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2010.05.17

宇都宮から氏家・・・(旧奥州街道)

本日の万歩計33,703(22.2Km)

宇都宮から氏家の歩行ルート

3月13日に大山の阿夫利神社を訪れてから、久々の街道歩行である。
4月に家のリフォームを行ったので、3月後半からその準備で出かける余裕がなくなった上に気候が安定しなかったこともある。ようやく、少し余裕が出てきてまだ歩いていない5街道の内の奥州街道を始めることにした。
家を出て、宇都宮駅には8時58分に着き、バスで日光街道との追分の伝馬町に向い9時10分のスタートとなった。追分には、一本の表示杭が立っているだけで特になにもなく、石碑でも建てて欲しいと思う。そして、大通りを進むとマロニエ(西洋トチノ木)が赤い花を付けていた。なかなか良い感じである。
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進んで行くと、釜川に架かる都橋を渡る。確かに川は流れていて、川沿いにはレンガ敷きの道路が設けられていてプロムナードとなっている。この先で右折してオリオン通りに入って行く。このアーケードになっているオリオン通りが奥州街道なのである。
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アーケードが終わるところの十字路で、左方面には「二荒山神社」の鳥居が見え、右には江戸中期の創建の「琴平神社」がある。
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アーケードが終わっても、歩行道路は続き「今小路通り」にぶつかって終わる。その後クランク状に進んで大町通りに入ると「おしどり塚」の石碑が建っている。鎌倉中期の仏教説話集「沙石集 」にも記されている伝承で、求食川(あさりがわ)の傍に、水鳥の住処になっていた求食沼があった。その沼で、猟師が一羽の雄のおしどりを射止め、首を切り落とし、身体だけを持ち帰った。翌日、同じ場所でうずくまる雌のおしどりを射止めると昨日射止めた雄鳥の首が、翼の下に抱きかかえられていた。何のためらいも無く殺生していた猟師はそれを見て心打たれ、雌鳥を埋葬し供養の石塔を建てたとのことである。
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左折して、大きな道路の上河原通りを進むと田川に架かる「幸橋」が見えてきて、その手前の左側に「妙正寺」がある。また、その左手には「清巌寺」がある。
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「清巌寺」には鎌倉時代の元和元年(1312)に宇都宮8代城主の宇都宮貞綱が母の13回忌の供養のために鋳造した日本最古の鉄塔婆(てつとうば)が残されており国の重要文化財に指定されている。収納庫に仕舞われているが、自由に扉を開けて観てよいと書かれた案内板があったが、扉に鍵が掛かっていて残念ながら見られなかった。10時少し前で、早すぎたのであろうか。
幸橋から田川の流れを見ながら橋を渡ると、旧篠原家がある。篠原家は奥州街道口の豪商で、江戸時代から第二次世界大戦まで、醤油の醸造と肥料商を営んでいた。明治28年に建立された店舗部と住居が一体となった蔵作りがそのまま残されていて国の重要文化財に指定されている。内部も見学できるようになっているが、残念ながら月曜日は休館であった。
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豪壮な旧篠原家の建物を過ぎて進むと、右手に八坂神社がある。康平6年(1063)、当時の宇都宮城主藤原宗園(宇都宮氏の祖)が本丸築城の時、丑寅の方角に当たるここに、鬼門除の鎮護として神明社を創建したもので祀神は須佐ノ男命である。
毎年、春と秋の行われる八坂神社の太々神楽は江戸時代から続いており、宇都宮市の重要無形文化財に指定されているという。
さらに進むと、東北新幹線のガードが見えてきて、現奥州街道は右に大きくカーブして進むが、旧奥州街道は左側の県道125号線を進んで行く。竹林町の信号が見えてくると、道の左手に立派な長屋門の岩淵家の住居が見えてくる。
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近づいて長屋門を見ると、益々豪壮さが感じられるが、その先にも四脚門の立派な家があり、旧街道を感じさせられるものであった。
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竹林の交差点を過ぎ、左手に「宝蓮院」を見て1.5Kmほど進むと、街道らしい松の木が立っていた。ここで、栃木銀行の裏手の方に回ると、石仏群がある。ここは宇都宮藩の刑場のあったところだとのことである。なお、地蔵堂囲碁将棋クラブの建物の中に首切り地蔵があるとの事であったが、扉が閉まっていて良く分からなかった。本当に、案内板もなく分かり難い。
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また、宇都宮城主であった本多正純の失脚の元となった、根来衆100人の首塚が有ったところとも言われている。江戸時代初期の元和7年(1621)、宇都宮城主本多正純が幕府から差し向けられた根来組百人衆に城普請を命じたが、これに従わなかったので全員を捕らえて処刑してしまったのだという。
歴史的な遺構に乏しく単調な道を4Kmほども進むと、海道町に入ってきて、大谷石作りの素晴らしい蔵があり、道路の街路樹も良い雰囲気となってきた。そして、ふとバスの停留所名を見ると「稚児坂」となっていた。建久7年(1196)、始めて鎌倉幕府により奥州総奉行が設けられ初代の奉行である伊沢家景が奥州の任地に向かったその途次、この地で同行の乳幼児であった我が子を亡くしたのだという。
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広大な王子製紙の日光工場が見えてきた。日光からはかなり離れているが、日光工場であるらしい。その先で、県道125号が氏家宇都宮線として左に分かれ、右が旧奥州街道(白沢街道)となって進み白澤宿に入って行く。
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道は緩やかに右にカーブしながら、下り坂となるが、その途中に「白沢地蔵」がある。稚児坂で亡くしたわが子をここに葬り、地蔵堂を建てたものである。
白沢地蔵堂の前からの坂を「やげん坂」というが、「やげん坂」とは、この坂が漢方の薬種を砕くのに用いられる薬研(やげん)に似ている事から呼ばれるようになったとのこと。
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白沢宿の信号の丁字路を左折すると、道の両側に水路のある通りになっていて、家の前にはかつての屋号の書かれた木札が掛かっている。直ぐの左手には、村社の「白髭神社」への参道が続いている。「白髭神社」は白沢宿の産土神である。
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その先の交番前には「番所」の札が掛けられ、その隣の立派な門柱脇には本陣の札が掛かっていた。
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道路わきの水路では、水車が回っていて、鯉なども放流されているようであった。
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道路の右手には古い趣のある家も見られ、左には白沢宿七福神の布袋尊のある「明星院」がある。
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白沢宿の道路は400mほど直進した後に右折して、直ぐに九郷半川を九郷半橋で渡る。九郷半川とは、9つの郷と1郷の半分の田を潤すという意味であるとのこと。橋のたもとには、古い道標と道祖神らしい石柱が建っている。ここが白沢宿の出口で、その後真っ直ぐな道を進んで行くと、広い田園風景が広がる。4月は後半に到るまで寒い日があり、遅れていた田植えがやっと終わったとの感じである。
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さらに進むと、麦が色づいて実っている。最近では珍しい光景である。そして、西鬼怒川を渡る。元和6年(1620)に開削された水路(逆木用水)であった。
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西鬼怒川の流れを見ると、今も農業用水としては十分に役立っているように見える。さらに進むと、「白澤の一里塚址」の石碑と福禄寿の小さな像が建っていた。
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田圃の中の道を1Kmほども進んだであろうか、ようやく鬼怒川の堤防にたどり着いた。ここからは、堤防を歩いて「阿久津大橋」まで進む。江戸期の渡しは、この堤防のどこかの地点であったであろうが、今となっては場所は定かでない。土手の斜面には春の野草が一面に花を付けていた。
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ようやく、「阿久津大橋」にたどり着いた。長さは700m程であろうか、長い橋である。歩道はないが白線の外側もそれなりの巾があり、怖くはなかった。橋の真中から向こうが「さくら市」である。
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橋を渡り終えると、さくら市・氏家宿の看板が掲げられていた。さくら市は氏家町と喜連川町が合併して平成17年に発足した新しい市である。両町にサクラの名所が多いことから「さくら市」としたとのことである。
左折して、進むと「船玉神社」がある。ここは、明治までは、阿久津河岸(かし)があり大いに賑わっていたところである。鬼怒川舟運の終点である阿久津河岸は氏家を治めていた勝山城が廃城となった慶長2年(1597)頃より開設され発展してきた港であり、奥州街道や原方街道、会津中街道、下野北部から陸送されて来た荷が、ここで川船に積み込まれ江戸へ運ばれたのである。
「船玉神社」は、鬼怒川水運の船頭達の守り神で、舟形をした境内の舳の位置に神殿が建てられ、船の御霊(みたま)、船玉(魂)大明神が祀られている。
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少し先には、「浮島地蔵尊」のお堂がある。鬼怒川沿岸は、川名の通り大洪水が多かったが、それを救済してもらおうと水神や地蔵等の信仰が生まれた。特にこの浮島地蔵は、どんな洪水にも流されずに浮いてこの地に留まっていたという。地蔵の台座には「元文4年(1739)、八日念仏講中、女人等現当二世安楽所」と刻まれていて、毎月8日に、村の女性達が念仏講を行っていて、そのため今では、子授け、安産、子育ての神としても信仰されるようになったという。
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125号線に復帰して進むと、右側に高島神社がある。阿久津の産土神であった。
さらに先には、将軍地蔵がある。前九年の役で、源義家が陸奥の阿部氏討伐に向かう時法師がここで不動明王を祀り戦勝祈願したという。その後、亡ばされた阿部一族の亡霊が出て、人々を悩ませたがここの地蔵菩薩が現れて救ったとのこと。
また、室町時代勝山城主の代参で日光に赴いた僧達が「そうめん責め」に遭い苦しんでいた時、ここの地蔵が現れ代わりにそうめんを全部平らげて助けてくれたことからそうめん地蔵とも呼ばれるようになったとのこと。今、日光に伝わる「強飯式」の原型であったようである。
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進んで行くと、「勝山城跡」の看板が見えたので、立ち寄ることにした。勝山城は南北420m、東西370mで鬼怒川の左岸の宝積寺段丘最北端に位置する連郭式の城であり、鎌倉末期に氏家氏が築城し、その後宇都宮氏の一族の芳賀氏によって強固な城構えが完成した。中世下野における、宇都宮氏一族の北方防衛の拠点でもあった。戦国時代には那須氏との激戦地となったが堅牢な城で落城することは無かったが、宇都宮氏が慶長2年(1957)秀吉により改易され、廃城となったとのこと。当時を偲ばせる空堀が残っている。
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空堀に架かる大手口の橋を渡って進むと、本丸跡の広がりが望見できた。
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城跡を訪れた後、右に進んで左折しスーパーのベイシアの横を通って田圃の中を進んで行くと、「お伊勢の森」と書かれた案内板が立っていて、左に入ったところに小さな木立が密集したのが見える。このあたりは、一面に広大な森が広がっていたことから伊勢神宮の内宮・外宮を勧請し建てられた神社を設け「お伊勢の森」と呼ばれるようになったというが、今は10坪あるかないかの小さなものとなっている。
そして、東北本線の踏切を渡る。ちょうど氏家駅の方から列車がやってきて通過していった。
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やがて、県道181号にぶつかる。ここが追分で、氏家宿は左折する。古い道標は、風化していて「右江戸道」しか読めないが、「右江戸道、左水戸 かさま 下だて 下づま」と書かれているらしい。隣の馬頭観世音は、天保9年(1838)建之と彫られていたが、最近に再建されたものだろう。
1Kmほど進んで氏家駅東入口の信号の手前を左に入って行くと、建久2年(1191)に氏家家の始祖で勝山城を築いた宇都宮公頼が開山し、氏家家の菩提寺であった西導寺がある。
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久々の歩行で、疲れたので今日はここまでで終えることにし、氏家駅の方に進んでいった。途中に大谷石造りの蔵を改造したレストランがあったが、感じよく収まっている。
そして、氏家駅である。ほどなく15時29分発の宇都宮行きが入ってきた。
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