Home > 4月 19th, 2008

2008.04.19

岩村田から芦田

本日の万歩計31,473(21.1Km)
先週同様長野新幹線で佐久平に向い、7時41分着。
今日の天気は最新の予報では、曇りだが2日前までは曇り時々雨。現状はどんより曇った空模様で雨がパラつくぐらいのことは覚悟して歩き出した。まず、前回の中山道からの離脱点に向かって、田圃のなかの一本道を歩く。
iwamurata_01.jpgiwamurata_02.jpg
この辺りは水田地帯だが、中山道に復帰して歩き始めるとリンゴ畑も見られ、敷物にするロール状に束ねた藁が置かれていた。少し進んで平塚と呼ばれる集落に入って行くと、枝垂れ桜が満開で迎えてくれた。
iwamurata_03.jpgiwamurata_04.jpg
平塚では、やはり街道らしい建物も見られ、次の集落の下塚原に向かう途上には大きな石碑も見られた。定かでないが、庚申塔とその講の記念碑のようである。
iwamurata_05.jpgiwamurata_06.jpg
下塚原の集落を過ぎると、文明18年(1486年)の建立の「駒形神社」がある。一間社流れ造りの小さな社だが、騎乗男女2神が安置されており、御料牧場の「望月の牧」の東を守護した神社と推定されている。源頼朝が乗馬のままで神社に拝礼せず通ろうとして落馬した伝説があるらしい。東海道の相模川橋でも源頼朝が落馬したとの伝説があったが、征夷大将軍になって以降の頼朝の不人気を現しているのだろう。
iwamurata_07.jpgiwamurata_08.jpg
しばらくして、「塩名田宿」に入って行く。酒屋さんの建物は、さすがに白壁の立派な建物だが、歴史的な建物はほとんど無く、本陣も「跡」だけであった。そして、最後は「千曲川」にぶつかって宿は終わる。
iwamurata_09.jpgiwamurata_10.jpg
今は水量も少なくなった千曲川だが、江戸時代から明治期までは荒れ狂う「千曲川」に通行手段を確保するのに大変な苦労を強いられたようである。明治6年(1873)から木橋が架けられた明治25年までは、9艘の舟を繋いで、その上に板を渡した「船橋」が用いられた。そのための綱を張る「舟つなぎ石」が河原に残されていて、綱を結わえた穴が穿たれていた。
現在は鉄の立派な橋(中津橋)となっていて、しかも休憩のためのベンチなども設けられた歩道橋も平行して設けられている。また、東京では葉桜となっているが、ここでは染井吉野も満開であった。
iwamurata_11.jpgiwamurata_12.jpgiwamurata_13.jpgiwamurata_14.jpg
「中津橋」を渡ると「御馬寄(みまよせ)」の集落で、道は上り坂となる。「御馬寄」は望月牧の貢馬(こうば)をここで寄せ集めたことから付いた地名である。坂を登りつめると、右手にはすっかり中山道のアイドル的存在と化した「大日如来像」が浅間山をバックに鎮座していた。ハッキリしないが、300年ほど前の建立らしい。
iwamurata_15.jpgiwamurata_16.jpg
大日如来像の傍らには芭蕉句碑があり、「涼しさや すぐに野松の 枝のなり」とある。「野生の松のような枝振りが、かえって涼しさを感じさせてくれる」ということか。進んで、直ぐに一里塚跡があった。
iwamurata_17.jpgiwamurata_18.jpg
やがて、「八幡宿」の入り口にある「八幡神社」に着く。創建年は不詳だが、貞観元年(895年)創建と言われているとのこと。大変古い神社であるが、随神門、本殿の彫刻に格式の高さが伺え、重要文化財指定である。
iwamurata_19.jpgiwamurata_20.jpg
境内は広くは無いが、欅の巨木も見事である。街に入ってゆくと本陣の門だけが残されていた。
iwamurata_21.jpgiwamurata_22.jpg
街道の面影を残す街並みを辿りながら、やがて右の小道に分かれて百沢の集落に入って行く。百沢の方が古い街道の雰囲気が濃厚であり(右側の写真)、道の両側からは用水を流れる水音が絶え間なく聞こえてきた。
iwamurata_23.jpgiwamurata_24.jpg
百沢の集落が終わるとしばらく国道を歩くことになるが、やがて「望月城」の看板があり、右手の小道に入って行く。全くと言って良いほど車が通らない。もちろん、人も通らない静かな道だ。天気も晴れてきた。途中に江戸から45里目の一里塚跡の碑があり、さほど険しくない峠の切り通しを越すと大きな「瓜生坂」の石碑と「念仏塔」がある。昔の街道はこの辺りから、真っ直ぐ左に下りていったと説明板が建っていたが、今は道が消えているのでくねくねとした舗装道路を下りてゆく。この峠で初めて出会った人が自転車で下りてきて、追い抜きざまに「良い天気になりましたね」と声を掛けて嫉妬を感じる速度で追い抜いて行く。
iwamurata_25.jpgiwamurata_26.jpg
国道と合流して下ってゆくと「望月橋」があり、橋を渡る手前に岩場にへばり付くように建てられた「弁天窟」がある。室町時代末期の永正年中、近江の竹生島の弁才天を勧請したものと説明板にある。老朽化したためか、弁天窟への通路は立ち入り禁止となっていた。また、弁天窟の崖の上には「蟠龍窟(ばんりゅうくつ)」があり、急な階段が作られている。上ってみたが、あまりにも急で上りより下りが怖かった。
iwamurata_27.jpgiwamurata_28.jpg
iwamurata_29.jpg橋を渡って直ぐに右方向の道を行くと「望月宿」である。平安朝の初期から天皇が毎年8月15日、満月の日にここの御牧から献上される馬をご覧になる儀式があったので、望月の地名が起こったという。古い町の雰囲気はあまり残されていないが、「大和屋呉服店」のような伝統を誇る店は見ることが出来る。
短い「望月宿」を通り抜けると、道は大きくカーブしながら坂道を上って行き、バイパスの下を潜ってなおも上って行くと、昨年度閉校されたが今は一面に桜が咲き誇っている「本牧小学校」の前を通る。さらに進んで行くと眼下に間の宿である「茂田井宿」が見えるようになり、右手の細い道に分かれて下って行けば「茂田井宿」である。「武重本家酒造」と「大澤酒造」の建物を中心として重厚な白壁の家が続き、「たそがれ清兵衛」の撮影オープンセットが作られたのもなるほどと頷かされる宿である。大きな通りから離れていたからとは言え、良くこのようなところが残っていたと感心する。やはり、2つの酒屋の力が大きかったのであろう。
iwamurata_31.jpgiwamurata_32.jpg
iwamurata_33.jpgiwamurata_34.jpg
とても大きく、少し傾いだ「馬頭観音碑」を見ると、間の宿である「茂田井宿」が終わりに近づき、とんでもない急坂を上って、「芦田宿」に向かう。およそ2Kmの道を進んで、やっと「芦田宿」の入り口に差し掛かる。
iwamurata_35.jpgiwamurata_36.jpg
yokoya01.jpg今日は、ここまでで埼玉に嫁いだ妹とその息子に落ち合うため、中山道から離脱して、待ち合わせ場所の国道筋のセブン・イレブンに向かう。今日は蓼科で1泊して明日帰宅の予定である。 ちなみに、左の写真は「蓼科」でのものである。