駅から500mほど進み国道から直角に細い道を左に100mほど入ると薬師寺がある。真言宗 豊山派のお寺で入り口は狭いが境内は広い。弘仁7年(816)、徳一和尚の開基と伝えられているが、幕末のころより100年以上も無住となり荒廃した。しかし、不思議な御霊験により、現代に蘇ったという。蘇った経緯を明らかにしないことこそ不思議であるが、境内に入ると、右側に市指定文化財の宝篋印塔があり、正面には近年に金剛組の施工で建て替えられた立派な本蔵がある。

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薬師寺のあとは、短い一部分を除いてひたすら国道を進む。何とも味気ない歩行である。3Kmほども進んだであろうか、圏央道をくぐると、霞ヶ浦に注ぐ延長36.5kmの一級河川の小野川を渡る。渡る橋も小野川橋の名前である。川面を見ると、一級河川とは思えないのだが・・・。
進むと、ひたち野うしく駅に通じる学園西大通りを跨ぐ。なお、ひたち野うしく駅は筑波研究学園都市の研究所や高校・大学などつくば市方面の通学・通勤者の利用が主であったが、最近では駅周辺居住者の東京方面通勤が増えているとのこと。
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どこまでも続く国道歩き。なんとかならないかと思いながらも進むと、道路の右側に中根の一里塚、左に荒川沖一里塚がペアで残っている。江戸から17番目の一里塚であるが、道の両側にペアで残っているのは珍しいし、左右で呼び名が違う一里塚には始めてお目にかかった。
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一里塚を過ぎ約600m進むと、右手に妙興寺へ続く道がある。妙興寺はJR常磐線沿いにあり、山門の目の前が踏切になっている。静謐な境内は、心が癒やされる感じであった。
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ようやく、国道から離れて旧道を進む。荒川沖郵便局を過ぎると左側に茅葺きの家屋が見えてきた。元旅籠の佐野屋である。さらに、その先にも茅葺屋根。調べると鶴町たばこ店とのことであったが、営業しているようには見えなかった。
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荒川沖を過ぎて、3Kmほどは国道と旧道を交互に歩く。途中で中村宿を通り過ぎるが、これと言った歴史的な遺構を見ることもない。ようやく国道354号線にぶつかり、これを横切り花室川に架かる大川橋を渡る。歩道もない小さな橋だが交通量が多く要注意。花室川は大川橋から約5㎞先で霞ヶ浦の西側に注いでいる川である。
大川橋から100mほど進むと、左側に長い参道が見えてくる。
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奥に見えるのは真言宗 豊山派大聖寺(だいしょうじ)である。山門は薬医門型式で貞亨2年(1685)、土浦城主松平信興の寄進で、次の四脚門は茅葺きであった。
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大聖寺の来歴は平安時代まで遡る。一条天皇の御代、長徳元年(955)に醍醐寺成尊僧都により「今泉寺」として現在地より東約500m先の永国の中央、亀井墓地近辺に開山されたのが縁起だと伝えられている。北関東三十六不動尊霊場の三十一番札所となっており、納経所、売店もある立派なお寺である。御朱印はご本尊である「羽黒不動尊」とのこと。また、境内にある笠松は、高さ2.8m、葉張6.3m。土浦市指定名木・古木、樹種はクロマツで「大聖寺の笠松」と呼ばれているとのこと。
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大聖寺から1KLmほど進むと、馬頭観音の古い石碑があった。ここが水戸街道と布施街道の分岐点で、石碑の横の道が布施街道だが、いまは行き止まりになっているとのこと。さらに1kmほど進むと、道路が左にカーブしていて愛宕神社の鳥居と急な階段が見えてくる。
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疲れた足にムチ打って急な階段を上ると茅葺屋根の本殿がある。平貞盛によって開かれたとされ、戦国時代になると菅谷氏が崇敬し、江戸時代になると土屋氏が崇敬した。
次に桜川を銭亀橋で渡る。桜川は、茨城県の南西部を流れ霞ヶ浦に流入する利根川水系の一級河川である。
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ushiku_20.jpg茨城県道24号線にぶつかり、時刻は午後5時近くであった。今日はここまでとして土浦駅に向かうこととした。しかし、駅まで1Kmほどあり、疲れた足を引きずるようにして駅にたどり着いた。例により駅構内の店でコーヒーを注文してしばし休息の後に帰路に着いた。

藤代から牛久

本日の歩行距離27Km(藤代から土浦)

11月1日の朝は、大変寒い朝であった。8時22分藤代着の電車で到着して、直ぐに出発した。天候は良く晴れて、駅舎にも太陽の光が注がれていた。直ぐに歩き始めて進むと、小貝川の堤防下に八坂神社がある。この辺りが江戸期には川の渡しの船着き場があったところである。
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堤防下の道を北に進み、現在の渡り手段の文巻橋(ふみまきばし)で小貝川を渡る。河川敷に設けられたゴルフ練習場は、先日の台風にともなう大雨で大きな水たまり状態と化している。橋を渡ると、龍ケ崎市に入って行く。
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国道を進んで小通幸谷(ことおりこうや)の信号で右に折れ、常磐線を跨線橋で跨いで進み、馴柴小学校入口の信号で左折すると、関鉄竜ヶ崎線の踏切がある。竜ヶ崎線は佐貫と竜ヶ崎を結ぶ単線でわずか4.5Kmで非電化気動車1両編成の運転の路線である。途中の駅は入地駅のみで、30分に一本程度の運行となっている。
先に進んだ丁字路には道標として古い石碑が建っていた。表面の摩耗が著しく刻まれた文字も読みにくいが、正面には「水戸」、左側には「布川」、右側には「江戸」の文字が見て取れた。説明の石板によれば、水戸には16里、布川3里、江戸13里と書かれているとのことであるが、距離の表示は読み取れなかった。
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fujishiro_07.jpg道標のある丁字路で北に進んで行く。途中の上り坂が左に大きく曲がるところに八坂神社がある。京都の八坂神社を総本社とし、素戔嗚尊(スサノオ)を祭神とする神社で、日本全国に約2300社ある神社であり、水戸街道にも幾つか存在する。

八坂神社を過ぎて左に折れると「若柴宿」である。立派な門構えの家が散見されるが、田舎の集落の道を進んで行く感じである。500mほど進むと、今度は道は大きく右に曲がるが、その曲がり角から金龍寺への参道が続いている。金龍寺は、そもそも元享元年(1321)に新田義貞によって群馬県に創建されたお寺であるが、義貞の死後、新田氏の流れを汲む岩松氏が義貞の菩提を弔って諸堂を修営し、寺観を整えたとされている。その後、天正18年(1590)年、義貞の子孫由良国繁が太田金山城から牛久に国替えになったとき、寺も一緒に移したが、天保年間(1830-1843)に火災に遭い、再建されたものが現在の本殿とのこと。
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fujishiro_10.jpg本蔵から左に廻って行くと、新田義貞、新田貞、由良國繁の新田3代の五輪塔の墓石が建っていた。
若柴宿は牛久沼の南岸を通る国道6号線の水戸街道からは、ずいぶん離れているが、江戸期には、牛久沼も現在より大きく、周辺には湿地帯が広がっていたためである。現在では、土地改良と水路の整備等で牛久沼の近くまでの土地が利用可能となった。しかし、通りがかった人の話では、土地改良にともなう水利権は、現在でもなかなかに微妙な問題とのことでした。

fujishiro_11.jpgさて、元の街道にもどって進むと、道路の左側に星宮神社(ほしのみやじんじゃ)がある。星宮神社は、延長2年(924)の正月13日に、肥後国八代郡八代(現熊本県八代市)から分霊勧請して祀ったものと伝えられている。この社の祭神は天御中主大神で、つまり全和全能の創造の神様で、大宇宙に最初に現れたあらゆる創造物の総元締めで、天の真ん中に位置する神様と言う事なのである。星宮神社の名前の所以は、天の真ん中で輝く北極星から採ったと考えられている。

田圃の中の道をひたすら歩き、途中から雑木林に挟まれた道を進むと遂に常磐線の踏切に到達する。国道も横切り、牛久宿に入って行くと、黒塀をめぐらした旧家、飯島家の門脇に明治天皇牛久行在所跡の碑が建っている。これは明治17年の明治天皇が牛久沼野南の開拓地の女化原(おなばけはら)に行幸の際の宿所を記念した碑で、牛久という片田舎に明治天皇が訪れたことを物語っている。当時としてはビッグトピックで、牛久から女化間の臨幸道の改修や牛久沼東岸の新道の建設などが行われたとのこと。
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明治天皇牛久行在所碑から100mほど先には正源寺(しょうげんじ)がある。縁起は戦国の世も終わり近づく文禄元年(1592)、当時の牛久城主の由良国繁公により戦で命を散らした人々の菩提を弔う為に七観音八薬師の一つとして創建され、約四百二十年の歴史を刻んできた曹洞宗のお寺である。鐘楼門と石造りの仁王様があり、境内には、推定樹齢400年の日本特産のトチノキがある。また、池波正太郎作品『鬼平犯科帳・雲竜剣』にも登場する。
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正源寺を過ぎると、時間は丁度お昼時であった。牛久駅の近くのレストランで昼食を摂り、しばしの休息を取ったのち、次の宿の荒川沖宿に向かうこととした。