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2008.01.19

籠原から新町

本日の万歩計47,845(32.1Km)
昨年12月15日から一月ぶりの中山道である。
籠原駅には7時28分に着き歩き始めた。寒さに備えた服装であるが、顔にあたる風が冷たい。手袋を嵌めていても冷たく感じる。明後日は大寒で寒いのも当然である。
fukaya_01.jpg籠原から深谷に向かって歩くが、歴史的な遺構もなく、撮影したくなる対象物も無いと思いながら、ひたすら歩く。やっと、有名な「深谷ねぎ」の栽培の田圃が目に飛び込んできた。今は冬、多くの「深谷ねぎ」が鍋物に用いられることであろう。
深谷宿に近づき、まず最初は国済寺である。説明板には、関東管領(かんとうかんれい)上杉憲顕(のりあき)が6男 憲英(のりふさ)を遣わし、館を造らせ、その後、憲光、憲長と3代続いた。康応2年(1390)に令山禅師を招いて館内に国済寺を開いたとある。左の写真は黒門と呼ばれる山門であるが、深谷市指定文化財である。そして、本堂の裏に進むと、憲英(のりふさ)の墓所がある。また樹木がうっそうと茂っている。広大な敷地である。
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国済寺を過ぎると旧中山道は、直ぐに国道17号線にぶつかるが、その直前に「見返りの松」がある。ここは旅人が「深谷宿の飯盛り女」と「きぬぎぬの別れ」を行ったところといわれ、樹齢400年ほどの松がそびえていた。残念ながら車の排ガスの影響か、枯れてしまい一昨年の2月に切り倒し、今は幼木が植えられていた。
次には「深谷宿」の東木戸の常夜灯。ここからが、本当の宿が始まる。
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旧東海道から少し離れるが「深谷駅」に寄って見た。ミニ東京駅の様相であるが、東京駅のレンガは、ここ深谷で作ったとのことであり、当然かも知れない。レンガに最適な粘土が産するためという。そして駅前広場にはここの出身の「渋沢栄一」の銅像。
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1Kmほど進むと、もう宿も終わりで「西の木戸」の常夜灯があった。道路の反対側には呑龍院の鐘楼があり、街道気分を盛り上げる。
さらに進むと、JR高崎線の踏切を跨いで、「清心寺」がある。説明板には、岡部六弥太忠澄(おかべろくやたただすみ)が一の谷の戦いで知勇に優れた平薩摩守忠度(たいらのさつまのかみただのり)を討ち取り、その菩提を弔うため忠澄の所領のなかで一番景色が良く、荒川の扇状地の末端で湧水も多い、この地に五輪塔を建立した。その後戦国期に深谷上杉氏の三宿老皿沼城主岡谷清英が天文18年(1549)に萬譽玄仙和尚を招いて「清心寺」を開いたと記されている。熊谷直実と言い、関東の武者は情にも厚かったのか。
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岡部の町に入って進んで行くと、岡部の領主の安部家の菩提寺の「源勝寺」がある。安部氏は諏訪の出であったが、安部川上流に移り、最初は今川義元に仕えていたが、後に徳川家康に仕え武田信玄、勝頼と戦い戦功があり岡部の地に所領を賜ったとのこと。12代にわたる墓石の並びは圧巻である。
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fukaya_14a.jpg源勝寺から500mほど進むと岡部六弥太忠澄が建立した「普済寺」がある。本堂に大きく十の字があるのを見て、最初はキリスト教に関係のあるお寺かとも思ったが、岡部家の家紋が「跳ね十字」と知り納得した。
しかし、忠澄の墓は寺の境内には無く、寺の脇道を200mほど入った畑の中に小公園のような墓所があり、その中に夫人と父行忠の墓石とともに弔われている。墓石の五輪塔が変形しているのは、忠澄の墓石を煎じて飲むと子宝に恵まれる、という伝承があるので、削られたためという。東屋も設けられていたので、魔法瓶に入れたコーヒーを飲み休憩した。
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やがて、島護産泰(しまもりさんたい)神社に達する。島護は、とうごとも読まれるとのことであるが、利根川の氾濫で、深谷北部の島や瀬の地名をもつ地域(四瀬八島)が常に被害を受けたので、その加護にあずかるように信仰されたことから名が付いたといわれる。祭神は瓊々杵尊(にぎにぎのみこと)と木花咲耶媛(このはなさくやひめ)であり、安産の神としても信仰されている。
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岡部の街を抜けて利根川の支流の小山川に架かる「滝岡橋」に向かうと、橋の手前に「百庚申」と呼ばれ、沢山の庚申塔がある場所がある。万延元年(1860)は井伊大老の桜田門外の変、黒船来航などがあり、民心も落ち着かず、庚申の年でもあったので岡部の有志が計画して建造したとのこと。
いよいよ、「滝岡橋」を渡る。風が強く冷たい。そして、最近では珍しい野焼きである。見るのは何十年ぶりか。その後も「本庄宿」に向かう道端には幾つかの庚申碑を見かけたが、この辺は特に庚申信仰が盛んであったのであろうか。
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fukaya_20.jpgもう、お昼の時間が過ぎ、お腹も空いてきたので食堂を物色しながら歩く。途中に2軒ほどドライブインがあったが気が進まず、結局「本庄宿」まで歩くことになった。ようやく遅い昼食をとり、その後、本庄宿最大の建造物と言われる安養院を訪れた。曹洞宗の寺で、創建は文明7年(1475)という。児玉党の一族本庄信明の弟藤太郎雪茂が仏門に帰依して、当時の富田村に安入庵を営んだが水不足に悩まされたため、土地を探していたところ、現在の地を発見し安養院を開基したと伝えられている。
境内奥には「物言えば唇寒し秋の風」の芭蕉の句碑、千代女の「百生やつるひとすじの心より」の句碑があるとのことであったが、見落とした。
fukaya_21.jpgfukaya_22.jpgfukaya_23.jpg本庄宿の西の外れには、金鑚(かねさな)神社がある。  祭神は天照大神、素盞嗚尊、日本武尊の三大大神。創建は欽明天皇2年(541)と伝えられ、大変古い。権現造りの社殿、神楽殿大門、御輿殿などを持つ。
fukaya_24.jpg金鑚神社を過ぎた以降は、ひたすら「新町宿」に向かって歩く。途中の神保原を過ぎたところで、陽雲寺に寄る。鎌倉初期の元久弐年(1205)の創建と伝えられる寺で、新田義貞が鎌倉打倒を祈願して不動堂を建てたと寺伝に見られるとのことである。時代が下って、信玄の甥武田信俊は、武田氏滅亡後、徳川氏に仕え、天正19年、川窪与左衛門と名乗って、この地に8千石を与えられ養母である信玄夫人(三条夫人)を伴って入封した。 夫人は、当寺に居住し元和4年(1618)に没し、法号の陽雲院をとって崇栄山陽雲寺と名を改めたという。山門もなく、往時の面影は無い。
いよいよ神流川(かんなかわ)を渡って、上州に入る。時刻は4時をまわり、吹く風も冷たさを増した。這う這うの体(ほうほうのてい)で橋を渡ると、神流川古戦場跡の碑が建っていた。
fukaya_25.jpgfukaya_26.jpgfukaya_27.jpg説明によると、信長が本能寺の変で亡くなった時厩橋(うまやばし、現前橋)城で関東管領の織田の武将滝川一益は1万6千を率いて急遽上京しようとしたが、これを阻止しようとする北条が5万の兵を出しここで衝突。壮絶な戦いを繰り広げたが滝川一益は2,670名の戦死者を出し大敗を喫し撤退したという。
fukaya_28.jpgだいぶ気温も下がってきたのか、くしゃみが出たりしてティッシュペーパの厄介にもなるようになり、通りがけに群馬県で始めての「諏訪神社」を撮影して、あとは「新町駅」に急いだ。久しぶりの歩行で、足の筋肉も痛みだした。上州の空っ風も味わい、電車に乗ると疲労感から直ぐに眠りに落ちた。