2008.06.08
木曽福島から須原
本日の万歩計38,074(25.5Km)
木曽福島で一泊して朝が来た。夜の間に雨が降ったようで、道路は濡れていて、しかも今にも降りそうな雰囲気。テレビの天気予報では木曽地方は曇りと言うのを信じて、7:30amに宿を出発して、今日の起点の木曽福島駅に向かう。
駅から路地のような細い道に入って行くと、木曽町役場にぶつかり右に回り込むような感じで進み、木曽福島の街並みが一望できる場所を通り、なお木立の中の小道を進む。
小道を抜けて進んで行くと、右手に「木曽取水ダム」が見える。雨が多かったためもあり、豊かな水量である。
一度県道に出るが、直ぐに静かな道を上って行き国道の下をくぐると、ぽっかりと口を空けたトンネルが見える。明治43年にJR中央線のために作られたトンネルだが、今は使われておらず、このトンネルを通り抜ける。あまり長いトンネルではないが、照明はあっても、中央部はかなり暗い。
そして、神戸(こうど)の集落に進んで行くと鳥居峠とここの2ケ所の御岳山の遥拝所がある。そして、草の茂った道を通って行くと「沓掛馬頭観音」のお堂である。木曽義仲が名馬の死を悼み建立したと書かれていた。
国道を進むと、有名な「木曽の桟(かけはし)」がある。今は、建設技術の進歩で大型トラックが激しく走ってもビクともしないが、昔は難所であったとのこと。桟道(さんどう)と言えば三国志に出てくる蜀の桟道(しょくのさんどう)が有名であるが、ここも同じく難所であったが、尾張藩の工事でずいぶんと改善されたらしい。下の右側の写真は、木曽川を渡ったところにある、桟温泉(かけはしおんせん)である。
木曽の桟を過ぎて、長い国道あるきが続くが木曽川沿いであるので、流れる水を見ながら歩くと、気持ちも安らぐ。途中、釣りを行っている人も居た。
やっと、国道19号から右に分かれて「上松宿(あげまつしゅく)」に進んで行く。宿場らしい街並みで、カーブしているのは鍵の手であろうか。
上松の街の中心部は、あまり歴史的な遺構は残っていないが寺坂という細い坂道を上って行き上松小学校で茂吉の歌碑、藤村の文学碑を見て寝覚めの集落に達する。ここには、江戸期に茶屋本陣であった「田瀬屋(たせや)」、十返舎一九の「道中膝栗毛」にも登場する蕎麦屋の「越前屋」がある。浦島太郎が目覚めたとの伝説の「寝覚の床」は、この有名な2軒の間を下って行く。話しが前後するが、「寝覚の床」を見学して坂道を上がってきたら、家の石垣の上の草むしりをしていた、「田瀬屋」のおばあさんが、歩いているの?、よって行きませんかと声を掛けてくれた。「田瀬屋」は今では「民宿」を営んでいるようだが、江戸時代の建物が今に続く貴重なもので、釘が1本も使われていないとのこと。おばあさんいわく、私が嫁に来た時から建物の様子は全く変わっていないとのこと。長い江戸時代にここで、休んだ大名の記帳簿が何冊も残っていて、名前の知れた大名の名前が続いていた。話し好きのおばあさんで、ずいぶんと色々お話を伺った。
さて、「寝覚の床」である。坂道を下って、国道を渡ると「臨川寺」があり、入場料200円を払う。寺に入らなくても川に下りてゆけるが、大きく迂回する必要があるので200円払った方が便利だし、上から真下に見るのも趣がある。それに、何と言っても浦島太郎の「釣竿」が見られるのが面白い。誰も信じていなくても見たくなるものだ。
他にも「臨川寺」には、尾張藩の4代藩主の徳川吉通が母堂の長寿を祈って建てた弁天堂や、浦島太郎が自分の姿を映した「姿見の池」がある。
水の流れが花崗岩を長い時間を掛けて削り、作り出した「寝覚の床」は、水の緑と花崗岩の白の対比が美しく、木曽で一番の景勝地と言われるのもうなずける。 |
元の中山道に復帰して、進むと「上松町」で一番大きい「桂の木」。胴回りが4.1mもある。道は最後には草道になって、上松宿から離れて行く。
国道に出てしばらく歩くと、広重・英泉 合作の中山道69次の浮世絵にも描かれた「小野の滝」がある。いまは、JR中央線の鉄橋が上に架かり、目の前には大型トラックがうなりを上げて通り過ぎる国道がある。それでも、かつては名所の1つであったことを十分に窺わせる風情が感じられる。
この辺りは、国道の開通で断ち切られた旧街道がポツポツと国道の両側に残っていて、小野の滝を過ぎると荻原の集落があり、少し進むと国道に出て次に4軒ほどの家が残っている宮戸の集落で草道を通って、再び国道に出る。
またまた、国道を離れて立場のあった立町に入ると、なんと木曽川に架かる吊橋があらわれた。橋の中央あたりまで進んでみたが、ワイヤーが錆付き、かなり老朽化している。もう少し古くなったら修復するのだろうか、それとも朽ちるのにまかせるのか。
ようやく、「倉本駅」に到る。鉄道により旧街道は完全に分断されており、駅を大きく迂回して、線路の反対側に出て残っている旧街道を進む。小さな集落が残っているだけだが、最後に国道に復帰するところは、感じのよい草道であった。本来、これが歩く道なのであることを感じさせてくれる。草の軟らかい感触が靴を通しても伝わってきて心地よい。そして、車のためであっても人のためでない道へと進んで行く。
単調な道が続き、何か変化のあることを期待していたら、何と踏み切りでもないところで、線路を跨ぐことになった。細い道が線路の両方にまで伸びてきているのだが、肝心の線路に踏切がないのである。「危険につき線路横断禁止。近くの踏み切り等を通行してください」の立て札がある。そんなこと言ったって1km以内には踏み切りは無い。責任を果たしたという免罪符としての立て札だろう。
渡ると、養魚池があり、ほどなくまた、同じ立て札のある場所で線路を跨ぎ国道に復帰する。
国道脇に素晴らしい枝垂桜の木がそびえていた。花の季節は見事なものであるに違いない。やっと、今日の最終目標地の須原の駅に着いた。幸田露伴の文学碑があった。時刻は14時50分で、電車は15時17分だ。まだ早い時刻なので次の駅まで歩きたいが、15時17分の電車を逃すと、18時近くまで電車がない。これでは家に着くのが真夜中で遅すぎる。恐ろしいほどの不便さだ。今日はここで諦めて、帰宅することにした。