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2007.06.02

江尻から藤枝(2)

丁子屋(ちょうじや)を出て、丸子川を渡ると、直ぐに「高札場」が復元されていた。古い掲示内容と新しく書き直したのを合わせて掲示しているので、賑やかだ。
その後は、民家もまばらな街道を歩いて行くことになるが、こう言う場所にもラブホテルが数軒建っていたのは興ざめだ。やがて国道1号に合流し、その後も部分的に分離したり合流したりを繰り返しながら進んで行く。
やがて、「道の駅」に到達するが、そこからは、国道1号線の上りと下りの2つのトンネルの入り口が見える。
国道は元々は昭和34年に作られたトンネル1本であったが、増大する交通量に対応するため、平成10年にもう一本のトンネルが作られ、下り線専用とし、以前の昭和トンネルは上り専用とした。
mariko_023.jpgmariko_024.jpgmariko_025.jpg 平成と昭和のトンネルの直前で国道から右に逸れる道路があるので、これを進み大きく左にカーブする道なりに進んで行くと、県道と旧東海道が分かれる地点に達する。
ここには、「ようこそ、宇津ノ谷へ」で始まる大きな案内板が建っており、綺麗に整備された旧東海道へ誘ってくれる。
落ち着いた集落の道を上って行くと、秀吉からもらった「羽織」を保存している「御羽織屋」がある。
上がりこんで秀吉の羽織を見せていただいた。相当に歳を取られたおばあさんが、顛末を話してくれる。
既に知っていた話であったのだが、秀吉公から馬の草鞋を所望されて、当家の主人は草鞋を3脚分差し出した。なぜ3脚分かと聞かれて、後はお帰りに差し上げますと申し上げた。帰りを約束するのは勝利を前提にしている。また「あの山は?」と聞かれて「勝ち山」、「あの木は?」と聞かれて「勝栗」と、縁起の良い答えを連発して、秀吉公はいたくお喜びになり、北条との戦に勝利した帰りにもお立ち寄りになり、礼にと着用の陣羽織を拝領した。と言うものであった。
羽織は、ここを通る大名達も着てみたがり、ボロボロになってしまっていたが、博物館に出展したときに修復してくれたのだという。
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集落の道は、最後には階段になっている。ここを上りきると、旧東海道と宇津ノ谷トンネル(明治のトンネル)への分かれ道(丁字路)に行き着く。
ここで、旧東海道を進む前に「明治のトンネル」に寄って見ることにした。
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明治のトンネルは、明治9年に作られたが、その後ガス灯の失火で崩落し、明治34年に再度整備されたものだとのこと。トンネルは内部にはガス灯を擬したライトが点いていて、明るい感じであったが、足を踏み入れるとライトとライトの中間付近では足元も良く見えないほどで、少々緊張する。
mariko_029.jpgmariko_030.jpgmariko_031.jpg明治のトンネルを往復(250m程度の長さ)して、元の分岐点に戻り旧東海道の方に進む。上り口は分岐点から直ぐのところだが、表示矢印の案内板が古く、あまり目立つものでなく見逃しそうになる。
しばらく上って行くと、通り過ぎた集落が下に見え、先ほど立ち寄った明治のトンネルの入り口付近のあずま屋も眺望できる。

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宇津ノ谷峠の山道は、確かに寂しい道で、河竹黙阿弥の傑作と言われる「蔦紅葉宇都谷峠(つたもみじうつのやとうげ)」の舞台となっただけのことはある。しかし、歩き易い道で、進んで行くと音信不通で7,8年ほどにもなり、友人が作ったという、「雁山の墓石」があったり、地蔵堂の跡などがあった。この地蔵堂は、まさに歌舞伎の文弥殺しの舞台となったところと言う。
mariko_034.jpgmariko_035.jpgmariko_036.jpgほどなく、さほど長くは無い峠の登りが過ぎ、下り坂となった。下り坂はかなり急だが、距離は短い。直ぐに国道との合流点に出られた。途中では、明治のトンネルを通って来たと思われる人と出会ったが、旧東海道の山道では誰にも会うことはなかった。
国道に掛かった歩道橋を渡ると、過去から現在に舞い戻った気分になるが、これから岡部の町まで、かなり長い国道沿いの道を歩くことになった。やっと、岡部の町に入り、元旅籠でほとんど昔のままの形で残っている「柏屋」が「歴史資料館」となっているのに遭遇した。上がりこんで色々と見せてもらえるようだが、今日は藤枝駅まで行きたいと思っており、時間的に余裕がないので外から眺めるだけで先を急いだ。
mariko_037.jpgmariko_038.jpgmariko_039.jpg県道から離れたり合流したりを繰り返しながら旧東海道は続くが、途中で「小野小町の姿見の橋」があった。説明板には「小野小町」が晩年に東に下る際、この橋の上で夕日に映える西山の美しさに見とれていたが、ふと目を橋の下の水面に移すと、そこには旅に疲れた自分の姿が映っていた。そして、過ぎし昔の面影を失ってしまった老いの身を嘆き悲しんだという、と書かれていた。それにしても、小さな流れだ。流れの幅は50Cmぐらいか。
徐々に足も疲れてきて、少し休みたいと思っていたら、バス通りで休憩場所が見つかった。ここは「五智如来像」と言うのを祀った場所であり、休憩所も併設されていた。
「五智如来像」の言われは、説明板の画像をクリックしてもらいたが、ここで少し休息を取った。
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岡部町も旧東海道の維持には力を注いでいると見え、松並木で欠けている場所では新たに松を植樹し、大きな岡部宿の石碑を建てていた。特に常夜灯はあちこちで見られたが、なかなか立派なものを建てている。
これ以降は藤枝の宿に入って行くことになる。
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藤枝の宿に入ったが、だいぶ、時間が気になりはじめ、どんどん歩いて行くと、「岩村藩領傍示杭」があり、さらに進むと「田中領の傍示杭」も見つかった。
mariko_044.jpgmariko_045.jpgmariko_046.jpg複雑な6叉路の「仮宿の交差点」で、歩行者に冷たい歩道橋を渡り、どんどん進んで葉梨川沿いの道を進む。八幡橋を渡ると、ほどなく須賀神社に達し、大きな楠がある。楠は大きく育ち易いのか、大きな木を見ることが多いが、ここの楠の巨大さは特別で、大きなうろには入れないように蓋を施していた。
藤枝では「だるま」がお土産に良いと聞いたような気がしていたが、達磨屋さんが見つかった。
最後に、平成になって掛けられた美しい「勝草橋」を渡ると、今日最後の「志太の一里塚跡」の石碑を見ることになった。江戸から数えて50番目の一里塚だと記されている。
ようやく、藤枝駅も近づいてきた。もう一息と「青木の交差点」を目指し、その後、藤枝駅に向かった。
さすがに、今日は少し実力オーバ気味で駅前のコーヒーショップで休息し切符売り場に行くこととした。
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江尻から藤枝(1)

本日の万歩計54,434(35.92Km)
前回引き上げた草薙駅に7時30分に着き、駅前のベンチでベルトに吊るした飲み水容れの位置を直し、府中(静岡)に向かって歩き始めた。
府中の宿が近づくまでは、遺構もほとんどない道が続くが、JR東海道線で旧東海道は分断されていて、JR東海道線を3回も渡ることになる。しかも、いずれも地下通路での通行となるが、1回目の静鉄 県総合運動場駅の近くは、入り口がひっそりと目立たない感じでうっかりすると通り過ぎてしまう。
mariko_001.jpg実は1回目のJR線渡りで10分ほどロスをしたが、何とか長沼の交差点に達し、旧道を辿って行き、長沼の一里塚を探すことになる。見つかり難いことで評判のようなので慎重に道の左右を見ながら進んで行くと、道の右側に「久應寺」という綺麗なお寺があり、そこから10mほど進んだ道の左側の民家の軒下に石碑が建っていた。なるほど、これは見落としてしまいそうだ。
伝馬町に達して、徳川家康の祖母である源応尼の墓がある華陽院(けよういん)に行こうとした。地図を見ながら探すが案内表示など一切無く、直ぐ近くでも分からなかったが、ようやく目立たない門柱を見つけた。
「源応尼」の墓以外にも家康の五女の「市姫」の墓などもあり、また、家康手植えのみかん、松、柿の木と表示している木もあった。しかし、それらの木はいずれも300年も経ったものとはどうしても見えず、精々が数年程度と思えるのであった。
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いよいよ繁華街に入ってきた。江川町の交差点の手前には、西郷隆盛と山岡鉄平の会談のレリーフがあった。
江川町交差点を地下通路で渡り、御幸通りを南下して直ぐに呉服町通りに曲がると、流石にハイセンスなお店が並ぶ。そして、七間町通りに達して左折するが、ここに「札の辻址」の石碑がある。
七間通りは、道の幅を七間としたことから名づけられたのだが、現在ではともかく、江戸時代では七間幅の道路は、本当に大通りだったことだろう。
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七間通りを南下し、映画館が密集している場所のミラの座が左手に見えるところで右折し、2つ目の通りを左折して南下を続ける。この通りは、もう繁華街の華やかさは無い。やがて、川越町の交番に達するので、その背後にある三角形の緑地を訪れる。ここで最初に見つかったのは「安部川架橋の碑」である。この碑は明治7年に宮崎総五郎が私財を投じて安部川に架橋した顛末を後世に伝えるため明治40年に建てられたとあった。
次に、江戸市中で自害した「由比正雪」の墓石があった。由比の比が、ここでは井になっていた。
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いよいよ、安倍川を渡るが、その前に昔も今も「石部屋(せきべや)」の「安倍川餅」を食べなければならない。
メニュー書きは江戸時代から変わらず、掛け軸のような感じだが、「安倍川餅」と「からみ餅」の2つしかなく、その江戸時代のメニュー書きの値段のところに600円と書いた紙を貼り付けてあった。また、有名人の訪れた記念の短冊ようのものが、ずらりと貼られていた。
お店の奥さんが、お茶をと、しばらくして注文した「安倍川餅」を出してくれた。どうと言うことの無い、小豆あんをまぶしたのと、きな粉をまぶしたのと2種類の小ぶりのお餅であった。家康が感激するほどのものであったのだろうか。それはともかく、丸子の宿で昼食をとるまでの間食として適当なものであった。
おやじさんは硬派で怖い感じと伝えられていたが、仕事が一段落したのか、歩くのに使っている案内地図を見せてと話しかけてきて、なかなか気さくな一面を見せていた。
mariko_008a.jpgmariko_008.jpgmariko_009.jpgそして、安倍川橋を渡った。歩道のある橋で歩き易かった。川では、数人の釣り人が釣りを楽しんでいたが、まだ鮎の解禁には早いので、何が釣れるのか気になった。
安倍川を渡ったところは、鎌倉時代は手越宿と呼ばれたところである。謡曲「千手」で有名な少将井神社があるので、探して訪れた。
小さな神社で、お社(やしろ)はどうと言うことも無いが、左の方に謡曲「千手」の主人公の白拍子「千手の前」の石像が建っていた。謡曲史跡保存会の案内板の内容は少し長いが、以下に引用して書いておく。
源平一の谷の敗戦で捕らえられ、鎌倉で憂愁の日々を過ごす副大将平重衝を慰めるようにと、源頼朝は白拍子千手の前を遣わしました。
 和歌・琴・書に秀でた千手の前の優に優しい世話に、重衝も心を通わせ、互いに想い合う仲になりました。
 先に、東大寺を焼いた重衝を、奈良の荘は思い仏罰だとして引渡しを強要し、再び京都へ護送する途次に殺してしまったのです。嘆き悲しんだ千手の前は、尼となって重衝の菩提を弔いつつ生涯を閉じました。
 少将井神社は、手越長者の館跡と推定され、重衝と千手の前との哀切の情愛を主題とする謡曲「千手」の生誕の地と伝えられています。

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沢渡(さわたり)で国道から別れ、旧道を進んで行くと、「一里塚跡の碑」があり、また「丸子宿本陣跡の碑」も見つかった。
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面白いことに、この辺りでは厚い板に「家の屋号」を書いたものが、掲げられている。どの家にもユニークな屋号が掲げられていて興味深い。
また、由比で紹介した「お七里役所跡の碑」も建てられていたが、3人連れの若いグループが説明書きを読み、「へ?、紀州から・・・」と驚いた声を上げていた。
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丸子の名物、丁子屋(ちょうじや)に到着しました。この丁子屋ほど、安藤広重の「丸子の宿」の画とよくマッチしているのではと思う。もちろん。江戸時代の建物ではないが、どこかで茅葺の家を見つけて移設したようだが、本当に素晴らしい家をよく見つけたものだ。写真に写っている若い女性の服装が江戸風ならもっと良かったのだが。
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建物の右よりのところには、芭蕉の有名な句の「梅若菜、丸子の宿の、とろろ汁」があり、また、「十返舎一九」の丸子の宿での一節が記されていたが、読めない。と思ったら、石碑の左下隅に小さく、現在風の字で書かれていた。下記に記す。
けんくハ(けんか)する夫婦ハ口をとがらせて、鳶(とんび)とろろに、すべりこそすれ
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ここに来たら、とろろ汁と決めていて、途中に感じの良さそうな海鮮料理店もあったが、一目散に丁子屋に行き、メニューの中で一番安い「丸子」を頼んだ。お櫃に入った麦飯にお吸い物と漬物が付き、あとは小型のすり鉢に自然薯(じねんじょ)のとろろ汁が出てくるだけである。これで、1,380円は少し高い気もする。
食べ方は、お茶碗に麦飯を盛り付け、とろろをぶっかけて食べるのだが、意外と美味しい。何か、だし汁が混ぜてあるのだろうが、喉越しが良い。お櫃を空にして満腹になったが、周りで食べている人達も満足そうだ。
冬に来ると、囲炉裏に火が入り一層、おもむきが出るのだろう。
mariko_020.jpgmariko_021.jpgmariko_022.jpg食べ終わって、支払いを済ませ亭内を見学させてもらったら、「一返舎一九」の実物大の像があった。
それ以外にも、徳川家康が使ったお椀など一式や、江戸時代の煙管(きせる)など色々と展示されていた。
さて、丁子屋を後にして「宇津の谷峠」に向かうが、これは新しいエントリーで・・・