2009.09.19

日本橋から成増(白子)

本日の万歩計39,777(25.9Km)

9月も中旬を過ぎ、気候も良くなってきたら日光街道を歩こうと思っていた。ところが、元の職場の同僚のM氏から、スポーツクラブのウォーキングマシーンでの歩行には飽きたとメールがあったので、2人で川越街道でを歩いてみようと誘い、今日、日本橋を7時30分にスタートした。
板橋を過ぎるまでは、中山道と共通で、これ以降の記述も中山道と重複するが、あえて簡単に記述しておくことにした。
東海道、中山道、甲州街道に続いて4回目の日本橋である。車が危険で、日本橋の橋のど真ん中にある「道路評元標」の撮影を避けて、橋のたもとにあるレプリカで済ませていたが、今回は車の途切れたのを見定めて本物の撮影に成功した。
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何時見ても、日本橋の上を塞ぐ高速道路が煩わしい。これが無ければ、ずいぶんと雰囲気も違ってくるのだが・・・。早朝で三越もひっそりしているが、この5連休での人出が気になるところであろう。
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「三浦按針」の屋敷跡の碑を探して、狭い通りに入って探したが見つからず、諦めて中央通りを真っ直ぐ神田駅のガードに向って進む。ガード下には、以前にも撮影した田中昭氏作の「健やかに」銅像があり、相変わらず汚れているのが気になる。
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やがて、中央通とも離れてなおも直進すると、JR中央線にぶつかり、右方向に曲がって進み「昌平橋」を渡る。JR中央線のレンガが美しい。橋の反対側では、何かテレビドラマか何かの撮影をしていた。
「昌平橋」を渡って左折して、最初信号を右折して「本郷通り」に出て進むと、道路の左側には「湯島聖堂」の長い塀が続いている。まだ時間が早く、門が閉まっていて、中には入れない。
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「湯島聖堂」を見学できないので、それではと「本郷通り」の反対側に出て、「神田明神」を訪れる。江戸鎮守の神社で、立派な本殿があり、その左には千代田区指定有形文化財の「石獅子」がる。江戸時代の珍しい石の建造物とのこと。
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神社の鳥居前には、まだ、開いていなかったが、あまざけを飲ませる風情のある茶店もある。
進んで、本郷三丁目の交差点にさしかかると、江戸の川柳に「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」と詠まれたという、ビルの名前にその名を残す「かねやす」がるあ。詳しくは中山道歩きで紹介したので、こちらをご覧頂きたい。
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本郷三丁目の交差点を過ぎると、しばらくして東大の赤門が見えてきて、その後も延々と東大の前の通りを進む。
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東大の農学部前の信号を左折するが、ここが「日光御成道」との追分である。そして、ここが中山道の最初の一里塚があった場所で、一里塚跡の案内板がひっそりと建てられていた。
ここからは、旧白山通りで進んで行って、白山一丁目の信号で、左の急坂を下って「円乗寺」に「八百屋お七」の墓を訪れる。井原西鶴の「好色五人女」で有名になったが、八百屋お七は寺小姓佐兵衛に会いたさに、火付けをして、鈴が森の刑場の露と消えたのは、中山道の道中記でも記したとおり。
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「白山上」の信号を過ぎると、同行のM氏の奥様が通われた「東洋大学」のキャンバスが見えてきて、大きな通りの現在の白山通りに合流する。そして、この通りを1Kmほど進むと、巣鴨駅である。
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おばあさんの原宿の呼び名で有名になった巣鴨の商店街の入口の左手には「真性寺」があり、江戸六地蔵の大きな地蔵さんが鎮座している筈が、以前の記憶と比べてずいぶんと小さいと思ったら、本物は京都で修復中とのこと。本物の写真と詳細説明は中山道の記述を参照されたい。
以前に訪れたときは店が開こうとしている最中であったが、今回は全ての店が開いていて、これから徐々に賑わいを見せると思われる状況であった。
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「とげぬき地蔵」として、すっかり有名になった「高岩寺」の山門には托鉢姿の僧が二人立っていた。
巣鴨の商店街が過ぎると、江戸時代は茶店も多く賑わったといわれる「庚申塚」。いまも、祀られている「猿田彦大神」にポツポツとお参りに人が訪れていた。
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直ぐに、都電・荒川線の線路にぶつかる。荒川区の三ノ輪と早稲田を結ぶ、東京では唯一つ残る路面電車である。まだ、乗ったことはないので、一度乗りたいと思っている。
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都電・荒川線の踏切を渡ると、商店街も急に静かになり、1Kmほどで埼京線にぶつかる。板橋駅の駅前にはこの地で処刑された近藤勇の銅像と、永倉新八が建立した「近藤勇と土方歳三」の大きな石碑がある。石碑を建立した永倉新八の石碑も、また後日建立されたようである。
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板橋駅を過ぎて、700mほどで国道と化した中山道にぶつかる。その上を首都高中央環状線が覆っている。国道を渡って東光寺に「宇喜田秀家」の墓を訪れる。
秀家は、関が原の戦いで破れた西軍の副将で、何とか前田利家らのとりなしで死罪はまぬがれ、八丈島に流されるが、子孫は命脈を保って明治になり、前田家を頼って、ここ前田家の菩提寺の東光寺に墓を建立する。宇喜田秀家の正室は前田利家の娘の豪姫であった縁で前田家を頼ったのであろう。なお、宇喜田家の子孫は明治になり東京に戻ったが、その後再び八丈島に移り、現在も秀家、豪姫の墓を守っているとのこと。
東光寺から元の国道に戻ると、ここが旧中山道と川越街道の追分で、右に行くのが中山道であり、川越街道は直進する。
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首都高から左に分かれて300mほど進み山手通りを過ぎると、「遊座大山商店街」に入ってゆく。約600mほどで東部東上線の踏み切りを渡ると、ハッピーロード大山のより一層賑やかなアーケードの商店街に入って行く。いまどき、これほどの賑わいを見せる商店街は珍しいのではなかろうか。
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ハッピーロードのアーケードを過ぎて、国道254号線に出て、150mほどで、また右に分かれて進むと、「下頭橋」があり、その手前の右側には、下頭橋の六地蔵も祀られている。「下頭橋」の名は参勤交代で川越城主を家来がここで送り迎えをして頭を下げたためとも、乞食の六蔵が死んで残したお金で橋が造られ、永年頭を地につけて貰い貯めたお金のおかげだと橋の名にしたとも言われている。
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「下頭橋」を渡って、左方向の道を進み国道254号線を1Kmほど進み、上板橋駅が近づいたところで、旧道は右に入って行く。上板橋駅の駅前の方向に進んで昼食をとる。ゆっくりと休憩して、旧川越街道に戻り、1Kmほどす進むと、浅間神社があり、富士山の溶岩を集めた富士塚がある。さらに進んで、東武練馬駅への分岐点の三角地帯には新しく整備されたらしい「北町観音堂」があった。
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1.5Kmほど進んで国道に合流して、ひたすら歩く。「地下鉄赤塚駅」手前には小さな武者の銅像があり、「鎌倉古道 至かまくら 至はやせ」と書かれていた。かつて存在した鎌倉への街道の断片なのであろう。さらに、1Kmほど国道を進むと、東部東上線の「成増駅」入口に達したので、時刻は14:30分であったが、歩き始めの初日でもあり、今日はここまでとして、駅ビルでコーヒを飲み休憩してから帰路に着いた。
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2009.09.23

成増から新河岸

今日は、不覚にも万歩計を忘れてきた。何歩歩いて何キロか分からない。地図上で大雑把にみると、前回とほぼ同じくらいか。
ともかく、約束の8時に東武東上線の「成増駅」に着き、早速駅前にある「うたの時計台」の前に立った。成増駅から少進むと「白子宿」で元々白子は「新羅」の転訛で、渡来人らが開いた土地とのことだが、童謡の作詞者の「清水かつら」が晩年を過したことから、それににちなんだ時計台である。
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いまでも、「叱られて」は歌える人は多いと思うが、「緑のそよ風」となると出てこない人が多いのではなかろうか。
みどりのそよ風 いい日だね
蝶蝶(ちょうちょ)もひらひら 豆のはな
七色畑に 妹の
つまみ菜摘む手が かわいいな

国道沿いの繁華街が過ぎた頃、切り通しの下り坂となる。昔はかなりな急坂であったのを緩和するための切通しであろう。坂を下りると、道端に「八坂神社」のこじんまりとした社殿が建っていた。やはり京都の八坂神社を勧請したものとのことである。
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東埼橋の交差点で国道と別れ、その先の白子郵便局のある信号を右折して、白子鎮守の熊野神社を訪れた。熊野神社の横には、日露戦争への出陣を前に乃木希典が参籠した清龍寺不動院がある。また、心願成就を願い修行をおこなった龍神の口から流れ落ちる不動の瀧があった。桂太郎首相も時期は違うが、ここで参籠し、滝に打たれ、「神龍山」と大書した扁額を奉納している。
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さらに、清龍寺不動院の左側に、開運巡り洞窟の案内版があったので進むと、小さな洞窟があり、入口には電灯を点けるスイッチがあり、くぐり抜けられるようになっていた。くぐって行く途中で横浜にある「田谷の洞窟」を思い出した。
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元の交差点に戻り、県道を横切り進むと、大坂通りと呼ばれる急坂で途中には、「大坂ふれあいの森」と書かれた小広場がった。広場の入口の階段の小鳥を配したゲートが面白い。
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大坂の急坂を過ぎると、静かな住宅街の中の道が続く。再び県道に合流して歩道橋で東京外環状道路を渡り、東部東上線の和光市駅への交差点を過ぎ、朝霧警察署を過ぎると、右手に重厚な檜皮葺(ひわだぶき)の建物があった。膝折宿旧脇本陣村田屋である。おばあさんが1人で落ち葉を拾い集めていた。脇本陣である石碑も痛んでほとんど読めなくなっていた。教育委員会で本陣跡の碑の建立と合わせて何とかして欲しいものである。
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膝折町内会館の交差点を左折して進むと、黒目川を渡る。水は綺麗で鯉が二匹泳いでいるのが見えた。そして、直ぐに変則的な膝折3丁目の交差点に遭遇したが、旧川越街道は庚申塔の左側であったが、間違えて戻る羽目に陥った。
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再び交通量の多い道路に合流して、進むと、野火止大門の交差点で、平林寺と彫られた大きな石柱が建っていた。平林寺までは1kmほどあるのでスキップし進むと、武蔵野線のガードをくぐり、やがて右手に、神明神社が見えてくる。昭和の初期までは、境内横を流れる野火止用水が水車を回し、旱魃には雨乞いの行事も行われたという。
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さらに進むと、大和田郵便局の隣に荒れ果てた観音堂があり、お地蔵さんのみが凛とした姿で立っていた。そして、柳瀬川に架かる英(はなぶさ)橋を渡って浦和所沢バイパスの英インターを横切って行く。
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インターをすぎると、跡見学園女子大学のキャンパスがあり、そろそろ昼食の時刻にさしかかる。直ぐに雰囲気の良さそうなレストランを見つけて食事を取る。食べ終わって外に出ようとして驚いた。入口のレジカウンター前は、大勢の人でごった返ししている。とても人気があるレストランのようだ。
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昼食を済ませ、満足して進み資料館入口の信号の先に「川越街道」と書かれた大きな石碑があり、中央分離帯にはケヤキを植えられた美しい道が続く。
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道路の左側の歩道を歩いていたが、反対側に由緒のありそうな神社が見えてきたが、容易には道路を渡れない。ズームで写真を撮って済ませたが、後で調べたら寛文元年(1661)の建立の木宮稲荷神社とのこと。
ケヤキ並木の終わりにも「川越街道」の石碑があり、その先には広源寺。寛永16年に竜国呑海和尚の開基とのこと。仁王様は山門にあると思っていたが、ここでは本堂前に堂々たる姿を見せている。確かに大きすぎて本堂前の空の下に建立するより方法はなかったように思える。
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しばらくすると、今度は松を主体とした並木道となり、その最後には最も大きい「川越街道」の石碑があり、少し先には大井氏の城館跡につくられたという徳性寺がある。
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東入間警察署入口の信号を過ぎると、大井小学校があり、その校庭脇に国登録有形文化財の「旧大井村役場」が建っている。国の登録とするほどの建物には見えないのだが。
少し先で、国道から右に旧道が分かれて行き、大井総合支所庁舎に向う道路との交差点に「角の常夜燈」と言われる古い常夜燈が建っていた。ここは、川越街道と大山詣での道の交差点であったとのこと。
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さらに、先には正和3年(1314)の開基という古刹の地蔵院がある。ここでは仁王様が山門の前に配置されている。昭和27年火災により本尊と山門のみ焼け残ったのだという。
さらに、境内には樹齢350年の「しだれ桜」があり、説明板には「しだれ桜」の寿命は300年前後といわれており、平成10年に樹勢回復の措置がとられたと書かれていた。
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そして、国道との合流点には神明神社があり、上福岡駅への交差点を過ぎると、再び旧川越街道は国道から左に分かれ、進む。やがて左に東光寺が見えてくる。法事でもあるのか、何人かの人が境内で見かけられた。
時刻は3時30分で、今日はここまでと、その先で新河岸駅への道に右折して、駅前の喫茶店で休憩して帰宅した。
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2009.09.26

新河岸から川越

本日の万歩計24,516(15.9Km)

川越街道を歩く旅は3回で9月26日に川越に到着し、完了。

川越街道も今日で3日目、新河岸からの開始で川越は近く、最後の歩行である。新河岸駅を8:30に出発。歩き始めて直ぐに、左手に入り地蔵院を訪れるが、ほとんどが墓地と化していて見るべきものは無い。
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さらに進むと、小さな春日神社があり、不老川を渡る。不老川は昔は「としとらずがわ」と呼んだそうだ。名前のわりには、大した言い伝えもなさそうだ。
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街道らしい家が現れた。小江戸川越の古い民家をお年寄りの介護保険施設に利用していると説明板に書かれていた。歴史的な価値はあっても、古い家屋は老人の施設には利用し難いと思うのだが。
そして、烏頭(うとう)坂に差し掛かる。今は、緩い坂道であるが、当時は新河岸に川舟で着いた荷物を川越の問屋街に運ぶのに越さねばならない難所であったとのこと。また、この鳥頭坂は川越でもっとも早くから知られている地名のひとつで、文明18年(1486)の書き出しで始まる道興准后の「廻国雑記」に、これより武士の館へまかりける道にうとう坂といえる所にてよめるとある。
 うとう坂こえて苦しき行末を
 やすかたとなく鳥の音もかな

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烏頭坂から階段を上ると、熊野神社が鎮座していた。街道に戻ると、その先で国道254号線と合流し、直ぐに国道16号と交差する。さらに、JR川越線と東部東上線を跨げば川越の市街に入って行く。
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菅原道真の山車と書かれた、山車の収納庫と菅原道真神社があった。10月の祭りにはここからも賑やかに山車が繰り出されるのだろう。
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川越駅の観光案内所に寄り、案内図を貰って元の街道に復帰して進むと、川越の枡形がある。今は、車の通行に便利なように緩やかなカーブを描く道になっている。この先の信号で右の小道に入って行き「喜多院」を訪れる。平安初期の天長7年(830年)、淳和天皇の命で円仁(慈覚大師)が建立し、当初は無量寿寺と号したが、江戸時代はじめに川越大火があり寺の多くの建物が焼失し、再建された中院に天正16年(1588年)、徳川家の尊崇が厚かった天海が入寺し、寺号が喜多院と改められた。
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境内には五百羅漢もあり、少し離れて東照宮もある。東照宮は、元和3年(1617)家康の遺骸を久能山から日光に移葬する途中喜多院に4日間逗留して天海僧正が大法要を営んだ因縁で寛永10年(1633)に創建したもので、国の重要文化財に指定されている。日光、久能山とともに、三大東照宮と言われているそうである。
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街道に戻り、進むと天皇皇后両陛下に献上した芋のお菓子を売る「芋十」の古い建物が見えてきて、その先には国登録有形文化財の「佐久間旅館」がある。道の右側のキリスト教会は修復中で青いシートで全面覆われていた。
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いよいよ終点が近づき、蕎麦屋の「百丈」がある。昭和初期の建物で、「看板作り」という様式でこれも国登録有形文化財である。江戸期の商家などは軒が大きく張り出していたが、関東大震災以降に道路拡張で軒を張り出す余地がなくなり、前面が平面的な造りになり、これを看板様式と呼んだのだという。
川越市役所に到着し、川越城を創建した太田道灌の銅像に対面である。川越城大手門跡の碑も建っている。3日間の歩行であったが、これで川越街道は終わりである。
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ここからは、付録であるが、東武東上線沿線に住んでいる私の妹が、会いにきてくれて、一緒に蔵造りの街並みを散策する。NHKの朝のドラマの「つばさ」が川越が舞台であることから、大勢の人が訪れている。
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酒井忠勝が建てた「時の鐘」である。現在の鐘楼は、明治26年(1893)に起きた川越大火の翌年に再建されたものとのこと。
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横道に入ってもなかなか情緒がある。国・登録有形文化財の元の埼玉銀行本店のビルがある。埼玉銀行は、その後協和埼玉銀行となり「あさひ銀行」と商号変更してさらに大和銀行が合併して「りそな銀行」となった。それで、今は「りそな銀行川越支店ビル」となっている。
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蔵造りの中央通りを駅の方に進むと、開基は1549年の蓮馨寺がある。北条の家臣で川越城主の大道寺駿河守政繁の母、蓮馨大姉が仏教をひろめ民衆にこころのより所を与えたいと考え建てた寺で、以後、庶民の寺として親しまれてきたという。
ここで、駅方面への商店の並ぶ通りに移って、駅前で例によりコーヒーを飲んで休憩の後、川越駅から東武東上線で帰宅した。
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