2008.03.16
新町から安中・・・(中山道)
本日の万歩計42,472(28.5Km)
冬季でしばらくお休みしていたが、だいぶ暖かさも増してきて今日久しぶりに出掛けることにした。前回に終えた新町駅に8時30分頃に着き、歩き始めたが天気予報の晴れに反して、どんよりと曇っていて、なんとなく寒々とした感じであった。しかし、歩き始めると、流石にもう寒さは感じない。
新町の駅前から旧街道に復帰する道は、整備されて美しい通りであったが、休日の朝は人通りもほとんど無い。そして、旧街道に達して左折すると、しばらくして「小林本陣跡」の表示杭。木製の杭の簡単な表示である。
進んで行くと、温井川(ぬくいがわ)を渡るが、その橋の袂に「日本スリーデーマーチ発祥の地」と書かれた、碑が建っていた。説明文には毎年7月でオランダで行われる「歩け歩けオリンピック」に1977年に参加して感動し、1978年から新町でも開始して、アジア最大の歩け歩けの大会になったと、要領を得ない文で書かれていた。
そして、川に掛かる「弁天橋」を渡ると、ようやく街道らしい家を見ることが出来た。登録有形文化財の豪商であった「川端家の屋敷」である。
そして、関越自動車道路を潜ると旧街道は烏川の堤防に沿って進むが、堤防につかず離れずであるので、堤防の上の自転車と歩行用の道路を進むこととした。河川敷には野球のグラウンド3面、サッカーピッチ2面ほどあり大変広く、既に少年達が集まっていた。やがて、烏川に掛かる「柳瀬橋(やながせばし)」が見えてきて、これを渡る。歩道橋を元の橋に隣接して作ってあり、橋の幅も広く立派である。
柳瀬橋を渡り、明治の初めに岩鼻県の県庁が置かれた岩鼻で左折して、倉賀野の宿に入ってゆく。倉賀野の入り口付近には「中山道」と「例幣使道」の分岐点がある。
左の写真は、分岐点を通り過ぎて振り返って撮ったものであるが、右が「中山道」、左が「例幣使道」である。例幣使とは、毎年4月17日の日光東照宮の例大祭に金幣(きんぺい)を奉納するために毎年、朝廷から派遣された勅使をいう。位の低い公家が、その役にあたり、旅の途中で御肴料、ご祝儀などの名目で金銭を強要して困ったと島崎藤村の「夜明け前」にも書かれている。また、ここには「閻魔堂」が建っていて、右 江戸道、左 日光道と書かれた古い道標もある。
しかし、倉賀野の本陣は残っておらず、スーパーの駐車場の端に「本陣跡」と書かれた小さな石碑があるのみである。一方、「脇本陣」は残っていたが、今後の保存が課題のような状況であった。
高札場も復元されていたが、少し小さい感じもした。そして、倉賀野の総鎮守である飯玉大明神が、明治になって、近在の神社と合祀された倉賀野神社。流石に倉賀野の総鎮守だけあって、見事な造作の建物である。また、神社の裏を流れる烏川は、利根川の支流で、昔は信州・越後から江戸に向かう荷物の集積場として大いに発展してきたところであり、飯盛り女も多く、木造の橋を石橋にするのに寄進している。石の太鼓橋の欄干の一部が神社の入り口に移設されているが、「金沢屋りつ、ひろ、ぎん」「升屋内はま、やす、ふじ」等の名が刻まれている。飯盛り女が寄進するのは、まことに珍しいことと思うが、それだけ栄えていたのであろう。
200mほど歩くと「安楽寺」がある。このお寺は本堂の裏に丸い古墳があり、天平9年(737)に行基菩薩による開基と書かれている。本尊は古墳の石室に彫られた7体の石仏という。また、境内の左手には将棋の駒の形をした、「板碑」がある。時代は南北朝の1300年ころではないかと言われているとのことだが、珍しい石碑である。
倉賀野の宿を過ぎて、高崎に向かうと、畑の中に「前方後円墳」の見事な古墳が見えてくる。浅間山古墳と呼ばれていて、7世紀後半のころのものとのこと。7世紀頃にはこれだけの古墳を作る勢力を持った者が居た証拠であろう。
やっと「高崎宿」につき、新町で左折すると、「高崎市役所」の立派なビルが見え、その手前には「高崎城址」が見える。徳川家康の江戸入府に従い関東に赴いた「井伊直正」が慶長3年(1598)に城を築きこれより、この辺りが高崎と呼ばれるようになった。
江戸時代の高崎城主は、幕閣を勤めることが多く参勤交代の大名も高崎を避けて、倉賀野あたりで宿泊することが多く、倉賀野が多くの飯盛り女を抱えて繁盛していたのも分かる気がする。
現在の高崎は、街の店舗の前にはパンジーが飾られていて、街全体が華やかに装われていた。
高崎は大きな町だが、歴史的な遺構はほとんど残っておらず、次の宿に向かって行く。本町3丁目で左折して、烏川に沿って進み「君が代橋」に達する。明治11年の天皇巡幸の折に名付けられた橋である。
「君が代橋」を渡って、達磨作りで有名な上富岡町に入ってゆく。70軒ほどの家で年間150万個ほどの達磨が作られるという。達磨市は正月の6?7日で、今は一番だるま作りが低調な時期であるが、それでも達磨を乾燥させているのを見ることができた。
上富岡は、高崎宿と板鼻宿の間であるためか、「茶屋本陣」があり、まだ保存されていて公開されていた。数年前までは住居として使われていたが、個人レベルでは維持するのが困難になり、市が譲り受け公開しているとのこと。案内のおばさんが1人おり、色々と説明してくれたが、かつての住人の子供が書いた落書きなども残っていて、興味深く見ることができた。
茶屋本陣を過ぎ、ぶつかった国道18号線を横切り碓氷川の堤防を歩く。現在はサイクリング道路となっているが、車が通らず、川面を眺めながら歩くのは気持ちがよい。誰も通らず、道路を独り占めで歩く。
少し行くと、堤防の下に「藤塚の一里塚」がある。中山道では、どうも一里塚ははっきりしないと思っていたが、ここは原型を保って残っている。
さらに進むと、橋の欄干に達磨が飾られた「鼻高橋」があり、この橋で碓氷川を渡ると、上富岡に達磨作りを広めた「少林山達磨寺」がある。また、このお寺は「ブルーノ・タウト」が2年3ケ月の間、日本文化の研究にいそしんだ場所でもあるとのこと。
やがて、国道の向こう側に「上野国一社八幡宮参道」と書かれた看板と、八幡宮の大きな一の鳥居が見えてくる。板鼻宿が近づき、そろそろ碓氷川ともお別れである。
「板鼻宿」に入って行くと、双体の可愛い道祖神。長野県が近づくと、このような双体の道祖神が多くなるようだ。
程なくして、安中市板鼻公民館の前に「本陣跡の碑」が建っているのが目に入る。幕末に皇女和宮が降嫁の折一夜を過ごしたところであり、初めて月のしるしがあったという。
源義経が金売吉次と平泉に向かう途中で、伊勢三郎と出会ったのもここであり、深手を負った三十八歳の木枯紋次郎も、中仙道板鼻宿の旅籠・花菱屋主人友七に救われる。
板鼻宿も終わりに近づいたところで、宿の北側を、板鼻宿に並行して板鼻川が流れている。どう見ても用水路としか見えないのだが、もとは碓氷川から取水しての板鼻堰用水路で板鼻宿の生活用水であった。水が屋敷内の庭を流れるようにした家もある。その後道場川、大谷津川が流入し、今ではなんと1級河川に指定されている。東海道で小田原の手前を流れる酒匂川は、あんなに大きな川でも二級河川なのだが、どういう基準で川を区分しているのだろう。
板鼻宿が終わり、碓氷川に掛かる鷹巣橋を渡る、右前方から、クレー射撃の音が大きく絶えず聞こえてくる。橋を渡り終えると、安土桃山時代の建立の「諏訪神社」がある。屋根の反りが優美である。そしてようやく、今日のゴールの安中駅に着く。駅のホームから東邦亜鉛の安中精錬所が山の斜面を占有しているのが見える。かつて公害で、この辺りの住民が大変に苦しんだのを思い出す。
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