2009.11.21
赤坂見附から荏田
本日の万歩計42,425(28.0Km)
11月4日に日光街道を歩き終えて、その後ハッキリしない天気が続いたりして大山街道を、なかなか始められなかった。ようやく、今日、友人と二人で歩き始められることとなり、7:22amに赤坂見附を出発した。大山街道は、現在の通りでは青山通り(国道246号線)に進んで行く。300mほどで左に入る小道があり、進むと直ぐに牛鳴坂の表示杭が立っている。説明には、「赤坂から青山へ抜ける厚木道で、路面が悪く車をひく牛が苦しんだため名づけられた。さいかち坂ともいう」とある。近くに大きなサイカチの木があったことによるとのこと。また、大山街道のことを厚木道とも呼んだという。
国道から一歩入ると静かな通りとなるが、400mほどで再び国道に合流する。国道の向こう側には、皇太子殿下の住まわれる東宮御所を初めとして、秋篠宮邸、高円宮邸などの皇族方のお住まいのある、赤坂御用地が見える。
少し先の左側には、高橋是清の記念公園がある。総理大臣経験の後に大蔵大臣になり、「だるま宰相」とか「日本のケインズ」とか呼ばれた人物だが、二・二六事件でここにあった自宅で青年将校達に暗殺され83歳の生涯を閉じた。1998年に小渕内閣が発足して、深刻な経済不況に対処するため宮沢元総理が大蔵大臣就任を要請され、「平成の高橋是清」と呼ばれたが、この元祖の人物である。
さらに、進むと青山一丁目の交差点があり、ここから青山地区に入って行く。やがて、左側に「梅窓院」の超近代的な建屋が現れるが、この「梅窓院」は郡上藩青山家の菩提寺である。 また、この辺りは青山藩の江戸屋敷のあったところで、地名の青山の由来となっている。
さらに進むと、伊予西条藩松平左京大夫上屋敷跡を購入して創設した「青山学院大学」があり、通り過ぎて宮益坂の交差点で国道246号線から右に分かれて進むと、渋谷駅が近づいてくる。土曜日の早朝で、人通りは多くは無い。
渋谷の東急デパートが見えてきて、山手線のガードをくぐり、ハチ公前広場を左に見ながら、道玄坂の方向に進んで行く。人通りは少ないが、10時近くにでもなれば、若者で賑わうことだろう。
道玄坂の一帯を過ぎ、また国道に合流して、神泉町の交差点を過ぎると、左側に「大坂の表示杭」が立っていた。大山街道の中で一番の急坂で「大坂」と呼ばれた由である。隣に立つ消火器の赤い箱が無粋である。少し先には、「上目黒氷川神社」があり、急な石段が続いている。神社名から大宮の氷川神社を勧請したものと思ったが、説明板には甲州上野原の産土神を上目黒村の鎮守として迎えたと書かれていた。
国道246号線は、いつの間にか「玉川通り」となっており、池尻大橋の交差点を過ぎて頭の上を首都高速で覆われながら1Kmほど進むと、「三軒茶屋」に到着する。田園都市線の階段脇に頭に金剛像を頂いた古い道標が立っていた。正面には「大山道」と大書してあり、右側には「右富士、世田谷/登戸 道」と書かれている。左側には「此方 二子通」とある。三軒茶屋に残る数少ない歴史的な遺構で、貴重である。
300mほど進んで、左の旧道に入って行くと、正一位伊勢丸稲荷神社がある。小さな祠程度の稲荷だが、正一位とはと不思議に思ったが、稲荷神社では勧請元が正一位だと勧請した方も正一位を名乗るのが一般的らしい。
国道に復帰すると、直ぐに上馬の交差点で、直ぐ先には曹洞宗の「八幡山宗円寺」がある。鎌倉時代後期に北条左近太郎入道成願により開基されたといわれる。駒留八幡神社の別当寺であったとのこと。
進むと、駅伝で有名な駒沢大学があり、さらに進んで駒沢の交差点を過ぎると、右側には、コンクリートブロックで囲われて屋根付きの庚申様がある。新町庚申講の表示もあるが、現在でも庚申講が続いているのであろうか。
新町の交差点に着くと、ここで街道は国道から別れて右に進む。200mほどで左側に久富稲荷神社の鳥居が続いているのが見える。参道は長く、250mもあるとのこと。
さらに先には「桜神社」がある。明治16年に神田に創建され、大正8年に神託によりこの地に移転されて、関東大地震からも先の大戦の空襲からも逃れられたとして「災難除け」として崇敬されるとのこと。ともかく、新しい創建の神社である。
さらに2つ先の信号には、長谷川町子美術館のサザエさんの顔を画いた道標が立っていて、左に商店街の通りが見える。長谷川町子さんが住んでいたのにちなんで「サザエさん通り」と呼ばれている。
進んで、田中橋の交差点を通り抜け、さらに進んで瀬田の交差点に到る。瀬田の信号は、環八と246号、427号が交わる六叉路の大きな交差点である。ここでは、歩道橋を渡って斜め左に進んで行く。交差点から300mほど進むと、左に入る旧道が現れるので、入って行くと「光善寺」がある。門前の説明板には「開基は長崎伊予守重光。江戸時代から玉川八景として有名であり。将軍も遊覧の折、しばしば立ち寄った」とある。
山門を入って行くと、本堂は立派だが、コンクリート造りでいささかがっかりしていたら、お寺の雑務を行っている方が姿を見せて、「裏に回ると薄っすらですが富士山が見えます」という。言にしたがって裏に回ると、展望が開け、なるほど江戸時代は見晴らしの良い場所であったとうなずける。そして、富士山が写真撮影では無理だが、かすかに姿を見せていた。
寺を出て続く坂道は行善寺坂で、西に向かって眺めがよいことから、「瀬田夕日坂」と呼ばれているという。旧街道の情緒が感じられる道である。少し進んで左に曲がると、坂はより急になり「行火坂」と書かれた石碑が立っていた。ここを下って渡る橋の下の流れは六郷用水で、多摩郡和泉村(現在の東京都狛江市元和泉)の多摩川を水源とし、世田谷領と六郷領、つまり現在の狛江市から世田谷区を通り大田区に至る延長は23kmの用水路である。
進んで、多摩川の土手に出た。土手道を右に進んで田園都市線の二子玉川駅のガードをくぐり、二子橋への階段を上って、長い橋を渡る。川原では大勢の家族連れがバーベキューをして楽しんでいる。友人の話では、東京から大勢の人が訪れゴミを残して行き、川崎市ではその処理費用が嵩むとして大変不満であるとのことであった。野外でのバーベキューは特に子供にとって、楽しいことなので、何かうまい解決策はないものかと考えてしまう。
二子橋から右の方を眺めれば、この辺りでは厚木道路と呼ばれている国道246号線の新二子橋が見える。ともかく、大山街道で唯一の大きな流れを渡る橋である。二子橋を渡って、すぐの左手に、大正14年に完成した二子橋の親柱が安置されている。この橋の完成によって二子の渡しが役割を終えたのである。六郷の渡しは、明治6年に六郷橋が出来廃止されているのに比べると、ずいぶんと遅かったものである。
二子の市街に入って行くと、右手に「村社二子神社」の鳥居があり、通り過ぎようとしたが、「かの子碑」の記述が目に入ったので、鳥居をくぐって進むと、神社の本殿の右の塚の上に、岡本かの子の息子の岡本太郎作の「誇り」という彫刻が建てられていた。説明板によれば、岡本かの子は、二子の旧家大貫家の長女として、明治22年に生まれた。歌碑には「としとしに わが悲しみの深くして いよよ華やぐいのちなりけり」と自筆で刻まれていると書かれていた。
200mほど進んだ、右手には「光明寺」がある。慶長6年(1601)に二子本村に創建され、寛永18年(1641)から矢倉沢往還筋に移ってきた。「二子村名主大貫家の菩提寺で、岡本かの子の兄大貫雪之助もここに眠る。
高津交差点を横切り進むと、大石橋という情緒たっぷりの石造りの橋があり、二ケ領用水を渡る。
以下5枚の画像は、カメラのモード切替があらぬ場所になっていたのに気が付かず、撮影して情けないものとなってしまった。
左の写真は溝口神社で、もとは赤城社と呼ばれ、溝口村総鎮守で、明治の廃仏毀釈で宗隆寺と分かれ、名前も溝口神社となったとのこと。
時刻は11:45で、ちょうど昼食時なので溝の口駅近くで、昼食をとり休憩した。
その後、街道に復帰して栄橋の交差点に戻ると、さかえ橋の親柱が建っていた。かつて栄橋は、平瀬川と根方堀(ニヶ領用水)が交差したこの場所にあり、橋の親柱が発見され、ここに保存したとのこと。そして、進むと益子焼に高い芸術性を与えた陶芸家で、我国最初の人間国宝浜田庄司の生家跡を記念する碑が建っている。碑には「巧匠不留跡」と書かれている。
直ぐ先に溝の口の庚申塔があり、左側面に「江戸道」、右側面に「大山道」と刻まれている。その後、緩やかに上り坂で右に曲がって行くが、途中から左に曲がり、勾配も急になる。「ねもじり坂」と呼ばれ、登りつめると、左手に立派な地蔵堂がある。もともとは、子育て地蔵と呼ばれていたが、江戸の住人が四国巡礼から帰る途中で、ここの地蔵にお参りしたら、子供を授かったとして、お礼にお堂を寄進したのだという。そしてその後は、子供を授かるのにもご利益があるとされたとのこと。
その先の左手に道標を兼ねた身代り不動尊がある。「右大山道」「左やうがすじ道」(用賀筋道)と書かれている。ここで気が付いたが、先ほどから道路のアスファルト舗装に白と、水色の小片を混ぜてある。中山道を歩いたときも馬籠から中津川で白い小片が混ぜられた道が旧街道で、迷うことなく安心して歩けたが、ここも大山街道を示す積りなのであろうか。
その後、梶ヶ谷の交差点を過ぎ、宮前平駅も通り過ぎて、静かだが特にイベントの無い住宅地を通り抜け、鷺沼駅入口交差点にでる。さらに、国道246号線に出て、鷺沼二丁目の信号を左折すると、馬頭観音像が建っていて、道標を兼ねており、隣に建つ石板の説明書きによれば、右側面に「王禅寺道」、左側面に「大山道」と彫られているとのこと。
馬頭観音を過ぎると住宅街で、元の街道は損なわれてしまっているが、4?500mほど進むと、見晴らしの良いポイントに達し、その後は左右にうねりがあることで旧街道と知れる道になる。道の左の斜面には、造園業を営んでいる皆川家が育てている形の良い沢山の植木が見える。皆川家は、江戸期は溝口と荏田の間の立場であったとのこと。立場というのは江戸時代の荷物を運ぶ人足の休憩場のことで、景色のよい峠などに設けられることが多かったのである。もちろん、人足のみならず、一般の旅人も休憩を取ることが多かった。 皆川園の建屋は、流石に旧家を思わせる趣のある造りであった。
車の通行が激しい道路を信号の無い場所で、 こわごわ渡り(車が止まってくれた)進むと、横浜市営地下鉄のガードをくぐり(この辺りでは地下鉄か高架)、その先には老馬鍛治山不動尊の霊泉の滝がある。竹筒から水が流れ出しており、アルミのカップがぶら下げられていた。そして、昔から、喘息、百日咳、風引きなどお水を戴きながらお願いすると必ず治癒したと書かれていた。病に対する効能はともかく、起伏の激しい大山街道を歩いてきた旅人にとっては甘露の水であったであろう。友人も一口飲んで、あまり冷たくは無いが、軟らかい感じの水だと言っていた。
先に進むと、早淵川に突き当たり、橋を渡って、川に沿って左に進む。
突き当たって右折すると、荏田下宿庚申塔がある。説明板には寛政5年(1793)徳川時代中期に荏田村下宿の婦人達により建てられたとある。また、続けてここは昔栄えた大山街道の道筋で江戸を発った旅人の一日目の宿場の入口でもあり、道標としても親しまれてきたとも書かれている。
我々も、荏田宿、いや江田駅で切り上げることとして、先を急ぎ無事江田駅に到着した。駅の周辺はひっそりとしていて、コーヒーの飲める唯一のところとして、マクドナルドに入って休憩の後、田園都市線で友人は藤が丘で降り、私は長津田経由で帰宅の途に着いた。