2008.11.02

日本橋から笹塚

本日の万歩計31,004(20.2Km)

東海道、中山道を歩き終えて、何となく次は甲州街道と思っていたが、3連休でもあるので歩き始めることとした。今まで、常に一人で歩いていて甲州街道も一人旅と思っているが、今日の初日だけは一緒に歩いてみたいとおっしゃる会社の先輩がいて、初めて2人で歩くこととなった。
朝の8時に日本橋で待ち合わせた。3度目の日本橋である。歩き始めを記念してセルフタイマーで自分の写真を撮っている人もいる。
歩き始めて直ぐに永代通りで右折する。布団の西川がある。元和元年(1615)に幕府の許可を得て蚊帳の販売を始めて現在に到る近江商人の店である。残っている勘定帳は日本で最初の決算書類の始まりとのこと。
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少し進んで呉服橋の交差点で右折して「一石橋(いっこくはし)」に向かう。なお、呉服橋は交差点の名前として残っているが、江戸城の外濠が埋め立てられて、今はもう存在しない。この橋の名前の由来は、北側に金座支配の後藤家、南側に呉服支配の後藤家があったので、後藤(五斗)の両方を合わせて「一石」になったという説があるが、出来すぎている。最も確からしいのは、慶長13年(1608年)に明の永楽帝の時代に作られた永楽通宝の通用を禁止し、国産の寛永通宝等の国産の銭を通用させるため、幕府が永楽銭1貫を「米1石」と交換したことによるとのこと。
また、橋のたもとには「一石橋迷子しらせ石標」がある。この辺りは江戸時代も賑やかで子供が迷子となることも多く、そのための伝言板が設けられていたのである。
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「一石橋」を渡ると日本銀行があり、左に目を転じると「常盤橋」がある。高速道路が上を走っていて、ビルの頭のみが見える。そして何時もながらの工事風景を見ることにもなる。
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甲州街道に戻り、レンガ作りのJRのガード下をくぐって進む。名だたる会社の本社があるオフィス街の大手町に入って行く。
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大手町の交差点で右折して1つ目の交差点で左折すると、平将門の首塚がある。酒井雅楽頭の屋敷の中庭であった場所という。しかし、東海道歩きで掛川で十九首という地名の場所に将門の首塚があった。どちらが本当の首塚か分からないが、ここの説明板には、「天慶の乱で憤死した平将門の首級は京都に送られ獄門にかけられたが、3日後東方に飛び散り、武蔵の国豊島郡柴崎に落ちた。その時雷鳴がとどろき、真っ暗になった。村人は恐怖し、埋葬したのがこの地だった」と書かれていた。やはり、都に対する関東住民の意地の発露という気がする。
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将門の首塚を見て、内堀通りを大手門前まで進み日比谷通りに戻って、お濠を見ながら進むと「和田倉橋」のレプリカが見えてくる。
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和田倉橋を渡って、噴水公園を訪れることにした。初めてであったが、美しい広場であった。
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日比谷通りから和田倉門への入り口には明治期に設けたと思われる警護員の詰め所がある。東の方を望めば東京駅の正面である。道路が工事中でいささか趣を損ねるが、やはり東京駅のこの外観は残しておきたいものの一つである。
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馬場先濠に沿って南下する。お濠と柳が調和し、道路側も生垣と街路樹でその間を通る歩道は、都心であっても美しい景観を作り出している。
進んで行くと、左手に昭和9年(1934)3年7ヶ月の歳月をかけ竣工した、重要文化財の明治生命館が見えてくる。設計は大正時代から昭和初期にかけ歌舞伎座、ニコライ堂修復、日本銀行小樽支店等を手がけた、東京美術学校教授の岡田信一郎で、古典主義様式の最高傑作として昭和の建物では初めて重要文化財に指定された。またこの建物は終戦後にはアメリカ極東空軍司令部として使用するためGHQに接収され、米、英、中、ソ、4カ国による対日理事会の会場として使用された歴史がある。
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日比谷交差点手前には第一生命館があり、ここもGHQに接収された歴史があり、マッカーサーの執務室や昭和天皇と会見した部屋が当時のまま残されているとのこと。日比谷公園に交差点の角から入ると、直ぐに「日比谷見附」の石垣の一部が残っている。
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公園から道路に復帰して200mほど進むと「和田倉門」である。二重橋方向に行く人、出てくる人が大勢通り過ぎて行くのが見える。左側には法務省の赤レンガ棟が緑に映えて美しい。「米沢藩上杉家の江戸屋敷」が在った場所である。
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お濠に沿って北のほうに曲がるのを間違え「国会議事堂正面」に出てしまった。ここで右折して憲政記念館の敷地に沿ってすすむ。ここは桜田門外の変で水戸藩士を中心とする一団に殺害された井伊直弼の屋敷跡である。確かに桜田門は近い。
三宅坂を過ぎた辺りのお濠を見下ろす景観は本当に素晴らしい。
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半蔵門に向かって歩いて行くと、大勢の人がランニングしているのに出会う、本当に切れ目無くの状態で外国人も多い。そして、半蔵門である。大手門から1里(4Km)であり、ここで左折して皇居から離れて行く。
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半蔵門の交差点から新宿通りを見ると「FM東京」と「ワコール」の目立つビルが迎えてくれるようだ。休日の朝で新宿通りは交通量も少なげだ。
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「聴く」と題名を付けられた少女の銅像がある、冨田憲二作と書かれている。そして、四谷駅が近づくと「上智大学」の建物が見えてきた。
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上智大学に隣接する「聖イグナチオン教会」の特色のある丸い建物を左に見て、四ッ谷駅で右折すると、四ツ谷見附の跡の石垣が見える。ここは江戸時代は枡形になっていて門があり、警護の者が詰めていた。
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道路の左側を歩いて、東急ステイ四谷というホテルの脇の細い道路を入って行くと、「西念寺」というお寺がある。ここには「服部半蔵」と家康の長男の「信康の供養塔」がある。戦闘指揮に抜群の才能を発揮した信康は、武田勝頼と通じたと疑われ(言いがかり)て信長から切腹を命じられ、半蔵が介錯することとなったが、あまりの悲しさに果たせず後に供養塔を建立した。また、半蔵が家康から拝領した「槍」もこのお寺に保存されている由である。
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「西念寺」の次に近くの「愛染寺」に入り組んだ狭い道路に迷いながら行き着き総検校となった「塙保己一」と内藤新宿の創設を幕府に申し出た「高松喜六」の墓を探したが、看板はあれど「高松喜六」の墓石は見つからなかった。おそらく墓地を丹念に探せばあるのであろうが、大勢の人の墓地をうろつき回るのは気がひけて諦めた。
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四谷三丁目の交差点の右側に消防博物館がある。到着したのが11時で、ちょうど始まった人形が動き演奏が聞こえるのを家族連れが大勢見上げていた。建物は10階建てで、複数階に渡って昔から現在に到る消防用機具などが展示されていて、期待以上のものであった。
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10階に上ると、見晴らしも良い。下の左は四谷方面、右は新宿方面を撮影したものである。
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ヘリコプターもあれば、馬で引っ張って行く蒸気ポンプの消防車まで展示されている。小学生ぐらいの子供は喜ぶことだろう。
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消防博物館を出ると、どうしても「於岩稲荷田宮神社」を訪れる必要がある。家格は高いが経済的に困窮していた田宮家のお岩さんは、一生懸命働きお家の再興を果たして、その功績で「於岩稲荷田宮神社」として祀られるが、その人気を利用して「鶴屋南北」が200年も後の文化文政時代に当時起こった猟奇事件と組み合わせて現在にまで人気が続く「四谷怪談」を書いた。中村時蔵、歌右衛門など多くの歌舞伎俳優の寄贈した石柱が並ぶ。実在のお岩さんは怪談話と関係ないが、やはりお参りして街道歩きの無事を願うにしくはない。道路を挟んで「於岩稲荷陽運寺」がある。しかし、これは戦後作られたものであり、道路を挟んだ向い側にお岩さんを利用したお寺を作るとは呆れた根性だ。
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四谷四丁目の交差点は5叉路である。国道20号線は新宿御苑の下にもぐりこみ、旧甲州街道は斜め右に続く。この交差点には玉川上水水番所跡、四谷大木戸跡碑、水道碑記の説明板がある。そして大きな水道碑記の石板である。
四谷四丁目交差点から、新宿二丁目に向かう途中で「大宗寺」に寄る。江戸六地蔵の一つの大きな地蔵がある。今までに品川の品川寺(ほんせんじ)、巣鴨の真性寺と合わせ3つの地蔵にお会いした。あとの3体の地蔵にもいずれお会いすることになるであろう。境内には閻魔堂があり、金網から覗くと怖いお顔の閻魔さんが鎮座していた。
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新宿三丁目の交差点まで進んできた。伊勢丹があり、流石に賑やかな通りである。ここで左折して新宿四丁目で右折する。右折して直ぐにうなぎの「登亭」があり、ここで少し遅い昼食をとった。
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昼食を終えて、新宿南口の横を通る陸橋を通る。下に新宿らしい賑わいが見える。陸橋を過ぎても若い人の賑わいが続き、どこまで続くのかと思いながら歩いて行くと、文化学園があり、文化祭の最中であった。
shinjyuku_50.jpgshinjyuku_51.jpgshinjyuku_52.jpg高架の高速道路が大きく空を塞ぐ明治神宮への西参道口の交差点の直前に「正春院」がある。徳川秀忠の乳母は初台で、地名として残りその娘は三代将軍家光の乳母となり正春院を称した。これで、このお寺と少し先の初台の地名が繋がる。
東京オペラシティが右側に見えてきた。新しくて素晴らしい施設だ。オペラシティータワーの高いビルが聳え立っている。新国立劇場も素晴らしい。

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創業明治25年の提灯屋があった。ガラス戸に景色が反射して見難いが、珍しい店で思わずシャッターを押した。進んで行くと幡ヶ谷である。幡ヶ谷の地名は八幡太郎義家が後三年(1083)の役の後に上洛した際、この地にあった池で軍旗を洗ったことに起因する。初日の歩きで一緒に歩いている先輩も大分疲れたようであり、笹塚駅まで来て、コヒーショップで休憩の後、今日はこれで切り上げることとした。

2008.11.22

笹塚から分倍河原

本日の歩行距離(26Km)

今日の歩行も、会社の先輩が一緒に歩きたいとのことで、2人での歩行となった。万歩計を忘れたが、先輩の万歩計で歩行距離を知ることが出来た。どうも、甲州街道は最後まで2人で歩くことになりそうな気配で、それはそれで始めての経験で面白そうだ。
さて、7:30に京王線の笹塚駅で待ち合わせ、歩き始めた。相変わらず、国道20号線に首都高速がかぶさり、楽しい歩行道路ではない。少し進むと「環状7号線」との交差点だが、環7も土曜日の早朝でも大変な交通量だ。
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環7との交差点を過ぎると、左側に「玉川上水」が見える。「玉川上水」は青梅線で立川から2駅行った羽村で取水され、四谷の大木戸までの43Kmを流れ江戸の民衆に生活用水を供給していた。開渠となっているのは、今では羽村から杉並区の久我山までで、それ以降はほとんどが暗渠で流れを見ることは出来ないので、このポイントで昔の姿の「玉川上水」の姿が見られるのは貴重である。
800mほど進むと、右側に明治大学和泉校舎が見えてきくる。国道に平行して走る京王線の駅名も明大前である。街路樹と明治大学の植樹に挟まれて少しは、気も晴れる心地の道路が続くが、この辺りは幕末には幕府の「煙硝倉」があったところで、いち早く官軍に押収されたとのこと。幕府にはまともに、戦略/戦術を立てる気もなかったのであろうか。
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明大を過ぎると大きな霊園が続き、その先で右側にある街道の名残の小道に入って行くと、なんと6つのお寺が次々と連なっている。最後に現れる「永昌寺」はもともとは江戸・四ッ谷に有ったのが、明治43年に当所へ移転したそうである。山門前の地蔵尊は1677年建立で300年以上の古いものである。左端にある庚申塔も古そうである。
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首都高が上を走る国道20号線で昔の面影を偲ぶのは無理な相談かと思いながら、歩いていると茶器を売る店があり、所狭しと湯飲みが並べられていた。何となく懐かしい風情の店で、ほっとさせられる光景であった。竹細工の店も以前は30軒ほどあったそうだが、今は明治40年創業の「竹清堂」1軒とのことであったが、残念ながら閉まっていた。
最寄り駅が京王線の「桜上水駅」の辺りに来ると、覚蔵寺(左側写真)と宗源寺の名のお寺が並んでいて、宗源寺には不動堂(右側写真)があり、かつて高台にあった不動堂が高井堂と呼ばれ、高井戸の起源とも言われている。
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上北沢でようやく、首都高速は右に逸れて行き、芦花公園が近づいて国道20号線も右に逸れてゆく。新宿から歩いてきた国道20号線ともしばしお別れである。
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旧道に入って直ぐに、野菜の自動販売機に出くわした。今も農業を営んでいる家なのだろう、奥が見通せないほど広い屋敷の入り口に置かれていた。やっと都心から離れてきた感じがする。そして、「大橋場跡の碑」と「地蔵」が建っている場所があった。碑の形からしても、ここはかつては川が流れていたことが窺える。地蔵は、江戸時代にこの辺りで繁栄した下山一族が建立したものとのこと。だんだん街道らしくなってくる。
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左の写真は千歳烏山付近である。2kmほど続いた旧道も仙川(右側の写真)を過ぎると、また国道20号線に合流する。
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700mほど進むと、右側に「瀧坂旧道」の石碑が建っている。数百メーターで終わってしまうが、残っている本当の旧街道である。瀧坂旧道が終わると、直ぐに右の細い道路の奥に赤い門が見えてくる。大雲山 金龍寺である。
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このお寺の開基は宋より茶の種を持ち帰り宇治に広めた、明庵千光国師栄西禅師で、義経・弁慶が梶原景時の讒訴のため奥羽に落ちるときもこのお寺に立ち寄ったいう。また、閻魔十大王の石像は源頼朝の祈願によるもので、川越から鎌倉に到る街道に十王街道の名として残るとのこと。境内には立派な銀杏の木もあり、保存木となっていた。

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高速道路から分かれた、国道としての甲州街道は東京オリンピック当時に植えられた欅(ケヤキ)の街路樹が大木に育って延々と続く。菊野台交番の横には「妙円地蔵」がひっそりと建っている。若くして金子村に嫁いだ妙円は、夫に先立たれたうえ両目を失明して、尼僧となって村人のために毎日路傍で鉦を叩き、念仏を唱え続けたといわれいる。
村人からの浄財をもとにこの地蔵菩薩を建てたのは文化二年(1805)で、その後もこの菩薩の前で祈り続け村人に加持祈祷を行ってきたという。この話に感動した滝沢馬琴は玄同放言の中で紹介し、渡辺崋山もこの菩薩を描くことになったのである。妙円の墓は深大寺にあり、そのとき叩いた鉦も調布市郷土博物館に保存されているそうである。
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700mほど歩くと、「野川」を渡り、その後再び国道20号線と分かれる。旧甲州街道入り口の表示がある。
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京王線布田駅の近くに達すると、道路の左側には「円福寺」があり、赤い前掛けの六地蔵が旅人を見送っており、すぐそばの道路の反対側には、常性寺があり境内には成田不動尊の分身を祀り、布田のお不動さまとして近在の人々に信仰されてる。
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調布駅北口入り口の交差点に着いた。11:30である。お腹も空いた。近くのラーメン屋で食事を取る。12:00に出発して布多天神社の長い参道を歩く。参拝客が三々五々歩いている。やはり菅原道真を祭る天神様で合格祈願の絵馬が多い。少し遅いが七五三で晴れ着を着せられた少女の姿が目に付く。
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進んで行って、中央高速を潜る手前に「西光寺」があり、近藤勇の大きな像が山門前にある。近藤勇はこの辺りの出身であり、調布市の『近藤勇と新撰組の会』が観光事業の一助となることを願って没後百三十年を記念し、建立したとのこと。近藤勇の銅像は東海道の本宿(もとじゅく)の「法蔵寺」にあり、板橋駅前にもあった。ここで3つ目の銅像を見ることとなった。
車返団地入り口に達し、建っていた観音院で少し休むことにした。子供を遊ばせていた若い母親はこの観音院の関係者でもあるのか、本堂の階段で座っていると、休憩室がありますので、どうぞと勧めてくれた。墓参りの檀家の休憩所かなにかなのだろう。
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甲州街道を歩いていると、調布あたりから元農家と思しき敷地の大きな家が多いが、中には大金を得て豪華な家を建てたのも多いように見える。写真は御影石の塀を施した家であるが、なんと周りの景色が写る塀である。それにしても、景色の写る塀を見るのは始めてである。
西部多摩川線の踏切を渡る。南武線の南多摩駅と多摩川を挟んで対岸の「是政駅」から中央線「武蔵境」を結ぶ短い路線である。1Kmほど進むと「常久神社」がある。領主に常久なる人物がいて多摩川の近くに名田を持つ村落があったが、度重なる洪水を避けこの地に住むようになったととのことだが、村落全員で引っ越して神社を建立したのだろうか。
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府中が近づき、だんだん賑やかな街並みになってくる。府中市八幡町を歩いていると「武蔵国府八幡宮」があり、入り口には「八幡宿」のモニュメントが建っていた。
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ついに府中の「大国魂神社」に到着する。神社名を刻んだ巨大な石碑がある。明治以前は武蔵国の主要な六神社を集めて祀ってあるので六所宮と呼ばれていたそうだ。大国魂神社は5月の「くらやみ祭」が有名とのことであるが、暗闇祭りは、いわば性開放の日であったとのこと。近年では風紀を乱すという理由で、祭りの場を明るくすることになったが、本来は、わざわざ、文字どおり暗闇にして行なったもので、昔はその日に子種をもらうことを、神の子をさずかることと同じに考えていたようだ。
長い参道は、沢山の提灯が吊り下げられていて、本殿に近づくと七五三でお参りに来た親子が目に付いた。本殿左脇には水神さまが祀られており、名水であったのかペットボトルに汲んでいる人がいた。もっとも用心してか煮沸しないで飲まないでくださいと書かれていた。
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大國魂神社から1150mの府中市役所前の交差点には大国魂神社の御旅所(おたびしょ)がある。御旅所とはお祭りで神輿などが途中で休む場所である。ここに、高札場もあったが、もう少し整備してはと思わざるを得ない。

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さらに、300mほど進むと左側に「高安寺」がある。平将門を討ち鎮守府将軍となった、藤原秀郷の館跡に建てられたもので、立派な仁王門と優美さの感じる山門がある。本堂も古刹を感じさせる気品がある。義経と弁慶もここに立ち寄り、頼朝の怒りを解くため般若心経を書写したことがあるとのこと。なお、藤原秀郷は俵藤太の名前でも知られており、瀬田の唐橋から三上山のムカデを弓で退治したとの話しも伝わっている。

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sasazuka_48.jpg3:00頃に分倍河原駅への入り口に達し、今日はここまでとして、駅前の喫茶店でコーヒーを飲みながら今日を振り返り休憩して、次回を約して帰宅についた。

2008.11.30

分倍河原から高尾

本日の万歩計36,950(24.0Km)

今日の甲州街道は、先週の続きの分倍河原からであるが甲州街道側とは南武線の分倍河原駅の反対側(西側)の新田義貞の銅像前で待ち合わせ、2人で歩き始めた。
新田義貞の銅像は府中市が建立したもので、元弘3年(1333)5月8日に兵を挙げた新田義貞が北条泰家率いる幕府軍を破って鎌倉に攻め上がり、終に140年余り続いた鎌倉幕府を滅亡させた史実を後世に伝えるために建立したと説明板にあった。甲州街道に戻ると、直ぐに京王線の踏切を渡る。ちょうど電車の通過に遭遇した。
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今日は、雲ひとつ無い晴天で清々しい空の下を歩いて行くと、とんでもなく立派な冠木門の家に遭遇した。内藤家である。屋敷も広く、これほど立派な門は、東海道、中山道を歩いてもお目に掛かれなかった。旧家なのであろうが、現在に到るまで家勢を保ち続けているのはすごいことだと思う。
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本宿町(ほんじゅくちょう)の交差点で、国道20号に合流する。合流点の三角地帯には本宿の碑が建っていた。200mほど進むと道の右側に「熊野神社」があり、緑がかった色彩の注連縄(しめなわ)が鳥居にぶら下がっていた。この注連縄の材料は木材パルプを原材料にした天然成分繊維(レーヨン)のアンダリアで、土に還る環境に優しいものであるが、雨にも強い全天候型である。正直なところは、稲藁が最近手に入り難いことから採用されたものであろう。
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神社本殿裏には、全国で最大最古の上円下方墳とされた古墳の発掘が始まっていたが、まだまだ一般公開するかしないか、するとしても何時か全てが予定もたっておらず、長い期間を要するものであるらしかった。本当に今日は良く晴れている。南武線を越えて国道を進むと富士山も白く輝いて見えた。
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国道は国立インター入口交差点で、左に離れて行き500mほど進むと、左手に「谷保天満宮」がある。ここの天満宮の本殿は街道から下った、多摩川の河岸段丘の崖下に建っているが、平安時代の頃は街道も崖下を通っていたとのこと。また、多摩川の河岸段丘の崖下はハケと呼ばれていたそうで、湧き水も多く、まず人々が住みついたところであったとのことである。階段を下りて行くと、湧き水を模した流水もある。
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谷保天満宮は菅原道真の3男の道武朝臣が建立して、父道真の像を刻みここに祀った。しかし、その像の出来が今ひとつであったため谷保天(野暮天)と呼ばれるようになったとのこと。それにしても、流石に合格祈願の絵馬の数がすごい。写真のような絵馬を掛ける場所が4箇所も設けられていた。それに、天満宮と言えば牛の像があるが、これは菅原道真が亡くなったとき、牛が悲しんで遺体を乗せた車を引こうとせず、動かなくなったとの伝承によるものである。
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天満宮本殿の左には、道真公が5歳のときに詠んだ「紅わらべの歌碑」があり、「美しや紅の色なる梅の花あこが顔にもつけたくぞある」とある。毎年この歌を元に作られた巫女舞が2月末に小学校低学年の女の子によって行われるとのこと。
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歩いて行くと、立派な家が多く、その中でも目を引いたのは手入れの行き届いた庭木の間に、つるべまで置いてある井戸が見えたことである。もう使ってはいないのだろうが、昔の井戸を潰さずに大事に残してあるのだろう。そして、矢川駅の入口の交差点の手前で左に入ると、長い参道の南養寺がある。
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この寺は臨済宗建長寺派の古刹で、庭の木々が紅葉していて綺麗であった。寺を後にして進むと直ぐに矢川の小さな流れを渡るが、住宅地にあって、綺麗な水の流れを保っていた。
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矢川を渡ると、道の右側に「五智如来」がある。道路の向こう側で車の通りもはげしく、道路の反対側から写真撮影を行った。五智如来とは仏教で言う五種類の智を備えた仏様で大日如来の別称とのこと。江戸時代に八王子在住の越後人数人がこの地に移り、郷土で信仰していた「五智如来」を祀るため建立したと書かれていた。500mほど街道を進むと、元青柳村の秋葉常夜燈がある。植え込みに囲まれ大事にされている。
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左側に「至誠学舎」の施設を見ながらさらに進むと、日野橋の交差点である。ここは五叉路になっているが、奥多摩街道の方に進む。200mほどで左に曲がる十字路に出るので旧甲州街道と道標の出ている通りの方に左折する。
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100mほどで、右側に柴崎市民体育館があったので、お手洗いを借り、根川緑道の綺麗な流れを眺めて進むと、日野の渡し場のモニュメント。「多摩川の渡し場跡なる我が住まい河童ども招びて酒酌まむかな」の歌碑があった。
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多摩川の堤防に出て、右折して立日橋(たっぴばし)を渡る。多摩川モノレールが同じ橋を高架で渡る。
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橋から川面を見ると、釣り人が櫓に乗って川面に腰を下ろし、鯉を狙って糸をたれていた。この立日橋からも富士山が綺麗に見えた。
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立日橋を渡ると、日野市街が近づいてくる。国道にぶつかり左折すると、直ぐに「日野本陣」がある。甲州街道に3つ残っている本陣の内の1つである。以前は「蕎麦屋」としても使われたとのこと。見学料を払って内部を見学する。上段の間が無いと思ったら、別棟になっていて今は別のところに移設されたという。このため国の文化財に指定されないのだという。正面の入口の構えなど、立派なのにと案内人は、残念がっていた。本陣を出ると向い側にある図書館には問屋場跡の碑が建っている。
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300mほど進んで日野市役所入口の交差点をすぎると、八坂神社がある。説明板によれば、「むかしむかし、この付近の土淵と言うところで多摩川の洪水の後、淵に妖しい光が数夜に渡って見えたので、故老が拾い上げると、金色燦然と輝く牛頭天王の神像であったという。その像を祀ったのがこの神社の起源で寛政十二年(1800)のものです。」とある。9月中旬の例大祭の千貫神輿は近県でも有数な神事で絢爛豪華な祭り絵巻が繰り広げられるとのこと。
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八坂神社を過ぎて、次の信号を左折し、宝泉寺にぶつかったら右折して日野駅横のガードを潜る。ここで、昼食をとり、しばし休憩して、大坂の急な坂を上って行く。坂を上りきると国道20号と合流して、ここから、日野自動車、コニカミノルタ、オリンパスなどの大きな工場が続き、3kmほど進んで石川入口の交差点に達すると、とうふう料理で有名な「うかい」がある。
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国道16号線との交差点を過ぎると、左に300mほど続く旧道への入口があり、久々に静かな旧道の雰囲気を味わう。そして、大和田橋のたもとに出て橋を渡る。昭和20年8月2日に日野市全体では2時間で1600トンもの焼夷弾を受け、80%の家屋が消失し450名の人が亡くなった。このとき多くの人がこの橋の下に逃げ込み助かったが、もちろん、この橋も50発もの焼夷弾を受けたとのこと。橋を渡って振り向くと「ホテルニューグランド」付属の結婚式場「グランド ビクトリア」で挙式したカップルが大勢の人達に祝福を受けているのが見えた。焼夷弾が降り注ぐ時代とは正反対の平和な光景だ。
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大和田橋を渡って右折し、八王子五中を過ぎた角で細い通りに入って行くと、100mほどで右側に小公園があり、竹の鼻一里塚跡がある。公園の名前は竹の花だが、武蔵名勝図会などには竹の鼻と書かれているとのこと。直ぐ隣には永福稲荷神社があり、大きな力士像がある。説明板によると、八光山権五郎という力士で江戸中期に全国を遊歴して相撲を取り、終に敵するものがなくなり、天皇から御盃と錦のまわしを賜った。帰郷後に、稲荷神社で相撲を興行し、それ以来毎年8月2日に近郷の力自慢によって相撲が奉納されるようになったと記されていた。
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道は突き当たって、左折すると200mほどで国道20号線に突き当たり左折する。八王子駅入口の交差点を過ぎて進む。流石に賑やかな通りであるが、昔の面影はほとんど残っていない。わずかに、八日市宿跡の石碑があり、説明板も設けられていた。
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そして、古い蔵と「なかのや」の染め抜きの暖簾のある「こんにゃくや」が見つかった。しかし、今日は休みか閉まっていた。
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国道を2Kmほど進むと、合流していた陣馬街道と別れて国道20号は左斜めに進む。ここからは街路樹として銀杏が植えられていて、この銀杏並木は高尾駅までの4Kmほども続く。
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西八王子駅入口を過ぎて300mほどの長房団地入口で右折し、僅か7?80mで左折する。この左折の場所には二基の石碑が建っていて、一つには右高尾山、左新覚寺と書かれていて、もう一基には昭和2年に国道が出来た当時の様子がイラストで書かれていた。
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旧道は300mほどで終わり国道に再び合流するが、ここで珍しくもチンドン屋に出くわした。最近は見ることもなくなり、本当に珍しい。そして国道を渡れば「長安寺」である。家康の命を受け五街道を敷設した大久保長安が眠っているとあっては、ご挨拶して行く必要がある。長安はもと武田信玄の家臣で大蔵藤十郎と言ったが、家康に仕えるようになって大久保長安と称した。計数に明るい才能を家康に認められ、金山、銀山の開発、五街道の敷設などを行い、総奉行として権勢を誇ったが、本多正信の陰謀で金山経営で不正があったとされ、一族ことごとく処刑された。長安も、もちろん罪人で葬式すら許されなかったが、この寺の草創が1626年の長安十三回忌の年であるので、その頃には許されたのか、お寺には葵の御紋まで付いているのを見ると、本多正信との政争が見直され、功績が再評価されたものと思われる。
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また、銀杏並木の国道を1Kmほど進むと、多摩御陵入口に達し、直ぐに右に旧街道の入口がある。
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この残っている旧街道も立派な家が多く、600mほど続く。だいぶ日も傾いてきて、旧道が尽き、国道に合流して400mほど進むと今日の目的地の高尾駅である。時刻は4時で、駅の近くでコーヒーを飲んで休憩して帰路に付いたが、今日は天気も良くミシュランに紹介された高尾山への登山客の帰りにもぶつかり、高尾駅のホームは賑わっていた。
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2008.12.13

高尾から藤野

本日の万歩計32,479(21.1Km)

今日は、おそらく今年最後の街道歩きである。予定では高尾から藤野までの、およそ20Kmを歩く。8時半に高尾駅に到着した。若干遅くなると言っていた先輩の到着を待って見渡せば、陣馬高原の方にでも向かうのか、大勢の登山客の姿を見ることができた。
8時50分には先輩も到着して、今日のコースを考え駅前のコンビニで多少の食料を買い込み出発した。いつの間にか、登山客の姿も疎らになっていた。国道20号線を歩き始めるが、土曜日の朝は、人通りも、車の通行もさほど多くは無い。
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ほどなく、南浅川に架かる両界橋に着く。国道とJR中央線が同時に川を渡っている。川を眺めると、国道も鉄道も無い頃は、なかなかの景観を誇っていたのではと思えるものであった。100mほどで旧道は国道と別れ右に入って行く。車の通りはあるが、静かな街並みである。
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山中にあると勝手に思い込んでいた、小仏関跡が簡単に現れた。戦国時代には富士見関と呼ばれていたという。江戸時代に入り徳川幕府の管轄になり、他の関と同じく「入り鉄砲と出女」を厳しく取り締まった。2つの石が据え付けられているのは、前の方には手形を置き、後の方の石に手をついて通行の許しを乞うたとのこと。しかし、地元の人々は交代で下番として勤めさせられていた関係で比較的簡単に通行できたようである。
関所跡の屋敷跡と思しきところは、広場となっていて「甲州街道駒木野宿」の大きな看板が立っていた。
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道端にはどのような由緒のものか分からないが、お地蔵さんと墓石が屋根の下に納まっており、街道らしい情緒を醸し出していると思っていたら、高速道路の圏央道へのジャンクションが見えてきた。
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高速道路は圏央道へのジャンクションだけでは満足できないと見え、国道20号線へ繋ぐトンネルでも穿つのか、大工事が継続していた。対照的に水行を行う道場である「蛇滝水行道場入口」の道標が立っていた。
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戦国武将の行き交った道も、空を切り裂くように幾何学模様の道路が空を横切る風景は夢想だにされることはなかっただろう。近年の科学文明の凄まじさを見る思いがする。そして、そのジャンクションの下に忽然と現れたのは、豆腐を製造販売する峰尾豆腐店である。摺差(するさし)の豆腐と呼んでいて、寄せ豆腐やおからドーナツが人気で、高尾山ハイキングの帰りにわざわざ寄る人も多いという。
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そして、真新しい本堂の常林寺を過ぎると、浅川国際マス釣り場である。
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マス釣り場を過ぎると、道は尾根を回って中央線の線路から離れるが、回り終えると綺麗なレンガのトンネルを潜る。明治34年の八王子ー上野原の開通に合わせて作られたのであろうが、当時は単線であったが、将来の複線化を考慮して幅を決めて作ったのか、後に幅を拡張した気配もない。トンネルを過ぎると、鉄道の線路と道路の間に水路が設けられていて、途中に堰きとめられて「やまめ」が泳いでいるのが見える場所もある。そして鉄道は小仏峠のトンネルに姿を消す。
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バスの折り返し点に着いた。登りの勾配も徐々にきつくなって来て汗も出るようになり、着込んでいる衣服を脱いで歩行を再開。
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寶珠寺というお寺があり、立派なお寺のようであるが本堂は階段の遥か上の方であるので、入口からのお祈りで済ませて、先に進むことにした。まだ舗装道路が続いているが、九十九折で急な坂道を上って行く。紅葉の時期は過ぎたが、最盛期は美しいことを想像させるもので、まだ余韻も感じられる。
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終に舗装道路も尽きて、砂利を敷いた道となる。少し進むと水場があったので、水筒に水を補給して益々急になる道を進む。
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最後の登りは、流石にキツイ。30分ほどで小仏峠の頂上に着く。旅人の無事を願って建てた小さな地蔵があり、花が添えられている。
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小仏峠の頂上は広場になっていて、かつては茶店もあったが今は閉鎖され、青いシートか被せられて、危険防止のため立ち入りを禁止している。竹で作った幾つかのベンチは置かれているので、コンビにで買ったおにぎりをかじり、しばし休息を取る。影信山から陣馬高原へ向かう登山道、城山から高尾山への道も、ここから通じているので、ハイキングを楽しむ人達も多く行き交う。街道歩きの我々は「小原宿」への道標にしたがって下って行く。
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小仏峠からの下りの道は、落ち葉の積もる道であったが、歩き易い道であった。最も下りだから言えることで、上りとなるとやはりキツイ道であろう。
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舗装道路に出て50mほど進み、Uターンして美女谷の方に進む。美女谷の美女とは、中山道の加納から垂井に出てきた、照手姫のことである。再度記すと、伝説では、武蔵・相模の郡代の娘だった照手姫は、愛する小栗判官を殺されたうえに青墓の長者へ売られてしまう不運な女性である。
高速道路を潜ると、直ぐに相模湖への分岐点となるので、ここで左折する。
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この辺りは谷が深く、綺麗な流れを見ることが出来る、そして、直ぐに再び高速道の下に来る。ここには甲州道中板橋と書かれた木杭が立てられ、旧甲州街道はここから登って高速道路の下を進んで小原宿に出るが、今は通行不可能と書かれていた。
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少し進んでレンガ作りのガードで中央線を潜ると、国道20号線に合流して右折すると、ほどなく常夜燈を模した「小原の郷」の大きな看板が見えてくる。
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小原宿の本陣前に着く。日野本陣、花咲本陣と合わせ甲州街道では3つだけ残る本陣である。最近まで人が住んでいたが、相模市に管理を委託したそうで無料で公開されている。内部を見学させてもらったが、2階は明治に入って養蚕に使われていたとのことであり、古い道具類が展示されていた。
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本陣を後にして500mほど進むと、右に旧道の入口があり中央道の近くまでどんどん国道から離れて行く。眼下にJR中央線がトンネルから出ては直ぐまたトンネルの情景を見ながら進むと、道は左に曲がってトンネルの上で中央線を越すと、直ぐに「えんどう坂」と書かれた標識が立っている。ここで鋭角に曲がってガードレールの切れ目から階段を降りるが、この階段が「えんどう坂」である。道なりに進むと直ぐに国道20号にぶつかり、ここに「甲州街道与瀬宿」の標識があり、右折して進めば直ぐに相模湖駅入口の交差点である。
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お昼時間を大分過ぎていたが、少し先に「見晴らしドライブイン」と言うのがあることが、地図で分かったので、相模湖を眺められる素晴らしいところとの期待を込めて歩いていった。少し進むと、与瀬神社の大きな鳥居と、分断された参道のために高速道路を越す横断歩道への階段が続いているのが見えた。そして、「甲州道中横道」の表示杭が立っていた。
kobotoke_45a.jpg時々相模湖の湖面が見られ期待は高まったが、着いて見てがっかり。室内からは湖面も見えない、いわゆる大衆食堂。お腹も減り諦めて食べることにしたが、味覚的にも何とも冴えない食事であった。食事を終えて国道を少し戻り、旧道への右の入口を上って行く。ここからはアップダウンが多いが、中央道を左に見ながらの、のどかで静かな旧道を進んで行くと、道端に庚申塔や二十三夜の石碑があり、かつての街道を行く人々の姿を髣髴とさせる。

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「横道配水池」への鍵の掛かった門が右に見えてくると、少し先で左折して坂道を下る。直ぐに中央道を歩道橋で渡り、さらに進むと「観福寺」の横を通り、なおも進む。道端に「椚戸(くぐと)」の表示杭があり、またもや石仏が建っていてここが旧街道であることを示している。
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ようやく、国道に出て、右折して進むと左側に「吉野宿ふじや」と書かれた資料館があり、無料で見学できた。この家は江戸時代は「旅籠」を営んでいて屋号が「ふじや」であったが、明治29年の大火で消失したのを期に、養蚕農家として再建した家だとのこと。この地方で見つかった古文書のコピーなどが多く収集されており、2階には古い道具類も収集されて並べられていた。向い側は本陣跡で、ここも残念ながら吉野大火で消失してしまったとのこと。
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沢井川に架かる吉野橋を渡ると、直ぐに右に旧道は別れ、少し進むと藤野中でその校門前には色々な廃材を利用したロボットのモニュメントがあった。
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その後は、JR中央線の線路脇の道を藤野駅に向かって進むと、藤野町が掲げる芸術村構想で、金属造形のアーティストの高橋政行氏作「緑のラブレター」の大きな屋外アートが見えてくる。
藤野駅に着くと4時少し前で、今日はここまでと、3時59分発の電車に乗り帰宅した。

2009.03.21

藤野から猿橋

本日の万歩計43,839(28.5Km)

昨年の12月13日からの久しぶり歩行である。3月に入ったら再開と考えていたが、週末は雨が多く、やっと歩くことが出来た。
藤野駅には8:22分着の電車で、先輩と待ち合わせ、8:30の出発となった。
出発して直ぐに左手の山の中腹に、前回よりも間近に「緑のラブレター」のモニュメントが見える。
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今日は、空には雲ひとつ無い快晴で青い空が広がっている。
しばらく進んで、JR中央線を横断橋で横切り中央高速の下に設けられた歩道を過ぎると、増珠寺があったが早朝のためか境内への入口は閉じられていた。ここには寛政11年(1799年)当地関野に生まれた、力士追手風喜太郎が五具足・燭台などを寄贈した寺との案内板が建っていた。追手風は土俵を退いてからも年寄となり相撲会所の要職に着き、その部屋は現在まで続いていて 元立浪部屋の力士、大翔山が1998年から追手風親方として部屋を構えている。
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増珠寺から600mほど進んで、名倉入口の信号機を見て国道20号線から右に離れ急な坂道を下りて行くと、境沢に架かった境沢橋がある。どうと言うことも無い橋だが、ここがかつての相模の国と甲斐の国の国境であったところである。少し進むと、相模湖の湖尻に架かる境川橋があり、ここが現在では神奈川県と山梨県の県境となっている。橋の上には「わかさぎ」釣りの人達が糸を垂れていた。「橋上での釣り禁止」の警告板が幾つもぶら下がっているのにである。
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甲州街道は、この境川橋を渡らず、右にUターンして九十九折の急坂を上って行く。坂の終わりに近づいたところに、「甲州街道史跡案内図」があり、道路の反対側には「諏訪番所跡」の碑が建っていた。
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街道としての面影はまるで残っていない道を進むと、諏訪神社があり、杉の大木が歴史を感じさせてくれた。少し進むと、右手に旧甲州街道の巨大な石碑があったが、「あいさつをかわす思いやりの道」とはいかにも現在の世相を反映した言葉に見える。
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中央高速を下に見て陸橋を渡ると、「疱瘡神社」がある。ここは「塚場の一里塚跡」でもあり、江戸から17番目とのこと。疱瘡は今では死語になった感があるが、主に天然痘を指し、私の子供の頃は予防接種を受け、そのあとが上腕部に残っている。
この神社を過ぎると、上の原の市街地に入って行くが、ここも街道の雰囲気はほとんど残っておらず、本陣跡は「ホテルルートイン」とのことだが、何の表示も無い。しかし、上野原は「酒まんじゅう」が名物らしく何軒かの店があったので1軒の店で1つ買って食べながら歩いた。なかなか美味しかった。
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さほど大きくない上野原の市街地区は直ぐに過ぎて、国道20号と分かれて500mほど進み、再び20号線と出会って、その上を陸橋で渡る。陸橋の上からはこれから進む「鶴川宿」がパノラマとなって望むことが出来る。
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国道20号線を渡って、鶴川への道路を進み、大きくカーブしているところは、歩行者だけのショートカット通路を進み、鶴川橋に向かって進む。
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鶴川橋を渡ると、「鶴川宿」の碑が建っており、ここから立派な家屋の多い静かな家並みが続く。
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300mほどで街並みは終わるが、本陣跡も分からない。火災で宿が全て焼けたからだろう。家並みを過ぎて左に曲がり急坂を上る。さらに家屋がまばらになるが、石作りの立派な蔵があった。家の疎らな集落を700mほど進むと、中央高速にぶつかり、陸橋を渡って、大椚宿(おおくぬぎしゅく)に入って行く。
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直ぐに、真新しい「大椚一里塚」の碑があり、静かな集落が続く。また、このあたりは、大きな敷地の片隅に、「二十三夜」や「馬頭観音」の石塔を多く見かけ、紛れも無くかつての街道を思わせてくれる。
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少し進むと、右側に古い祠と石碑が現れ、椚宿発祥の地と書かれていた。「椚宿」は鶴川宿と野尻宿の間の宿かと思っていたが、距離的に間の宿を置く必要もない場所であることから、江戸期以前の古いの宿であったのであろうとのことである。少し進むと、「吾妻神社」があり、大きな杉の木が見えてきた。
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吾妻神社には街道歩きにはありがたい公衆トイレもあり、階段をで上の台地に上ると、真新しいお堂が建っていた。まだ、賽銭箱もなく開眼の儀式もまだなのではと思われた。
この神社を過ぎると。道路の左側は広大な「オリンピックゴルフ場」が続き、500mほど進んだところに、「長峰砦跡」の碑があった。
武田信玄の家臣の加藤丹後守が、北条の侵入に備えるために砦を築いた場所であるが、中央高速の建設で、ことごとく損なわれたため、せめてもの思いで石碑を建てたとのこと。
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長峰砦跡から500mほどで「野田尻宿」への高速を横切る陸橋がある。しかし、ここでは渡らず、そのまま500mほど進んだところの、中央高速のサービスエリアで昼食をとることにした。三連休の真ん中の快晴で、サービスエリアは大変混雑していた。昼食をとった後は、元の横断橋に戻り野田尻宿の方に進む。しかし、往復1Kmで途中は小峠を越えるような地形で体力の消耗も無視しえず、良い選択ではなかったと、いささか後悔するはめになった。
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野田尻宿も静かな街並みで、歴史的な遺構は残っていない。明治天皇御小休所址の碑は、ここに本陣があったのだろうか。そして、鶴川宿と同じデザインの野田尻宿の碑が建っていた。
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小さな宿で、直ぐに終わりになり、街道は左に曲がって進む。直ぐそばに「談合坂サービスエリア」があるが、隔絶され静かな時間がゆるやかに流れているように感じる。最後は「長嶋神社」で宿は終わる。
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街道の道なりに左に曲がって行くと、西光寺の門前に「お玉ケ井」の碑がある。伝説に語られる女性はいつも美女であるが、「旅籠の恵比寿屋の美しい女中、実は竜が、長峰の池の主である竜神との念願の恋を実らせたお礼にと、水不足で悩む野尻宿の一角に、澄んだ水をこんこんと湧き出させた」という。正面にある「西光寺」は裕福なお寺と見え、立派な建物が林立している。
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西光寺を右側に回りこんで行くと、高速道路に沿って急な上り坂になり、上りきったところに、石畳風の高速道路を跨ぐ歩道橋がある。渡って進むと、舗装の無い道路となり、杉林の中の進む道となるが、直ぐに県道30号に合流する。
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県道に出て右折すると、向こうからご夫婦で歩いている方に出合い、何処まで行くのかお聞きすると、我々が出発した藤野までだという。右手の石垣の上には「荻野一里塚跡」の説明板があた。そして、また中央高速を横断橋で渡る。
渡ると直ぐに右に上って行く道があり、これが旧甲州街道である。入口には「矢坪坂の古戦場跡」の説明版が立っている。

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細い上り坂を上って行くと、武甕槌(たけみかづち)神社入口の立派な鳥居前に到達する。既に上ってきた方が鳥居の根元で休んでいて、盛んに神社まで行って来ることを勧めるが、神社はかなり上のようであり、久しぶりの歩行で疲労も蓄積してきたのを感じていたので、寄らずに甲州街道を進むことにした。
神社を過ぎると、道は細く片側は崖になっていて、手すりがないと怖いと感じる道になる。「座頭転がし」の立て札もある。このような危険な場所にはよく「座頭ころがし」の名前が付いている。
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細く険しい道が突然終わり、舗装道路に出ると、犬目宿の看板があった。犬目宿も山間の静かな宿で、上野原市の共通デザインの「犬目宿」の碑が、犬目宿直売所の前に設置されいた。何を売っているのかと覗くと、野菜、果物などで、休んで行ってとの声を聞き流しながら先に進む。
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少し先には、犬目の兵助の生家の説明板があった。天保4年の飢饉に続いて天保7年(1836)の大飢饉がやってきて、各村の代表者は救済を代官所に願い出ても、聞き届けてもらえず、米穀商に穀借りの交渉をしても効き目はないので、犬目村の兵助と下和田村(大月市)の武七を頭取とした一団が、熊野堂村(東山梨郡春日居町)の米穀商、小川奥右衛門に対して実力行使に出た。一揆後、兵助は逃亡の旅に出るが、その『逃亡日誌』が残っていて、埼玉の秩父に向かい、巡礼姿になって長野を経由して、四国にまで渡り、更に伊勢を経ている。この間の人々の善意の宿や、野宿を重ねた1年余りの苦しい旅のようすが伺えるという。晩年は、こっそり犬目村に帰り、役人の目を逃れて隠れ住み、慶応3年に71歳で没してるとのこと。
そして、犬目宿の枡形になって直角に右折するところに、「龍澤山寶勝寺」がある。
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直ぐ横には「空」と書かれた大きな球形のオブジェがあった。そして、進むと「君恋の一里塚」。ほぼ完全に残っているようで貴重だ。以前伝えられた裏側の崩落は、防止工事がなされていた。
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急坂の下りで、膝や関節に痛みを感じるようになって、途中で休憩を取りながら下って行き、中央高速を潜ると、ようやく国道20号線にぶつかり、歩いて行くと「鳥沢駅」入口で、一里塚、鳥沢の表示杭が見つかった。
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ここで、帰ることも考えたが、まだ3時であり、今日は何とか猿橋が見たいということと、次回の予定も考慮して、進むことにした。少し進んで国道20号線から右に分かれると、かなり古いと見られる水路の橋が見える。後で調べたら東京電力の水力発電所の放水路のようであった。
重い足を引きずり、2Kmほど国道を進み、ようやく右に逸れて「猿橋」にたどり着く。説明板があるが、7世紀に建てられたのではないかと推察されていて、当時、日本に渡来した百済の職人が、猿が藤蔓を伝って川を渡るのを見て作ったと言われ、戦国時代は戦略の要所であり、江戸時代に至っては文人墨客がここで杖を止めて多くの作品を残したと書かれている。現在の橋は昭和59年8月に架け替えが完了したもので、橋の長さは30.9m、橋の幅3.3m、川面まで30mで、総工費3億8千3百万円だったとのこと。紅葉の季節は渓谷美が殊更に彩られるという。
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最後は、猿橋駅に向かって歩き、「三嶋大明神」の鳥居を右に見て、もう一歩も歩くのは嫌だとの感じで駅にたどり着く。
長いブランクの後の歩行で、かつ甲州街道を歩き始めて最も長距離の歩行で、厳しかったが、楽しい一日でもあった。

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