2008.04.26
芦田から和田
<本日の万歩計27,045(18.1Km)
今回の中山道の旅は、1泊して下諏訪まで行く計画を立てた。すっかり、慣れ親しんだ長野新幹線も今回が最後となる。今日も途中での食事処の心配で東京駅で弁当を買い込み佐久平駅には8時20分着。駅を降りて、あまりの寒さにビックリ。特に風が冷たい。何とか暖かくなってくれないかと願いながら8時56分発のバスを待ち、芦田に向かうが、乗客は途中で高齢の女性が無料パスを見せて乗り込んできて、しばらくして下車した他は私1人だけの乗車であった。芦田宿にある立科町役場前の道路には芦田宿を示す灯篭が飾られていた。
直ぐに、今も残っている芦田宿の本陣があり、内部の見学は出来なかったが、門の中には1800年築の客殿も残っている。
芦田宿には昔の旅籠の建物のままで今も営業している「金丸土屋旅館」がある。この旅館を通り過ぎると、短い芦田の宿も終わりで、最後のかなり風化の進んだ道祖神が旅の安全を願って見送ってくれる。
いよいよ、笠取峠の松並木にさしかかる。東海道の御油の松並木に比べると、古い松の木は少ないが、石畳で車も通らなく良い感じである。桜も見事に咲いている。
松並木を過ぎて国道を進むと、左側に日本橋から44里の笠取峠の一里塚がある。そして、笠取峠に達し、何も無いと思っていたら通り過ぎて少し下ったところに「峠乃茶屋」があった。寒くてコーヒーでもと思ったが、まだ準備中であった。
そして、現在の常夜燈があり、ここから「長久保宿」である。街道歩きを始めて、灯が点っている常夜燈を初めて見ることができた。そして、国道から右側に分かれて旧国道を進んで行く。この道でも満開の桜を見ることが出来た。
以前は、峠道の路傍に立っていたのだろうか、古い石仏が残されていた。旧国道は今はめったに車は通らなくて歩きよいが、やはり本当の旧中山道も歩きたいと思っていたら、林の中を進む道も距離は短いながら残っていた。
長久保の街に近づいてきたところに「松尾神社」がある。京都市右京区松尾町の「松尾神社」が本社で酒造の神とのこと。小さな神社であるが、見事な建築美の本殿である。
寒い上に雨も降ってきた。街に入ってゆくと「一服処濱屋」と書かれた休憩所があった。明治初期に旅籠として作られたが、中山道の交通量が減り開業を残念したもので、持ち主の福永さんと黒沢さんの寄贈を受けて地域住民の語らいの場、旅人の休憩所として整備したとのこと。無人で無料だが、ポットで熱いお湯が用意されており、自分でお茶も入れられるようになっていた。寒くて、買ってきたお弁当をどこで食べようかと思っていたが、ちょうどお昼の時間であり、これ幸いとお茶を入れて、ここで食事とした。2階は江戸期のさまざまな生活用品などの展示場となっていた。
少し進むと、石合家の本陣がある。門の中を覗くと本陣の建屋は既に無く、現在風の建屋にして住まわれている様子であった。「長久保」は最初「長窪」と書かれていたが、商業が発達してきて「窪」の字はよろしくないと「久保」と字を変えたとのこと。そして、街も大きくなり途中で直角に折曲がって和田宿方向に家屋が立ち並ぶようになったのである。
「長久保」の街を過ぎると、大きく「和田宿」方向に向かって開けてくる。そして青原と呼ばれる「和田宿」の入り口には水明の里と名付けられた公園の広場があり、道路工事で集められたのか馬頭観音などが建っていた。雨は完全に本降りになった。街道歩きで、これほど本格的な雨の中を歩くのも初めてだ。
「和田宿」に入ってバスの停留所が全て家屋風になっているのに感心した。冬が寒くて家になっていなければ、とても立って待っていられないのだろうか。雨の日でも問題ないし、文庫本の1冊も持っていれば、バスが遅れてきても平気だろうし、本当に良く出来ている。ここの画像のもの以外にも数種類ある。
少し行くと「ミミズの双体道祖神」があった。平成5年に「ふるさとは美しく運動」というのがあり、優勝した作品とか。直ぐ横には土壌改良におけるミミズの働きなどを解説した説明板が置かれていた。それにしても、何ともユーモラスである。
さらに、進むと「水のみ場」があり、コーヒーを飲みつくして空になった魔法瓶を満たすことが出来た。
淡々とした退屈な道であろうと思っていたが、時々見ものを提供してくれる。またまた集められた馬頭観音などの石碑があったと思ったら、「若宮八幡神社」があり、その一隅に和田郷を支配していた大井信定親子の首塚があった。信定は天文22年(1551)武田信玄に討ち取られ、これ以降は和田郷は武田氏の支配する土地となった。
この「若宮八幡宮」の横には地下式の横断歩道がある。下の左の写真で、左に見えるのが入り口で、もう一方が右の向こうに見える。今は天気が良ければ、道路でバトミントンぐらいして遊べそうな道で地下歩道とは不思議な感じがしたが、以前はここが国道で交通量も多かったのであろう。
そして、木工品の手作り工房の「ゼペット」の看板の前を通る。ふくろうの像が面白い。
長いアプローチ道路もようやく終わりとなり「和田小学校」に到着。桜が咲いていて、校舎も明るく瀟洒な感じであり、小学校時代を懐かしく思い出すに足りる印象であった。建っていた案内板を見て、おおよその訪問予定を考える。
最初に、元旅籠の河内屋(かわちや)に行く。これで、しばし雨から逃れられると入って行くと誰もおらず、呼鈴を鳴らせと書いてある。呼鈴は小さな音で、一向に誰も出てくる気配が無い。「ごめんください」と声を掛けたら、やっと おじさんが出てきて300円の入場料を払って見学する。河内屋は大きな旅籠で上段の間もあるところからすると、大名、公卿クラスは本陣に泊まるが、文人、学者などが泊まったのではと思われる。
次に訪れたのは信定寺。名前の通り、武田信玄に討たれた大井信定を弔うために建てられたお寺で、天文22年(1551)に建立。その後江戸時代に入って例幣使日光参詣のさい和田宿に泊まりで京都二条城祈願寺となり、諸大名が参詣するようになったとある。鐘楼を兼ねた山門に桜が掛かり、美しい景観である。
次は本陣である。和田宿は和宮様降嫁の年の文久元年(1861)の3月に大火があり、宿のほとんどが消失して和宮様の宿泊所辞退を申し出たが聞き入れられず、幕府が900万両の拝借金を出し、突貫工事で再建した。これで10月の和宮様の宿泊を無事勤め終えたが、本陣長井家では明治になってから新政府から強引とも言える返済取立てで困窮して、上段の間などがある客殿は上田市の曹洞宗龍顔寺に売却し、その他の金目のものもことごとく売却して返済に充てたとのこと。そのため、いま残っているのは居住棟だけであるが、それでも部屋数も多い豪壮なものである。
2階は展示室になっていて、当時の駕籠が並べられていた。
少し戻って、大黒屋を撮影。長い間空き家になっていたのを改修中で公開はまだのようであった。また、進んで行くと「みどり川」と屋号が書かれた脇本陣があった。
庄屋の長井家が、昔の建物をそのままに営業している「本亭旅館」は、和田宿唯一の宿泊施設であるが、残念ながら満杯で泊まれなかった。
和田宿はまだまだ続くが、明日を楽しみに今日の宿泊先の5Kmほど離れた「民宿みや」に電話して本亭前まで車で迎えを頼む。10分ほどで3歳の娘を乗せて若い父親が車で到着した。