2007.06.30
新居から吉田(豊橋)
本日の万歩計47,141(31.1Km)
旧東海道歩きも浜松を越え、出発地まで時間が掛かるようになってきた。
色々と調べて、三島まで在来線で行き、そこから新幹線で浜松、また乗り換えて「新居町」が一番早く着けることが分かり、その方法を取った。
新居町には、8時15分ころに着いたが、新居の関所が開くのは9時なのだ。関所を通過しなくても旅は続けられるが、やはり見学したいので、コーヒーでも飲んで時間を潰そうと思ったが、コーヒーを飲めるようなところは無く、結局、うろうろしながら時間の経過を待つことになった。8時30分に、財布の中身が乏しいのでATMで金をおろそうとして、遠州信金に行ったが、私の使っている銀行はダメだった。
ともかく、関所の方に歩いて行くと「浜名橋」があり、今では水路に掛かった橋になっているが、この橋の左の方には舟溜りがあった。
新居の関所は大地震で大破して安政2年(1854)に建て替えられ比較的新しかった故か、残っていたのを修復整備したもの。箱根の関所などとは違い、唯一、本物の関所の建物が見られるので、大変貴重である。
江戸時代には、浜名湖を舟で渡ると、船着場の上陸地点が関所で、そのまま取調べが行われた。
その船着場の様子が分かるように、堀のようなものが作られていた。
関所の中に入ると、当然だが、横にづらっと長い建物になっていて、この障子を開けると、番頭(ばんがしら)、給人(きゅうにん)、下改(したあらため)などの役人が並んでいる。
しかし、この体制で1日に何人の人を裁くことが出来たのだろうか。入国審査のパスポートチェックなみのスピーディーさとは行かなかっただろうと思う。せいぜい、百人程度だろうか。
怪しい女性の場合は役人の内儀もしくは母親が勤める「あらため女」が厳しくチェックしたそうで、女性にとって、屈辱的な取調べもなされたようである。
ともかく、ここの関所は建物の外側からの見学だけでなく、靴を脱いで建物に上がり、全て見られるのがよい。関所内の検分役にでもなった積りで回ることが出来る。しかも、1番乗りで誰も見学者はおらず、独占して見ることが出来た。
関所を後にして、しばらく行くと「無人島漂流者不屈の精神を伝える」と書かれた立派な石碑が建っていた。
説明板によれば、筒山五兵衛船が、享保3年(1718)に浜名湖の今切を出航して銚子沖で嵐にあって遭難し、鳥島に漂着した。乗組員12人の内9人が死亡したが、残る3人は21年間も無人島で生き抜き、元文4年(1739)に救出された。八代将軍吉宗が江戸に招いて、話しを聞きその後、褒美を取らせて籠で故郷に送り届けた。
地元でも藩主松平伊豆守が、手厚い保護を与えて安泰に暮らしたとのこと。
直ぐ近くに、「紀伊国屋」という旅籠も整備され、公開されていた。紀伊国屋という名前で分かる通り、紀州から移り住んだ「疋田弥左衛門」が始めた旅籠であったが、紀州藩主の御用宿になっていたというから、格式の高い宿だったと思われる。
入り口を入ると福助人形が迎えてくれるのはお愛嬌だが、2階にあがると、枕なども展示されていた。
それと、「水琴窟」を始めて聞いたが、本当に良い音だ。竹筒に耳を近づけると、澄んだ音が聞こえてくる。
旅籠の「紀伊国屋」はあったが、本陣はもうなくなっていて、「本陣跡」の石碑だけが建っていた。
本陣跡で左折して南下して行くと、「棒鼻跡」の碑があった。棒鼻とは籠のかつぎ棒の先端を言うとのことだが、「棒鼻跡」はここで行列の隊列を整えなおしたのだという。大名行列も常に綺麗に列を組んで進んでいたわけでなく、かなり乱れたりして、宿に入る前に隊列を整え直したようである。
一度国道に出た後、直ぐに旧浜名街道を西に進むが、しばらく行くと「紅葉寺跡」という夢舞台道標が現れる。
民家の脇を入ると、石段が現れ、説明板が建っていた。説明には、紅葉山本学寺は通称「紅葉(もみじ)寺」と言う。延久元年(1190)に高野山より毘沙門天立像を勧請して建てたと言われている。室町幕府六代将軍 足利義教(よしのり)公が、永宝4年(1432)の富士遊行のとき立ち寄って紅葉を愛でたので紅葉寺と呼ぶ・・、後は文字が消えていて読めなかった。
石段をあがると、木のベンチが置かれたちょっとした広場になっていた。周りを見回すと、紅葉寺というだけあって、紅葉の木が沢山植えられているようであった。
旧浜名街道は、西へ西へと続くが、道路の片側だけ松が植えられている。かつて、立派な松並木であったが、松くい虫で全滅して昭和62年に再植樹されたものとのこと。
そういえば、かなり立派に育っているが、舞坂の松並木のように古い松の木ではない。でも、枯れてしまった松並木は、植樹すれば、いずれ再生するので絶対やるべきだと思う。
しかし、歩道を松並木の外に作ったために、枝ぶりの茂ったところは、歩道も日陰が作られるが、そうでもないところでは、車道に日陰を作る並木になっていたのは、癪に触った。
松並木の途中には、前大納言為家と阿佛尼夫婦の大きな歌碑が建っていた。
風わたる 濱名の夕しほに さされてのぼる あまの釣舟 為家
わがためや 浪も高しの 浜ならん 袖の港の 浪はやすまで 阿佛尼
進んで行くと、やはり古い街道であったことを思わせる、立派な連子格子(れんじこうし)の家が建っている。相当に進んだと思ったころ「火鎮(ほずめ)神社」があり、立ち寄ると2人の男性が、しめ縄を張り直していた。聞くと、今日の午後から「大払式」と「夏越祭」があるのだという。年嵩の方と、しばし話し込んだ。
やっと、「白須賀(しらすか)」への分岐点が近づき「蔵法時」に行き着く。ここで、道を間違え「蔵法寺」の横の道を上って、ほとんど上り詰めたあたりで間違えに気づき引き返した。30分程度のロスをしてしまった。「白須賀」への分岐点には立派な夢舞台道標が建っていたのだが、先走ってしまって失敗した。
「潮見坂」という急坂を上り、振り返ると海が見えた。これが「潮見坂」の名前の由来であるが、海のみでなく、富士山も見えたという。この日は晴れてはいても、とても富士の見える状態ではなかった。
急だが短い坂を上ると、「おんやど白須賀」という休憩所があった。あまりにも暑いので、避難させてもらおうと入ったのだが、冷房は利いていなくて、人は良さそうだが気の利かないおじさんが一人で、冷たいお茶を出されることも無く、早々に退散した。ズボンの中の足まで汗が流れているのを感じる。
休憩所を出ると、直ぐに「潮見坂公園跡」の碑があった。なんとか跡公園というのは多いが、公園跡の碑は珍しい。織田信長が武田勝頼を滅ぼして尾張に帰る時、信長をもてなした所で、大正十三年四月、町民の勤労奉仕によりこの場所に公園がつくられ、明治天皇御聖跡の碑が建てられたが、現在は、公園敷地に中学校が建てられているとのこと。明治天皇碑のみは残っている。
問屋場跡に「夏目甕麿(なつめみかまろ)邸址 加納諸平生誕地」の石碑があった。甕麿は本居宣長の門に名を連ねた国学者で諸平(もろひら)は甕麿の長子とのことであるが、よく知らない。
「白須賀」の何と言うこともない、町並みが続くが、「白須賀」は最初はもっと海沿いにあったのが、度重なる津波の被害にあい、坂の上に引っ越した。しかし、今度は風通しが良く、火事に見舞われ、その対策として家の境界に火災に強い「槙の木」を植えたのだという。その名残もところどころで見ることができる。
「白須賀」の通りには、食事が出来るような店は無く、国道に出たところに、「吾妻屋」という食堂が1軒のみあるのを調べておいたし、先ほどの「おんやど白須賀」のおじさんにも確かめておいたのだが、行ってみると、今日は貸切でお休みであった。1軒しかない食堂がお休みでは困るのだが、こうなると次の宿の「二川」まで行くしかない。
「白須賀」の宿を過ぎると、県道と思える車の通りの多い道に出て、境川を越える。ここは現在でも静岡県と愛知県の県境だが、何とも小さな川である。掲示板には川の管理は愛知県の管轄と書かれていたが。
その後、「二川」までは、国道1号線を歩くしかないのだが、周りにはお店もなく、畑の中の1本道がどこまでも続く。とても暑い日で、木陰一つ無く、休息も取れず、日が照りつける道を歩いてゆくのは、相当に辛かった。国道は大型車両が引っ切りなしに通り、騒音も相当なものなのも辛い。やっと、国道から分岐して新幹線のガードを潜ると、レストランがあり、やっと食事にありつけた。2時であった。
食事を済ませて、しばらく休憩し、汗が引くのを待って出発し、今日の白眉の「二川の本陣」に着いた。
本陣で現存するのは、ここと大津の2ケ所のみだと言う。
さすが、大きな建物で部屋数も大変多い。直ぐ横の駐車場から撮影しても建物の規模の大きさが分かる。内部の豪華さも格別で当時の本陣の中がどうなっていたのかを知るには大変貴重な遺構である。
本陣を後にして進んで行くと、格式も高かったといわれる「大岩の神明社」があった。ここもお祭りの準備か、数人の方が、何か準備中のようであった。
その後、「火打ち坂」を上り、岩屋緑地を回りこむように進んで行くと、途中に1本だけ残った立派な松の木が終に枯れて、その跡の表示のみになっていた。
やっと豊橋市街に入ってきたが、瓦町の交差点に鶴松山壽泉禅寺というお寺があった。山門が、普通のお寺と違って珍しい。
それと、今では珍しくなった、路面電車が豊橋では走っている。
東八町の複雑な交差点で、立派な秋葉常夜灯を見て、その後は、曲尺手(かねんて)と呼ばれる、複雑に右折、左折を繰り返す道を辿ることになった。やっと「松葉公園」までたどり着き、ここで今日は打ち切ることにした。
今日も暑くて、結構きつい歩行であった。子供連れの母親に豊橋駅の方向を聞き、駅にたどり着き、新幹線で東戸塚に戻ったが、「ひかり」では1日掛かりで歩いた今日の行程をわずか5分ほどで通過した。