Home > 3月 29th, 2008

2008.03.29

坂本(横川)から軽井沢

本日の万歩計33,528(22.5Km)
今日は、中山道歩きでも和田峠と並んで最大の難所で、熊の危険もあるという「碓氷峠」越えである。途中、高崎で新幹線から信越線に乗り換え8時02分に「横川駅」に到着。早速、朝8時から営業している「おぎのや」に寄り、先週食べ損ねた「峠の釜飯」を「お味噌汁」付きでいただく。美味しかった。以前はそれほどと思っていなかったが、久しぶりで美味しいのか、腹が空いていたからか、「おぎのや」の調理方法の進歩か、とにかく美味しかった。お昼用に1つ買って(重いのが玉にきずだが)リュックに詰め歩き始める。
まずは、先週も訪れた「碓氷の関所跡」に行き、気を引き締めて歩き始める。真っ直ぐ進むと、「薬師坂」と書かれた大きな石碑があり、ここで旧国道は左に分かれて大きく迂回するが、歩く道は直進する。
usui_001.jpgusui_002.jpg
急坂の途中に、旅の平穏を願う薬師堂が建っている。斜面に建てたためか、柱で支えたお堂であるのが珍しい。直ぐに国道に合流して「坂本宿」に進んで行く。やがて「坂本宿」の大きな表示杭が現れ、真っ直ぐ向こうには「刎石山」が立ちはだかっている。
usui_003.jpgusui_004.jpg
「坂本宿」は人口732人、家数162軒、本陣2、脇本陣2、旅籠40軒で前後に碓氷関と碓氷峠の難所が控え宿場の規模のわりに旅籠の数が多い。下の写真(左側)は、佐藤本陣または上の本陣と呼ばれていた本陣跡である。佐藤本陣は明治8年には小学校として使用され、佐藤家はその後他所に移り、明治34年に分家であった「小竹家」が建てたのが現在の建物とのことであるが、やはり立派である。
道路際には、「中山道坂本宿屋号一覧」という看板があり、当時の屋号が記載されていた。
usui_005.jpgusui_006.jpg
当時の代表的な旅籠の雰囲気を良く表している「かぎや」の屋号の旅籠があった。説明板には、370年前、高崎藩の納戸役鍵番をしていた武井家の祖先が坂本に移住し、旅籠に役職にちなんだ名をつけたとあった。さて、いよいよ「刎石山」が大きく迫ってきた。
usui_007.jpgusui_008.jpg
「坂本宿」も終わりに近づき、「刎石山」から移した「芭蕉句碑」があった。 「ひとつ脱いで うしろに負ひぬ 衣かへ」 と書いてあるそうだが、字が難しくて読めない。
そして、最後は「八幡宮」で、宿は終わる。
usui_009.jpgusui_010.jpg
国道18号が右に大きくカーブするところで、旧中山道は大きな貯水タンクの横を進み、暗渠の蓋になっている道を進む。
usui_011.jpgusui_012.jpg
真っ直ぐ進んで、突き当たったら左に曲がり、階段状の道を上る。以前、この上り口が分かり辛いとされていて、注意深く見つけるようにと書かれていたものもあったが、小さいながらも「中山道」の道標があった。
しかし、この上りは元の中山道であるはずがなく、国道を作って途切れた中山道を繋ぐ苦肉の策であったのだろう。
usui_013.jpgusui_014.jpg
階段状の道を上ると直ぐに国道を横切り、向こう側に「中山道」の上り口が、「碓氷小屋」と書かれた休憩所とともに見えてくる。この休憩場所で「熊除けの鈴」をリュックに取り付け、いよいよ峠越えに挑む。いきなり急な上りが続く。
usui_015.jpgusui_016.jpg
「安政遠足(とおあし)」と書かれた立て札があるが、これは安中藩主板倉勝明が藩士の心身鍛錬を目的に安中城内より碓氷峠の熊野権現まで7里あまりの中山道を走らせたのが始まりで、現在も復活して毎年行われているものである。それで、立て札が碓氷峠の熊野神社まで頻々と立てられていて心強い。そして、関所抜けを見張った堂峰番所の跡。建物の土石、石垣などが残っていると書かれていたが、分からなかった。
usui_017.jpgusui_018.jpg
その後、坂道は河原のように、しかし角張った石がゴロゴロしている急坂を上る。息が切れて、苦しい上りである。この辺りが難所の「碓氷峠」でも特に厳しい場所で、「刎石坂」の名前の付いている坂である。激しい運動で暑くて汗が滲み出してきて、芭蕉ではないが、着ていたジャンバーを脱ぎうしろのリュックに縛り付ける。途中、柱状節理の見事な壁があり、火山により形成された山であることが分かる。本当に難所であり、石仏群も配置されている。坂本宿に移設された「芭蕉の句碑」も元はここにあったとのこと。確かに、ここに在ったのでは見る人はとても少ないので、移したのだろう。
usui_019.jpgusui_020.jpg
苦しい上り道が右に曲がって、突然通って来た「坂本宿」のみならず、安中の街並みまで望見できる「覗き」と呼ばれる場所に着き、一息入れる。一茶が「坂本や袂の下の夕ひばり」と詠んだところである。
その後、少し進むと大きな「馬頭観音」があり、これを過ぎると坂道は緩やかになり、だいぶ楽になる。
usui_021.jpgusui_022.jpg
溶岩の裂け目から湿った空気が噴出す「風穴」がある。「刎石山」には3ケ所ほど「風穴」があるそうだが、湿った空気が常時噴出すため、岩の周りの苔もひときわ濃くなっている。U字型に掘れた道が延々と続く。
usui_023.jpgusui_024.jpg
刎石茶屋には水がなく、ここに井戸を掘ればよいと、弘法大師が教えたと伝えられている「弘法の井戸」がある。覗き込むと綺麗な水が湛えられており、長い柄の付いた柄杓が置かれていた。山頂に近い場所で水が湧くのは珍しいが、山体が大きいと、多くの水を蓄えられるということであろうか。そして、「熊出没注意」の表示。
坂を上って平らな場所に出ると、4軒茶屋跡の立て札があった。今は木が茂って茶屋があったなどとは思えないが、石垣などが残っているのを見ることが出来た。
usui_025.jpgusui_026.jpg
平坦な道が続いて、菅原道真が右大臣についた昌泰2年(899年)に関所を作った跡と言われている場所に着いた。当時坂東で跋扈した盗賊を取り締まるたであったという。現在では綺麗な休憩所が建てられていて、旅の思い出を綴るノートも置かれている。私も早速書いてみる。
平坦でずいぶんと楽で歩き易い尾根道を進んで行くと、北条家の宿老であった大道寺政繁が秀吉勢の前田利家軍を迎え撃つため、道を狭くそぎ落としたという、「堀切」に着く。距離は数メータほどで、これで効果があったのかと思えるほどであった。
usui_027.jpgusui_028.jpg
道の危険な場所にはよく馬頭観音が置かれる。見逃したが、まず南の馬頭観音があり、右側が崖になっている場所に北の観音あった。一里塚があったとの立て札もあったが、こんな山の中でどこが一里塚か分からない。
さらに、進んで行くと、「座頭ころがし」と呼ばれる急な坂道となる。急坂とは言っても、刎石坂に比べればはるかに歩き易いところと思えるのだが、赤土で湿っていて、滑り易すかったのだという。稜線に出ると信州側から吹き付ける風が強く、冷たい。おそらく零度に近い。慌ててジャンバーを着る。木がこすれあって不気味な音を立てる。
usui_029.jpgusui_030.jpg
中山道を歩いた記事で必ずと言ってよいほど、登場する遺棄された車である。バカなと思うとともに、よくここまで車を運転してきたものだと感心する。どう見ても通れないような山道で、よほどアクロバティックな運転技術を備えた者の仕業だろうか。
そして、栗が原と呼ばれる、明治天皇御巡幸道路と中山道の別れる場所に着く。少し広々した場所で、明治8年群馬県で最初の「見回り方屯所」が作られた。これが交番の始まりという。
usui_031.jpgusui_032.jpg
進んで行くと「入道くぼ」と書かれた立て札があり、その後ろに線刻の馬頭観音。
そして、「山中茶屋跡」に着く。説明板には、寛文2年(1662年)には13軒の立場茶屋や寺、茶屋本陣が置かれ集落を形成した。明治期には学校もでき、明治11年(1878)明治天皇御巡幸の際には、児童が25人いたので25円の下附があったとある。
usui_033.jpgusui_034.jpg
ずいぶんと、道も広くなりこれなら車も走れる感じだが、急な上り坂の「山中坂」で、別名「飯喰らい坂」とも言うとのこと。「坂本宿から登ってきた旅人は、空腹ではとても駄目なので、手前の山中茶屋で飯を喰って登った」とある。そして、「陣場が原」に着くが、ここは武田信玄と上杉謙信の「碓氷峠の合戦跡」とのこと。真っ直ぐ進めば、和宮様降嫁の際に新たに作った「和宮道」であるが、左に見える細い道が旧道である。旧道を進むことに決めていたが、旧道への説明が何も無く、本当にここを入ってよいのか、地図を見て慎重に検討せざるを得なかった。不親切である。
usui_036.jpgusui_037.jpgusui_038.jpg
旧道を歩いて行くと、水の枯れた小さな沢に「化粧水」と書かれた立て札があり、旅人がここで、姿、髪を直したりしたとあるが、今は何の変哲もない場所であった。次に沢の水音が聞こえてきた。人馬施行所跡である。立て札には、「笹沢のほとりに、文政11年江戸呉服屋の与兵衛、安中藩から間口17間、奥行き20間を借りて人馬が休み家をつくった」とある。碓氷峠唯一の水場であり、ゆっくりと休憩を取りたいところだが、水場には熊なども水を飲みに来るので遭遇のチャンスも多く、早く通り過ぎるべきであるらしい。
水場の後も、辛い上り道が延々と続き、相当にへばったころ、ようやく平坦で歩き易い道になり、「和宮道」と合流し、そこに「」仁王門跡」と「思婦石(おもふいし)」がある。
「思婦石」の説明板には、群馬郡室田の国学者関橋守の作で安政4年(1857)の建立である。 
「ありし代に かえりみしてふ 碓氷山 今も恋しき 吾妻路のそら」

とある。日本武尊が妻を恋い偲んだことを詠んだものと言われている。
usui_039.jpgusui_040.jpg
「思婦石」の傍らには「野生動物生息地域」の看板があった。この看板は、「弘法の井戸」にあった単に「熊出没注意」に比べ具体的に対策等も書かれていた。私の持ってきた鈴は音が小さく、あまり役に立ったとは思えないが、幸いにも熊には出くわさなかった。
そして、ようやく「碓氷峠」の茶店の看板が見えてきたが、まだ何処も開いていない。
usui_041.jpgusui_042.jpg
熊野神社に到着。祀神は伊邪那美命(いざなみのみこと)と、日本武尊(やまとたけるのみこと)。神社の真ん中が長野県と群馬県の県境になっている。降った雨もここで、日本海側に流れるか、太平洋側に流れるかが決まる。
usui_043.jpgusui_048.jpg
階段の上り口には、室町時代中期の作というかなり風化の進んだ胴の長い狛犬がある。向かって右側で口を開いているには雄」で阿(あ)で、左側は雌で叫(うん)で対をなしていると書かれていた。
usui_044.jpgusui_045.jpg
石段の上の両側に軽井沢の問屋佐藤市右衛門が家紋の源氏車を刻んで奉納した石車がある。「碓氷峠のあの風車、たれを待つやらくるくると」の追分節で知られた「石の風車」であると言われるが、追分節を知らない。
それにしても、お賽銭箱まで長野側と群馬側に分かれているのは驚く。宮司さんも一人のようだが・・・。
usui_046.jpgusui_047.jpg
熊野神社を過ぎて、見晴台を訪れようと歩いて行くと、1軒だけ営業している食堂があり、名物の「力餅」を食べることができた。ここでは、車で登ってくる観光客も多く、かなり賑わっていた。ストーブが焚かれ、人が集まってきていて、ここではまだ冬の様相であった。
見晴台では、最初にインドの詩人タゴールの胸像が目に付く。アジアで初めてノーベル文学賞を受けたタゴールは大正5年(1916)に日本女子大学長成瀬仁蔵の招きで軽井沢を訪れ、毎朝真珠のような詩を女子大生に聞かせたとあった。
usui_049.jpgusui_050.jpg
見晴台からの眺望は素晴らしいもので、折り重なる上州の山々、また、雄大な浅間山の眺めは、安中で見たものに比し、一段と雄大なものであった。
usui_051.jpgusui_052.jpg
近くの山でひときわ特徴的なのが、離山(はなれやま)。2万2600年前に浅間山の溶岩ドームが形成され、離山となった。標高は1,256mで、その形からテーブルマウンテンとも呼ばれる。
見晴台を離れ、中山道の旧道は崩落が激しく危険とのことで、ほぼ旧道に近い形で作られた遊歩道を下る。入り口には「熊の生息地域」の注意看板があり、山道には違いないが歩く易い道で、40分ほど下って吊橋に到達する。この吊橋を渡ると道は広くなり、別荘が目に付くようになる。
usui_52a.jpgusui_053.jpg
やがて、旅人が飯盛女と名残りを惜しんだという「二手橋」を渡ると、軽井沢で別荘1号で有名な英国人宣教師「アレキサンダー・クロフト・ショウ」の胸像とショーの記念礼拝堂がある。明治19年に布教のため軽井沢を訪れた「ショー」が旅籠「つるや」の廃材をもらって、2年後に築いたのが別荘1号と言われており、内外に避暑地として紹介して、現在の軽井沢の隆盛をもたらした。写真右は復元されたショーハウスと呼ばれる彼の別荘である。
usui_054.jpgusui_055.jpgusui_056.jpg
少し行くと、大きな「芭蕉の句碑」があり、
馬をさえ ながむる雪の あした哉
と書かれている。 流石に軽井沢だけあって、英訳も書かれていて、
In the morning, the snow lies thick on the ground. Not only people, but horses seems to be elegant.
と書かれていた。うまく訳すものだと感心する。
昔の軽井沢の面影は全く残っておらず、わずかに江戸時代の茶屋「つるや」が、その後ホテルとして営業して名前のみを残している。
そして、旧軽井沢の街並みは大勢の若者で今日も賑わっており、しゃれた店が立ち並ぶ。「坂本の宿」を出てから、熊野神社までの碓氷峠越えで、僅かに2組、3人の人に会っただけとは大きい違いである。
usui_057.jpgusui_058.jpg
遅い昼食をとり、軽井沢駅に向かう。新幹線が開通してからの新しい駅舎と、その右側に保存された旧駅舎である。
ちょうど3時21分発の新幹線に乗ることが出来、東京駅に向かって帰宅の途に着いた。
usui_059.jpgusui_060.jpg