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2008.04.27

和田から下諏訪

本日の万歩計43,122(28.9Km)
昨日の夜は民宿主人手作りの食事を取り、お風呂に入ってストーブで温まった部屋で早く寝付いた。朝6時に起き窓から眺めると、山には霧が掛かっていたが、テレビの天気予報では晴れてくるようだ。7時から食事を取り、頼んでおいた「おにぎり」を受け取り、また若主人に和田宿の本亭前まで車で送って貰う。和田宿の周りを取り囲む山々も霧に霞んでいたが、若主人は上の方は晴れているでしょうと言う。ともかく峠方面に向かって歩き始める。
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ほどなく、国道142号線との交差点に差し掛かると、鍛治足の一里塚がある。日本橋からちょうど50里の一里塚だ。交差点を渡って旧道を進んで再び国道に合流すると道祖神があり、この辺りは昔は「牛宿」と呼ばれたところで、木曽桧を江戸まで運ぶ牛を泊める宿があったところである。
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歩道の無い怖い国道を歩いて、左手に和田の発電所、2軒のドライブイン、そして東洋パーライトの工場、扉峠への分岐点を過ぎて「古中山道」への入り口に達する。江戸時代の中山道は国道で消されてしまい、代わりに「古中山道」を自然遊歩道として整備したようである。しかし、入り口にゴミ収集のボックスがあるのがいただけない。
途中には木の橋もあり、林の中を行く気持ちの良い道である。800mほどで唐沢の一里塚に着く。江戸から51里で、中心の樹木は失われているが、ほぼ完全な形で両側に残っている。中山道のルートが変わって江戸時代の終わり頃には街道から外れていたと書かれていたが、このために良い形で残ったのだろう。
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一里塚を過ぎると直ぐに国道に合流するが、国道を600mほど進むと新和田トンネルを通る新道への分岐に達する。ここで右の旧道の方に進む。
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旧道を進むと100mほどで、旧中山道入り口の「男女倉口(おめぐらぐち)」に達する。そして観音坂を上ると、直ぐに休憩小屋と「三十三体観音」がある。かつて、この山の中腹にあった熊野権現の前に並んでいた石像であり、旧道の退廃とともに荒れるにまかせていたが、昭和48年(1973)の調査発掘により、29体が確認されここ旧道沿いに安置された。2体は石仏の種類(千住観音、馬頭観音等)が不明で、4体は未発見と書かれていた。
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次のポイントの接待までは1.6Kmほどだが、比較的緩やかな上りで道の状態も良く、歩き易かった。国道に出ると接待茶屋「永代人馬施行所」が復元されている。江戸の呉服商の豪商かせや与兵衛が旅の難儀を救う為に金千両を幕府に寄付して、年間利子100両を碓氷峠とここで50両づつに分け、11月から3月までここを越える人に粥を牛馬に煮麦を施したという。茶屋の子孫が向いの旧愁之茶屋を経営しているらしいが、まだ閉まっていた。そして、ここで名水が汲めるようになっていて、車にポリタンクを積んで汲みに来ている。接待茶屋の写真の端に写っている車も水汲みで、次々とポリタンを出してなかなか立ち去らなかった。
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また、歩き易い道で沢をいくつか渡って進んで行くと「近藤谷一郎巡査殉職の地」の新しい碑が建っていた。これは明治中頃、22歳の近藤巡査が窃盗犯を下諏訪に護送する途中のこの地で用を足したいと犯人が言うのを聞き入れ両手を縛っていた縄をほどいてあげたら、突然後ろから石で頭を殴られ殉職したのだという。
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近藤巡査の碑を過ぎて進むと、避難小屋があり、その脇では水が盛んに噴出していた。飲めそうだと判断して、魔法瓶にも補給した。そして、この地点を過ぎてしばらくは石畳道だが、土が流されてしまっているためか、たいへん歩き難い道であった。
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左手に沢の音を聞きながら進んで行き、流石に疲れが蓄積してきたと思っていたら、急に開けて日本橋から52里の広原の一里塚があった。ここからは道も緩やかになり、広い石畳で歩き易く、左側は大きく開けてきたと思っていたら、キャンプ場で炊飯のかまども用意されていた。
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石畳の道を進んで行くと、ようやく「東餅屋」にある黒曜石、力餅と書かれた看板を掲げたドライブインが見えてくる。昔は5軒の茶屋があり、名物の力餅を売っており、また1店あたり1人扶持(1日に玄米5合)が幕府から与えられ難渋する旅人の救助にもあたっていた。幕末には大名の休息のための茶屋本陣も出来、土屋氏が勤めていたとある。
少し休憩しようと、客が1人も居ないドライブインで力餅を注文した。あんこを餅で包んだもので美味しかった。店のオヤジさんの話では昨日は、雨に雪が混じる寒い日であった。やっと一昨日から店を開いたばかりとのことであった。
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旧国道は大きく蛇行して進むが、旧中山道はショートカットで進む。
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2回目の横断は国道下の沢の流れのトンネルと共用になっている。水が流れ、片側が歩道になっている。
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4回国道を横断すると、後はひたすら進む。道標も小さいが新しいのが設置されている。
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やっと、古峠に到着。風化した小さな地蔵がある。石碑が建っている。下諏訪側はガレ場で賽の河原と呼ばれている。標高1,600mで、ともかく風が冷たく、とても長く居る気にはなれない。
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少し下って、賽の河原を眺めて、その後にそこから伸びたガレ場を横切る。
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和田宿側に比べると、道は勾配も急で道幅も狭く、大小の石がごろごろしていて一時も気が抜けない。下ってゆくと、「水呑場」と標識のある場所に付く。竹筒のようなものが突き出していたが僅かに水が滴っているような状態。昨日の雨で沢の水なども増しているのに、以前から水場として尊重されていた湧き水も終に枯れかかっているのだろうか。古い時代から水が湧き出していたであろうことは、生した苔で明らかで、地蔵らしき像も苔で覆われている。水が枯れて苔がなくなるのが心配だ。
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ひたすら下って、国道にぶつかると、向こうのガードレールの切れ目に「中山道」の道標が見え、引き続き下って行く。
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国道を2回過ぎると「西の餅屋」と呼ばれるところに着く。ここには茶屋本陣を含め4軒の茶屋があったと説明板に書かれていた。ここから国道を横切り、ガードレールの切れ目から進めるようになっているが、少し前まで山登りのベテラン以外の人は危険なので国道を進むように言われていた。和田宿で何人かの人に聞いても通行の可否はハッキリしなかったが、途中で下から上ってきた夫婦連れの方に聞いたら問題なく通れたとのことであった。
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踏み込んで、少し進むと立派な一里塚碑。江戸から53里の西餅屋一里塚跡である。ここは風にも吹かれず暖かいし、お昼の時刻も過ぎたので民宿で作ってもらった「おにぎり」を食べて昼食とした。梅干を入れただけの単純なおにぎりが、本当に美味しい。その前を夫婦連れが通り過ぎて行く。
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以前、通るのが困難であった崩落した道は木材で補修されており、普通に通れるようになったが、基本的にガレ場であり、大きな石がごろごろしている場所もあって、注意は必要である。
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しかし、ガレ場の道は長くは続かず、やがて歩きよい道となり、国道と合流する。ここで山道は終わりで後は国道の歩道を歩いて行くこととなる。
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国道を1.5Kmほど歩くと、左に小道が別れ、国道の下を潜って行くと水戸の浪士の天狗党の「浪士塚」がある。元治元年(1864)に京を目指す水戸の浪士1,000人と松本・諏訪高島藩の連合軍1,000人が戦い、水戸の浪士10人、松本藩4人、高島藩6人が戦死した。水戸の浪士は戦没者をここに埋めて行ったが、その後高島藩で塚を築いて弔った。水戸藩に問い合わせ名前の分かった6柱については碑に名前を刻んだという。幕末に起こった勤王派と佐幕派の激突の1つである。しかし、まだ期は熟しておらず、最後は加賀前田藩に行き着き全員が首を刎ねられた。
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wada_46.jpg再度国道の下を潜って進むと、右側にペット専用墓地があり直ぐに国道に合流すると、「桶橋茶屋本陣跡」がある。茶屋本陣小松嘉兵衛を中心に数軒の茶屋があったとのこと。
淡々と、国道を3Kmほど歩いて、左の小道に分かれ坂道を上ってゆくと、「天下の木落し坂」と書かれた大きな石碑のある、諏訪大社の7年毎の御柱(おんばしら)の木を落とす急な斜面の上の小広場に行き着く。それにしても恐ろしいほどの急斜面だ。命知らずの若者が御柱にまたがり急斜面を滑り降り、大概は途中で跳ね飛ばされ一緒に転がり落ちる。
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御柱を見た後は、下諏訪で最重要な諏訪大社を訪ねるべく歩を進める。3Kmほどの道を歩いて、ようやく春宮に到着。流石に全国にある諏訪神社の本宮だけのことはあり、拝殿を備えた勇壮な本殿が、日本で最古の神社の1つと言われる社格を示している。
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諏訪大社の春宮の近くには岡本太郎が絶賛したという、万治の石仏がある。説明板によれば、諏訪大社の春宮に石の鳥居を作るのにこの石を使おうとしてノミを入れたら、血が流れ出した。石工が恐れをなして仕事をやめたが、その夜夢で上原山(茅野市)に良い石材があると告げられた。かくして鳥居は完成したが、石工はこの石に阿弥陀如来を祀って記念としたとある。
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中山道に戻ると、諏訪の市街と諏訪湖が眺望できた。そして歩いて行くと家の軒に中山道の丸い道標が下がっていた。
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そして、これも家の軒に一里塚跡の碑があった。江戸から55里の一里塚だが、埃まみれで何ともわびしい。
そして、今井邦子文学記念館があったが、寡聞にして良く知らないし、なにより入って見学する余裕を無くしていた。
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下諏訪の本陣がある。和宮様が休憩を取られた。見学できるとあるが今日は表からの写真撮影で済ませてしまう。道路の敷石には江戸までの距離が中山道では55里7丁、甲州街道では53里11丁となっている。あまり違わないのが不思議だ。
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最後に諏訪大社の秋宮にもお参りして、下諏訪駅に向い「スーパあずさ」で帰宅することにした。やはり和田峠越えは中山道のメインイベントであり、ハードであったが、得られた満足感も大きいものであった。
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