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2010.05.28

氏家から喜連川(前半)・・・(旧奥州街道)

本日の万歩計47,568(31.4Km)・・大田原までの歩数

氏家から太田原の歩行ルート

5月後半に入っても、まだ天候不順で雨の日が多く、ようやく今日街道歩きに出かけられた。8時38分に氏家駅に着いた。思っていたよりリュックを担いだ人が大勢下りたが、ほとんどはゴルフ客で街道歩きは居そうになかった。
街道に向う途中で、前回飛ばしてしまった「蔦地蔵」を見に小道を右折した。
「蔦地蔵」は「定家地蔵」とも呼ばれ、鎌倉時代に宇都宮氏によって形成された宇都宮歌壇は藤原定家とも親交があり、宇都宮頼綱の娘は定家の長子の為家に嫁している。そこで定家の7周忌に定家の面影を模して建立したものとのこと。
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街道に復帰して、やはり前回見過ごしてしまった「寛方・タゴール平和記念公園」を訪れるため、少し街道を戻る。タゴールと言えばインドの詩人でアジアで初めてノベル文学賞を受けた人物として、中山道の碓氷峠に胸像があった。日本画家の荒井寛方と深い親交があり、寛方の住居跡に二人の顕彰としてこの公園を作ったとのこと。
そして、氏家駅前入口の交差点まで引き返し、進むと直ぐに「光明寺」の山門が見えてきた。
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山門を潜ると、正面に「青銅不動明王坐像」が睨んでいる。江戸時代初期から代々宇都宮藩の御用鋳物師を勤めた戸室一族を代表する作品で、戸室卯兵衛が宝暦9年、71歳の時に鋳造したものであるとのこと。左手には本堂が端正なたたずまいをみせる。
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街道は少し先の上町の交差点で右折して進むが、直ぐに「五行川橋」を渡る。かつて氏家町付近を流れていた鬼怒川が、家康の河川改修の命で現在のものとなったが、伏流水として残っており、下を流れる五行川も、その伏流水が現れたものとのこと。
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少し先には「思案橋」がある。この下の川も少し上流で二筋に分かれた五行川で、直ぐにまた一つに合流する。流石に湧水で水が綺麗だ。
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進むと、室町時代初期の応永31年(1424)に開基され、現本堂が文政8年(1825)に改築された薬王寺がある。そして「櫻野中」の交差点で48号線を横切る。
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天和3年(1683)9月に起きた日光大地震で男鹿川、湯西川が堰き止められ出来た「五十湖」は、現代の「五十ダム」より規模が大きかったそうだが、享保8年(1723)8月10日の暴風雨で決壊して鬼怒川沿岸に甚大な被害をもたらし、死者1万2千を数えたという。この門は、そのときの水位痕を今も伝えている。
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次に現れたのは、広壮な「瀧澤家住宅」である。瀧澤家は明治期に紡績で財を成した旧家で、明治25年(1892)の陸軍大演習では明治天皇の休息所にあてられたという。休館の札が掛かっていたが、開館される日もあるのであろうか。門から中を覗かせてもらうと、木立が茂り、静かなたたずまいの屋敷になっていた。
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少し先には、鎮守の八幡神社。そして、道端に十九夜塔、二十三夜塔などの石碑があり、ここからは住宅が途絶えて、田園風景が広がってくる。
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それでも、時々は四脚門の立派な住居がある。かつての繁栄を今に残しているのであろうか。
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1Kmほど進んだ所にある松山の交差点付近で松山家に残る一里塚を見学させていただく予定を、手持ちの地図の不備で通り過ぎ、2Kmほど田植えの済んだ田園風景の中を進んで、大沼川を渡った。綺麗な水が悠然と流れ、見惚れるほどである。
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293号線が右に分かれる分岐点には、新旧2つの大黒天ががあり、古いほうの土台には明治期の水準点記号が刻まれている。日光街道の杉戸宿でお目にかかったのと同じ記号である。明治12年6月発行の地理局雑報14号には、標高158.0866m (521.6858尺)と報告されているとのこと。
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さて、弥五郎坂への分岐点だが、ゴルフ場のセブンハンドレッドの大きな看板があり、これからは車の通りも少なくなるのはありがたい。少し先には、水田への水路がコンクリート作りで高さ1m程度の樋となっているのに出くわした。水田への水路としては、初めてお目にかかるものだが、動力ポンプで水を押し上げており、おそらく近年になって新しい水路を設ける必要があり、高低差のある田圃に水を供給するために設計されたのであろうか。
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弥五郎坂にさしかかると、道祖神、二十三夜塔の石碑があり、奥州街道の道標も立っている。
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少し進むと、右手に「早乙女坂古戦場」の表示板。古い階段脇には、「松尾弥五郎博恒墳墓」の石碑があり、階段を上ると、お堂が建っている。
説明板があり、「早乙女坂は、下野国の北部(塩谷・那須)と中央部の接点にあり、戦国時代に、下野一円の領国経営を望む宇都宮氏にとって、早乙女坂を抜き喜連川を治めることは、北部支配への橋頭ほ(堡)を確保する上で最も重要な課題であった。このため、早乙女坂をめぐる攻防は幾度かくりかえされたが、その中でも、天文18年(1549)の戦いは、宇都宮軍の大将尚綱が喜連川の助っ人、鮎ヶ瀬弥五郎(左衛門尉)に射殺されるという大激戦であった。弥五郎の働きによって、喜連川城下のピンチが救われたため、喜連川領民は万こう(腔)の感謝を込めて早乙女坂を、弥五郎坂と呼ぶようになった。今、この地には、宇都宮尚綱のものと言われる供養等が建ち、古戦場の跡を示している」 と書かれている。
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坂を上って行くと左手にゴルフ場の入口が見えてきて、その先の左手には「ログハウス」が立ち並んでいた。早乙女温泉のログハウス部である。
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道は、やがて森の中の切り通しになる。気温が低めとは言えども、日差しに照らされながらの街道歩きは汗ばむが、木陰の道は涼しくて心地よい。頂上に達して坂道を下って行くと、河東碧梧桐(かわひがし へきごどう)の句碑があり、「坂を下りて 左右に藪あり 栗落つる」と刻まれている。この地で詠んだ句である。碧梧桐と虚子は子規門下の双璧と謳われたが、守旧派として伝統的な五七五調を擁護する虚子と激しく対立していた。しかし、後世の評は、やはり虚子の方が上ではなかろうか。
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碧梧桐の句碑の横には、「ほほえみ仏」と書かれた小さな石仏が並んでいた。本当に小さな石仏だ。ここを過ぎると、森も終わりで羽黒の集落に入って行く。
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集落の中の道を真っ直ぐ進んで、荒川に突き当たる手前に、立派な枝垂桜の木があり、根元に「勝善神」の大きな碑が建っている。「勝善神」は牛馬の守護神で仏教系の馬頭観音に対する神道系のもので、奥州街道で初めて見かけるようになった。最初に目に付いたのは白澤宿であった。
そして、荒川に架かる連城橋を渡って、喜連川の町に入って行く。
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喜連川の町に入ってきた。街道が貫く宿場町の雰囲気がある。喜連川と言っても、この名前の川はなく、そのいわれは、足利時代の荒川は、その上流に狐が住んでいたので「狐川」と呼ばれていた。しかし、どうも良くない呼び名と考え、荒川、内川、江川が喜んで連なって流れているので「喜連川」と呼ぶことにしたと言われている。そして、鎌倉時代に「喜連川」の表記が定着したようである。
少し先で、龍光寺への小道を右に入って行くと、道路脇の水路に鯉が泳いでいた。水路に柵を設けて飼っているようである。
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「龍光寺」は足利尊氏の開基で、江戸期には喜連川藩主足利家の菩提所で寺領50石を賜っていた。境内の左手奥に、喜連川藩主歴代の廟所があった。
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街道に戻り、進むと右手に「観光情報館」があったが、農産物の直売がメインのような雰囲気だったので寄らずに通り過ぎた。そして、次に左の小道を入って行くと「喜連川神社」がある。永禄6年、塩谷兵部大輔源惟朝が尾張国津島牛頭天王宮の分霊を勧請した社で塩谷氏喜連川氏の代々崇敬の社として現代に至っている。また、喜連川神社は、あばれ御輿の名で近郷まで知られいるとのこと。
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喜連川神社の境内から右の方に小道が続いており、現在は「お丸山公園」となっている「喜連川城址」に行くことが出来るようになっている。かなり急な道を息を切らせながら上って行くと、山頂の本丸跡と思えるところは広場となっており、喜連川の水道設備が設けられていた。
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さらに、右手に進むと「喜連川スカイタワー」が見え、また喜連川の街並みが良く見下ろすことが出来た。
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順路としては逆であろうが、下りてくると「お丸山公園」と書かれた入口の門があり、その前の市役所の駐車場には「喜連川城の大手門」が再現されていた。
「喜連川城」は、塩谷五郎惟広(これひろ)が源平合戦において、その一族として源氏側として参戦し、元暦元年(1184)2月の一の谷の戦いや文治元年(1185)2月の屋島の戦いで戦功があり、塩谷荘に三千町の領地を賜り、大蔵ヶ崎城を築いて居城としたのが始まりである。また、惟広は奥州藤原氏の征伐にも参戦し、この時、従五位下安房守の官途を賜っている。
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街道に戻ると、「街の駅本陣」の看板が見えてきた。ここは、かつては本陣のあった場所のようだが、大正15年に警察署が建てられ、現在は旅人を相手のレストランとなっているのである。建物の前には、湧き水が流れる石柱がおかれて、自由に水が飲めるようになっていた。
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時刻は11時30分で、ここで昼食とすることにした。お客は私1人で、他に客はいなかった。レストラン内部は、元警察署であったのを示すためか、所長室、拘置所などの木札が掛かっていた。残念ながら料理に関しては、値段の割には味はいまいちであった。
昼食を済ませ歩き始めて、次の信号で左に入ると「さくら市喜連川図書館」があった。街並みの見栄えに比べ立派過ぎるような建物である。地方に行くと公的な建物が、とても立派である。
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進んで行くと、立派な建物が目に付く。蔵のある由緒のありそうな住居に続いて、「たかしお薬局」も大きな建物である。街道は、この先の台町の信号で右手に入って行く。
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旧道は短い区間で、内川に架かる金竜橋に達するが、この区間も立派な家が多い。
以下は喜連川(後半)から太田原に続く


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