2007.04.07
日本橋から川崎(1)
本日の万歩計の値は44,979(29.69Km)
まず、「日本橋」から泉岳寺までです。
保土ヶ谷から歩き始めて、茅ヶ崎まで到達した私の「旧東海道てくてく旅」だが、東海道を歩くとすると、その起点の「日本橋」に行かないわけには済まないと、今回は「日本橋」からの歩き出しとなった。
少し早く自宅を出て、東京駅まで行き途中でコ-ヒーを飲んで「日本橋」には7時40分に到着した。土曜日でもあり、早朝のためか日本の大動脈の基点だが、意外にひっそりしていた。
橋の上には高速道路が走り、可哀想だが橋の欄干脇には、しっかりと道路の起点であるとの掲示板が立っている。 また欄干の柱もとても立派だ。
道路元標の本物は、橋の中央センターライン上にあるが、とても危険で撮影できない。
そのため、橋のたもとにレプリカ(少し違う?)がおいてある。
今年の新年会を日本橋で開いた帰りに、夜であるのを良いことに強引に橋の真ん中の本物の「道路元標」を撮影したので覧いただきたい。
「日本橋」を出発して直ぐの「西川ふとん」のビルとCOREDOと言う大きなビルの間を入って行くと、「名水・白木屋の井戸」の碑がある。
井戸を掘ると、一体の観音様が出てきたと言うのは眉唾だが、飲料に適した水が湧き出し、住民のみならず大名まで利用したのは事実のようである。
第一京浜国道を銀座方向に向かって歩いて行き、京橋に着くと昭和34年に川が埋められ撤去された京橋の「親柱」が保存されているのを見ることができる。 小さいのは明治8年建造で、照明設備のある大きいのが大正11年製。
また、「江戸歌舞伎発祥」の記念碑も建っている。
さらに、歩を進めてゆくと銀座2丁目の交差点を過ぎて直ぐに、銀座発祥の記念碑とも言うべき、銀貨幣鋳造所の碑がある。
また、銀座4丁目は日本で最も華やかな場所だが、早朝でもあることから思ったよりもひっそりとした感じである。
夜はネオンサインの瞬きがまぶしい輝きを発するのだが・・・
銀座の一番南の端の銀座8丁目を過ぎると、西條八十(さいじょうやそ)と中山晋平の「銀座の柳の碑」を見ることができる。 明治、大正時代には植えられていた柳は大震災以降に切られてしまったのだが・・・
それにしても、「昔恋しい銀座の柳・・・」は誰でも聞いたことのある懐かしい曲である。
さらに、少し行った「新橋駅」の海側には「旧新橋停車場跡」があり、建物自体は博物館になっている。 11時開館で、見学は出来なかった。
新橋の「旧停車場跡」を見学した後は、ひたすら南に向かって歩き、浜松町に着いたあたりで、第一京浜より外れ、「増上寺」に寄ることにした。
「増上寺」は、上野寛永寺と同じで徳川家の菩提寺だが、「浄土宗」であるのを始めて知った。
そう言えば、関東では「浄土宗」の家が多いと感じていたが、徳川家が「浄土宗」であったことの影響だろうか。
本堂の裏にある「徳川家墓所」の前まで、公開中だったので、見学した。扉には葵の紋章が取り付けられ、正に、徳川家の墓所の印象である。
「増上寺」見学の後は、再び第一京浜に戻って、「田町」まで歩き続ける。
田町駅前の「三菱自動車」の敷地の隅に、「西郷隆盛」と「勝海舟」が江戸城明け渡しの会談を行った、記念碑が建っている。
やがて、「高輪の大木戸跡」が現れる。
東京のど真ん中に、このような土手のような「大木戸跡」が今まで残っていたとは・・・
だいぶ、品川に近づいてきたが、品川に着く前に忠臣蔵であまりにも有名な「泉岳寺」に寄る事にした。
山門をくぐると、「大石内蔵助」の銅像がある。 なんだか、商人の大だんなのような感じである。吉良上野介側を欺くために、武士らしい生活を排したために、このようなイメージとなったのであろうか。
最後は、線香の煙の絶えることのない、47士の墓標である。
「泉岳寺」にお参りした後は、品川の宿に向かって歩を進めて行くが、長くなるので、続きは新しいエントリーで書くことにする。