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2010.05.28

喜連川(後半)から大田原・・・(旧奥州街道)

喜連川に入って2つめの内川を「金竜橋」で渡る。歩行者のための側道橋が付いているので、のんびりと渡れる。内川は少し下流で荒川に合流するが、一昨日の雨の影響か、水流が早い。
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金竜橋を渡ると、田町の集落である。民家も途絶え、上り坂に差し掛かったところに「金鶏山」の額が赤い鳥居に掛かった「金鶏神社」がある。注連縄の形が奥州街道に入って見かけるようになったタイプである。
少し先には、大きな双体の道祖神。このような大きな道祖神を見るのは初めてである。
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上り坂の勾配が少し緩やかになったころに菖蒲沢公園の信号機がある。右に続く広い道は「フィオーレ喜連川」への入口である。温泉つき住宅地として大規模に開発されたところである。なお、左方向にはJR東日本が開発した「ビューフォレスト喜連川」があるそうで、こちらは電車内の広告で良く見かけられる。
進んで行くと、「ヤマギシズム社会那須実顕地」の看板が建っていた。昔社会問題を引き起こした山岸会は今も活動を続けているようだ。
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少し先には、「栃木米コシヒカリ」の大きな看板を掲げた、JAの大規模な倉庫が建っていた。この先は、また森の中の道であるが、車の通行が多いのが難点だ。
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森を抜けると、南和田の集落で田園風景が広がっている。その後も2Kmほどは田圃の中の道を進み、ようやく「下河戸」の信号に達して右折し、25号線から別れ114号線となる。前に遭遇した大きな双体道祖神を上回る大きさの道祖神がある。出来栄えに関しては、田町の集落で見たものより少し劣るように思える。
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道は大きく左にカーブして進み、江川に架かる宮下橋を渡る。農業用水としても貴重な川なのであろう。500mほど先で右に入る道があるが、その分岐には「源氏ぼたるの里」の看板が建っていた。旧東海道を藤川から池鯉鮒に歩いたときに、「乙川」のほとりで「岡崎源氏蛍発生地」の碑を探したことを思い出した。
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さらに、400m程進むと「きつれ川幼稚園」があり、子供達の元気に遊ぶ姿が見えていた。少し進んで、左手の田圃の土手に「ひなげし」の赤い花が美しく咲き誇っていたが、最近ニュースで伝えられた栽培禁止の「けしの花」のことが頭をよぎる。
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進んで行くと、左側にゲートボール場があり、奥に「明治天皇御休輦之處」の碑が建っていた。
その後、右手にゴルフ場がある道を進んで行く。やがて、さくら市と大田原市の境の看板が見えてきて、その直前に「ほほえみ地蔵」があった。「ほほえみ地蔵」は早乙女坂にもあったので、今日 二つ目である。
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5?600mほどで、48号線にぶつかり、その丁字路脇に与一の里の名木の説明板が建っている。高久家のツツジ群である。目通り0.3m、樹高5mとあり、推定樹齢は200年と書かれていた。推定樹齢200年でもツツジの木では大木とは言い難いが、樹高5mのツツジはやはり珍しいことに違いない。是非、花の盛りに見てみたいものである。
さらに、700m程進むと、右手に金網に囲われて古い庚申塔が3つ建っていた。
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右手に「大田原市藤沢地区土地改良区、県営圃場整備事業完成記念」と彫られた大きな石碑が見えてきた。この辺りの土地改良事業の記念碑であろうが、「和郷」の文字の下には、副総理兼外務大臣・渡辺美智雄書と書かれている。その子息の「みんなの党」代表の渡辺喜美を思い浮かべた。
長く、変化の乏しい道を歩いて、ようやく佐久山の街の入口の佐久山前坂の交差点に達した。交差点の角に和菓子屋松月があり、明治神宮献上の薯蕷(じょうよ)饅頭が有名らしいが、今日は大田原まで行きたいと考え、寄らずに先を急ぐことにした。
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前坂の交差点を横切り、急な坂を下って行くと、左手に多数の石仏が集められていて、その先には観音堂が建っていた。
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さらに進むと、左手に二十三夜塔が建っていて、その横には古い階段の上り道がある。上にもお堂がありそうな気配だが、スキップした。
もう五月も終わりに近いが、まだ鯉のぼりが泳いでいたが、周りの風景によくマッチして見えた。
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佐久山前坂の交差点で左に進んだ自動車道路と合流すると、佐久山宿の中心域である。佐久山は、文治3年(1187)那須次郎泰隆(那須与一の兄)が築城して、佐久山氏を称して居住し、以来佐久山氏の居城となった。その後、同族の福原資孝(すけたか)に攻められ、佐久山城は一旦廃城となったが、元禄15年(1702)、福原資倍(すけます)が修復を加え、以後福原氏の佐久山陣屋として維新まで存続した。
進むと、壁に那須与一の絵が描かれた公衆便所があったが、立派に見える。小島屋の屋号の和菓子屋も立派で趣がある。最近、こういう店は少なくなってきた。
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左側に「村上英俊」の顕彰碑がある。幕末明治期のフランス学者でフランス学の創始者ともいわれる。この地に生まれ、江戸で医学,蘭学を修業したのち,信州松代に移住。嘉永1年(1848)、佐久間象山の勧めによりフランス語を独習する。松代藩主の後援もあり、同4年江戸に出て松代藩邸内に住み、著作に専念、多くの書物を刊行した。また明治1年3月15日、仏学塾達理堂を開き、同18年、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を授与された。
佐久山郵便局の先で左に入って、進むと「実相院」がある。山門は、正徳年間(1711?1716)の建立で、和唐折衷の四脚門で市指定文化財である。本堂の奥に、福原資倍以来福原家28代、四郎資生(明治12年歿)までの墓所があるとのことだが、どなたかの葬儀が行われている様子であり、遠慮した。また、赤穂浪士の討入りの大高源五と大高幸右衛門の墓もあるとのこと。二人の母が親戚である佐久山大高家に身を寄せていて、分葬したものだという。
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道は大きく右にカーブしながら下って行く。途中左に「正浄寺」があり、ここでも葬儀が行われていた。小さな町だが、たまたま2つの葬儀が重なったようである。
時刻は3時半で、疲れもあり、ここで切り上げようかと考えたが、おそくなっても大田原まで行こうと決心して、箒川に架かる岩井橋を渡った。
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橋を渡って、直ぐに始まる坂道を上って行くと左手に、古い石碑群があった。馬頭観音らしいのだが、文字は風化して読めなかった。1Kmほど進んで左手に「養福院」を見る。なかなか太田原は遠い。
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少し先で、「イトヨ」が棲息する吉沢を渡る。進むと右手に立派な長屋門の家。
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この辺りは一面の麦畑で、向こうには雄大な山並みが見える。そして進むと、左に「薬王寺」がある。
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道路の薬王寺側と反対には、与一の里の名木・国井宅の赤マツの説明板があり、目通り1.7m、樹高7m、推定樹齢約200年の記述があり、姿の良い赤松が枝を茂らせていた。
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少し進んで、目立たないが「めがみばし」と書かれた橋を渡る。川面を覗くと綺麗な水が流れている。本当に水に恵まれた土地との印象である。
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とても立派な四脚門があった。代々名主を務めた国井氏宅で、説明板によれば三代将軍家光の時代に奥州街道に八木沢部落が開かれ、それを記念しての建立であろうと書かれていた。門内には、最近作られた屋根付き囲いに入った石が建っていた。寛永4年(1627)と彫られていて、後年の建立と思われるとのこと。
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百村川を筋違橋(すじかいはし)でわたる。この橋を渡って以降は、1Kmほど川の堤防の道を歩くのが気持ち良い。水深は浅く、子供の水遊びにも最適な流れに思えた。
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百村川と別れて、さらに1Km程進んだ信号のある交差点を渡ると、左側に特徴のある注連縄の八幡神社があり、通り過ぎると「佐久山街道」の道標も見えてくる。
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さらに、1Kmほど進んでようやく大田原市街入口の神明町の交差点に達する。右折して進むと、直ぐの左手に愛宕神社がある。ほとんど放置状態と思われ荒れ果てている。道の右手には「忍精寺」で、こちらは立派な境内と本堂である。浄土真宗東本願寺派の寺である。
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続いて、左に立派な構えの「薬師堂」がある、寛永年間(1624?44年)に大田原政清が建立したが、大田原宿の大火で焼失し1793年に再建された。薬師堂と堂内にある江戸中期の金剛力士像の2体ならびに境内にある石造りの七重塔、舎利塔は市の有形文化財となっている。また、境内からは、太田原の市街の通りが良く見える。
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国道461号となっている通りを進むと、左に旧街道らしい古い家屋が建っていた。そして、大田原信用金庫本店前に「那須与一像」がある。
時刻は午後4時半を回っており、今日はここまでとタクシー会社に電話して、西那須野駅に向った。
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歩くと遠くても、タクシーなら10分ほどで駅に着く。駅前は綺麗に整備されている。
30Kmを越えて歩くと流石に疲れ、帰りの電車の中では、ほとんどの時間 眠っていた。
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コメント

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今晩は
こちらは始めての書き込みです。
順調に奥州街道、進んでおりますね。
いつも丁寧に纏められておりますので
毎回、楽しく懐かしく拝見しております。
で、今回の道祖神は大きいですね。
これだけ大きいのは、他の街道では見たことがありませんでした・・・・

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Hitoshさん、
訪問ありがとうございます。
奥州街道を歩き終えると、5街道歩いたことになるのですが、最初に東海道を歩いたときより、Hitoshさんのページを見させていただいております。
本当に田町の道祖神は、大きくてビックリしました。
後で写真をよく見たら台座に昭和63年秋と書かれていました。近年に再建されたのでしょうね。

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Posted at 11:23 | Category: 中山道 | 2 Comments