2008.11.02
日本橋から笹塚
本日の万歩計31,004(20.2Km)
東海道、中山道を歩き終えて、何となく次は甲州街道と思っていたが、3連休でもあるので歩き始めることとした。今まで、常に一人で歩いていて甲州街道も一人旅と思っているが、今日の初日だけは一緒に歩いてみたいとおっしゃる会社の先輩がいて、初めて2人で歩くこととなった。
朝の8時に日本橋で待ち合わせた。3度目の日本橋である。歩き始めを記念してセルフタイマーで自分の写真を撮っている人もいる。
歩き始めて直ぐに永代通りで右折する。布団の西川がある。元和元年(1615)に幕府の許可を得て蚊帳の販売を始めて現在に到る近江商人の店である。残っている勘定帳は日本で最初の決算書類の始まりとのこと。
少し進んで呉服橋の交差点で右折して「一石橋(いっこくはし)」に向かう。なお、呉服橋は交差点の名前として残っているが、江戸城の外濠が埋め立てられて、今はもう存在しない。この橋の名前の由来は、北側に金座支配の後藤家、南側に呉服支配の後藤家があったので、後藤(五斗)の両方を合わせて「一石」になったという説があるが、出来すぎている。最も確からしいのは、慶長13年(1608年)に明の永楽帝の時代に作られた永楽通宝の通用を禁止し、国産の寛永通宝等の国産の銭を通用させるため、幕府が永楽銭1貫を「米1石」と交換したことによるとのこと。
また、橋のたもとには「一石橋迷子しらせ石標」がある。この辺りは江戸時代も賑やかで子供が迷子となることも多く、そのための伝言板が設けられていたのである。
「一石橋」を渡ると日本銀行があり、左に目を転じると「常盤橋」がある。高速道路が上を走っていて、ビルの頭のみが見える。そして何時もながらの工事風景を見ることにもなる。
甲州街道に戻り、レンガ作りのJRのガード下をくぐって進む。名だたる会社の本社があるオフィス街の大手町に入って行く。
大手町の交差点で右折して1つ目の交差点で左折すると、平将門の首塚がある。酒井雅楽頭の屋敷の中庭であった場所という。しかし、東海道歩きで掛川で十九首という地名の場所に将門の首塚があった。どちらが本当の首塚か分からないが、ここの説明板には、「天慶の乱で憤死した平将門の首級は京都に送られ獄門にかけられたが、3日後東方に飛び散り、武蔵の国豊島郡柴崎に落ちた。その時雷鳴がとどろき、真っ暗になった。村人は恐怖し、埋葬したのがこの地だった」と書かれていた。やはり、都に対する関東住民の意地の発露という気がする。
将門の首塚を見て、内堀通りを大手門前まで進み日比谷通りに戻って、お濠を見ながら進むと「和田倉橋」のレプリカが見えてくる。
和田倉橋を渡って、噴水公園を訪れることにした。初めてであったが、美しい広場であった。
日比谷通りから和田倉門への入り口には明治期に設けたと思われる警護員の詰め所がある。東の方を望めば東京駅の正面である。道路が工事中でいささか趣を損ねるが、やはり東京駅のこの外観は残しておきたいものの一つである。
馬場先濠に沿って南下する。お濠と柳が調和し、道路側も生垣と街路樹でその間を通る歩道は、都心であっても美しい景観を作り出している。
進んで行くと、左手に昭和9年(1934)3年7ヶ月の歳月をかけ竣工した、重要文化財の明治生命館が見えてくる。設計は大正時代から昭和初期にかけ歌舞伎座、ニコライ堂修復、日本銀行小樽支店等を手がけた、東京美術学校教授の岡田信一郎で、古典主義様式の最高傑作として昭和の建物では初めて重要文化財に指定された。またこの建物は終戦後にはアメリカ極東空軍司令部として使用するためGHQに接収され、米、英、中、ソ、4カ国による対日理事会の会場として使用された歴史がある。
日比谷交差点手前には第一生命館があり、ここもGHQに接収された歴史があり、マッカーサーの執務室や昭和天皇と会見した部屋が当時のまま残されているとのこと。日比谷公園に交差点の角から入ると、直ぐに「日比谷見附」の石垣の一部が残っている。
公園から道路に復帰して200mほど進むと「和田倉門」である。二重橋方向に行く人、出てくる人が大勢通り過ぎて行くのが見える。左側には法務省の赤レンガ棟が緑に映えて美しい。「米沢藩上杉家の江戸屋敷」が在った場所である。
お濠に沿って北のほうに曲がるのを間違え「国会議事堂正面」に出てしまった。ここで右折して憲政記念館の敷地に沿ってすすむ。ここは桜田門外の変で水戸藩士を中心とする一団に殺害された井伊直弼の屋敷跡である。確かに桜田門は近い。
三宅坂を過ぎた辺りのお濠を見下ろす景観は本当に素晴らしい。
半蔵門に向かって歩いて行くと、大勢の人がランニングしているのに出会う、本当に切れ目無くの状態で外国人も多い。そして、半蔵門である。大手門から1里(4Km)であり、ここで左折して皇居から離れて行く。
半蔵門の交差点から新宿通りを見ると「FM東京」と「ワコール」の目立つビルが迎えてくれるようだ。休日の朝で新宿通りは交通量も少なげだ。
「聴く」と題名を付けられた少女の銅像がある、冨田憲二作と書かれている。そして、四谷駅が近づくと「上智大学」の建物が見えてきた。
上智大学に隣接する「聖イグナチオン教会」の特色のある丸い建物を左に見て、四ッ谷駅で右折すると、四ツ谷見附の跡の石垣が見える。ここは江戸時代は枡形になっていて門があり、警護の者が詰めていた。
道路の左側を歩いて、東急ステイ四谷というホテルの脇の細い道路を入って行くと、「西念寺」というお寺がある。ここには「服部半蔵」と家康の長男の「信康の供養塔」がある。戦闘指揮に抜群の才能を発揮した信康は、武田勝頼と通じたと疑われ(言いがかり)て信長から切腹を命じられ、半蔵が介錯することとなったが、あまりの悲しさに果たせず後に供養塔を建立した。また、半蔵が家康から拝領した「槍」もこのお寺に保存されている由である。
「西念寺」の次に近くの「愛染寺」に入り組んだ狭い道路に迷いながら行き着き総検校となった「塙保己一」と内藤新宿の創設を幕府に申し出た「高松喜六」の墓を探したが、看板はあれど「高松喜六」の墓石は見つからなかった。おそらく墓地を丹念に探せばあるのであろうが、大勢の人の墓地をうろつき回るのは気がひけて諦めた。
四谷三丁目の交差点の右側に消防博物館がある。到着したのが11時で、ちょうど始まった人形が動き演奏が聞こえるのを家族連れが大勢見上げていた。建物は10階建てで、複数階に渡って昔から現在に到る消防用機具などが展示されていて、期待以上のものであった。
10階に上ると、見晴らしも良い。下の左は四谷方面、右は新宿方面を撮影したものである。
ヘリコプターもあれば、馬で引っ張って行く蒸気ポンプの消防車まで展示されている。小学生ぐらいの子供は喜ぶことだろう。
消防博物館を出ると、どうしても「於岩稲荷田宮神社」を訪れる必要がある。家格は高いが経済的に困窮していた田宮家のお岩さんは、一生懸命働きお家の再興を果たして、その功績で「於岩稲荷田宮神社」として祀られるが、その人気を利用して「鶴屋南北」が200年も後の文化文政時代に当時起こった猟奇事件と組み合わせて現在にまで人気が続く「四谷怪談」を書いた。中村時蔵、歌右衛門など多くの歌舞伎俳優の寄贈した石柱が並ぶ。実在のお岩さんは怪談話と関係ないが、やはりお参りして街道歩きの無事を願うにしくはない。道路を挟んで「於岩稲荷陽運寺」がある。しかし、これは戦後作られたものであり、道路を挟んだ向い側にお岩さんを利用したお寺を作るとは呆れた根性だ。
四谷四丁目の交差点は5叉路である。国道20号線は新宿御苑の下にもぐりこみ、旧甲州街道は斜め右に続く。この交差点には玉川上水水番所跡、四谷大木戸跡碑、水道碑記の説明板がある。そして大きな水道碑記の石板である。
四谷四丁目交差点から、新宿二丁目に向かう途中で「大宗寺」に寄る。江戸六地蔵の一つの大きな地蔵がある。今までに品川の品川寺(ほんせんじ)、巣鴨の真性寺と合わせ3つの地蔵にお会いした。あとの3体の地蔵にもいずれお会いすることになるであろう。境内には閻魔堂があり、金網から覗くと怖いお顔の閻魔さんが鎮座していた。
新宿三丁目の交差点まで進んできた。伊勢丹があり、流石に賑やかな通りである。ここで左折して新宿四丁目で右折する。右折して直ぐにうなぎの「登亭」があり、ここで少し遅い昼食をとった。
昼食を終えて、新宿南口の横を通る陸橋を通る。下に新宿らしい賑わいが見える。陸橋を過ぎても若い人の賑わいが続き、どこまで続くのかと思いながら歩いて行くと、文化学園があり、文化祭の最中であった。
高架の高速道路が大きく空を塞ぐ明治神宮への西参道口の交差点の直前に「正春院」がある。徳川秀忠の乳母は初台で、地名として残りその娘は三代将軍家光の乳母となり正春院を称した。これで、このお寺と少し先の初台の地名が繋がる。
東京オペラシティが右側に見えてきた。新しくて素晴らしい施設だ。オペラシティータワーの高いビルが聳え立っている。新国立劇場も素晴らしい。
創業明治25年の提灯屋があった。ガラス戸に景色が反射して見難いが、珍しい店で思わずシャッターを押した。進んで行くと幡ヶ谷である。幡ヶ谷の地名は八幡太郎義家が後三年(1083)の役の後に上洛した際、この地にあった池で軍旗を洗ったことに起因する。初日の歩きで一緒に歩いている先輩も大分疲れたようであり、笹塚駅まで来て、コヒーショップで休憩の後、今日はこれで切り上げることとした。