2009.11.21

赤坂見附から荏田

本日の万歩計42,425(28.0Km)

11月4日に日光街道を歩き終えて、その後ハッキリしない天気が続いたりして大山街道を、なかなか始められなかった。ようやく、今日、友人と二人で歩き始められることとなり、7:22amに赤坂見附を出発した。大山街道は、現在の通りでは青山通り(国道246号線)に進んで行く。300mほどで左に入る小道があり、進むと直ぐに牛鳴坂の表示杭が立っている。説明には、「赤坂から青山へ抜ける厚木道で、路面が悪く車をひく牛が苦しんだため名づけられた。さいかち坂ともいう」とある。近くに大きなサイカチの木があったことによるとのこと。また、大山街道のことを厚木道とも呼んだという。
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国道から一歩入ると静かな通りとなるが、400mほどで再び国道に合流する。国道の向こう側には、皇太子殿下の住まわれる東宮御所を初めとして、秋篠宮邸、高円宮邸などの皇族方のお住まいのある、赤坂御用地が見える。
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少し先の左側には、高橋是清の記念公園がある。総理大臣経験の後に大蔵大臣になり、「だるま宰相」とか「日本のケインズ」とか呼ばれた人物だが、二・二六事件でここにあった自宅で青年将校達に暗殺され83歳の生涯を閉じた。1998年に小渕内閣が発足して、深刻な経済不況に対処するため宮沢元総理が大蔵大臣就任を要請され、「平成の高橋是清」と呼ばれたが、この元祖の人物である。
さらに、進むと青山一丁目の交差点があり、ここから青山地区に入って行く。やがて、左側に「梅窓院」の超近代的な建屋が現れるが、この「梅窓院」は郡上藩青山家の菩提寺である。 また、この辺りは青山藩の江戸屋敷のあったところで、地名の青山の由来となっている。
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さらに進むと、伊予西条藩松平左京大夫上屋敷跡を購入して創設した「青山学院大学」があり、通り過ぎて宮益坂の交差点で国道246号線から右に分かれて進むと、渋谷駅が近づいてくる。土曜日の早朝で、人通りは多くは無い。
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渋谷の東急デパートが見えてきて、山手線のガードをくぐり、ハチ公前広場を左に見ながら、道玄坂の方向に進んで行く。人通りは少ないが、10時近くにでもなれば、若者で賑わうことだろう。
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道玄坂の一帯を過ぎ、また国道に合流して、神泉町の交差点を過ぎると、左側に「大坂の表示杭」が立っていた。大山街道の中で一番の急坂で「大坂」と呼ばれた由である。隣に立つ消火器の赤い箱が無粋である。少し先には、「上目黒氷川神社」があり、急な石段が続いている。神社名から大宮の氷川神社を勧請したものと思ったが、説明板には甲州上野原の産土神を上目黒村の鎮守として迎えたと書かれていた。
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国道246号線は、いつの間にか「玉川通り」となっており、池尻大橋の交差点を過ぎて頭の上を首都高速で覆われながら1Kmほど進むと、「三軒茶屋」に到着する。田園都市線の階段脇に頭に金剛像を頂いた古い道標が立っていた。正面には「大山道」と大書してあり、右側には「右富士、世田谷/登戸 道」と書かれている。左側には「此方 二子通」とある。三軒茶屋に残る数少ない歴史的な遺構で、貴重である。
300mほど進んで、左の旧道に入って行くと、正一位伊勢丸稲荷神社がある。小さな祠程度の稲荷だが、正一位とはと不思議に思ったが、稲荷神社では勧請元が正一位だと勧請した方も正一位を名乗るのが一般的らしい。
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国道に復帰すると、直ぐに上馬の交差点で、直ぐ先には曹洞宗の「八幡山宗円寺」がある。鎌倉時代後期に北条左近太郎入道成願により開基されたといわれる。駒留八幡神社の別当寺であったとのこと。
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進むと、駅伝で有名な駒沢大学があり、さらに進んで駒沢の交差点を過ぎると、右側には、コンクリートブロックで囲われて屋根付きの庚申様がある。新町庚申講の表示もあるが、現在でも庚申講が続いているのであろうか。
新町の交差点に着くと、ここで街道は国道から別れて右に進む。200mほどで左側に久富稲荷神社の鳥居が続いているのが見える。参道は長く、250mもあるとのこと。
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さらに先には「桜神社」がある。明治16年に神田に創建され、大正8年に神託によりこの地に移転されて、関東大地震からも先の大戦の空襲からも逃れられたとして「災難除け」として崇敬されるとのこと。ともかく、新しい創建の神社である。
さらに2つ先の信号には、長谷川町子美術館のサザエさんの顔を画いた道標が立っていて、左に商店街の通りが見える。長谷川町子さんが住んでいたのにちなんで「サザエさん通り」と呼ばれている。
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進んで、田中橋の交差点を通り抜け、さらに進んで瀬田の交差点に到る。瀬田の信号は、環八と246号、427号が交わる六叉路の大きな交差点である。ここでは、歩道橋を渡って斜め左に進んで行く。交差点から300mほど進むと、左に入る旧道が現れるので、入って行くと「光善寺」がある。門前の説明板には「開基は長崎伊予守重光。江戸時代から玉川八景として有名であり。将軍も遊覧の折、しばしば立ち寄った」とある。
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山門を入って行くと、本堂は立派だが、コンクリート造りでいささかがっかりしていたら、お寺の雑務を行っている方が姿を見せて、「裏に回ると薄っすらですが富士山が見えます」という。言にしたがって裏に回ると、展望が開け、なるほど江戸時代は見晴らしの良い場所であったとうなずける。そして、富士山が写真撮影では無理だが、かすかに姿を見せていた。
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寺を出て続く坂道は行善寺坂で、西に向かって眺めがよいことから、「瀬田夕日坂」と呼ばれているという。旧街道の情緒が感じられる道である。少し進んで左に曲がると、坂はより急になり「行火坂」と書かれた石碑が立っていた。ここを下って渡る橋の下の流れは六郷用水で、多摩郡和泉村(現在の東京都狛江市元和泉)の多摩川を水源とし、世田谷領と六郷領、つまり現在の狛江市から世田谷区を通り大田区に至る延長は23kmの用水路である。
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進んで、多摩川の土手に出た。土手道を右に進んで田園都市線の二子玉川駅のガードをくぐり、二子橋への階段を上って、長い橋を渡る。川原では大勢の家族連れがバーベキューをして楽しんでいる。友人の話では、東京から大勢の人が訪れゴミを残して行き、川崎市ではその処理費用が嵩むとして大変不満であるとのことであった。野外でのバーベキューは特に子供にとって、楽しいことなので、何かうまい解決策はないものかと考えてしまう。
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二子橋から右の方を眺めれば、この辺りでは厚木道路と呼ばれている国道246号線の新二子橋が見える。ともかく、大山街道で唯一の大きな流れを渡る橋である。二子橋を渡って、すぐの左手に、大正14年に完成した二子橋の親柱が安置されている。この橋の完成によって二子の渡しが役割を終えたのである。六郷の渡しは、明治6年に六郷橋が出来廃止されているのに比べると、ずいぶんと遅かったものである。
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二子の市街に入って行くと、右手に「村社二子神社」の鳥居があり、通り過ぎようとしたが、「かの子碑」の記述が目に入ったので、鳥居をくぐって進むと、神社の本殿の右の塚の上に、岡本かの子の息子の岡本太郎作の「誇り」という彫刻が建てられていた。説明板によれば、岡本かの子は、二子の旧家大貫家の長女として、明治22年に生まれた。歌碑には「としとしに わが悲しみの深くして いよよ華やぐいのちなりけり」と自筆で刻まれていると書かれていた。
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200mほど進んだ、右手には「光明寺」がある。慶長6年(1601)に二子本村に創建され、寛永18年(1641)から矢倉沢往還筋に移ってきた。「二子村名主大貫家の菩提寺で、岡本かの子の兄大貫雪之助もここに眠る。
高津交差点を横切り進むと、大石橋という情緒たっぷりの石造りの橋があり、二ケ領用水を渡る。

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以下5枚の画像は、カメラのモード切替があらぬ場所になっていたのに気が付かず、撮影して情けないものとなってしまった。
左の写真は溝口神社で、もとは赤城社と呼ばれ、溝口村総鎮守で、明治の廃仏毀釈で宗隆寺と分かれ、名前も溝口神社となったとのこと。
時刻は11:45で、ちょうど昼食時なので溝の口駅近くで、昼食をとり休憩した。
その後、街道に復帰して栄橋の交差点に戻ると、さかえ橋の親柱が建っていた。かつて栄橋は、平瀬川と根方堀(ニヶ領用水)が交差したこの場所にあり、橋の親柱が発見され、ここに保存したとのこと。そして、進むと益子焼に高い芸術性を与えた陶芸家で、我国最初の人間国宝浜田庄司の生家跡を記念する碑が建っている。碑には「巧匠不留跡」と書かれている。
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直ぐ先に溝の口の庚申塔があり、左側面に「江戸道」、右側面に「大山道」と刻まれている。その後、緩やかに上り坂で右に曲がって行くが、途中から左に曲がり、勾配も急になる。「ねもじり坂」と呼ばれ、登りつめると、左手に立派な地蔵堂がある。もともとは、子育て地蔵と呼ばれていたが、江戸の住人が四国巡礼から帰る途中で、ここの地蔵にお参りしたら、子供を授かったとして、お礼にお堂を寄進したのだという。そしてその後は、子供を授かるのにもご利益があるとされたとのこと。
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その先の左手に道標を兼ねた身代り不動尊がある。「右大山道」「左やうがすじ道」(用賀筋道)と書かれている。ここで気が付いたが、先ほどから道路のアスファルト舗装に白と、水色の小片を混ぜてある。中山道を歩いたときも馬籠から中津川で白い小片が混ぜられた道が旧街道で、迷うことなく安心して歩けたが、ここも大山街道を示す積りなのであろうか。
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その後、梶ヶ谷の交差点を過ぎ、宮前平駅も通り過ぎて、静かだが特にイベントの無い住宅地を通り抜け、鷺沼駅入口交差点にでる。さらに、国道246号線に出て、鷺沼二丁目の信号を左折すると、馬頭観音像が建っていて、道標を兼ねており、隣に建つ石板の説明書きによれば、右側面に「王禅寺道」、左側面に「大山道」と彫られているとのこと。
馬頭観音を過ぎると住宅街で、元の街道は損なわれてしまっているが、4?500mほど進むと、見晴らしの良いポイントに達し、その後は左右にうねりがあることで旧街道と知れる道になる。道の左の斜面には、造園業を営んでいる皆川家が育てている形の良い沢山の植木が見える。皆川家は、江戸期は溝口と荏田の間の立場であったとのこと。立場というのは江戸時代の荷物を運ぶ人足の休憩場のことで、景色のよい峠などに設けられることが多かったのである。もちろん、人足のみならず、一般の旅人も休憩を取ることが多かった。 皆川園の建屋は、流石に旧家を思わせる趣のある造りであった。
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車の通行が激しい道路を信号の無い場所で、 こわごわ渡り(車が止まってくれた)進むと、横浜市営地下鉄のガードをくぐり(この辺りでは地下鉄か高架)、その先には老馬鍛治山不動尊の霊泉の滝がある。竹筒から水が流れ出しており、アルミのカップがぶら下げられていた。そして、昔から、喘息、百日咳、風引きなどお水を戴きながらお願いすると必ず治癒したと書かれていた。病に対する効能はともかく、起伏の激しい大山街道を歩いてきた旅人にとっては甘露の水であったであろう。友人も一口飲んで、あまり冷たくは無いが、軟らかい感じの水だと言っていた。
先に進むと、早淵川に突き当たり、橋を渡って、川に沿って左に進む。
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突き当たって右折すると、荏田下宿庚申塔がある。説明板には寛政5年(1793)徳川時代中期に荏田村下宿の婦人達により建てられたとある。また、続けてここは昔栄えた大山街道の道筋で江戸を発った旅人の一日目の宿場の入口でもあり、道標としても親しまれてきたとも書かれている。
我々も、荏田宿、いや江田駅で切り上げることとして、先を急ぎ無事江田駅に到着した。駅の周辺はひっそりとしていて、コーヒーの飲める唯一のところとして、マクドナルドに入って休憩の後、田園都市線で友人は藤が丘で降り、私は長津田経由で帰宅の途に着いた。

2010.02.22

江田から海老名

本日の万歩計41,788(27.6Km)

2月に入って寒い日が続いたが、雨水(うすい)を過ぎ、ようやく寒さも緩んできた。 昨年11月21日から日にちを明けての歩行である。朝の8時に江田駅前のマクドナルドで待ち合わせ、軽くエネルギーを補給して歩き始めた。
246号線を少し進み、電車のガードをくぐって線路脇の道路のを800mほど進み、右の住宅街の中を進むと、600mmほどで「市ヶ尾の竹下地蔵堂」がある。統誉上人が病に罹り入定したとの伝承があり、境内に宝暦元年(1751)と刻まれた墓碑もある。
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地蔵堂下の信号を過ぎて左折すると、猿田坂と呼ばれる坂道を下り、十字路にぶつかると、左前方に旧旅籠「綿屋」の建物が残っている。大山街道で古い旅籠の建物が残っているのは珍しく、長く保存して欲しいと思うが、重要文化財指定にもなっていないので危惧されるところである。
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進んで行くと、鶴見川を川間橋で渡るが、昔は、今よりも少し下流に橋があり、利用者から三文の渡り賃を取ったので、「三文橋」とも呼ばれていたという。橋を渡って、400mほど進んだ柿の木台の交差点には、田中屋マートがあるが、ここは三代将軍徳川家光を治療したと伝えるマムシ治療薬を販売していた田中屋の跡だとのこと。
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さらに、300mほど進むと、医王山薬王院東光寺(真言宗)が明治初年改宗されたという「医薬神社」がある。その後、くねくねと曲がる道を進んで、青葉台駅前の交差点に達した。
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国道246は、殊更に車の流れが激しく、極力歩くのは避けたいところである。幸いにも同行のMさんは青葉台在住であり、この辺りの土地勘があるので、国道より一筋入った道路を進んで恩田川に架かる恩田大橋で国道に合流した。
500mほど進んだ、片町の交差点で、再び国道から右に分かれ、1Kmほど進むと、長津田駅南口入口で、その南方向に「大林寺」がある。山門、本堂ともに最近建替えられたのか真新しい。山門の両側には仁王様が睨みを効かせていたが、かなり格のあるお寺なのであろう。
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交差点から300mほど進むと、大石神社参道の女坂と呼ばれる坂道が右側に現れ、上ると天保14年(1843)長津田宿内の秋葉講中が建立した上宿の常夜燈がある。その奥には長津田鎮守の大石神社がある。由緒はつまびらかでないとのことだが、祀神は在原業平と伝えられるという。
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長津田小学校の方に進んで、その手前で左に進むと、竹薮と右手の斜面に挟まれた未舗装の道路となる。この道が旧大山街道とは思えないが、ふっと一息つけるような道である。246に合流して、すずかけ台駅の手前で右に分かれると、展望が開け街並みが望見され気持ちが良い。
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直ぐに国道246に合流して、町田市辻の交差点で左に外れ、大和バイパスを横切り進むと、右手に「円成寺」がある。町田市指定文化財で室町時代後期の作の木造聖徳太子像があるとのことだが、本堂は、鉄筋コンクリート造りとなっている。246に突き当たり、くぐり抜けると「観音寺」がある。 武相卯歳観音第1番札所として名高く、高野山真言宗で山号を鶴間山東照院観音寺と称する。拝殿にある厨子は、大和市指定文化財とのこと。 ここも本堂は鉄筋コンクリートである。
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少し先には、大山阿夫利神社御分霊社が赤い鳥居とともに現れる。その傍らには「南朝忠臣新田氏縁の家」高下家の説明碑や、「新田義貞軍鎌倉進撃路」の説明板がある。また、相州鶴間村宿の石碑も建てられている。
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相州鶴間村宿の石碑を過ぎると、立派な門構えの家が現れる。塀の意匠も趣のあるものであり、名家の家と思うのだが、なにも分からない。そして、その先で信号のある交差点を渡ると、下鶴間宿に入る。十字路の角に旧家小倉家と高札場跡が復元されている。また、ここは旧家小倉家を利用した「下鶴間ふるさと館」となっているが、月曜日は休館で見学は出来なかった。

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100mほど先には「鶴林寺」がある。宗派は浄土宗で山号を宝亀山寿翁院鶴林寺である。開山は永禄12年(1569)以前といわれ、境内には、即身仏となった瀬沼嵩信を弔う地蔵や鶴間学校跡、不動明王座像などがあるとのこと。
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少し先には江戸期に「まんじゅう屋」の屋号の旅籠跡がある。まんじゅうも商う旅籠で渡辺崋山が泊まったことで有名とのこと。
現地の案内板には「江戸時代後期の洋学者で、画家として知られる渡辺崋山は、第十代田原藩主三宅康明の弟友信の命により、高座郡早川村(綾瀬市)に住む友信生母お銀の消息を尋ねるため、天保2年(1831)九月二十日、弟子の高木梧庵といっしょに江戸の青山を立ちました。その日は都筑郡荏田村(横浜市緑区)に泊まりましたが、翌二十一日には矢倉沢往還下鶴間宿に着き、俗に”まんじゅうや”(土屋家)といわれる旅籠屋に一泊しました。」とある。
屋敷跡の角には古い道標も建っていたが、読めなかった。
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進むと、右側に地蔵尊があり、さらに進んで滝山街道と交わるところには、日枝神社がある。鳥居の脇には、古い石碑が建っていたが、風化が激しく文字などは全く読めなかった。

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この辺りは、「矢倉沢往還」の真新しい石碑が、ところどころ建っている。歴史街道をアッピールする意欲が感じられ、好感が持てる。その後、鶴間駅の近くで昼食をとり、しばし休息の後に歩き始めたが、これと言ったトピックもなく、6Kmほど進んで相模国分寺跡の石碑に遭遇した。古い石碑も4つほど建っていた。国分寺跡は、広場となっていて説明板のみが建っていた。
そして、少し先には、現在の国分寺への入口があり、エノキの古木が建っていた。
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国分寺の境内に入って行くと、薬師堂と鐘楼があり、鐘楼の銅鐘は国指定重要文化財となっている。
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ようやく、今日の目的地の「海老名駅」に到着した。ショッピングビルが駅前広場を囲んで建っている。コーヒーを飲みながら休憩し、次回の楽しみに思いを馳せながら、各自帰宅の途についた。

2010.03.01

海老名から大山(バスの終点)まで

本日の万歩計37,526(24.8Km)

朝の8時に海老名駅で友人と待ち合わせる。 改札口は通勤客で賑わっていたが、これから街道歩きに行く身としては、申し訳なさそうな感じもするし、リタイアしたことの実感もわいてくる。
海老名駅も駅前は若者向けの商業施設ができ、昼間は賑やかだろうが、まだ店は開いておらず静かである。早速、厚木街道に出て進むと、ほどなく相模線の踏切を渡ることになる。
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その後、相模川に出るまでは街道はハッキリせず、細かく折れ曲がりながら進むが、風化の進んだ道標に「大山道」の文字をかろうじて読み取り、歩行ルートの正当性を喜びながら進んで行く。ようやく相模川岸に出ても、昔の渡し跡もなく400mほど下流に見える「あゆみ橋」に向うことになる。
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「あゆみ橋」を渡り、川の堤防上の道を上流に向って進んで行く。車の通りは激しいが、歩道もなく恐い道だ。 300mほどで、「厚木の渡船場跡」がある。江戸期は5艘の舟が備えられていて。旅人を渡していたとのことだが、冬の渇水期は土橋が設けられていたと説明板に書かれていた。
渡船場跡で左にUターンして折れ曲がって進むと、まだ閉まっているお店のシャッターには、それぞれの商う商品に即応した江戸時代の情緒を感じさせる絵が書かれていた。町興しを狙ったのか、落書き防止策か、絵が描かれたシャッターの通りが続くのは面白い。
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東町郵便局前の交差点を過ぎると、左手に「厚木神社」がある。円融天皇(969-984)の時代の創建で祀神は「須佐之男の命」であり、那須与一も眼病平癒祈願をしたと言い伝えられているとのこと。
なお、厚木神社の呼称は明治以降で以前は牛頭天王と称し、今でも、お天王さまと呼び習わされていて、例祭には大いに賑わうという。
通りに戻ると「渡辺崋山滞留の地」の新しい石碑が建っていた。
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700mほど南下して、ソニーの厚木工場が見えてくると右手に上杉氏建立の最勝時がある。一般公開していないのか、正門は鉄格子の門で閉じられていた。
その後、1.5Kmほど進み東名高速が見えてくると、左手に「三島神社」がある。東海道の三島大社を勧請した神社で村の鎮守であったようだ。
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東名高速をくぐって、1Kmほど進み左折して小田急の「愛甲石田駅」方面に進む。
駅を過ぎてしばらく進むと、右手に今は珍しい茅葺の山門の「浄心寺」がある。天正2年(1574)相誉上人周貞が開山で本尊は南北朝時代の作の美しい阿弥陀如来を中尊とする三尊像であるとのこと。
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大山街道も、人口増加に伴う宅地開発などで旧道がハッキリしなくなっているが、ところどころ道祖神が残っていて、大切に保存されているのを今でも見ることが出来る。そして、なんと最近になって作られた双体の道祖神もある。
成瀬小学校を過ぎて、1Kmほど進むと左に100mほど入ったところに太田道灌の菩提寺の「大慈寺」があり、立ち寄った。また、寺から道路を跨いで少し進むと、太田道灌の首塚があった。最近整備されたようだ。


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大慈寺から街道に戻り、100mほど進むと、右手に茅葺の屋根が珍しい「高部屋神社」がある。境内にある銅鐘には至徳3年(1386)の銘があり、神奈川県指定重要文化財となっている。
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その後、2Kmほどは、特別なトピックスもない住宅街のなかの道を進む。東名高速をくぐると、道祖神と兼ねた古い道標があり、ようやく大山に近づいた気分が高まってくる。ここからは、流石に大山詣での参道の雰囲気が強くなってきて、江戸時代の人々も胸の高まりを覚えながら歩いたのだろうと思いながら歩を進めて行く。
太田道灌の菩提寺の「大慈寺」には首塚があったが、地図を見ると太田道灌の墓所があったので、寄ることにした。墓所は、木立に囲まれて大事に保存されていた。
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石倉橋の交差点を過ぎると、坂道の勾配も増し1Kmほどで「比々多神社」が左手に見えてくる。木花咲耶姫命が祀神で安産の神として崇拝を集めているという。
少し先には、いよいよ大山阿夫利神社の一の鳥居が見えてくる。
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徐々に宿坊も増えてきた。傍らを流れる渓谷は「鈴川」で、進んで「加寿美橋」を渡り、自動車道から離れると、益々宿坊の密度が増してくる。垣の石柱には寄進者の名前が赤く刻まれている。
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再び自動車道に「愛宕橋」で合流して、益々急になる道を上って、ようやく伊勢原駅からのバスの終点のロータリーにたどり着く。時刻は14時50分である。次回は最後となる阿夫利神社への登頂を思いながら、今日はここまでとすることとして、15時5分発の伊勢原駅行きのバスで帰宅することとした。
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2010.03.13

阿夫利神社参拝

本日の万歩計16,849(11.1Km)

今日は大山街道の最後である。8時に友人と伊勢原駅で待ち合わせ、8時25分のバスに乗るため停留所に歩いて行くと、もう長い行列が出来ていた。流石に週末である。
20分ほどでバスの終点に着く。グループで来た人達が出発前の注意を受けている。「関東36不動札所・第一番霊場雨降山・大山寺」の石碑があり、いよいよ「独楽(コマ)参道」が始まる。
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「独楽参道」とは、道路に独楽の絵のタイルが埋め込まれていて、この独楽の数で1から29までを表わし、ケーブルカーの駅まで、どれだけ進んできたかが分かるようになっている。道の両側には、みやげ物屋や豆腐料理を食わせる食堂などが並んでいる。
大山は良質な水を利用した豆腐作りが盛んで、かながわ100名産にもなっている。
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「独楽参道」が終わると、右にケーブルカーの駅があり、大半の人々はそちらに進むが、徒歩で大山街道を極めるために、左の方に進み、階段を上って行くと途中に「男坂」と「女坂」の分岐がある。大山寺も訪れたいし、「女坂の七不思議」も見たいので「女坂」の方に進む。階段の多い上り坂である。
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七不思議の最初は「弘法の水」で、弘法大師が岩に杖を突いたら清水が湧き出したという。日本中の随所にある話である。第二は「子育て地蔵」で、普通の地蔵として安置されていたが、いつしかわらべ顔に変わっていたとある。
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第三は「爪切りり地蔵」で、弘法大師が道具を使わず、一夜のうちに手の爪で彫刻されたという地蔵とのこと。そして、第四は「逆さ菩提樹」で、逆さに生えたように見えるというが、菩提樹が二代目とのことで、逆さには見えない。
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ようやく、左手に龍神堂がある大山寺のお堂にたどり着く。龍神堂は雨乞いの本尊で、以前には二重滝にあり、1641年に再建されたとのこと。そして、長い階段を息も絶え絶えに上ったところが、本堂である。
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大山寺は、真言宗大覚寺派の寺で弘法大師が住職を勤めたこともあり、高幡山金剛寺、成田山新勝寺と共に「関東の三大不動」に数えられる。また、江戸時代は春日の局が頻繁に参拝し、徳川家光の大改修により江戸大衆の中にも不動参拝が広がり定着して大山寺の全盛時代を迎えることとなった。
本堂の左には、精巧な青銅造りの地上高約11mの宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。寛政7年(1795年)旧大山寺境内に建立され、大正3年現境内に再建されたという。刻印に東京市の文字が見えた。
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大山寺を過ぎて、山道に入って行くと、芭蕉の句碑があったが、碑の表面は風化が進み文字が読めない。しかし、傍らの立て札には「山寒し心の底や水の月」と書かれていた。そして沢に架かる橋を渡るが、この橋は「無明橋」と言い、話しをしながら渡ると悪いことが起こると立て札に書かれていた。これが第五の女坂の七不思議である。
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第六の七不思議は潮音洞で、ほこらに近づいて心を鎮め耳を澄ませると潮騒が聞こえるという。友人が試してみたが、何も聞こえないと言っていた。恐らく心が澄んでいなかったのだろう。
そして、最後の第七番目の不思議は、「眼形石(めかたいし)」で、観音像の左にある眼の形をした石に触れると眼の病が治ると言い伝えられているとのことだが、石が眼の形をしているようには見えなかった。
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終に、阿夫利神社下社前の参拝客相手のお店が並んでいる広場に到着した。下社はさらに、最近整備された真新しい石の階段を上って行く。
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流石に、ここからは展望が良い。残念ながら曇り空であったが、良く晴れた日なら遠く都心の高層ビル群も見えるのではなかろうか。そして、ようやく下社本堂に対面する。
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本堂右には大山名水・神泉と書かれた入口があり、入って行くと青銅の龍の口から水が流れ出しており、静かなたたずまいを感じさせる場所となっている。水は、美味しい。名水と言ってもやはりお金で買ったペットボトルの水に比べれば劣るものが多いが、ここのは文句なしに美味しくて、残り少なくなっていたペットボトルの水を補充させてもらった。ペットボトルを満たした後は、いよいよ阿夫利神社上社に向って出発する。
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上るにしたがって、どんどん温度も下がってきた。3日前に降った雪も徐々に多くなってきた。16丁目追分の大きな碑が建っていた。碑は強力が運び上げたとのことだが、信じられないほど大きな碑である。
ここから上は、溶けた雪で道はぬかるみ、さらに雪も深くなってきて首にカメラをぶら下げて置くことに危険を感じ、リュックにしまい、小型のコンパクトカメラを取り出しして撮影したが、途中で転んだときのショックか、SDカードの内容にエラーがあり、読み出せなくなり、残念ながら雪に囲まれ、強風が吹きすさび、それでも多くの人がお堂の影で風を除けながらおにぎり等をほおばっている阿夫利神社の写真も、帰りに撮った二重滝の写真も掲載できないのは真に残念である。下社は暖かかったが、上社は寒い寒い。ダウンのジャンパーとウインドブレーカーを二重に着て寒さを防いだ。
登山道の途中から上は、雪のために滑って歩きにくく難行苦行の連続であり、特に私の靴は、幾多の街道歩きで靴底が磨り減っており、何度も尻餅をつくこととなった。もちろん、靴とズボンの裾は、泥田の中を歩いたに等しい。滑るのを警戒して、無理な姿勢で下ってきたため膝を痛めて、駅の階段も下れなく身障者用エレベータを利用するはめになった。
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ほうほうの体で下ってきて、途中でベンチがあったので休憩したが、ここではリュックから取り出したカメラで撮影したのが1枚のみ残ることとなった。