2008.05.05
本山から薮原
本日の万歩計41,5435(27.8Km)
今日は朝からどんより曇った天気で、天気予報でも今日一日雨が降らずに済むかどうかが定かでない。塩尻から名古屋方面に向かう電車は非常に少なく午前中では6:54、8:10、10:50の3本だけである。ともかく6:54分発の電車で「日出塩駅」に向かい、7:02分着で歩き始める。
歩き始めて、しばらく行くと旧道は国道の下を潜って直ぐに合流し、1Kmほど進むと右手に「是より南 木曽路」の大きな石碑。松本領と尾張領との境界であったところだ。いよいよ木曽かと少し感じ入る。
道路の左手を見ると、道路壁に進行方向に対して戻る感じで斜めに上る小道があり、ここから旧道に入って行く。途中には落石防止のネットもあり、直ぐ下に国道がちらちらと見える歩き易い道であった。
直ぐに旧道は終わってしまうが、終わりのところには屋根付きの千手観音像。これ以降は、しばらくは国道を歩くが、1.5Kmほど進むと国道の上の方に「若神子の一里塚」がある。下ばかり向いて歩いていたら気が付かない位置だ。もともと旧道は少し高いところを通っていたのが分かる。
その後、直ぐに「若神子」の集落を通る旧道への入り口があり、国道から分かれる。
途中で国道への分岐が何度かあり、贄川駅のごく近くまで辿ってゆける。国道、JR中央線が直ぐ下に見え、見晴らしが良く気持ちが良い。谷が狭まって耕作可能な土地がほとんどなくなってきたのが分かる。
贄川駅に着いたが、やはり無人駅であった。通り過ぎて直ぐに線路を跨ぐ橋が2つ平行していて、新しい橋が車の通行用に完成したので古い橋は整備して歩行専用としたようだ。手すりには金属の筒がぶら下がっていて、備え付けてある小さな木槌で順番に叩くと「木曽節」が奏でられる。やってみたが、あまりうまくは響かない。
贄川は温泉が出て「熱川」の字をあてていたが後に温泉が枯渇し、また諏訪大社の神事の贄として、ここで獲れた魚を献じていたことから、この贄の字が当てられたという。橋を渡ると直ぐ左に「贄川の関所」が復元されていた。関所と言えば「木曽福島」の関が有名だが、秀吉の時代に木曽五木の持ち出しを取り締まる材木番所として設けられたのに始まり、後に四大関所の一つとなる福島関所が設置されると、その副関としての役割を担ったという。時計を見ると8時44分で9時にならないと見学できず、関所に付随して設けられている資料館も見学できない。
諦めて、歩き始めると直ぐに水場があり、何とその前がゴミの収集場所になっていて、おばさんたちがゴミ袋を持って集まってくる。大概はゴミを捨てて直ぐに帰るが、2人が残って盛んに、おしゃべりをしている。飲み水を補給したいと思っていたところだったので、この水が飲めるかどうかを聞きたいのだが、おしゃべりが途切れない。しばらく待って我慢できず「この水飲めますか」と聞いたら2人から同時に「飲めます」と返事が返ってきた。冷たく美味い水であった。振り返ったら、2人とも居なかった。
贄川も歴史的な遺構は多くは無いが、国重要文化財の「深澤家の住宅」が残っており(下右)、家並みも何となく街道の様相である。
贄川の宿は短く直ぐに終わるが、宿を過ぎると古い国道の廃トンネルが見える。最初に見えた方は土で塞がれていた。
一度国道に合流し、また左に分かれて長瀬の集落を歩いて行く。ここも生垣が綺麗だ。また国道と合流して進んで行くと、道の駅の「木曽ならかわ」がある。ここでは木曽の木製品も売られているが工業製品と職人の手作業の製品の価格差を実感する。漆器など手が出ないほど高価だ。コーヒーでも飲んで休んで行こうとしたが、注文したコーヒーが待てど暮らせど出てこない。ざる蕎麦を頼んだ人は食べて出てゆくのを見て、頭にきて、もう要らないと断って歩き始めた。これも、国土交通省の天下り会社の経営のせいではなかろうか。
進んで行くと、「平沢」の街に入って行く。「平沢」は今や最大の漆器の街である。漆器は当初、木曽福島で始まり奈良井に伝わり「平沢」は、その下請け的存在だったが、明治になり錆土という下地材が有ったため、主役に躍り出たのだという。立派な構えの漆器製造所、漆器店が続き、ここも斜交屋敷の建て方である。そして、ここほど狭い道路でも斜交によって生じる駐車スペースの便利さを感じている場所は無いように思える。
平沢宿が終わると、道は線路を横切り直ぐに右折して奈良井川の堤防を歩く。川の流れの向こう側に江戸から64里の「橋戸の一里塚」が見える。川の反対側には「楢川小学校」があり、 外壁はさわら、ランチルームはひのき、廊下は楢の木、体育館はカラ松、給食の食器は漆器だという。
そして、奈良井大橋を渡ると点々と奈良井宿に向かう観光客が見える。
奈良井は、流石に無人駅でなく、駅員さんが1人いた。しかし、電車の本数からして暇をもてあますのではなかろうか。駅前には5月連休とあって交通整理のおじさんも立っている。そして、宿に入ってゆくと観光客が大勢歩いている。ここは観光地だ。食事でも喫茶でも多くの店がある。
街並みはタイムスリップしたような雰囲気であるが、歩いていて感じたのはテーマパークとして作られた街のように思ったことである。建物も「平沢」の方が本物であると思う。もちろん、訪れて損は無い場所ではあるのだが・・・
屋敷は昔と同じく、間口は狭くても奥行きは深い。
そして、短気で道の駅で飲み損ねたコーヒーを飲もうと、古い様相のお店に入って、五平餅とコーヒーのセットを注文する。
コーヒーに切干大根とたくあんが着いて来るのが面白い。五平餅は櫛に刺して焼いたものと思っていたが、出てきたのは丸めてたれを載せたものだ。胡桃とゴマの味がして美味しかった。まだ、11時だったので、店の女将さんに、これから「鳥居峠」を越そうと思うが、どれほどかかると聞くと2時間ぐらいでしょうとのこと。また、主人は先日皆で道路の草刈などしたから、歩き易くなっていると言う。ゆっくりといただき、店を出るとすぐに鍵の手があり、長い街も終わりが近づいてきた。
それにしても長い街である。木曽では一番長く1Kmもある。江戸期は漆器の街として栄え、奈良井千軒といわれるまでに栄えた。約160年前の天保14年の調査では家数409軒、人口2155人と信濃、木曽の26宿で最大である。それに対して平成13年末人口は993人に過ぎない。今も減り続けているこの数字の持つ厳しい現実がある。
そして、最後は「鎮神社(しずじんじゃ)」で終わりとなる。
「鎮神社」を過ぎると、直ぐに右側に石の階段のような坂道がある。階段を上って林の中の道を進むと、直ぐに一旦舗装道路に出る。ここで右に曲がって上って行くと右に分かれてまた、右に入って行く細い道がある。
もう観光客は1人も居ない。実は、ここで舗装道路を左に曲がり下っていって間違いに気が付いて引き返したが30分ほどロスしてしまった。
石畳の道が続く。普通石畳の道は歩き難いと思っていたが、ここは石の間に土が詰まっていて歩き易い。奈良井宿で降り始めた雨が、この頃から本格的な降りになってきて、やむを得ず傘を取り出した。途中、木の桟を設けたところも何箇所もある。
石畳は途中で終わるが、その後も歩き易い道が続く。そして「中の茶屋」と言う小屋に到着する。かなり汚れていて感じが良くない。そして直ぐ傍には「葬沢」がある。ここでは天正10年(1582)に木曽義昌が武田勝頼の二千の軍を迎撃して武田軍は500余名の戦死者を出して大敗し、この谷が死者で埋もれたといわれ、戦死者を葬った沢であることから、「葬沢(ほうむりさわ)」と言われると説明板にある。また、菊池寛の「恩讐の彼方に」でお弓が市九郎を恐ろしい計画に誘い込む場所でもある。一人で長居をしたくは無い場所である。
また、木の橋を渡り、急坂を上ってゆくと、やっと「峰の茶屋」に着く。この小屋は新しく、内部も非常に綺麗である。湧き水も豊富に流れていて、飲み水を補給できる。どこかで、熊除けの鈴を着けなければと思っていたので、ここで雨を避けながら鈴を取り出し、ぶら下げた。
直ぐ横には広い道が通っているが、左の旧道を上り進んで行くとやがて「熊除けの鐘」が吊るされていた。鳴らすとビックリするぐらい大きな音がした。このような鐘は全部で5箇所ほどある。
「熊除けの鐘」を過ぎると、木祖村天然記念物の「鳥居峠のトチノキ群」があり、その中に「子産の栃」と呼ばれている、大きな洞のある栃の木がある。説明板によると、この洞に捨てられていた子を拾って育てたところ、孝養を尽くし幸福になったという。子産の栃の実を煎じて飲めば子宝に恵まれるという。
やっと、峠に着く。「木曽御岳山」の遥拝所がある。天気が良いと「木曽御岳山」が見えるとのことだが、今日は雨で無理だ。それにしてもあまりにも多い石仏群。林を通して薮原宿が見える。そして、ここが千曲川となる奈良井川と木曽川の分水嶺で「伊勢に流そか 越後にやろか 鳥居峠のたちしょんべん」というざれ歌があるそうだ。
少し下ると、手洗い水。飲料可能かどうかは定かでない。少し林の中へ上ると「義仲の硯水」。木曽義仲が北国攻めでの戦勝を祈願して願書を御岳山に奉納したときの硯の水とのことだが、湧き水は枯れ、単なる水溜りになっていて、落ち葉なども浮いている。
ひたすら、薮原に向かって下ってゆくと、JR中央線の直ぐ上のところに、薮原御鷹匠役所跡がある。説明板には、毎年五?六月になると尾張藩鷹匠方の役人が出張し捕らえてきた鷹のひなを飼育した。木曽谷のうちでも味噌川からおろす子鷹は特に優秀であったと言われる。ここを今でもお鷹城と呼んでいると書かれていた。
そして、線路を跨いで薮原の街を進んで行くと、本陣跡は杭のみが建っていた。そして、昔の旅籠の建屋のままで旅館を営んでいる「米屋」がある。
進んで行くと、「防火高塀」の一部が残っていた。また、薮原名物の「お六櫛」の問屋があった。お六櫛とは、持病の頭痛に悩んでいた村娘お六が、治癒を祈って御嶽山に願いをかけたところ、ミネバリで櫛を作り、髪をとかしなさいというお告げを受けた。お告げのとおりに櫛を作り髪を梳いたところ、これが治った。ミネバリの櫛の名は広まり、作り続けられることになったという伝説がある。
薮原駅の入り口は、歩いてきた道路から線路を越した反対側である。線路を横切る地下通路があった。写真は駅入り口側を撮ったものである。
そして、薮原駅に着いた。時間は2時30分で、鳥居峠越えに途中の30ほどのロスを含め3時間ほどを要した。しかし、塩尻行きの次の電車は15:52分。1時間20分ほどの待ち時間である。ご夫婦で歩いておられる方が到着したが、話してみると今日は私と同じく「日出塩」からの出発だったと言う。既にご夫婦で東海道、奥州街道、日光街道、甲州街道を歩き終わったという。大ベテランである。
塩山に着いて、16時41分発の「あずさ」で帰宅についた。