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2018.03.26

石岡から奥谷

本日の歩行距離20Km(石岡から奥谷)
水戸街道歩きは、昨年11月22日から冬の間はお休みしていたが、ようやく桜も咲き暖かくなってきたので再開した。
9時4分に石岡駅に到着して、駅前通りを旧街道に向かって歩き始めた。

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国府三丁目の丁字路で右折するが、ここで少し道をそれて浄土宗照光寺に立ち寄った。このお寺には、常陸府中藩主松平家墓所がある。府中松平家は初代水戸藩主徳川頼房の五男頼隆を祖として2万石を与えられ、水戸徳川家の分家四藩(高松・守山・宍戸・府中)の一つであり、十代頼策のときに明治維新を迎えたのである。
北に進んで国分町府中3丁目で右折して、常磐線を跨線橋で越えると県道両脇の歩道には、水戸街道の各宿場を紹介したタイルが路面に設置されていた。
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進むと江戸から23里めの石岡の一里塚があった。道路工事で削られているが、道の両側に残っているのは多くはない。
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一里塚を過ぎて、県道を進むと左側に日本刀研磨と書かれた家が目についた。いわゆる日本刀の研ぎ師の店であろうか。初めて見る店である。
その後2Kmほど進むと行里川の集落で不動尊の小振りのお堂が建っていた。
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不動尊の先には、とても立派な長屋門の家があった。水戸街道を歩いていると長屋門をよく見かけるが、ここのは特に立派であった。
その先で園部川を郡橋で渡る。
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進んで、竹原宿に入って行くと竹原神社がある。小振りな神社ながら神輿(みこし)があり、総欅造りで美術工芸品として価値も高く、毎年7月下旬に行われるアワアワ祇園という祭礼時に繰り出されるという。
T字路の竹原交差点に突き当り左折して進んで行く。一里塚跡も残っておらず、2Kmほど進んで中野谷の集落に入って行くと馬頭観音と地蔵が立っていた。
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少し先には、「北辰一刀流 故大貫先生政成之碑」と刻まれる石碑が建っていた。北辰一刀流と言えば流祖は千葉周作で水戸藩に召し抱えられ弘道館で教授していたが、ここの碑の大貫先生も免許皆伝に達した人物であろうか。
歩いて行くと道端に石仏が散見される。
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堅倉集落を進むと、加藤家の復旧門が建っている。元治元年(1864)加藤家は名主職を勤めていた関係で水戸天狗党により母屋と門が焼き討ちにあい、門の前柱2本を残し焼失してしまった。歴史を残すため焼残った柱二本を使用して復旧したそうである。下の右の写真は、焼き討ち後に建てられた加藤家である。
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T字路で左折する角に”旅館かと家”がある。角屋の屋号で江戸時代末期にはここで旅籠を営んでいたが、現在この建物は使われておらず、国道沿いの新館で旅館業を続けている。近年になって作られたとみられる双体の道祖神も見受けられた。
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小岩井の集落に入って行くと、また石仏があり、西郷地に入ると石船神社がある。元禄期から大正にかけて、村内の色々な神社が合祀された神社とのこと。
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西郷地北端に西郷地小学校跡がある。明治10年(1877)小幡法円寺の寺である広諦寺本堂を校舎として西郷地小学校は開校したが、明治19年(1886)堅倉小学校に合併して廃校となった。その先で右側に続く参道をたどると山中薬師堂がある。建築年代は不詳だが、水戸吉田町の薬王院と建築様式が類似しているという。安置される二体の仁王像はこの地にあった広諦寺山門のもので、明治末期の火災の際に搬出されて難を逃れたとのこと。
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小幡宿に差し掛かったところの林の中に石段と愛宕神社のお社が見えてくる。愛宕神社は防火の神様であるが、戦国時代に小幡城主が奨励したという伝統芸能”小幡ひょとこばやし”の発祥地とのこと。
その先すぐに方圓寺がある。水戸藩主の専用宿泊所であったとのこと。
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法園寺から1.5Kmほど進むと街道は国道6号線に合流するが、その合流点の手前に鳥居がありその脇に青龍大権現の石碑が建っていた。高台の方にコンクリートの道が通じているので上ってみると石造りの祠が祀られていた。
6号線を少し進むと千貫桜碑と千貫桜歌碑が建っていた。それによると、かつてこの地に桜の巨樹があり、義公(水戸光圀)が終日めでて「千貫の価値がある」と賞賛したと言う。現在はその桜の木は枯死してしまったが、当時のことを偲んでこの地を千貫桜と呼んでいるとのこと。
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千眼桜の碑を見終わって時計を見ると15時16分であった。今日は、奥ノ谷から関鉄バスで水戸駅に向かって駅前で一泊の予定である。奥ノ谷バス停は3Kmほど先であるので、特に歴史的な遺構も見られないのでひたすら歩く。冬の期間お休みしていたので足の疲れも募って来たが、16時に奥ノ谷バス停に着き、16時10分のバスに無事乗ることができた。