2008.05.04
下諏訪から本山(もとやま)
本日の万歩計42,835(28.7Km)
5月3日は天気が悪そうだったので、連休でもあり、4日に出かけけ1泊して歩くことにした。何とか宿泊のホテルも確保できスーパーあずさ1号で上諏訪に向い、ここで乗り換えて下諏訪には9:25に着いた。
早速、前回中山道から離脱した甲州街道との分岐点に行き、ここから歩き始める。丁字路に建つ「まるや旅館」の外観もこの地に相応しいものであり、その斜め前には「歴史民族資料館」がある。資料館も、元は旅籠の建物であり江戸期の生活用品などが展示されていた。そして、国道20号線との合流点には「御柱のモニュメント」。綱の太さが半端でない。
20号線から離れて旧道に入ると、直ぐに「魁塚(さきがけづか)」がある。これは「赤報隊」の「相楽総三(さがらそうぞう)」他隊士の合同墓碑を建てて弔ったものである。慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争が勃発すると先発隊として中山道を「年貢半減」などの唱えながら東進したが、新政府軍の方針変更によって赤報隊が偽官軍とされ、相楽は捕縛され、下諏訪で処刑される。明らかに新政府の卑怯な策謀である。前年の戊辰戦争を引き起こす挑発行為として、江戸市中で放火や,掠奪・暴行などの蛮行を行ったことの、後始末としての犠牲であったのであろう。後に孫の木村亀太郎の努力により名誉が回復され、昭和3年(1928)に正五位が贈られている。砥川に掛かる富士見橋を渡ると、岡谷市に入り住宅街の道が続く。
途中には「右中仙道、左いだ(飯田)道」と書かれた道標があり、ここが分岐点であったことがわかる。そして、「東堀」の交差点で20号線を横切ると直ぐに江戸から56里の「東堀の一里塚跡」の碑がある。
いよいよ塩尻峠への上り口に達すると、今井家の茶屋本陣がある。和宮様をはじめ多くの大名、貴人がここで休憩を取った。建物は何度か建て直し、現在も住居として使用されているが、有形文化財に指定され堂々たる家屋である。
中央高速の岡谷インターの横を回り込むように進み、本格的な上りに差し掛かると、「石舟観音」があり、急で長い階段の上に鎮座している。階段下には金命水と言う清水があり、昔も今もここを通る人の喉を潤す。おいしい水であった。
塩尻峠に上ってゆくと諏訪湖と取り巻く市街が見えてくる。そして突然大きな石。江戸時代にも「大石」として有名で高さ3丈(6m)横幅2間余と記されており、盗人がこの石に隠れていて旅人を襲ったという。それにしても、大地震があれば転がりそうだが、江戸時代からここにある。案外地下に深く入っているのかも知れない。
益々、諏訪湖の眺望が開けてくるが、上りの勾配も厳しく、階段を昇っているような感覚である。
やっと、塩尻峠に到達。ここにも「熊出没注意」の看板。石碑には「大帝の龍駕の峠さくらそう」とでも読むのか、大きな石碑。右手に少し上ると展望台の建物があり、上ると諏訪湖とその周辺、富士山、南アルプスの山々が見える。北側からは、遠くに北アルプスの峰々が輝いている。
峠から急な坂道を下りると、峠の茶屋があった場所だが今は普通の民家となっている。明治天皇も立ち寄られたようで、「御膳水」の石碑と今は使われていない「井戸」が残っていた。少し進むと林の中に柔和なお顔の地蔵2体と、「伝説・夜通道(よとうみち)」の標識が建っていて、「美しい娘が岡谷の男に会うため毎夜この道を通った」と書かれていた。
さらに進むと「東山の一里塚」が残っていた。もう、染井吉野ような早咲きの桜は散ってしまったが、今が盛りの八重桜とともに、桜草が可憐に民家の庭先を染めている。
柿沢の集落に入ると、この辺りから塩山宿に到る地方独特の伝統のある民家が見えてくる。屋根の棟と直角な面が正面となり(妻入り様式)、正面の頂上には「雀おどし」がある。そして「長野自動車道」を渡る。「みどり湖」パーキングエリアが見えていた。
道は塩尻宿の中心に向かって進んで行き、八重桜の見事な花がある。この辺りは生垣も手入れが行き届いている。
ようやく、塩尻宿に入り国重要文化財指定の「小野家住宅」と「本陣跡」の大きな看板を見る。小野家住宅は宿場時代の現存する遺構で重要であるとのこと。
少し先の陣屋跡には、笑亀酒造の重々しい建物と、大きな「杉玉」。そして「鍵の手」を右側に入って進んで行くと右側に「阿禮神社」があり、350mほどで本棟造りの建物としては頂点と書かれている「堀内家」の家がある。見学は事前に申し込んでおけば可能とのことであった。
宿を過ぎて、中央線のガード下を潜って、昭和電工の700mもの長さの脇を通ると、「平出の一里塚」。塚の中央は松の木であるが、ここは武田信玄の軍師山本勘助が赤子を拾った伝説から「勘助子育ての松」と言われるとのこと。また、ここの松の葉を煎じて服用すると乳の出がよくなるとか。さらに、少し進むと平出の遺跡がある。発掘は今も進めているとのこと。
この辺りは「葡萄畑」が多い。その田園地帯を通って、JR中央線の名古屋方面への踏切を渡る。通り過ぎて、踏み切りの警報機が鳴ったので振り返って特急列車の「ワイドビューしなの」の通過をカメラに納めた。ほどなく、国道に合流して進み、平出歴史公園の交差点で国道と分かれて旧道に入ってゆくと、ようやく「洗馬宿」である。少し行くと、「細川幽斎肱懸松」があり、細川幽斎が「」肱懸けてしばし憩える松陰にたもと涼しく通う風」と読んだと書かれていた。
さらに少し進むと「善光寺道の分去れ」になる。写真は振り返って撮影したものだが、「右 中山道 左 北国往還 善光寺道」の表示碑が建っている。そして、狭い住宅脇の小道を入って行くと「邂逅(あふた)の清水」がある。義仲の忠臣今井四郎兼平が義仲の馬を洗ってやったのがここの清水で、これから「洗馬(せば)」の地名が起こったと言われている。
ともかく、「ふるさとの水20選」に選ばれている名水だというので、一口飲んでみたら美味しかった。しかし、直ぐ上には人家もあり水質には疑念も生じるのを排除できない。
今日の目標到達地点の「洗馬駅」に着いた。無人駅で人の気配が無い。時計を見ると、まだ2時半で、塩山方面への電車の時刻までは1時間以上ある。ここで決心して、もう一駅進むこととした。街道に戻って「万福寺」の赤い山門が見えてくると、宿も終わりである。
道はJR中央線の下を潜って進み、緩い坂道を上り始めると「牧野の一里塚跡」があり、江戸へ60里、京へ72里と書いてある。この辺りまで来ると、両方の山が近づいてきて、木曽路に向かう雰囲気が感じられるようになる。
その後国道に合流し、700mほど進んで再び旧道が右に分かれて行くと「本山宿」である。道祖神などの石仏が多数並んでいる。これ以降の中山道でも一箇所に石仏が固まって並んでいる場所が度々出てくるが、これは鉄道や国道を作った際に、狭い谷筋にあって旧街道上に作らざるを得ないところが多く、そのときに取り払った石仏を1ケ所に集めたものと思われる。そういえば明日は5月5日で端午の節句だ。こいのぼりが上がっているのも当然である。
宿には歴史的な遺構はほとんど残っていないが、街道らしい家屋が多少は並んでいるのを見ることが出来る。家は道路に対して少し斜めに建っており、斜交屋敷と呼ばれる。これは、真っ直ぐな街道にあって軍事上の配慮で建物の陰に隠れるためと言われている。何はともあれ、現在は家の前に車を停める良いスペースになっている。また、本山宿は「そば切り」の発祥の地として有名で、それ以前は蕎麦はそばがきなどの形で食べていた。宿の最後で旧街道が国道に吸収されるところに「本山神社」があり、この手前にも多数の石仏が見られた。
その後、国道を1.5Kmほど進むと、左に分かれて線路を横切り旧道に入って行く。しばらく進むと「日出塩の一里塚跡」があり、江戸より61里、京へ71里とある。直ぐに「日出塩駅」に着くが、ここも無人駅である。人気の無い駅舎で電車を待っていると、やっと時間になって電車が来た。ホームにはワンマンカーを待つ場所の記述があり、電車が止まるとドアを開くボタンを押して整理券を取って電車に乗り込む。ワンマンバスと同じシステムだが、電車では始めての経験であった。
ともかく、今日は暑い1日であった。これで、塩尻に戻り1泊する。