Home > 3月, 2008

2008.03.29

坂本(横川)から軽井沢

本日の万歩計33,528(22.5Km)
今日は、中山道歩きでも和田峠と並んで最大の難所で、熊の危険もあるという「碓氷峠」越えである。途中、高崎で新幹線から信越線に乗り換え8時02分に「横川駅」に到着。早速、朝8時から営業している「おぎのや」に寄り、先週食べ損ねた「峠の釜飯」を「お味噌汁」付きでいただく。美味しかった。以前はそれほどと思っていなかったが、久しぶりで美味しいのか、腹が空いていたからか、「おぎのや」の調理方法の進歩か、とにかく美味しかった。お昼用に1つ買って(重いのが玉にきずだが)リュックに詰め歩き始める。
まずは、先週も訪れた「碓氷の関所跡」に行き、気を引き締めて歩き始める。真っ直ぐ進むと、「薬師坂」と書かれた大きな石碑があり、ここで旧国道は左に分かれて大きく迂回するが、歩く道は直進する。
usui_001.jpgusui_002.jpg
急坂の途中に、旅の平穏を願う薬師堂が建っている。斜面に建てたためか、柱で支えたお堂であるのが珍しい。直ぐに国道に合流して「坂本宿」に進んで行く。やがて「坂本宿」の大きな表示杭が現れ、真っ直ぐ向こうには「刎石山」が立ちはだかっている。
usui_003.jpgusui_004.jpg
「坂本宿」は人口732人、家数162軒、本陣2、脇本陣2、旅籠40軒で前後に碓氷関と碓氷峠の難所が控え宿場の規模のわりに旅籠の数が多い。下の写真(左側)は、佐藤本陣または上の本陣と呼ばれていた本陣跡である。佐藤本陣は明治8年には小学校として使用され、佐藤家はその後他所に移り、明治34年に分家であった「小竹家」が建てたのが現在の建物とのことであるが、やはり立派である。
道路際には、「中山道坂本宿屋号一覧」という看板があり、当時の屋号が記載されていた。
usui_005.jpgusui_006.jpg
当時の代表的な旅籠の雰囲気を良く表している「かぎや」の屋号の旅籠があった。説明板には、370年前、高崎藩の納戸役鍵番をしていた武井家の祖先が坂本に移住し、旅籠に役職にちなんだ名をつけたとあった。さて、いよいよ「刎石山」が大きく迫ってきた。
usui_007.jpgusui_008.jpg
「坂本宿」も終わりに近づき、「刎石山」から移した「芭蕉句碑」があった。 「ひとつ脱いで うしろに負ひぬ 衣かへ」 と書いてあるそうだが、字が難しくて読めない。
そして、最後は「八幡宮」で、宿は終わる。
usui_009.jpgusui_010.jpg
国道18号が右に大きくカーブするところで、旧中山道は大きな貯水タンクの横を進み、暗渠の蓋になっている道を進む。
usui_011.jpgusui_012.jpg
真っ直ぐ進んで、突き当たったら左に曲がり、階段状の道を上る。以前、この上り口が分かり辛いとされていて、注意深く見つけるようにと書かれていたものもあったが、小さいながらも「中山道」の道標があった。
しかし、この上りは元の中山道であるはずがなく、国道を作って途切れた中山道を繋ぐ苦肉の策であったのだろう。
usui_013.jpgusui_014.jpg
階段状の道を上ると直ぐに国道を横切り、向こう側に「中山道」の上り口が、「碓氷小屋」と書かれた休憩所とともに見えてくる。この休憩場所で「熊除けの鈴」をリュックに取り付け、いよいよ峠越えに挑む。いきなり急な上りが続く。
usui_015.jpgusui_016.jpg
「安政遠足(とおあし)」と書かれた立て札があるが、これは安中藩主板倉勝明が藩士の心身鍛錬を目的に安中城内より碓氷峠の熊野権現まで7里あまりの中山道を走らせたのが始まりで、現在も復活して毎年行われているものである。それで、立て札が碓氷峠の熊野神社まで頻々と立てられていて心強い。そして、関所抜けを見張った堂峰番所の跡。建物の土石、石垣などが残っていると書かれていたが、分からなかった。
usui_017.jpgusui_018.jpg
その後、坂道は河原のように、しかし角張った石がゴロゴロしている急坂を上る。息が切れて、苦しい上りである。この辺りが難所の「碓氷峠」でも特に厳しい場所で、「刎石坂」の名前の付いている坂である。激しい運動で暑くて汗が滲み出してきて、芭蕉ではないが、着ていたジャンバーを脱ぎうしろのリュックに縛り付ける。途中、柱状節理の見事な壁があり、火山により形成された山であることが分かる。本当に難所であり、石仏群も配置されている。坂本宿に移設された「芭蕉の句碑」も元はここにあったとのこと。確かに、ここに在ったのでは見る人はとても少ないので、移したのだろう。
usui_019.jpgusui_020.jpg
苦しい上り道が右に曲がって、突然通って来た「坂本宿」のみならず、安中の街並みまで望見できる「覗き」と呼ばれる場所に着き、一息入れる。一茶が「坂本や袂の下の夕ひばり」と詠んだところである。
その後、少し進むと大きな「馬頭観音」があり、これを過ぎると坂道は緩やかになり、だいぶ楽になる。
usui_021.jpgusui_022.jpg
溶岩の裂け目から湿った空気が噴出す「風穴」がある。「刎石山」には3ケ所ほど「風穴」があるそうだが、湿った空気が常時噴出すため、岩の周りの苔もひときわ濃くなっている。U字型に掘れた道が延々と続く。
usui_023.jpgusui_024.jpg
刎石茶屋には水がなく、ここに井戸を掘ればよいと、弘法大師が教えたと伝えられている「弘法の井戸」がある。覗き込むと綺麗な水が湛えられており、長い柄の付いた柄杓が置かれていた。山頂に近い場所で水が湧くのは珍しいが、山体が大きいと、多くの水を蓄えられるということであろうか。そして、「熊出没注意」の表示。
坂を上って平らな場所に出ると、4軒茶屋跡の立て札があった。今は木が茂って茶屋があったなどとは思えないが、石垣などが残っているのを見ることが出来た。
usui_025.jpgusui_026.jpg
平坦な道が続いて、菅原道真が右大臣についた昌泰2年(899年)に関所を作った跡と言われている場所に着いた。当時坂東で跋扈した盗賊を取り締まるたであったという。現在では綺麗な休憩所が建てられていて、旅の思い出を綴るノートも置かれている。私も早速書いてみる。
平坦でずいぶんと楽で歩き易い尾根道を進んで行くと、北条家の宿老であった大道寺政繁が秀吉勢の前田利家軍を迎え撃つため、道を狭くそぎ落としたという、「堀切」に着く。距離は数メータほどで、これで効果があったのかと思えるほどであった。
usui_027.jpgusui_028.jpg
道の危険な場所にはよく馬頭観音が置かれる。見逃したが、まず南の馬頭観音があり、右側が崖になっている場所に北の観音あった。一里塚があったとの立て札もあったが、こんな山の中でどこが一里塚か分からない。
さらに、進んで行くと、「座頭ころがし」と呼ばれる急な坂道となる。急坂とは言っても、刎石坂に比べればはるかに歩き易いところと思えるのだが、赤土で湿っていて、滑り易すかったのだという。稜線に出ると信州側から吹き付ける風が強く、冷たい。おそらく零度に近い。慌ててジャンバーを着る。木がこすれあって不気味な音を立てる。
usui_029.jpgusui_030.jpg
中山道を歩いた記事で必ずと言ってよいほど、登場する遺棄された車である。バカなと思うとともに、よくここまで車を運転してきたものだと感心する。どう見ても通れないような山道で、よほどアクロバティックな運転技術を備えた者の仕業だろうか。
そして、栗が原と呼ばれる、明治天皇御巡幸道路と中山道の別れる場所に着く。少し広々した場所で、明治8年群馬県で最初の「見回り方屯所」が作られた。これが交番の始まりという。
usui_031.jpgusui_032.jpg
進んで行くと「入道くぼ」と書かれた立て札があり、その後ろに線刻の馬頭観音。
そして、「山中茶屋跡」に着く。説明板には、寛文2年(1662年)には13軒の立場茶屋や寺、茶屋本陣が置かれ集落を形成した。明治期には学校もでき、明治11年(1878)明治天皇御巡幸の際には、児童が25人いたので25円の下附があったとある。
usui_033.jpgusui_034.jpg
ずいぶんと、道も広くなりこれなら車も走れる感じだが、急な上り坂の「山中坂」で、別名「飯喰らい坂」とも言うとのこと。「坂本宿から登ってきた旅人は、空腹ではとても駄目なので、手前の山中茶屋で飯を喰って登った」とある。そして、「陣場が原」に着くが、ここは武田信玄と上杉謙信の「碓氷峠の合戦跡」とのこと。真っ直ぐ進めば、和宮様降嫁の際に新たに作った「和宮道」であるが、左に見える細い道が旧道である。旧道を進むことに決めていたが、旧道への説明が何も無く、本当にここを入ってよいのか、地図を見て慎重に検討せざるを得なかった。不親切である。
usui_036.jpgusui_037.jpgusui_038.jpg
旧道を歩いて行くと、水の枯れた小さな沢に「化粧水」と書かれた立て札があり、旅人がここで、姿、髪を直したりしたとあるが、今は何の変哲もない場所であった。次に沢の水音が聞こえてきた。人馬施行所跡である。立て札には、「笹沢のほとりに、文政11年江戸呉服屋の与兵衛、安中藩から間口17間、奥行き20間を借りて人馬が休み家をつくった」とある。碓氷峠唯一の水場であり、ゆっくりと休憩を取りたいところだが、水場には熊なども水を飲みに来るので遭遇のチャンスも多く、早く通り過ぎるべきであるらしい。
水場の後も、辛い上り道が延々と続き、相当にへばったころ、ようやく平坦で歩き易い道になり、「和宮道」と合流し、そこに「」仁王門跡」と「思婦石(おもふいし)」がある。
「思婦石」の説明板には、群馬郡室田の国学者関橋守の作で安政4年(1857)の建立である。 
「ありし代に かえりみしてふ 碓氷山 今も恋しき 吾妻路のそら」

とある。日本武尊が妻を恋い偲んだことを詠んだものと言われている。
usui_039.jpgusui_040.jpg
「思婦石」の傍らには「野生動物生息地域」の看板があった。この看板は、「弘法の井戸」にあった単に「熊出没注意」に比べ具体的に対策等も書かれていた。私の持ってきた鈴は音が小さく、あまり役に立ったとは思えないが、幸いにも熊には出くわさなかった。
そして、ようやく「碓氷峠」の茶店の看板が見えてきたが、まだ何処も開いていない。
usui_041.jpgusui_042.jpg
熊野神社に到着。祀神は伊邪那美命(いざなみのみこと)と、日本武尊(やまとたけるのみこと)。神社の真ん中が長野県と群馬県の県境になっている。降った雨もここで、日本海側に流れるか、太平洋側に流れるかが決まる。
usui_043.jpgusui_048.jpg
階段の上り口には、室町時代中期の作というかなり風化の進んだ胴の長い狛犬がある。向かって右側で口を開いているには雄」で阿(あ)で、左側は雌で叫(うん)で対をなしていると書かれていた。
usui_044.jpgusui_045.jpg
石段の上の両側に軽井沢の問屋佐藤市右衛門が家紋の源氏車を刻んで奉納した石車がある。「碓氷峠のあの風車、たれを待つやらくるくると」の追分節で知られた「石の風車」であると言われるが、追分節を知らない。
それにしても、お賽銭箱まで長野側と群馬側に分かれているのは驚く。宮司さんも一人のようだが・・・。
usui_046.jpgusui_047.jpg
熊野神社を過ぎて、見晴台を訪れようと歩いて行くと、1軒だけ営業している食堂があり、名物の「力餅」を食べることができた。ここでは、車で登ってくる観光客も多く、かなり賑わっていた。ストーブが焚かれ、人が集まってきていて、ここではまだ冬の様相であった。
見晴台では、最初にインドの詩人タゴールの胸像が目に付く。アジアで初めてノーベル文学賞を受けたタゴールは大正5年(1916)に日本女子大学長成瀬仁蔵の招きで軽井沢を訪れ、毎朝真珠のような詩を女子大生に聞かせたとあった。
usui_049.jpgusui_050.jpg
見晴台からの眺望は素晴らしいもので、折り重なる上州の山々、また、雄大な浅間山の眺めは、安中で見たものに比し、一段と雄大なものであった。
usui_051.jpgusui_052.jpg
近くの山でひときわ特徴的なのが、離山(はなれやま)。2万2600年前に浅間山の溶岩ドームが形成され、離山となった。標高は1,256mで、その形からテーブルマウンテンとも呼ばれる。
見晴台を離れ、中山道の旧道は崩落が激しく危険とのことで、ほぼ旧道に近い形で作られた遊歩道を下る。入り口には「熊の生息地域」の注意看板があり、山道には違いないが歩く易い道で、40分ほど下って吊橋に到達する。この吊橋を渡ると道は広くなり、別荘が目に付くようになる。
usui_52a.jpgusui_053.jpg
やがて、旅人が飯盛女と名残りを惜しんだという「二手橋」を渡ると、軽井沢で別荘1号で有名な英国人宣教師「アレキサンダー・クロフト・ショウ」の胸像とショーの記念礼拝堂がある。明治19年に布教のため軽井沢を訪れた「ショー」が旅籠「つるや」の廃材をもらって、2年後に築いたのが別荘1号と言われており、内外に避暑地として紹介して、現在の軽井沢の隆盛をもたらした。写真右は復元されたショーハウスと呼ばれる彼の別荘である。
usui_054.jpgusui_055.jpgusui_056.jpg
少し行くと、大きな「芭蕉の句碑」があり、
馬をさえ ながむる雪の あした哉
と書かれている。 流石に軽井沢だけあって、英訳も書かれていて、
In the morning, the snow lies thick on the ground. Not only people, but horses seems to be elegant.
と書かれていた。うまく訳すものだと感心する。
昔の軽井沢の面影は全く残っておらず、わずかに江戸時代の茶屋「つるや」が、その後ホテルとして営業して名前のみを残している。
そして、旧軽井沢の街並みは大勢の若者で今日も賑わっており、しゃれた店が立ち並ぶ。「坂本の宿」を出てから、熊野神社までの碓氷峠越えで、僅かに2組、3人の人に会っただけとは大きい違いである。
usui_057.jpgusui_058.jpg
遅い昼食をとり、軽井沢駅に向かう。新幹線が開通してからの新しい駅舎と、その右側に保存された旧駅舎である。
ちょうど3時21分発の新幹線に乗ることが出来、東京駅に向かって帰宅の途に着いた。
usui_059.jpgusui_060.jpg

2008.03.22

安中から横川

本日の万歩計35,349(23.7Km)
5:32発の横須賀線で東京駅に向い6:24発の長野新幹線で高崎まで乗車して、碓氷峠越えが廃線になって、すっかりローカル線となってしまったJR信越本線で安中に7:42に着く。大勢の高校生が駅から吐き出されてきて、直ぐ右に向かうので、釣られて道を間違えそうになって、からくも国道18号で碓氷川に掛かる「久芳橋」を渡る。
annaka_001.jpgannaka_002.jpg
橋の上からは、独特な景観を示す「妙義山」の山々とまだ白い雪をまとった「浅間山」が良く見える。
annaka_003.jpgannaka_004.jpg
下の左側の写真は国道にかかる横断歩道橋の上から撮ったものであるが、遠くに「妙義山」と「浅間山」が見える。左斜めの道が「安中市街」への道で、進むとところどころに古い建物を残した静かな街が続く。
annaka_005.jpgannaka_006.jpg
「伝馬町」と書かれた交差点を右に曲がり、坂道を上ってゆくと突き当たりに「碓氷郡役所」の建物がある。明治11年に行政単位を郡とするための郡区町村編成法が制定されたのを受けて明治12年に建設された。左隣には日本キリスト教団安中教会がある。同志社大を設立した新島譲の祈念会堂が教会の中心部分を成す。新島譲は安中藩祐筆の長男であったとは今回始めて知ったが、元治元年(1864年)に国禁を犯しアメリカに渡り帰国後、この安中に戻り両親と再会したとのこと。近くに「新島譲旧宅」も残っている。
annaka_007.jpgannaka_008.jpg
少し進むと、安中郡奉行の役宅があった。まだ9時には時間があり、中に入れず外からの写真撮影のみだ。明治初期の郡を行政単位としたときの名残だが、ずいぶんと権威があったのだろうか。(下の左の写真)
さて、その次は復元された安中藩の武家長屋である。4軒長屋であるが、武家でも長屋に入っていたとは知らなかった。公務員の宿舎みたいなものだろう。
annaka_009.jpgannaka_010.jpg
annaka_011.jpg安中の宿も終わりに近づいたところで、中山道の街道からは少し離れているが「新島譲の旧宅」を見に行くことにした。ここも見学は9時からで、おじさんが掃除機でお掃除中。同志社大学の創始者であるため、関西からの訪問者が多いそうだが、最近は海外からの見学者も増えているとのこと。
annaka_012.jpg国道18号を跨いで進んで行くと、右側に大きな上水道の給水タンクがあり、「安政の遠足(とおあし)」の絵が描かれていた。「安政の遠足」とは、安政2年(1855)に安中藩主板倉勝明が藩士の心身鍛錬を目的に安中城内より碓氷峠の熊野権現まで7里あまりの中山道を走らせたのが始まりという。昭和50年から同じコースで毎年現在の遠足(とおあし)が行われているとのことだが、距離は28Kmほどでも山道だからフルマラソンの42Kmと比べても大変ではなかろうか。
すぐに、安中と松井田の「間の宿」の原市の杉並木が始まる。かつては700本ほどもあったそうだが、いまは多くは残っておらず、しかも近年に植えられた若い木も多い。
杉並木を過ぎると、原市の茶屋本陣跡があり、「明治天皇御小休所」の碑が建っていた。
annaka_013.jpgannaka_014.jpgannaka_015.jpg
古い町並みが延々と続き、妙義山の姿も近づいてきたようにも見えるが、電信柱が邪魔をしてカメラのシャッターを押すのはためらわれる状態が続く。
やがて、右手に「八本木延命地蔵尊」と左手に「八本木立場茶屋跡」がある。地蔵尊は安中市の重要文化財指定であり、大永5年(1525)に城主安中忠清が生まれ故郷の越後から勧請して創建したもので、日本3地蔵(新八田、八本木、壬生)とされ善男善女の崇拝を集めたという。特に江戸時代に高崎城の2代城主酒井家次が深く帰依し、また参勤交代の大名も下乗、下馬して参拝したという。
annaka_017.jpgannaka_018.jpg
「すずめのお宿」として名高い「磯辺温泉」には一度は行って見たいと思いながら、左折すれば「磯辺温泉」への道という交差点を通り越して、安中市郷原に入って行く。しばらく進むと「村社日枝神社」があり、ご多聞にもれず、お世辞にも手入れが行き届いているとは言い難いが境内の石灯籠はよい感じであった。「浅間山」も頭を見せて街道は続く。
annaka_019.jpgannaka_020.jpg
時刻は10時30分だが、お昼には早いのにやけにお腹が空く。幸いにも松井田バイパスとの合流点にセブン・イレブンがあり、菓子パンを買ってかじりながら歩く。バイパスの直ぐ横は碓氷川に向かって崖となって落ち込んでおり、遮るもの無く「妙義山」と「碓氷川」が良く見える。直ぐに旧街道はバイパスと別れ、松井田の市街に入って行く
annaka_021.jpgannaka_022.jpg
松井田市街を抜けたころ、右手に「補陀寺(ほだいじ)」がある。禅宗で凛とした感じで、後北条氏の宿老であった大道寺政繁の眠る寺である。豊臣秀吉の小田原攻めのとき松井田城を守っていた正繁は前田利家の軍に破れ、降伏して豊臣軍に加えられたが、後に自らの主城の川越城で切腹させられた。その後、加賀・前田家の行列が寺の前を通るたびに墓は悔しい「汗」を流したという。
街道は松井田警察署のところで、より細い旧道に入って行き、上信越自動車道を潜って、新堀という在所を通り、さらに進んで五料に至る。
annaka_023.jpgannaka_024.jpg
五料には茶屋本陣があり、しかも「お西」と「お東」と呼ばれる2つの建屋がある。それで、少なくとも2組の貴人の食事、休憩などが可能であったが、碓氷の関所の待機場としての必要性だったのだろうか。下の写真は「お西」の建屋全景とその前庭である。
annaka_029.jpgannaka_025.jpg
annaka_026.jpg3月3日のお雛さまが過ぎて久しいが、何故か「お西」の中では「お雛様」が展示されていた。それも、座敷のみならず廊下にまでおびただしい数のお雛様が並んでいた。2階は資料展示室になっていて、種々雑多なものが多数集められていたが、記録に残す価値があるものは見当たらなかった。
一方、「お東は」静かでゆっくりと屋敷内部を観察できる雰囲気であった。下の右写真は建屋全景と「上段の間」である。

annaka_028.jpgannaka_027.jpg
annaka_030.jpg国道にぶつかるところに、先ほどの茶屋本陣とは何ら関係の無い「茶屋本陣」と名乗る食事処があり、もう時刻は1時近くでやっと食事にありつけた。本陣御膳と言うのをたのんだが、値段の割には内容、味ともにいまいち。厨房を覗いたら年配のご婦人が1人で調理していた。
annaka_031.jpgともかく、お腹を満たすことが出来、上越本線の踏切を渡って五料の峠の丸山坂を登って行く。道の傍らには古い石碑、石仏が多く、なかには土の中にほとんど埋もれたようなのも見られる。写真で4つ並んでいる石仏で一番右は夜泣き地蔵と呼ばれているもので、その前には茶釜石がある。茶釜石をたたくと、明らかに石とは違う、カーンカーンと言うような音がする。中が空洞になっているのだろうか。説明板には、
「この奇石は,もと旧中山道丸山坂の上にあったものです。たまたまここを通った蜀山人は、この石を叩いて珍しい音色に、早速次の狂歌を作ったといいます。五料(五両)では、あんまり高い(位置が高い)茶釜石音打(値打ち)を聞いて通る旅人この石を叩くと空の茶釜のような音がするのでその名がある。人々は,この石を叩いてその不思議な音色を懐かしんでいます。五料の七不思議の一つに数えられています」とある。
annaka_032.jpg進んで行くと、碓氷郷の一宮である碓氷神社があり、そこで踏み切りを渡り国道に沿って進んで行く。800mほど進んで再び踏み切りを右に渡るが、この辺は鉄道と国道で旧中山道はほとんど壊され、ところどころ断片的に残っているだけのようだ。

本当に今日は良く晴れて暖かい。4月下旬の陽気だ。シャツのみで歩いていても汗ばむほどだ。崖の斜面には、名は知らないが一面に黄色い花が咲き乱れ、土筆も顔をだしていた。待ちかねた春が来たのを実感する。
annaka_033.jpgannaka_034.jpg
annaka_035.jpgともあれ、やっと横川駅に到着した。駅前には明治十八年創業で、駅弁の始まりをなした「おぎのや」が店を開いている。かつては、碓氷峠を越えるために列車の後ろにも機関車を連結したが、そのために停車時間が長いので駅のホームでの弁当販売に都合がよかった。碓氷峠を越えるJR信越本線が廃線になり、どうなることかと思っていたら、いまでは直営のドライブインを5ケ所に開き、他社経営のドライブインでも「釜飯」を販売する体制を築き、以前にもまして繁栄しているのではと思われる。
annaka_036.jpg時計を見ると2時6分で、次の高崎行きの電車は2時56分だ。時間がありすぎるので、碓氷の関所跡を見に行くことにした。もう門のみしか残されていないが、江戸時代は箱根の関所と同じく「入り鉄砲と出女」を厳しく取り締まった。有吉佐和子の「和宮様御留」の一場面を思い出す。
「女改めというのはなんのことやろ」
「改め婆というのが居て、眼鏡をかけてみるのやそうにございます」
「何をえ」
「男と違うかどうか」
「どないして」
「さあ、前を開けるよりほかにありまへんやろ」
「それを眼鏡で」
「はい、改め婆が」

線路の向こうには「碓氷峠鉄道文化村」というのが出来ており、碓氷峠で活躍した列車が並んでいた。入場料を払って中に入ると、より詳しく色々と見られるのだろう。
駅に戻ると、駅前にもこの峠を登るのに活躍したEF63-3という電気機関車の動輪が飾られていた。
annaka_037.jpgannaka_038.jpg

2008.03.16

新町から安中

本日の万歩計42,472(28.5Km)

冬季でしばらくお休みしていたが、だいぶ暖かさも増してきて今日久しぶりに出掛けることにした。前回に終えた新町駅に8時30分頃に着き、歩き始めたが天気予報の晴れに反して、どんよりと曇っていて、なんとなく寒々とした感じであった。しかし、歩き始めると、流石にもう寒さは感じない。
新町の駅前から旧街道に復帰する道は、整備されて美しい通りであったが、休日の朝は人通りもほとんど無い。そして、旧街道に達して左折すると、しばらくして「小林本陣跡」の表示杭。木製の杭の簡単な表示である。

takasaki_001.jpgtakasaki_002.jpg

進んで行くと、温井川(ぬくいがわ)を渡るが、その橋の袂に「日本スリーデーマーチ発祥の地」と書かれた、碑が建っていた。説明文には毎年7月でオランダで行われる「歩け歩けオリンピック」に1977年に参加して感動し、1978年から新町でも開始して、アジア最大の歩け歩けの大会になったと、要領を得ない文で書かれていた。
そして、川に掛かる「弁天橋」を渡ると、ようやく街道らしい家を見ることが出来た。登録有形文化財の豪商であった「川端家の屋敷」である。
takasaki_003.jpgtakasaki_004.jpg

そして、関越自動車道路を潜ると旧街道は烏川の堤防に沿って進むが、堤防につかず離れずであるので、堤防の上の自転車と歩行用の道路を進むこととした。河川敷には野球のグラウンド3面、サッカーピッチ2面ほどあり大変広く、既に少年達が集まっていた。やがて、烏川に掛かる「柳瀬橋(やながせばし)」が見えてきて、これを渡る。歩道橋を元の橋に隣接して作ってあり、橋の幅も広く立派である。

takasaki_005.jpgtakasaki_006.jpg

柳瀬橋を渡り、明治の初めに岩鼻県の県庁が置かれた岩鼻で左折して、倉賀野の宿に入ってゆく。倉賀野の入り口付近には「中山道」と「例幣使道」の分岐点がある。
左の写真は、分岐点を通り過ぎて振り返って撮ったものであるが、右が「中山道」、左が「例幣使道」である。例幣使とは、毎年4月17日の日光東照宮の例大祭に金幣(きんぺい)を奉納するために毎年、朝廷から派遣された勅使をいう。位の低い公家が、その役にあたり、旅の途中で御肴料、ご祝儀などの名目で金銭を強要して困ったと島崎藤村の「夜明け前」にも書かれている。また、ここには「閻魔堂」が建っていて、右 江戸道、左 日光道と書かれた古い道標もある。

takasaki_007.jpgtakasaki_008.jpg

しかし、倉賀野の本陣は残っておらず、スーパーの駐車場の端に「本陣跡」と書かれた小さな石碑があるのみである。一方、「脇本陣」は残っていたが、今後の保存が課題のような状況であった。

takasaki_009.jpgtakasaki_010.jpg

高札場も復元されていたが、少し小さい感じもした。そして、倉賀野の総鎮守である飯玉大明神が、明治になって、近在の神社と合祀された倉賀野神社。流石に倉賀野の総鎮守だけあって、見事な造作の建物である。また、神社の裏を流れる烏川は、利根川の支流で、昔は信州・越後から江戸に向かう荷物の集積場として大いに発展してきたところであり、飯盛り女も多く、木造の橋を石橋にするのに寄進している。石の太鼓橋の欄干の一部が神社の入り口に移設されているが、「金沢屋りつ、ひろ、ぎん」「升屋内はま、やす、ふじ」等の名が刻まれている。飯盛り女が寄進するのは、まことに珍しいことと思うが、それだけ栄えていたのであろう。

takasaki_011.jpgtakasaki_012.jpg

200mほど歩くと「安楽寺」がある。このお寺は本堂の裏に丸い古墳があり、天平9年(737)に行基菩薩による開基と書かれている。本尊は古墳の石室に彫られた7体の石仏という。また、境内の左手には将棋の駒の形をした、「板碑」がある。時代は南北朝の1300年ころではないかと言われているとのことだが、珍しい石碑である。

takasaki_014.jpgtakasaki_013.jpg

takasaki_015.jpg倉賀野の宿を過ぎて、高崎に向かうと、畑の中に「前方後円墳」の見事な古墳が見えてくる。浅間山古墳と呼ばれていて、7世紀後半のころのものとのこと。7世紀頃にはこれだけの古墳を作る勢力を持った者が居た証拠であろう。
やっと「高崎宿」につき、新町で左折すると、「高崎市役所」の立派なビルが見え、その手前には「高崎城址」が見える。徳川家康の江戸入府に従い関東に赴いた「井伊直正」が慶長3年(1598)に城を築きこれより、この辺りが高崎と呼ばれるようになった。

takasaki_016.jpgtakasaki_017.jpg

takasaki_018.jpg江戸時代の高崎城主は、幕閣を勤めることが多く参勤交代の大名も高崎を避けて、倉賀野あたりで宿泊することが多く、倉賀野が多くの飯盛り女を抱えて繁盛していたのも分かる気がする。
現在の高崎は、街の店舗の前にはパンジーが飾られていて、街全体が華やかに装われていた。

takasaki_019.jpg高崎は大きな町だが、歴史的な遺構はほとんど残っておらず、次の宿に向かって行く。本町3丁目で左折して、烏川に沿って進み「君が代橋」に達する。明治11年の天皇巡幸の折に名付けられた橋である。

takasaki_020.jpgtakasaki_021.jpg

「君が代橋」を渡って、達磨作りで有名な上富岡町に入ってゆく。70軒ほどの家で年間150万個ほどの達磨が作られるという。達磨市は正月の6?7日で、今は一番だるま作りが低調な時期であるが、それでも達磨を乾燥させているのを見ることができた。

takasaki_022.jpgtakasaki_023.jpg

上富岡は、高崎宿と板鼻宿の間であるためか、「茶屋本陣」があり、まだ保存されていて公開されていた。数年前までは住居として使われていたが、個人レベルでは維持するのが困難になり、市が譲り受け公開しているとのこと。案内のおばさんが1人おり、色々と説明してくれたが、かつての住人の子供が書いた落書きなども残っていて、興味深く見ることができた。

takasaki_025.jpgtakasaki_026.jpg

takasaki_026a.jpg茶屋本陣を過ぎ、ぶつかった国道18号線を横切り碓氷川の堤防を歩く。現在はサイクリング道路となっているが、車が通らず、川面を眺めながら歩くのは気持ちがよい。誰も通らず、道路を独り占めで歩く。
少し行くと、堤防の下に「藤塚の一里塚」がある。中山道では、どうも一里塚ははっきりしないと思っていたが、ここは原型を保って残っている。
さらに進むと、橋の欄干に達磨が飾られた「鼻高橋」があり、この橋で碓氷川を渡ると、上富岡に達磨作りを広めた「少林山達磨寺」がある。また、このお寺は「ブルーノ・タウト」が2年3ケ月の間、日本文化の研究にいそしんだ場所でもあるとのこと。

takasaki_027.jpgtakasaki_028.jpg

やがて、国道の向こう側に「上野国一社八幡宮参道」と書かれた看板と、八幡宮の大きな一の鳥居が見えてくる。板鼻宿が近づき、そろそろ碓氷川ともお別れである。
「板鼻宿」に入って行くと、双体の可愛い道祖神。長野県が近づくと、このような双体の道祖神が多くなるようだ。

yawata.jpgitahana.jpg

takasaki_029.jpg程なくして、安中市板鼻公民館の前に「本陣跡の碑」が建っているのが目に入る。幕末に皇女和宮が降嫁の折一夜を過ごしたところであり、初めて月のしるしがあったという。
源義経が金売吉次と平泉に向かう途中で、伊勢三郎と出会ったのもここであり、深手を負った三十八歳の木枯紋次郎も、中仙道板鼻宿の旅籠・花菱屋主人友七に救われる。

takasaki_030.jpg板鼻宿も終わりに近づいたところで、宿の北側を、板鼻宿に並行して板鼻川が流れている。どう見ても用水路としか見えないのだが、もとは碓氷川から取水しての板鼻堰用水路で板鼻宿の生活用水であった。水が屋敷内の庭を流れるようにした家もある。その後道場川、大谷津川が流入し、今ではなんと1級河川に指定されている。東海道で小田原の手前を流れる酒匂川は、あんなに大きな川でも二級河川なのだが、どういう基準で川を区分しているのだろう。
板鼻宿が終わり、碓氷川に掛かる鷹巣橋を渡る、右前方から、クレー射撃の音が大きく絶えず聞こえてくる。橋を渡り終えると、安土桃山時代の建立の「諏訪神社」がある。屋根の反りが優美である。そしてようやく、今日のゴールの安中駅に着く。駅のホームから東邦亜鉛の安中精錬所が山の斜面を占有しているのが見える。かつて公害で、この辺りの住民が大変に苦しんだのを思い出す。

takasaki_032.jpgtakasaki_033.jpg