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2009.10.15

間々田から石橋・・・(旧日光街道)

本日の万歩計47,331(30.8Km)

先週に歩いてから色々と用が重なりなかなか歩きに行けず、今日ようやく日光街道に出かけられることになった。
時間帯によっては、間々田駅まで湘南新宿ラインで、私の住む最寄り駅から乗り換え無しで行けるのだが、早朝では横浜と大宮で乗り換えて間々田駅に9:26着となった。早速、街道に出てと言っても、国道4号線を歩き始めることになる。
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乙女河岸で河岸問屋「車屋」を営んだ豪商小川家の国の登録有形文化財の米蔵が見えてくる。現在は小山市立車屋美術館となている。入ってみたい気はしたが、先を急ぐためスキップした。
次に、道の右側に現れたのは琴平神社で、この辺りが間々田宿の始まりだったようだ。しかし、境内はかなり荒れている。
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道路を真中に琴平神社の反対側には、龍昌寺がある。慶安4年(1651)4月20日に徳川三代将軍家光が亡くなり、4月26日にこの龍昌寺で遺骸を一泊させた。このため朱印7石を賜ったと石碑に刻まれていた。他に、一泊したのは、24日に粕壁・最勝院、25日は栗橋・福寿院、27日は鹿沼・薬王寺であったとのこと。また、江戸時代に、ここの住職が次に述べる「蛇祭り」を考案したという。
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間々田四丁目の交差点を過ぎると、左側に八幡宮の参道入口が見える。ここの八幡宮は、関東の奇習蛇祭り(じゃまつり)で知られていて、毎年5月5日に藁で作った長さ20m近くの蛇体を子供たちが 「蛇がまいた(ジャガマイタ)、蛇が巻いた、4月8日の蛇が巻いた」と囃しながら練り歩き、各町内の蛇が間々田八幡宮に集合し、神事や蛇の水のみ行事(八幡宮の池に蛇諸共に飛び込む)を行い各町内に散会する伝統行事がある。
その後、進むと右手に天理教会の大きな建物があるが、この辺りが間々田宿の終わりである。
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少し進んで2つ目の信号を過ぎると、左手に千駄塚古墳・浅間神社への小道がある。千駄塚古墳は関東最大の円形古墳で、直径70m、高さ10mで外周には環濠跡がある。頂上の平地には、浅間神社が建てられている。
築造年代は不明だが、6世紀代との見方が強いとのこと。
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粟宮南交差点の所に西堀酒造がある。明治5年創業の酒屋で「若盛」ブランドで知られた所で、大正時代の仕込み蔵を利用したアンテナショップがあり5種類の利き酒は無料とのこと。
「日光街道小山宿」ブランドの地酒も販売していて、造り酒屋の象徴の酒林(杉玉)が立派な屋根付の塔に収まっていた。
酒林は新酒が出来ると、未だ葉の青い杉で造った新しいものが吊るされ、新酒が出来たことを知らせ、時間が経つと酒林は黄変して、新酒の熟成状況を知らせることにもなっている。日光街道では始めて見た酒林である。
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1Kmほど進むと安房神社の参道入口が、左側にある。祭神は天太玉命(あまのふとだまのみこと)で、藤原秀郷が、平将門の乱の際に戦勝を祈って参拝し、将門を討ちとった後に多くの資材を寄進した。秀郷の子孫、小山氏も後に土地を寄進している。現存する拝殿の柱も小山氏が奉納したものとのこと。この後、直ぐに街道は国道4号線から右に分かれて、小山宿に入って行く。
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2Kmほど進むと、国道50号線の下をくぐる。神鳥谷(ひととのや)東の交差点である。難しい読み方である。そして、次の信号を過ぎると、左側に天満宮がある。昔からの村社である。
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さらに、1Kmほど進むと、左側に「須賀神社」の参道が見える。藤原秀郷が、平将門との戦いの戦勝祝いに天慶3年(840)に京都の八坂神社から勧請したもので、夏に行われる祇園祭は、日本一の大神輿の渡御で知られている。なお、藤原秀郷は平将門の討伐の功により、従四位下、下野守(しもつけのかみ)に任じられた。
200mほど進むと、右側に定光寺がある。幕末に大鳥圭介軍と新政府軍との戦いのあったところで寺の阿弥陀像の台座には当時の弾創が残っているという。なお、大鳥圭介は、戊辰戦争では主戦論を唱え、伝習隊を率いて江戸を脱走して宇都宮や今市、会津を転戦し、五稜郭で降伏し、投獄されるが明治5年に出獄の後、新政府に出仕し、後に学習院院長、駐清国特命全権公使、枢密顧問官を歴任して1900年、男爵を授けられた。
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古い民家を整備したのか、「小山市まちの家・思季彩館」と看板を掲げて、地元の特産品等を売る家があった。そして、駅前通にでる。右の写真は小山駅方面を撮影したものである。
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駅とは反対方向に左折して、小山城址に向う。歩道が広く電線も無く綺麗で歩きよい。国道4号線との交差点は、跨道橋が、十字に交差していて特徴的である。ここは、家康が上杉景勝討伐軍を率いてここまで来た時大坂で石田三成が挙兵したことを知り評定を開き、急遽大坂に戻ったところである。左手市役所前に小山評定跡の石碑があるとの事だが、見逃した。
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進むと、小山氏の祇園城跡では、今も発掘調査が進められていた。そして、徳川将軍家が日光参拝の折に休憩用として利用した小山御殿の広場である。御殿の造りは厳重で、周囲に濠を巡らし、土塁は二重になっていたという。
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小山御殿跡を通り過ぎると、思川(おもいがわ)が流れている。中世から江戸川と通じた舟運の盛んな川で、明治時代までその面影を残した。明治期には小山付近では舟遊びが盛んで屋形船がたくさんあったという。
架かっている橋は観晃橋で、橋の上から東照宮のある日光連山が見えることから付いた名である。美しい橋になっている。

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少し戻って、城山公園に入って行く。小山城は祇園城とも呼ばれ、藤原秀郷の築城と伝承されるが、詳細は不明。15世紀になり、秀郷の血筋の小山氏が関東の豪族領主として大いに威を張るが、関東管領の足利氏満に叛して滅亡。その後、室町幕府の配慮で同族の結城泰朝が第二次小山氏の祖となるが、9代目の政種に至り小田原の後北条に加担して秀吉の怒りに触れ、没収追放の身となって、第二次小山氏も滅亡する。江戸期に入り、本多正純が3万石で城主となるが、宇都宮に移封となり小山城は廃城となった。
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空堀に架かる祗園橋である。堀は10m以上とされていた。
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市の天然記念物に指定されている大公孫樹である。樹高15m、目通り6m、枝張り11×12mである。享和3年(1803)に書かれた文書(日光駅程見聞雑記)にすでに古木として紹介されているとのこと。
城跡公園から国道4号線を渡って街道に戻る途中で、とても立派な門を見かけた。日高と書かれた表札が掛かっていたが、民家の門としては、最高級ではなかろうか。
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嘉祥2年(849)、慈恵大師が室(むろ)の八島への途中、小山荘に一宇を建立し妙楽院と号したのが始まりと伝えられる「興法寺」。徳川家光より九石の寺領を寄進されたという。「室の八島」とは、平安時代までは下野国府西部の沼沢地で景観にすぐれた場所を指し、よく歌の枕詞として使われたところであったが、鎌倉時代になると本来の景観が失われ、国府付近の集落を指すようになったようである。
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道の反対側には、村社の愛宕神社がある。貞応2年(1223)、小山城主の小山朝政が鬼門守護のため京都の愛宕神社より勧請して創建された。
そして、面白い屋号のの蛸屋総本店がある。和菓子の専門店で、宮城県の仙台で和菓子店を営んでいた時、蛸の看板を掲げていたので、蛸屋と呼ばれるようになったとのこと。戦争疎開で小山に移転してきたという。
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蛸屋を過ぎて、途中で見つけた蕎麦屋で昼食をとり、1.5Kmほど進むと両毛線の踏切を渡る。もともと、生糸や桐生の織物を運ぶために栃木県の小山駅から群馬県の新前橋間につけられた鉄道である。今では、通勤、通学路線となっている。
また、2Kmほど進むと、左側に「日枝神社」の参道がある。参道の入口付近には、樹齢400年以上と推定されるケヤキの古木が立っている。

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喜沢東の交差点を通り過ぎて、直ぐに右の小道を入って行く。13番目の宿場・新田宿への入口である。それにしても細い道で、日光街道では一番細く、車が一台かろうじて通れる程度である。
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歩いて行くと、左手の森の入口付近に、一里塚らしき盛り上がりが見えた。新田宿の一里塚とは思うが、表示もなく定かではない。日光街道の旧道と言うが、表示など全く無いところである。1.5Kmほどで東北新幹線が高架で走り、その脇の地上を宇都宮線が走る場所にでて、その後はこの線路沿いに進んで行く。
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線路沿いの道は1Kmほどで終わり、斜めに離れて国道4号線に合流する。国道を1Kmほど進むと右手に、橿原神社への参道がある。江戸時代までの新田宿の氏神は星宮神社であったが明治5年、村人が神武天皇崇拝を希望し九州の宮崎神宮より勧請し、橿原神社となったとのこと。まだ、神への信仰が色濃い時代であった。
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1.5Kmほど進んで「スーパうおとみ」の駐車場を左に横切り、旧道に入り1.5Kmほど進む。住宅街の静かな歩き易い道路だが、歴史的な遺構は、全く残っていない。国道4号線の向こうには小金井駅があるので、新興住宅地域となってしまったのだろう。そして、こう言う新興地域では、古いものは全て捨てられるのが常である。それでも、旧道の終わりには、日光道中で唯一国指定史跡の小金井の一里塚が残っていた。2つの塚がほぼ完全な形で残っていて、ほっとした気持ちになった。
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国道4号線に復帰して進むと、左手に「慈眼寺」がある。入口脇には、にこやかなお顔の布袋様が鎮座していて、心がなごむ。
慈眼寺は、真言宗智山派のお寺で建久7年(1196)新田義兼の開基で新田一族の祈願所として建立され、江戸期は歴代将軍が日光社参詣の時、ここで休憩した格式のある古刹である。そのためか、屋根瓦や灯篭に葵の御紋が入っている。
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境内にある、観音堂、鐘楼も格式の高さを思わせるつくりである。
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「慈眼寺」の直ぐ隣には、小金井宿の鎮守である金井神社。そして、古い旧家が街道を偲ばせてくれる。
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国道を2Kmほど進むと、自治医大駅が右手に見えてくる。日光街道は、ここで左の小道に入って行くのが正しいのだが、Toku氏の勧めもあり街道とは離れるが、龍興寺の鑑真和尚碑と下野薬師寺跡を訪ねたく、直進して笹原の交差点を右折する。右折して、JR宇都宮線をくぐると、左手に自治医大付属病院の広大な敷地と建物が見えてくる。自治省の肝いりだけに、とても立派な病院である。
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2Kmほども車の通りが激しく歩道も無い道を恐い思いをしながら進む。ようやく、薬師寺四丁目の交差点に着き、その次の信号で右折する。道端に観音像が祀られており、龍興寺へと導いてくれる。ようやく「龍興寺」に到着すると、端正な形の本堂が建っていた。
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本堂脇には、いかつい姿の持国天?の像が立っている。そして、本堂の左側には女帝の孝謙天皇(後の称徳天皇)の病気を治癒して重く用いられた、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)の墓所がある。天皇の崩御後左遷され、宝亀元年(770)下野薬師寺別当職として着任し、宝亀3年(772)4月7日この地で歿する。道鏡は、皇位を狙ったとする話しをはじめ、悪い話が多いが、称徳天皇の死をもって天武天皇系の皇統が断絶して天智天皇系の皇統が復活した事から、天智天皇系の皇位継承を正当化するために天皇と道鏡を不当に貶めるためという指摘があるようだ。
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山門の方に引き返すと、左手に自治医大の聖霊殿が建っていた。献体された人の供養のためだろうか。
そして、龍興寺に付属している墓地に入って行くと、一般の人々の墓石に囲まれて、鑑真和尚供養塔があった。752年に授戒僧として10年の歳月を費やして日本に渡ってきた高僧だが、唐の揚州江陽県の生まれで彼の地の龍興寺に属していたため、同名のこの寺に碑が建てられたものと思われる。石碑のとなりの菩提樹は鑑真がついていた杖が根を生やし大きくなったと言いつたえられている。碑は江戸期の建立か、高名な僧の碑にしては貧弱である。
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龍興寺を後にして、下野薬師寺跡に向う。途中に村社の八坂神社があり、色づいた柿が秋の深まりを伝えていた。
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下野薬師寺跡に到着する。下野薬師寺は白鳳期に天智天皇の創建とされ、天平時代には東国の授戒寺として500町の寺領を有する大寺院であった。左下の写真の奥の山門は安国寺であるが、門柱には「旧称下野薬師寺 医王山 安国寺」と書かれている。足利幕府が、薬師寺を安国寺としたためである。薬師寺伽藍の礎石も掘り出されて並べられていた。
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中に進んで行くと、江戸時代に薬師寺戒壇院址に建てられた安国寺六角堂がある。中の厨子に非公開の鑑真和上画像があるという。
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東大寺などの建物を参考にして西回廊の一部と礎石が復元されていたが、当時の規模の大きさが窺える。発掘された礎石などから、南北一直線に、南門、中門、金堂、講堂、僧坊が並んでいて、中門と金堂が東西の回廊で結ばれていた。また、その中に東金堂、西金堂塔が配置されていたのが判明している。
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少し日も傾いてきて、田園地帯を国道4号線に向って進む。祇園原の交差点で国道に復帰して、進むとドライブインの駐車スペースに栃木県トラック教会の大きな達磨が鎮座していた。
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急ぎ国道を1Kmほど進むと、丸大食品工場が見えてきて、その入口に夕日を浴びて大きな観音像がシルエットになって立っている。進んで行くと、下石橋北の交差点が見えてくるが、その直前の左手は国道に面した墓地だが、その一隅に石仏群が屋根で覆われ、大事に保存されていた。この辺りは「かんぴょう」の産地で、その別名から、この地点をかつては夕顔橋と呼んだそうだ。
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下石橋北の交差点を過ぎて進んで行くと、右手に塀のみならず蔵も家屋の壁も「大谷石」で作られた家があった。大谷石の採石場に近いことを思わせる。
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本町交差点を過ぎると、石橋宿で直ぐ左手に、石橋宿の産土神である愛宕神社がある。天平宝字3年(759年)に創建された。石橋駅入口の交差点に急ぐが、この石橋の街も電線を地下に埋めて整備され美しく歩き良い通りとなっている。
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ようやく、石橋駅に到着した。駅前の時計台が夕暮れに佇んでいる。時計を見ると17:10であった。急いで改札を通り、ホームに降りて行くと、17:10発の湘南新宿ラインの厨子行きが出た直後。残念。15分ほど待たされ、小金井駅でまた、20分ほど待たされ厨子行きの始発に乗り心地よい疲労にともなう睡魔に襲われながら帰宅した。
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コメント

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龍興寺の鑑真墓と道鏡塚、寄りましたねぇ。
途中の自治医大の立派なこと!将来、孫が医者になりたいと言ったら、絶対に「自治医大だッ!」と思いました。
ところで、どうして「村社」や「郷社」の文字をセメントで埋めた神社が多いのでしょうか?

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Tokuさん、
まだ、文を書き終えない途中でのコメントは恐れ入ります。鑑真廟は唐招提寺にあるので、龍興寺は碑ですが、もう少し立派だと思っていたのですが。
自治医大は立派ですが、各都道府県に数名づつの割り当てで授業料も無料でもあり、相当な難関らしいです。
村社、郷社がセメントで埋められている件は、近年の町村合併で村が町になったり市になったりで、村の呼び名がそぐわなくなったからのようです。
村社を町社、市社とも言えないでしょうが、村がなくなったときが、村社の衰退の契機でもあるように思えます。

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奥日光も紅葉が始まりましたね。日光街道目標達成時期は紅葉真っ盛りですね。

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もう一回で終わりそうです。良い紅葉写真が撮れれば、いいのですが。
日光街道とは別に、紅葉を観る/撮りに行くことを考えましょうか。

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「嘉祥2年(849)、慈恵大師が室の八島への途中、小山荘に一宇を建立し妙楽院と号したのが始まりと伝えられる「興法寺」」について
この文章から、この「伝えられる」内容が鎌倉・室町時代に書かれたものであることが分かります。そしてここでいう「室の八島」が下野国府の集落を意味するものであることが分かります。
そして「室の八島とは、・・・湿地であったころの景勝地を指し」の室の八島とは、時代も違いますし、場所も違います。

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栃木市惣社町の住人さん
ご指摘ありがとうございます。
それでは、「慈恵大師が室の八島への途中」と鎌倉・室町時代に書かれた「室の八島」とは、どこを指すのでしょうか。

ご質問に対する返事がたいへん遅れて申し訳ありませんでした。
鎌倉・室町時代の室の八島は、コメントに書きましたとおり、かつて下野国府の集落であった町、或いはその町辺り一帯の土地のことです。そしてこの室の八島の時代は約450年間続きました。
しかしその後芭蕉が訪れた時にはすでに寂れて、糸遊(陽炎)が立つような田園地帯に変わっていました。「今は寂れてしまったが、かつては栄えていた室の八島の町」、これが芭蕉時代の江戸の町の人たちの代表的室の八島のイメージです。井原西鶴なんかも室の八島を同様に考えていました。芭蕉もそうなのです。[本朝食鑑]には「昔・・・室の八島の市中に」とあります。
芭蕉が室の八島で詠んだ「糸遊に結びつきたる煙哉」の句はその室の八島を詠んだ句なのです。大神神社の森に陽炎が立つわけないでしょ。

栃木市惣社町の住人さん
ありがとうございます。
歴史上移り変わり、また残っている資料もわずかでなかなか難しいところです。記述内容は、変えてみました。

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