2007.06.16
掛川から見附(磐田)
本日の万歩計34,986(23.09Km)
今日は先週にたどり着いた掛川駅に8時30分ごろ到着した。ずいぶんと時間がかかるようになったものだ。
それにしても、先週の雨模様の天気とはうって変わって、快晴だ。梅雨入り宣言が出た直後とは思えない。
さっそく、先週に東海道から離脱した清水銀行本店のある交差点に進むと、変わらず一豊、千代のレリーフが迎えてくれる。方向を西にとり、進んで行くと直ぐに「円満寺」の山門が目に付く。説明板によれば、
この門は掛川城の門で蕗(富貴)の門といい、廃城と共に明治五年西町の円満寺山門として移築された。門柱に下部を切り捨てて低くしてある。と書かれている。
瓦の桔梗紋は太田道灌の子孫といわれる掛川城最後の城主の太田氏の家紋で、キキョウは掛川市の市章や市の花にもなっている。
さらに進んで、道路が右に大きくカーブするところに、「十九首塚1Km」の道標があり、その後矢印に導かれて、住宅地に入ってゆくと、十九首公民館の前を通り、平将門以下19人を祀った首塚があった。
由来の説明文が郵便受けのような箱に入っていて、自由にお持ちくださいとある。説明文は長いものだが、簡単に記すと。
関東一円を制覇した桓武天皇の5代目の子孫の平将門は、天慶(てんぎょう)3年2月14日、平貞盛、藤原秀郷連合軍に討伐されるが、ここ掛川の地に都からの検死の勅使が到着して、後に「血洗川」と呼ばれる川で首を洗い、橋の欄干に掛けて、検死を行った。首実検の後は十九の首は無残にも路傍に棄てさられようとしていたが、秀郷が「将門の罪重しと雖も今や亡びてなし、その屍を鞭打つは非道なり」と言い、地元住民とともに十九の首を別々に埋葬し、懇ろに供養した。時に天慶3年8月15日であった。
当時19箇所あった首塚は土地の開墾等で段々と少なくなり、ついに将門の塚のみとなっていたので、平成13年3月、家臣18人の供養等も建てて祀ることにした。
掛川の地名は橋の欄干に首を掛けたことからとも言われているという。この辺の地名は、当初、十九箇所の首塚で、十九所(じゅうくしょ)と呼んでいたのが、いつのまにか、読みはじゅうくしょのままだが、十九首が地名になったという。しかし、地名に「十九首」とは凄い。
旧東海道は、天竜浜名湖鉄道の下を西掛川駅のそばで通過し、国道に吸収され、また分離して進むが、車の通行も多く、あまり歩き易くは無い。
大池という地に到着すると、交差点に接している蓮祐寺の塀の外の角に、大池一里塚跡と書かれた夢舞台道標があった。本当の一里塚は失われて久しいのだろう。
旧東海道は、国道や東名高速と交差してその下を潜るようにして進むが、だいぶ車の通りも少なくなってきて、垂木川に掛かる善光寺橋を渡ると、仲道寺と書かれた大きな寺名碑が目に付いた。
寺に入る階段を昇ると、左に「善光寺」、右に「仲道寺」があり、2つの寺がくっ付いている珍しいところだ。
説明板には、その昔江戸から京都までの道を測量した所、この寺が丁度東海道の真中で仲道寺と寺号がついたと言われております、とある。
現在の距離測定では、見附と浜松の間あたりが中間点だが、元の東海道が無くなっていたりしているから、当時と違うのだろうか。
しかし、善光寺は、坂上田村麿と百済王とが東に下った途中この村に来た頃、兵が難病にかかり徒行することが出来なくなり、この地にとまり病養せしめ、その一体の阿弥陀仏に願いをかけ、そのため兵の悪病の難を逃れたと云われ、ここに善光寺堂を建立されたとあるので、こちらの方が本家のような気もする。手前の橋の名前も「善光寺橋」だった。
左「善光寺」、右「仲道寺」
近くに建っていた夢舞台道標の最上部に付いている、現在地を示す表示も江戸と京の真ん中のように見える。
少しすすむと、この辺は原川という間の宿であることを示す表示があったが、住宅ばかりでその痕跡がないとと思っていたら、「金西寺」というお寺があり、原川薬師と呼ばれていたと書かれていた。
それにしても、原川薬師はアルミサッシに銅板の屋根となってしまっている。
また、国道にぶつかり、同心橋を渡って、直ぐに左に折れると、「花茣蓙(はなござ)公園」と呼ばれる小公園があり、秋葉山常夜燈が建っていた。少し休んでから進んで行くと左手に「大和ハウス」の巨大な敷地の工場があり、その一角に朱塗りの鮮やかな鳥居がある。見ると、富士浅間神社の文字。おそらく、ここが浅間神社の参道入り口で、参道が続いていたのが、大和ハウスの工場建設で参道がなくなり、鳥居だけがぽつりと残されたのだろう。横道の案内板には、浅間神社へ800mと記されているので、国道を越えた向こうに神社があるのが分かる。
この辺りの道は松並木が良く保存されていて、しかも松並木の外側に歩道が設けられているので、車の走る道路とは遮断されていて歩き易く、気持ちが良い。
さらに、進むと「妙日寺」というお寺があり、日蓮上人の両親の墓があると書かれていた。
「妙日寺」から直ぐのところに、袋井東小学校があり、校庭の道路に面したところに、一里塚があった。大きさは本来の一里塚の半分ぐらいで、一里塚跡と表示されているが、単なる石碑よりよい感じである。
そして、校門には「東海道五十三次どまん中東小学校」の大きな看板がある。
それにしても、校庭の緑が綺麗だ。これほどの庭を持っていて、手入れが行き届いている小学校は珍しいのではなかろうか。 そして、後で分かるが、この「どまん中・・・」という文字をあちこちで見ることになる。
この辺りも松並木がかなり残っていたが、先ほどからかなり年配の人達が大勢で歩いているのに遭遇した。しかも、かなりな速さで歩いていて、ついて行けないほどだ。後で分かるのだが、地元の年配の方たちがルートを決めて、この辺りを皆で歩いているのだった。道は一度国道に出て直ぐに住宅街の道に入ってゆくが、その入り口に「どまん中茶屋」というのがあり、袋井市の運営と思うが、旅人にお茶のサービスなどをしている。休みたかたっが、先ほどの年配歩行グループの人達であふれ返っていて、入れそうに無く次に進んだ。
静かな住宅街の道に入って行くと、すぐに、とても立派な秋葉山常夜灯に遭遇した。今まで見た中で一番立派で、装飾彫りもなかなかのものである。人通りも稀な静かな住宅街といった趣の道だが、旧東海道であったことがはっきりする。 そして、「これより袋井宿」の大きな石碑が突然姿を現した。 |
進むと本陣跡が小公園になっていて、門柱のみが建てられていた。その前には、「東海道五十三次・どまん中ふくろい」の統一マークが飾られている。
本陣跡の向かい側にも小公園があり、歩行団体はここで終わりで次々に公園に吸い込まれてゆく。年配の歩行グループは、好ましい人達と思うが、写真を撮るには、はなはだ具合がわるく、被写体に入ってしまうので、やれやれと言う気がした。ここで、道路を左折すると600mほどでJRの袋井駅に出るが、そのまま直進する。
そして、「高札場」も復元されていた。先ほどから、小さな小公園が連続しているが、これも旧東海道を材料にしての町起こしだろう。ともかく、「雪隠」と古風な名前で書かれたトイレもあり助かった。
いよいよ袋井の宿から離れようとする地点に袋井西小学校があり、ここでも「東海道どまん中・・・」の看板が校門に掛かっていた。袋井市は”どまんなか”をとことん使う積りらしい。
しばらく、何の変哲も無い車の走行がうるさい道を辿るが、やっと木原の集落に達し、道は別れて静かな通りに入って行く。すぐに、木原の一里塚があるが、これも新たに造り直された一里塚である。どうせ造り直すなら、石垣で囲んだ、江戸幕府通達の仕様どおりにして欲しい。
一里塚を過ぎると、右側に許禰(こね)神社がある。入り口の左側に御神木にもなっているクスノキの巨木があった。許禰神社は木原権現社とも呼ばれていて、紀州熊野権現とも関係が深いとのこと。
神社入口左の案内板によると、許禰神社は木原畷(なわて)と呼ばれる古戦場であり、武田軍がこの地に砦を築き、袋井の北部の久野城に立て籠もる久野氏と一戦を交えた。これが、家康が惨敗した有名な三方ヶ原の戦いの前哨戦であった、とのこと。
旧東海道は大田川に達し、袋井バイパスの高架下で左折して静かな通りに入って行く。松並木も良く保存されていて気持ちが良い道であったが、突然急な上り坂となる。この坂を三ヶ野坂と言うそうだが、ここには鎌倉・江戸・明治・大正・昭和・平成及び抜け道の7つ道が複雑に越え、現在も残る珍しい坂である。
当然、江戸の古道の石碑のある道に入って行く。綺麗に舗装されているが、急坂で森の中の道である。涼しくて気持ちが良いが、直ぐに終わってしまい、上りきったところに7つの道の案内図があった。
三ケ野の集落から途中国道を跨いで見附に向かって歩き続けると、やがて民家の軒に「遠州見附宿 木戸跡」の木の碑があった。磐田市も見附宿として東海道のアッピールを行っているのなら、木戸跡の表示ももう少し、考えるべきだと思うのだが。
これは、後で気がついたのだが、三ケ野の集落から国道に飛び出したとき、旧東海道は国道を横切って続いているので、早く渡ることばかり考えていて、国道の右側にある「遠州の鈴が森」を訪れるのを飛ばしてしまった。
さて、磐田市の市街地に入ってくると、「大見寺」がある。案内板によれば、中世に今川氏により築かれた城があったところで、江戸時代にグライダーで空を飛んだ、岡山出身の鳥人 幸吉の墓もあるとのこと。
すぐに、磐田市の一番の自慢の「旧見附学校」があり、案内板によると、「旧見付学校」は、学制発布後まもない明治八年(1875年)に落成した現存する日本最古の洋風木造小学校校舎です。当初は四階建てでしたが、明治十六年に増築されて今の五階建てとなりました、とある。
明治8年では、まだ洋式の建物などほとんど無い時代であったと思うが、良い学校を作ろうとの熱意が感じられる。
無料で内部も見学でき、1階には教室が当時のまま整備されていて、椅子に座り、当時の教科書を見て、石版に字を書くことも出来た。さらに、2階には当時の子供の姿の人形があり、最上階に上ると、磐田市街が良く見え、見晴らしが良い。この最上階には、太鼓が置かれて、時報を知らせるために鳴らされ、学校だけでなく町の人達にも役立ったとのこと。
脇本陣跡も整備されていて、入り口の門が建てられていた。
旧東海道は左折して天平通り入り、南に向かうが、うっかりと、そのまま真っ直ぐに進んでしまった。直ぐに気がついて引き返したが、道の感じは東海道が続いているように見えたのである。後で調べたら、この直進する道は「姫街道」と呼ばれ、浜名湖を渡ったところにある「新居の関」を避けるために女性が好んで通った街道で、北に大きく回り、浜名湖を避ける道であった。どうりで、旧道が続いていると感じたのもうなずける。
岩田駅に向かう天平通りを進むと、加茂川に掛かる橋を渡り、そこに木戸のモニュメントがあった。、これで昔の宿から離れることになる。
ひたすら南下して、磐田駅に到着すると、駅前に大きなクスノキがあった。樹勢もすこぶる良く、枝も大きく広がり、葉っぱも良く茂っていた。
時間は午後2時30分で、天竜川を渡る積りであったが、なんだか今日はファイトがでない。
どうするか、駅の喫茶店に入り休憩して考えるが、今日はここまでで帰ることにした。歩いた距離は23Kmで、歩き始めて最初の2回を除けば一番短いが、こういう日もあってよいだろう。
そして、磐田駅から掛川駅に行き、掛川駅から、東海道を歩き始めて始めての新幹線で帰ることにした。