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2007.06.10

藤枝から掛川(3)

急坂を下りバイパスを潜り、日坂の宿に到着した。大きな秋葉灯篭が歓迎してくれいるようだ。本陣跡は幼稚園になっていて、入り口の門が本陣跡であることを主張している。
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「萬屋」という屋号の江戸時代の旅籠の建物が公開されていた。
中も自由に見学出来るので、ちょっと見せて貰ったが、後ほど大変なことが分かるのであるが、この旅籠は一般大衆が泊まるものであったとのこと。
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直ぐ筋向いには、やはり旅籠で「川崎屋」が公開されていたが、この旅籠は全ての部屋に床の間があり、家具調度品も上等なもので、武士階級の宿泊に供せられたのであろうとのこと。
71歳という、おじさんが案内役として常駐しており、色々と聞かせてもらった。
最近まで実際に人が住んでいて、比較的良好な状態を保ちえたこと。再整備には大変なお金を要したこと。
東海道400年祭のときは1日に800人ほど訪れたが、いまは50人程度などなどであった。
さて、先ほどの「萬屋」を再度案内して貰ったのだが、この旅籠は2階が特殊な部屋の配置になっていて、家の前後に同じ大きさの部屋が4つづつ並んでいて、両方の間には狭い廊下があった。
おそらく、後ろの部屋には遊び女が控えており、前の客の部屋に行く仕掛けだと言う。大学の先生にも来て貰って話しを聞いたが、遊女を置いた旅籠だと言っていたとのこと。
shimada_069.jpgshimada_070.jpgshimada_071.jpg日坂の宿は小さな宿で、直ぐに宿の出口にある、「高札場」に達した。良く復元された高札場で、当時の様子が良く分かる。現在のようにマスコミなど無い時代においては、情報伝達の手段として重要であったのである。
宿の端には、「事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)」がある。
大同二年(807)坂上田村麻呂東征の際、桓武帝の勅を奉じ、旧社地本宮山より現社地へ遷座すと書かれていて、大変古い神社だ。
事任(ことのまま)とは、願い事がそのままで叶うとして付けられたと言うが、本当に人気の高い神社であったようである。境内には楠の木の大木があり、樹勢もすこぶる良好な感じであった。
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「事任八幡宮」からは県道を歩いて掛川を目指すことになった。やがて「伊達の一里塚跡」に到達し、さらに進むと、「馬喰橋」に着き、掛川はもう少しだ。
「馬喰橋」は、その名が示すように、橋の柱は馬をデザインしたものだ。昔は馬の良し悪しを見分け、馬の売買の仲立ちをする専門職としての馬喰が居たが、馬喰と言う言葉も死語になりつつある。
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馬喰橋を渡ると直ぐに葛川の一里塚があり、ほどなく掛川の七曲の入り口に達する。
七回も曲がって進む必要があり、城下町に特有な形態が完全に残っているのである。
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七曲の道を辿って行くと、秋葉灯篭があり、正しく進んでいることが分かる。しかも蝋燭の代わりに電灯を入れて火を点している。
さらに、進むと「塩の道の道標」があった。この道は長野方面に塩を運ぶ街道の起点に近い部分でもあったのだ。
東海道の夢舞台道標と似た道標だが、塩街道を歩く人もいることから、建てているようだ。
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七曲の丁寧な説明板もあり、終に通り抜けたが、抜けたところに葛を用いた菓子などを売る「丁葛」と看板を掲げた古風な感じの店があった。お土産を買おうと入ったら、親切な若女将が葛湯を入れてくれた。私の住んでいる横浜からこちらに嫁いできたと話していた。
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掛川市街の中心部まで進むと、昔の商家を擬したデザインの清水銀行の本店があった。しかも、横の壁には大きな山内一豊と千代のレリーフがあった。歴史を大切にし、誇りにしているのだろう。
shimada_082.jpgshimada_083.jpgshimada_084.jpg今日は、朝は雨に降られたが、大井川を渡り、小夜の中山も通り充実したものであった。
掛川駅は、やはり雰囲気を大事にするためか、少し古風な感じであった。これから、横浜までの長い列車の旅がある・・・。

藤枝から掛川(2)

長い、大井川に掛かる橋を渡りきり、金谷の町に入ってきた。
金谷の旧東海道を歩いて行くと、古い秋葉灯篭などが見られ、大井川鉄道の線路を横切り、徐々に緩やかな坂道をJR金谷駅に向かって上って行く。
途中で蕎麦屋があったので、昼食を摂り、再び歩き始めようとすると、先ほどまでの小雨の空が、嘘のように晴れていた。
もう数10mで金谷駅という所に、夢舞台道標が建っており、ここが金谷の一里塚跡で江戸から53番目となる。
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一里塚跡の所で、JRの線路のガードを潜ると直ぐに「長光寺」があり、芭蕉の「道のべの 槿(むくげ)は 馬に喰われけり」の句碑があった。
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道は直ぐに左に折れ、かなりの勾配の坂道を登ってゆく。道端の民家の石垣は丸い石で積み上げてある。
1?200mほどであろうか、県道に飛び出し、どちらに進めばよいのかと思ったが、直ぐ左に「旧東海道石畳入口」と「石畳茶屋」の大きな看板が目に付いた。
進むと、直ぐに、石畳の道が始まった。箱根の石畳と違い、丸い感じの石が多く、先ほど見た民家の石垣の石と同様である。たぶん、この石垣や石畳の石は、大井川の河原で集めたものと思われる。
ほんの、数10m程度で「石畳茶屋」があり、お茶、コーヒーなどの飲み物以外にも蕎麦、うどんなどが食べられる。この茶屋は、荒れていた石畳を地元の人達が復元したときに、作られたと思われるが、つい先ほど食事をしたばかりであり、スキップして進むこととした。
shimada_030.jpgshimada_031.jpgshimada_032.jpg平成の道普請と称し、復元された石畳の道は430mとのことだが、江戸の石畳との違いは側溝を設けたことだという。なお、この坂は金谷坂と言うそうだ。
復元前は、コンクリートが流されたり、石が流出してしまった場所などがあったそうだが、全て剥がして、新たに石を敷き詰めたとのこと。石畳は綺麗に復元されたが、江戸時代の石を剥がしたので、歴史的、学術的な価値は損なわれてしまった。
shimada_033.jpg430mの石畳を歩き、車の通れる地方道に出て、引き続き歩いて行くと、「諏訪原城跡」がある。
天正元年(1573)に武田勝頼の臣下馬場美濃守氏勝を築城奉行として作らせた山城だという。
典型的な武田の築城様式の城とのことだが、箱根で三島に下るときに見た「山中城跡」に似て、空堀で石垣を使わない山城の作りである。全体像を把握するには山の中を歩き回る必要があるようで、全部を見るのは無理と考え、一部の堀の跡のみカメラに収め、次に進むことにした。
shimada_034.jpg諏訪原城跡を過ぎると、直ぐに間の宿の「菊川」への急な石畳の下り坂が続くが、この坂は「菊川坂」という。
この辺りから、遠くの山肌にお茶の木を使って「茶」の字を描いているのが見えるので、カメラをズームにして撮影した。
shimada_035.jpg菊川坂の下りは、一部、道の半分が舗装道路となっているところがあったが、やはり生活道路として利用するには、石畳だけでは厳しいからだろうか。
「菊川坂」も地元の人達の努力で復元したものだが、金谷坂の反省に立ち、江戸時代の石畳が残っているところは、そのまま残し、石などが流出したところのみ、新たに石を敷いたのだという。
石畳復元に参加した方々の名前を刻んだ大きな金属の表示板があり、また感謝の言葉も江戸時代の文体を模したものとなっていた。なかなか、ユーモアのセンスにあふれている。
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ほどなく、菊川の宿が見えてきた。山間の落ち着きを見せる宿である。
暫く歩いて、本陣跡に達すると、承久3年(1221)後鳥羽上皇の変に味方して捕らえられた、中納言宗行が、鎌倉へ送られる途中の菊川の宿で、柱に死期を覚って書いた漢詩の碑と同じく死期を覚った日野俊基の歌碑があった。
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中納言宗行は、
「昔南陽県菊水 汲下流而延齢 今東海道菊河 宿西岸而失命」
意味は、「昔は南陽県の菊水下流を汲みて齢を延ぶ、今は東海道の菊川西岸に宿りて命を失う」
その約100年後、日野俊基は正中の変の翌年、幕府転覆首謀者として密告され嘉暦元年(1326)捕えられ鎌倉に送られるが、ちょうど中納言宗行が詩を書いた菊川にやってきて歌を詠んだ。
「いにしえも かかるためしを菊川の 同じ流れに身をやしづめん」
そしてその予感通り、日野俊基もまた、まもなく命を絶たれるが、日野俊基が京を出たのは7月11日であり、中納言宗行が菊川で詩を書いたのは7月10日であった。なんと、両者が死を予感した時期は、約100年を経ているが、季節では、わずか1日しか違わないのである。
shimada_040.jpg菊川の本陣跡から直ぐのところに、写真のように「矢し根鍛治」と書かれた、大きな絵が家のシャッターに描かれた家がある。ここは、矢尻作りで有名であった、才兵衛の住んでいた家の跡で、江戸時代にはその子孫の矢の根鍛冶清次郎は、参勤交代で街道を通る大名にお目見えを許されていたとのこと。江戸時代も時代が進んで泰平の世の中となり、矢尻の需要もなくなって、清次郎は菊川を離れたという。しかし、矢尻作りの秘伝はいまでも菊川の旧家に大事に保存されいるとのこと。
shimada_041.jpg菊川の里は小さくて直ぐに通り抜けられる。いよいよ「小夜の中山」への登り道になるが、とても急な坂道で息が切れた。上りきったところで、休息を取らないと次に進めない。、写真に撮ったが写真では急坂の感じが示せない。
急な登りが一段落すると、そこは一面の茶畑で、周りの山々も茶畑であった。
そして、歌碑街道と言われる「小夜の中山」の第1番目の歌碑、
(1) 雲かかるさやの中山越えぬとは都に告げよ有明の月 (阿佛尼)
がある。この歌は「十六夜日記」にでてくる歌で、聞いたことはある。
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shimada_044.jpgやっと、名刹の九延寺に到着した。九延寺は昨年のNHKの大河ドラマの「功名が辻」にも登場したが、山内一豊が茶室を作って関が原に向かう徳川家康をもてなしたところである。
また、この寺には夜泣き石と呼ばれる丸い石があるが、案内板にそのいわれが書かれていた。(クリック)

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shimada_048.jpgしかし、ここにはもう一つの伝説が伝わっている。それは、小夜の中山の怪鳥・蛇身鳥を退治にきた藤原良政がこの地で月小夜姫と出合い、二人の間に小石姫が生まれた。成人した小石姫は中山寺の住職空叟上人(足利尊氏の伯父)の子供を宿していたため親の進める結婚を果たせず、中山千人斬の松の許で自害する。自害する前に生まれた遺児月輪童子は、中国伝来の飴の製法を受け継いだ末広荘(扇屋)の飴で育てられたという、ものである。滝沢馬琴の話しは、これを下敷きにしたのかも知れないが、九延寺というより、この地方の住民の圧力だろうが、この話しも捨てがたいと、真新しい「月小夜姫の墓」と「三位良政卿の墓」が建っていた。
shimada_047.jpgともかく、盛りだくさんな お寺で、夜泣き石以外にも家康お手植えの五葉松などもあり、芭蕉の「馬に寝て 残夢月遠し茶のけぶり」の碑もあった。
歌碑の多い小夜の中山だが、やはり最も有名なのは西行法師の命なりけり・・・の歌で、土地のコミュニティーセンターにも「命なりけり学舎」と名づけられている。西行法師の歌については、後ほど触れる。九延寺からわずかのところに、子育て飴の扇屋があり、今も営業している。少し休んで行きたかったが、若い夫婦が連れた子供が傍若無人に店先の長椅子を占領しており、少し店を覗き込んだだけで立ち去った。飴以外にも民芸品の玩具などを置いてあったが、大したものは無く、お土産するために食指を動かすようなものも見えなかった。
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扇屋の斜め前には「小夜の中山公園」があり、西行法師の「命なりけり」の歌が丸い石碑に刻まれている。
「年たけてまた越ゆべしとおもいきや命なりけり小夜の中山」
西行69歳での奥州への勧進の旅であった。当時は69歳まで生きられることの方が稀であったので、ことさらに感慨が強かったのだろう。やはり、最も勢いを感じる歌である。
「小夜の中山」は、鎌倉時代頃までは、「さやの中山」と呼ばれていたが、室町時代には、「さよの中山」とも読まれるようになり、江戸以降は「さよ」で定着したようである。
元々は、狭谷すなわち狭い谷に挟まれた真ん中にある山で「狭谷の中山」であったのが、「小夜」の字を宛てたことでロマンティックな雰囲気を醸し出す。モーツアルトにも「小夜曲」があるところからも。洋の東西を問わず小夜はロマンティックなものであったのである。
公園の中は、適度に樹木が茂り、涼やかである。いまは一面の茶畑の中の道と化した「小夜の中山」も昔は、この公園の中のような光景であったに違いない。歌も浮かぶのも道理である。
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まだまだ、茶畑が続くが、やがて「佐夜鹿の一里塚跡」に到達した。
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すぐに、
「甲斐が嶺ははや雪白し神無月しぐれてこゆるさやの中山」(蓮生法師)の石碑があった。
さらに、「鎧塚」と書かれた石碑が建っていたが、案内板には、鎧塚 建武二年(1335年) 北条時行の一族名越太郎邦時が、世に言う「中先代の乱」のおり、京へ上ろうとして、この地に於て足利一族の今川頼国と戦い、壮絶な討ち死にをした。頼国は、名越邦時の武勇をたたえここに塚をつくり葬ったと言われる、と記されていた。
新しい石碑を建て直したものだろう。
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次は、
「東路のさやの中山なかなかになにしか人を思ひひそめけむ」 (紀友則)
「東路のさやの中山さやかにも見えぬ雲井に世をや尽くさん」 (壬生忠岑)
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やがて、妊婦の墓に行き着くが、この墓は蛇身鳥退治の三位良政卿の遺児で、結婚を苦に松の根元で自殺した小石姫の墓と言われている。
そして、芭蕉の句碑
「命なりわずかの傘の下涼み」がある。ここには以前は涼むのに都合の良い松があったが、枯れてしまい、新たに新木の松が植えられている。
それにしても、芭蕉も西行の「命なりけり・・・」を意識したのは間違いないが、情景は異なる。
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ここにも、芭蕉の「馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり」があった。こちらの石碑の方が正統なのだろうか。
そして、昔は道の中央にあったという「夜泣き石」を描いて日坂の宿の絵とした安藤広重の版画の大きなレリーフが大きな石に嵌め込まれていた。想像していたよりずいぶんと大きな石だ。
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いよいよ、小夜の中山も終わりに近づき、最後に沓掛の急坂を下る。やはり写真では急坂の感じが出ないが、普通車で進入は無理だろう。一人オフロードバイクで上ってきた若者に出会ったが。
小夜の中山は、上り口と下り口が厳しい急坂で、その間は緩やかな起伏となっていることが分かった。
そして、最後の坂にも歌碑があった
「甲斐が嶺をさやにも見しがけけれなく横ほり臥せるさやの中山」
 (読人不知)
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注意深く、歌碑を写した積りであったが、後ほどいただいた小夜の中山の案内パンフレットをみると、4つほど見逃してしまった。ここに、記しておく、
「旅ごろも夕霜さむきささの葉のさやの中山あらし吹くなり」 (衣笠内大臣)
「旅寝するさやの中山さよなかに鹿も鳴くなり妻や恋しき」 (橘為仲朝臣)
「風になびく富士の煙の空に消えてゆくへも知らぬわが思いかな」 (西行法師)
「ふるさとに聞きしあらしの声もにず忘れぬ人をさやの中山」 (藤原家隆朝臣)
ほんとうに、沢山の歌碑がある。まるでここを通ると、誰でも歌を作るのが当然と考えられているようだ。それでは、つたないが、私も一首
「年長けて我も越ゆべく来たりなばいにしえ浮かぶ小夜の中山」
おそまつ・・・

藤枝から掛川(1)

本日の万歩計54,417(35.91Km)
今日のコースは藤枝から掛川であるが、天気予想では午前は雨で午後から曇りとなっていた。
行くか中止すべきか、前の夜から迷っていたが、午前の雨も小降りで何とかお昼まで過ごせば、午後からは大丈夫だろうと考え、朝自宅から出るときに雨は降っていないのを励みに出かけることにした。
電車に乗っても、雨は降っておらず、しめしめと思っていたら、由比を過ぎた頃から本格的な雨降り状態で、藤枝についても変わらなかった。
どうしようと、作戦を立てる積りで駅の喫茶店に入り、コーヒーを飲んでいたら、小降りになり、これなら何とか歩けそうで、傘をさしても何とか島田までは行ってみようと考えた。
店を出ると、傘無しでも歩ける程度で、喜び勇んで歩き出したが、旧東海道が県道と合流する地点にある「六地蔵」に到達したときには、少し雨も激しくなり、手洗い場のわずかの屋根の下でリュックから傘を取り出した。
この「六地蔵」は相当古いようで、新しく6つの地蔵を彫った石の後ろに古い、半分崩れた石も見える。
さらに進んで行くと、中世の東海道との分岐点の石碑に達する。昔は江戸時代の東海道の付近は湿地帯で、開拓が進んで、初めて道を作ることができたとのこと。
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shimada_003.jpg 先週も気になっていたのだが、藤枝界隈では生卵の自動販売機が目に付く。あまり、他では見かけないように思うのだが。そして、旧東海道を歩いていることを実感することが出来る、松並木が綺麗だ。
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雨は幸いにも止んでしまった。そして、栃山橋東の信号機の手前に「昭和天皇御巡察之処」という石碑があった。明治天皇の碑は、ずいぶんと見たが、昭和天皇碑は始めてである。「昭和二十一年六月十八日」とあったから、戦後の巡幸のときであろう。
市街地に入ってきて、ほどなく「島田宿の一里塚跡」に達する。そして、5丁目の本陣跡である。この辺りは本陣、脇本陣が集中していたようで、その跡地がちょっとした憩いの場として整備されている。
shimada_006.jpgshimada_007.jpgshimada_008.jpg島田信用金庫本店前には芭蕉の句碑が建っている。なかなか読むのは難しいが、小さく詠み易い字で書いてある。読みは以下の通りである。
するがの国に入て はせを
「するがぢや はなたち花も ちゃのにほひ」

なるほど、芭蕉は「はせを」と記したのだ。
島田駅に向かう道路との交差点を渡ると、大井川神社がある。この神社は大井川を鎮め、子孫繁栄を祈願して創建された神社だが、近年では「帯祭り」で有名である。帯祭りは他町村から嫁いできた花嫁をつれて、太井神社に参拝した後、宿内の人に披露した、しきたりが変化して、帯だけを神社に飾って披露したのが始まりという。
近年では帯を飾るのも、ままならぬようになってきているので、祭りの形態もまた変化するのかも知れない。
shimada_009.jpgshimada_010.jpgshimada_011.jpgそれにしても、大井川神社は境内の緑がとても美しい。それと、石の秋葉灯篭は良く見かけるが、木造の「秋葉灯篭」は珍しいし、とても優美だ。
やっと、国指定の「島田宿大井川川越遺跡町並」に到着。ここから数100メータの間は、川越人足の宿や立合宿、川会所、札場などの建物がそのまま整備され残されていて、まるで江戸時代に紛れ混んだような気分になる。
しかし、ところどころに一般の民家も混じっているのが、なんだか不思議な感じだ。
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shimada_014.jpgshimada_015.jpgshimada_016.jpg川会所で内部も見学できるところがあり、記録を取る役人の様子や各種蓮台、などを見ることができた。
川を渡る最も安い方法は、肩車で渡してもらう方法で、平蓮台、半高欄蓮台、大高欄蓮台と料金がかさむ。
特に、大名が籠のまま乗る大高欄蓮台は、人足も大勢必要で大変な金額になったとのこと。

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川会所の庭には「馬方は しらじ時雨の 大井川」の芭蕉の句碑がある。
また、道路を隔てた広場には、「朝顔の松公園」がある。「生写朝顔話」という浄瑠璃で有名になった物語で、主命を帯びて急ぐ阿曽次郎を追いかける安芸の国娘、深雪。大井川の川止めで半狂乱になり激流に飛び込もうとしたところを、宿屋の主人戎屋徳右衛門に助けられ、旅の果てで盲目となっていた目が見えるようになり、初めて見えた立派な松。
その後、この松は枯れてしまい、現在は2代目である。
巖谷小波の句碑には 「爪音は 松に聞けとや 春の風」とある。
shimada_021.jpgshimada_022.jpgshimada_023.jpg島田市博物館も訪れたが、女性の髪形の「しまだ」の展示や、大井川の川越にまつわる展示が多く、興味深かった。
なお、写真には写っていないが、古い立派な民家を修復した「島田博物館分館」も見学したが、こちらでは「海野光弘」の花の旅と称した展示を行っていて、日本の原風景のような心温まる版画を多く見ることができ、建屋自体も優れた古き日本家屋で見ごたえがあった。
大井川橋の島田側口の傍には「永仲景述」と書かれた大きな碑があったが、どういう意味だろう。
さて、いよいよ大井川を渡ることになったが、歩いても歩いてもなかなか向こう岸が近づいて来ず、やはり大きい川であることを実感した。
金谷以降は新しいエントリーで・・・・・
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