Home > 4月 5th, 2008

2008.04.05

軽井沢から岩村田

本日の万歩計40,595(27.2Km)
新幹線のおかげで朝の7:30に到着して先週に中山道より離脱した六本辻に向かう。しかし、軽井沢の朝は寒く、この季節でも3?4度と言ったところ。六本辻を通る道路は、「離山(はなれやま)道路」と呼ばれていて、樹林帯の中を貫いている。しばらく行くと、道路の名前の由来の「離山(はなれやま)」の丸い山体が冬枯れた樹林の間に顔を出す。新緑の季節には、また鮮やかな装いを凝らすのだろう。
oiwake_001.jpgoiwake_002.jpg
やがて、左手に見える軽井沢高校を通り過ぎると、ここだけ樹林帯も途切れて「軽井沢ロンギングハウス」と書かれた洒落たホテルがある。軽井沢はホテルでもレストランでも洒落た感じの建物が多い。
次に、現れたのは「市村記念館」である。なぜか4月は建屋はオープンしないと書かれていたが、外から見ることは出来た。大正15年に近衛文麿公が建てた洋式の別荘で、その後、親交のあった市村今朝蔵氏が購入して長年使用していたが、平成9年に遺族の旧姓市村信江、令子姉妹が軽井沢町に寄贈したものとのこと。
oiwake_003.jpgoiwake_004.jpg
今日は、良く晴れていて終日「浅間山」を見ることができた。流石に、碓氷峠で見るより近くに迫ってきて、肉眼では噴煙も微かにみることが出来た。
oiwake_005.jpgoiwake_006.jpgoiwake_007.jpg軽井沢中学校前で「しなの鉄道」の踏切を渡って、500mほどで「中軽井沢駅」に着く。おそらく鉄道の建設で中山道が壊されたためであろうか、駅の裏の現在は墓地になっているところの片隅に「一里塚」の石碑がある。中山道で、まともな一里塚は稀にしか見られない。
進む道は、線路の下を潜って、国道18号にぶつかるが、国道を渡ると直ぐに横を流れる「湯川」に橋が架かっていて「長倉神社」に参拝できる。境内は広いが社殿は荒れている。広い境内で川に面して一段低くなった部分は、子供の遊び場となっていて遊具も備え付けられているが、そこに「沓掛時次郎」の大きな石碑があり、「千両万両枉げない意地も 人情からめば弱くなる 浅間三筋の煙の下で 男 沓掛時次郎」と書かれている。長谷川伸の原作で映画化されて一世を風靡したそうだが、架空の人物でも石碑が建つのは面白い。東海道の戸塚宿の「お軽勘平 戸塚山中道行の場」の石碑と同じだが、日本人はつくづく石碑を建てるのが好きらしい。
oiwake_008.jpgoiwake_009.jpgoiwake_010.jpg軽井沢は別荘地として富裕層、文人達の間で人気が高まったが、これにあやかろうと沓掛宿は「中軽井沢」と名前を変えた。昔の遺構も残っていない。民家の表札に「本陣」の字が見えるとの事だったが、見つけられなかった。結局、ここが沓掛であることを示すものは、架空の人物とは言え沓掛時次郎の石碑ぐらいだろうか。500mほどで国道と別れ「古宿」と呼ばれる集落に入って行くと、道端に馬頭観音を主とする石碑群が多く見られる。かつて中馬と呼ばれる陸上輸送に携わる人達の宿として栄えたことを示している。
「古宿」を抜け一旦国道に合流後に直ぐに離れて「借宿」と呼ばれる地域に入って行く。「古宿」同様、小さな集落でここにも「馬頭観音」の石碑が随所に見られる。集落にある「遠近(おちこち)神社も、かつての繁栄の名残かも知れない。家の軒に立派で小さな屋根をもう一つ設けてた家があった。始めてみる形である。折りたたみ自転車に乗った父子が傍らを通り過ぎてゆく。
oiwake_011.jpgoiwake_012.jpg
再び国道に合流して500mほど進むと、国道の両側に「一里塚」がある。「一里塚」が道路の両側に残っているのは珍しい。そして、進路は国道から右に分かれて「追分宿」に入って行く。
oiwake_013.jpgoiwake_013a.jpg
直ぐに、右側に「浅間神社(あさま)」があり、境内に芭蕉句碑(左の写真)と追分節の発祥の地の碑があった。芭蕉句碑は、大きくて「吹き飛ばす 石も浅間の 野分け哉」とある。追分節は、馬子唄として歌われていたものが、三味線付きで歌われて洗練して追分節となる。その後、この追分節は北国街道を北上して、越後から北海道までの関東以北にまで広まったという。その中でも江差追分は、有名だ。
oiwake_014.jpgoiwake_015.jpg
堀辰雄の文学記念館がある。入り口の門は本陣の門を移設したもの。
oiwake_017.jpgoiwake_018.jpg
門を入って進んで行くと、右手に受付があり入場券を買って、展示物を鑑賞する。右の写真は、堀辰雄の旧邸である。別に夫人が昭和45年に建てた新しい家屋もある。
oiwake_019.jpgoiwake_022.jpg
堀辰雄が楽しみにしていて死の10日前に完成した書庫の建屋。蔵書の並べ方まで夫人に色々と病床から指示していたが、本の並びを見ることなく夫人に看取られながら息を引き取った。結核に苦しみながらも、「風たちぬ」、「菜穂子」、「聖家族」など多くの作品を残し、軽井沢を愛した50歳の人生であった。展示物の中には佐藤春夫、室生犀星などの弔辞の自筆文も並べられていた。
oiwake_020.jpgoiwake_021.jpg
堀辰雄文学記念館を出ると直ぐに脇本陣であった「油屋」が、今も高級旅館として運営していた。そして、復元したのか立派な高札場がある。
oiwake_023a.jpgoiwake_023.jpg
短い「追分宿」が終わりに近づくと「泉洞寺」がある。元三河武士の心庵宗祥禅師が開祖であるが、長篠の戦いで多くの死傷者を目の当たりにし、無常を感じ出家して後に開創したという。門前にも多くの石仏が集められており、境内の裏手には堀辰雄が愛した半跏思惟の石仏があるとのことだが、見逃した。
oiwake_024a.jpgoiwake_024.jpg
時計を見ると11時になっていたので、先に進むと食事をする場所に困ると、近くの店に入ったが、食事は12時からという。まぁーしょうがないと、コーヒーを頼んで休息を取る。なかなか美味しいコーヒーだった。
結局、国道に合流するところでラーメン屋に入り(なかなか美味しかった)昼食を摂った。少し進んで「分去れ(わかされ)」に到着。常夜燈、石碑、石仏と色々なものが建っている。「さらしなは右 みよしのハ左にて 月と花とを追分の宿」とある。右側は北国街道で月の名所の更科へ、左は桜の花で名高い吉野方面と言う歌であろう。国道には骨董品の店があったが、追分宿の中にある骨董品屋がここに出てきたのだろうか。
oiwake_025.jpgoiwake_026.jpg
国道から左に分かれて「御代田」に向かう。まだまだ、樹木が多い道で、緩やかな下り道である。御代田の町に入ろうとするところに、「千ヶ滝湯川用水温水路」がある。浅間山の湧水、雪解け水を農業用水に活用するため、慶安3年(1650)、柏木小石衛門が開削したもので、水温を上げるための設備である。広い水面だが、水深は数センチぐらいと浅い。
oiwake_027.jpgoiwake_028.jpgoiwake_030.jpg
まだまだ、浅間山は良く見える。御代田駅の少し手前には、御代田の一里塚がある。道路が横に移動したため、民家の裏の方にある。2つの内、一方は立派な枝垂桜の木が植えられているが、まだ蕾も見えない。開花時期には見事であろう。
oiwake_029.jpg
御代田駅の横で線路を地下道で潜る。まだまだ緩やかな下り坂は続いていて、御代田町荒町では、沓掛宿の標高が940mに対し、この辺で790mとのこと。旧家の塀の下り坂に合わせた作りが面白い。
oiwake_031.jpgoiwake_032.jpg
やがて、「小田井宿」に着く。本陣1、脇本陣1、旅籠5軒の小さい宿であったが、古い家並みが良く保存されている。また、追分宿の飯盛女を嫌って、皇女和宮をはじめ29人もの姫君が休憩を取った宿で別名「姫の宿」とも呼ばれたという。
oiwake_033.jpgoiwake_034.jpg
最初に真言宗の「宝珠院」に寄る。入り口付近にあるとても大きな馬頭観音の石碑。山門を入って直ぐにあるアカマツは2本を寄席植えしたものとのことだが、2つが完全に融合した感じで見事な枝振りである。また、奥のほうには樹齢300年と言われる枝垂桜の木。貫禄がある。
oiwake_035.jpgoiwake_036.jpg
茅葺で趣のある鐘楼を眺めながら街道に戻ると、今も安川家が住宅として使用している本陣跡がある。いつまでも残して欲しい。
oiwake_037.jpgoiwake_038.jpg
下図も左は、安川家の持ち物の「問屋場」である。そして右は旅籠であるが、現在は学習塾として使われているようだ。
oiwake_039.jpgoiwake_040.jpg
宿の終わりが近づいたところで、屋根を瓦で葺いた見事なバス停の待合場所があった。これなら本でも読みながら、少々長い時間でも待てそうだ。そして最後にもう一つの「問屋場」。小さい宿だが「問屋場」は2ケ所あったのである。
oiwake_041.jpgoiwake_042.jpg
広い道路に合流して岩村田に向かう。道の左側に鵜縄沢端(うなざわはし)一里塚の説明板が立っていたが、雑木林のようになっていて良く分からずスキップする。まだ浅間はよく見える。道端には大きな千手観世音の石碑。そして、住吉神社に寄ると、樹齢400年の大きな欅(けやき)の木。内部は空洞になっていたが、まだ大丈夫そうだ。




次に、「龍雲寺」を訪れる。大井氏が開いた曹洞宗のお寺であるが、武田信玄が大井氏を破った後に再建した。見事な山門である。右の方の渡り廊下を潜って進むと、武田信玄の廟がある。この前で信玄の遺骨も発見され、そこにも大きな五輪塔が建てられた。
oiwake_045.jpgoiwake_046.jpg
武田信玄廟(左)と五輪塔(右)
oiwake_047.jpgoiwake_048.jpg
岩村田宿の中心部はアーケード付きの商店街だが、ご多聞に漏れず、活気がなくシャッターを閉めた店も多い。岩村田宿は本陣、脇本陣は無く、旅籠が8軒のみであったが、むしろ米穀の集積地として栄えたという。相生町の信号で右に直角に曲がり旧街道を進むと、直ぐに石仏群があり、小海線の踏切を渡る。
oiwake_049.jpgoiwake_049a.jpg
岩村田高校を右に見て進み、浅間総合病院を過ぎたところに「相生の松」がある。雌雄二株の松がくっ付けて植えられており、和宮降嫁の折には見事な景観を示していて、ここで野点が行われたという。その松も昭和40年に寿命が尽き、今は新たに若木が植えられている。
oiwake_050.jpgoiwake_051.jpg
「相生の松」を過ぎて、「佐久平駅」に向かうために田圃の中の道を進む。相変わらず、浅間山が見守っている。
大きなジャスコのショッピングセンターの前を通り「佐久平駅」に到着する。新幹線が出来たおかげで、1時間30分ほどで東京駅に着くことができる。8日間に渡って歩いた距離を1時間30分なのである。
oiwake_052.jpgoiwake_053.jpg