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2007.06.10

藤枝から掛川(2)・・・(旧東海道)

長い、大井川に掛かる橋を渡りきり、金谷の町に入ってきた。
金谷の旧東海道を歩いて行くと、古い秋葉灯篭などが見られ、大井川鉄道の線路を横切り、徐々に緩やかな坂道をJR金谷駅に向かって上って行く。
途中で蕎麦屋があったので、昼食を摂り、再び歩き始めようとすると、先ほどまでの小雨の空が、嘘のように晴れていた。
もう数10mで金谷駅という所に、夢舞台道標が建っており、ここが金谷の一里塚跡で江戸から53番目となる。
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一里塚跡の所で、JRの線路のガードを潜ると直ぐに「長光寺」があり、芭蕉の「道のべの 槿(むくげ)は 馬に喰われけり」の句碑があった。
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道は直ぐに左に折れ、かなりの勾配の坂道を登ってゆく。道端の民家の石垣は丸い石で積み上げてある。
1?200mほどであろうか、県道に飛び出し、どちらに進めばよいのかと思ったが、直ぐ左に「旧東海道石畳入口」と「石畳茶屋」の大きな看板が目に付いた。
進むと、直ぐに、石畳の道が始まった。箱根の石畳と違い、丸い感じの石が多く、先ほど見た民家の石垣の石と同様である。たぶん、この石垣や石畳の石は、大井川の河原で集めたものと思われる。
ほんの、数10m程度で「石畳茶屋」があり、お茶、コーヒーなどの飲み物以外にも蕎麦、うどんなどが食べられる。この茶屋は、荒れていた石畳を地元の人達が復元したときに、作られたと思われるが、つい先ほど食事をしたばかりであり、スキップして進むこととした。
shimada_030.jpgshimada_031.jpgshimada_032.jpg平成の道普請と称し、復元された石畳の道は430mとのことだが、江戸の石畳との違いは側溝を設けたことだという。なお、この坂は金谷坂と言うそうだ。
復元前は、コンクリートが流されたり、石が流出してしまった場所などがあったそうだが、全て剥がして、新たに石を敷き詰めたとのこと。石畳は綺麗に復元されたが、江戸時代の石を剥がしたので、歴史的、学術的な価値は損なわれてしまった。
shimada_033.jpg430mの石畳を歩き、車の通れる地方道に出て、引き続き歩いて行くと、「諏訪原城跡」がある。
天正元年(1573)に武田勝頼の臣下馬場美濃守氏勝を築城奉行として作らせた山城だという。
典型的な武田の築城様式の城とのことだが、箱根で三島に下るときに見た「山中城跡」に似て、空堀で石垣を使わない山城の作りである。全体像を把握するには山の中を歩き回る必要があるようで、全部を見るのは無理と考え、一部の堀の跡のみカメラに収め、次に進むことにした。
shimada_034.jpg諏訪原城跡を過ぎると、直ぐに間の宿の「菊川」への急な石畳の下り坂が続くが、この坂は「菊川坂」という。
この辺りから、遠くの山肌にお茶の木を使って「茶」の字を描いているのが見えるので、カメラをズームにして撮影した。
shimada_035.jpg菊川坂の下りは、一部、道の半分が舗装道路となっているところがあったが、やはり生活道路として利用するには、石畳だけでは厳しいからだろうか。
「菊川坂」も地元の人達の努力で復元したものだが、金谷坂の反省に立ち、江戸時代の石畳が残っているところは、そのまま残し、石などが流出したところのみ、新たに石を敷いたのだという。
石畳復元に参加した方々の名前を刻んだ大きな金属の表示板があり、また感謝の言葉も江戸時代の文体を模したものとなっていた。なかなか、ユーモアのセンスにあふれている。
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ほどなく、菊川の宿が見えてきた。山間の落ち着きを見せる宿である。
暫く歩いて、本陣跡に達すると、承久3年(1221)後鳥羽上皇の変に味方して捕らえられた、中納言宗行が、鎌倉へ送られる途中の菊川の宿で、柱に死期を覚って書いた漢詩の碑と同じく死期を覚った日野俊基の歌碑があった。
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中納言宗行は、
「昔南陽県菊水 汲下流而延齢 今東海道菊河 宿西岸而失命」
意味は、「昔は南陽県の菊水下流を汲みて齢を延ぶ、今は東海道の菊川西岸に宿りて命を失う」
その約100年後、日野俊基は正中の変の翌年、幕府転覆首謀者として密告され嘉暦元年(1326)捕えられ鎌倉に送られるが、ちょうど中納言宗行が詩を書いた菊川にやってきて歌を詠んだ。
「いにしえも かかるためしを菊川の 同じ流れに身をやしづめん」
そしてその予感通り、日野俊基もまた、まもなく命を絶たれるが、日野俊基が京を出たのは7月11日であり、中納言宗行が菊川で詩を書いたのは7月10日であった。なんと、両者が死を予感した時期は、約100年を経ているが、季節では、わずか1日しか違わないのである。
shimada_040.jpg菊川の本陣跡から直ぐのところに、写真のように「矢し根鍛治」と書かれた、大きな絵が家のシャッターに描かれた家がある。ここは、矢尻作りで有名であった、才兵衛の住んでいた家の跡で、江戸時代にはその子孫の矢の根鍛冶清次郎は、参勤交代で街道を通る大名にお目見えを許されていたとのこと。江戸時代も時代が進んで泰平の世の中となり、矢尻の需要もなくなって、清次郎は菊川を離れたという。しかし、矢尻作りの秘伝はいまでも菊川の旧家に大事に保存されいるとのこと。
shimada_041.jpg菊川の里は小さくて直ぐに通り抜けられる。いよいよ「小夜の中山」への登り道になるが、とても急な坂道で息が切れた。上りきったところで、休息を取らないと次に進めない。、写真に撮ったが写真では急坂の感じが示せない。
急な登りが一段落すると、そこは一面の茶畑で、周りの山々も茶畑であった。
そして、歌碑街道と言われる「小夜の中山」の第1番目の歌碑、
(1) 雲かかるさやの中山越えぬとは都に告げよ有明の月 (阿佛尼)
がある。この歌は「十六夜日記」にでてくる歌で、聞いたことはある。
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shimada_044.jpgやっと、名刹の九延寺に到着した。九延寺は昨年のNHKの大河ドラマの「功名が辻」にも登場したが、山内一豊が茶室を作って関が原に向かう徳川家康をもてなしたところである。
また、この寺には夜泣き石と呼ばれる丸い石があるが、案内板にそのいわれが書かれていた。(クリック)

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shimada_048.jpgしかし、ここにはもう一つの伝説が伝わっている。それは、小夜の中山の怪鳥・蛇身鳥を退治にきた藤原良政がこの地で月小夜姫と出合い、二人の間に小石姫が生まれた。成人した小石姫は中山寺の住職空叟上人(足利尊氏の伯父)の子供を宿していたため親の進める結婚を果たせず、中山千人斬の松の許で自害する。自害する前に生まれた遺児月輪童子は、中国伝来の飴の製法を受け継いだ末広荘(扇屋)の飴で育てられたという、ものである。滝沢馬琴の話しは、これを下敷きにしたのかも知れないが、九延寺というより、この地方の住民の圧力だろうが、この話しも捨てがたいと、真新しい「月小夜姫の墓」と「三位良政卿の墓」が建っていた。
shimada_047.jpgともかく、盛りだくさんな お寺で、夜泣き石以外にも家康お手植えの五葉松などもあり、芭蕉の「馬に寝て 残夢月遠し茶のけぶり」の碑もあった。
歌碑の多い小夜の中山だが、やはり最も有名なのは西行法師の命なりけり・・・の歌で、土地のコミュニティーセンターにも「命なりけり学舎」と名づけられている。西行法師の歌については、後ほど触れる。九延寺からわずかのところに、子育て飴の扇屋があり、今も営業している。少し休んで行きたかったが、若い夫婦が連れた子供が傍若無人に店先の長椅子を占領しており、少し店を覗き込んだだけで立ち去った。飴以外にも民芸品の玩具などを置いてあったが、大したものは無く、お土産するために食指を動かすようなものも見えなかった。
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扇屋の斜め前には「小夜の中山公園」があり、西行法師の「命なりけり」の歌が丸い石碑に刻まれている。
「年たけてまた越ゆべしとおもいきや命なりけり小夜の中山」
西行69歳での奥州への勧進の旅であった。当時は69歳まで生きられることの方が稀であったので、ことさらに感慨が強かったのだろう。やはり、最も勢いを感じる歌である。
「小夜の中山」は、鎌倉時代頃までは、「さやの中山」と呼ばれていたが、室町時代には、「さよの中山」とも読まれるようになり、江戸以降は「さよ」で定着したようである。
元々は、狭谷すなわち狭い谷に挟まれた真ん中にある山で「狭谷の中山」であったのが、「小夜」の字を宛てたことでロマンティックな雰囲気を醸し出す。モーツアルトにも「小夜曲」があるところからも。洋の東西を問わず小夜はロマンティックなものであったのである。
公園の中は、適度に樹木が茂り、涼やかである。いまは一面の茶畑の中の道と化した「小夜の中山」も昔は、この公園の中のような光景であったに違いない。歌も浮かぶのも道理である。
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まだまだ、茶畑が続くが、やがて「佐夜鹿の一里塚跡」に到達した。
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すぐに、
「甲斐が嶺ははや雪白し神無月しぐれてこゆるさやの中山」(蓮生法師)の石碑があった。
さらに、「鎧塚」と書かれた石碑が建っていたが、案内板には、鎧塚 建武二年(1335年) 北条時行の一族名越太郎邦時が、世に言う「中先代の乱」のおり、京へ上ろうとして、この地に於て足利一族の今川頼国と戦い、壮絶な討ち死にをした。頼国は、名越邦時の武勇をたたえここに塚をつくり葬ったと言われる、と記されていた。
新しい石碑を建て直したものだろう。
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次は、
「東路のさやの中山なかなかになにしか人を思ひひそめけむ」 (紀友則)
「東路のさやの中山さやかにも見えぬ雲井に世をや尽くさん」 (壬生忠岑)
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やがて、妊婦の墓に行き着くが、この墓は蛇身鳥退治の三位良政卿の遺児で、結婚を苦に松の根元で自殺した小石姫の墓と言われている。
そして、芭蕉の句碑
「命なりわずかの傘の下涼み」がある。ここには以前は涼むのに都合の良い松があったが、枯れてしまい、新たに新木の松が植えられている。
それにしても、芭蕉も西行の「命なりけり・・・」を意識したのは間違いないが、情景は異なる。
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ここにも、芭蕉の「馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり」があった。こちらの石碑の方が正統なのだろうか。
そして、昔は道の中央にあったという「夜泣き石」を描いて日坂の宿の絵とした安藤広重の版画の大きなレリーフが大きな石に嵌め込まれていた。想像していたよりずいぶんと大きな石だ。
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いよいよ、小夜の中山も終わりに近づき、最後に沓掛の急坂を下る。やはり写真では急坂の感じが出ないが、普通車で進入は無理だろう。一人オフロードバイクで上ってきた若者に出会ったが。
小夜の中山は、上り口と下り口が厳しい急坂で、その間は緩やかな起伏となっていることが分かった。
そして、最後の坂にも歌碑があった
「甲斐が嶺をさやにも見しがけけれなく横ほり臥せるさやの中山」
 (読人不知)
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注意深く、歌碑を写した積りであったが、後ほどいただいた小夜の中山の案内パンフレットをみると、4つほど見逃してしまった。ここに、記しておく、
「旅ごろも夕霜さむきささの葉のさやの中山あらし吹くなり」 (衣笠内大臣)
「旅寝するさやの中山さよなかに鹿も鳴くなり妻や恋しき」 (橘為仲朝臣)
「風になびく富士の煙の空に消えてゆくへも知らぬわが思いかな」 (西行法師)
「ふるさとに聞きしあらしの声もにず忘れぬ人をさやの中山」 (藤原家隆朝臣)
ほんとうに、沢山の歌碑がある。まるでここを通ると、誰でも歌を作るのが当然と考えられているようだ。それでは、つたないが、私も一首
「年長けて我も越ゆべく来たりなばいにしえ浮かぶ小夜の中山」
おそまつ・・・


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