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2007.04.22

茅ヶ崎から小田原(2)

大磯から小田原まで・・・
chigasaki_024.jpg大磯市街に到着して、最初に地福寺を訪れた。 地福寺は「島崎藤村」と妻の静子の墓がある。
どちらの墓もシンプルでモダンな感じであり、墓碑にも戒名などはなく、島崎藤村墓、島崎静子墓と書かれている。 境内には芽吹いたばかりの梅の木があり、その配置もよく、美しいお寺である。
島崎藤村といえば「小諸なる古城のほとり、雲白く遊子哀しむ」という「千曲川旅情の歌」を思い出した。
chigasaki_025.jpgchigasaki_026.jpgchigasaki_027.jpg島崎藤村の墓のある地福寺を訪問してから、虎御石のある延台寺を通り越したことに気が付き、少し戻って(100m程度)見学することにした。虎御石とは、高麗山麓に住んでいた山下長者が子宝祈願をして、小石を授けられ虎御前が生まれたが、小石は虎御前とともに大きくなったとのこと。あるとき曽我十郎を狙って遠矢を放ったものがいたが、矢はこの石に当たって命拾いしたとの伝承もある。この石がお堂に納められているが、もちろん覗き込むことは出来ない。
それにしても、山下長者は自分の娘を遊女である白拍子にしたとは思えないのだが、大勢の遊女を抱えていたようで、自然に自分の娘もその方向に進んでいったのであろうか。
chigasaki_028.jpg大磯はかつては、大勢の名士が別荘を構えていたところであるが、この写真のような、大変古いと思われるお店も残っているのが面白い。
また、大磯は海水浴の発祥の地でもあり、湘南の発祥の地でもある。 その石碑も建っている。

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大磯での圧巻は、西行法師で名高い「鴫立澤の庵」が残っていることである。
第一国道の直ぐ脇にあって、わずか2m程の階段を降りると、そこは別世界で国道の騒音も頭の上を越えていくのか以外に静かだ。 それだけではない、沢の水音も聞こえる。見ると、残念ながら生活排水が混じっている水ではあるが、そこそこに綺麗な水が流れている。
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小田原の崇雪が「鴫立澤」の標石を建てて、草庵を結んだのが始まりとのことであるが、京都の落柿舎、滋賀の無名庵とあわせ日本三大俳諧道場と称されるだけあって、草葺の庵の風情はもう和歌の世界である。
鴫立澤と言うと、高校時代に習った古文の授業での西行法師の歌の「心なき、身にもあわれは知られけり、鴫立つ澤の秋の夕暮れ」を思い出す。
理科系の人間の常として、国語、古文などは苦手なのであるが、古文の先生の授業がうまかったのか、とてもしんみりと心に響く気がしたのを思い出す。 大げさかもしれないが、日本人に生まれてよかったと思う瞬間でもあった。
chigasaki_033.jpgchigasaki_034.jpgchigasaki_035.jpgchigasaki_036.jpg
一服の清涼剤の「鴫立庵」を後にして、まだ心は惹かれるようだ。鴫立つ澤の秋の夕暮れの歌は、新古今集の三夕の歌として名高いが、あとの2つはと考えて、藤原定家の「ふりむけば、花も紅葉もなかりけり、裏のとまやの秋の夕暮れ」を思い出したが、もう一首が思い出せない。 後で調べたら、もう一首は寂連の「寂しさは、その色としもなかりけり、槙立つ山の秋の夕暮れ」だった。
しかし、私はやはり西行の一首が一番好きで、和歌としても群を抜いているように思える。
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余韻を引きずりながら歩き、島崎藤村の旧宅を見るのを飛ばしてしまった。周りを見ると、見事な松並木でもう、戻るには遠すぎる。それにしても、一番大きな木は太さ4.3mもある。
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やがて、伊藤博文公の別荘跡(別荘は既に中華料理屋になっている)の前を通り、吉田茂氏の別荘前に達する。
吉田茂邸は立ち入りは許可されないが、大きく海岸側に回ると、吉田茂翁の銅像だけは見ることが出来るように開放されている。 戦後の政治体制の基礎のほとんどを吉田内閣で作った功績は大としたい。
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吉田茂の銅像を見た後は、城山公園への旧道分岐まで戻り歩き始める。
ところどころ、国道と別れて旧道となっているところもあるが、基本的には単調な道を辿ることになる。 
そろそろ、お昼の時刻になったので、どこかで食事にしようと適当なお店がないかと探しながらあるく。一軒の蕎麦屋が見つかったので、入って「天ざる蕎麦」を注文する。ふと見ると火気取り締まり責任者の名前は女性だったので、女性の板前さんかと思ったが、帰りに厨房を覗き込むと、中東から来たと思われる人が調理していた。
こういう店にも、外国人労働者かと、少し考えてしまった。
食事の終え歩き続けると、ほどなく二宮に到着した。二宮では駅前に建つ、「ガラスのうさぎ」の像を見る。 空襲で父を失った戦争体験を描いた「ガラスのうさぎ」の記念碑とのこと。 直ぐ後ろには、駅の開設に尽くした「伊達時」の顕彰碑が建っている。
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二宮駅の海と反対側には「吾妻山公園」があり、上ると富士山を見る絶好の場所だが、以前に菜の花の咲くのを見に訪れていたので今回はスキップすることにした。
なお、吾妻山神社は、三浦半島から海路上総に向かう日本武尊が海神の怒りに触れ暴風雨にあったとき、妻の弟橘媛(おとたちばなひめ)が自ら海に身を投げ海神の怒りを静めたとの言い伝えがあり、やがて海岸に打ち上げられた櫛を埋めたところに、神社を築いたものだという。
当時としては海が荒れたのを鎮めるには、若い女の人身御供以外に方法はなかったのであろうが、弟橘媛はこの地方で勢力を誇った豪族の娘との説もある。
ともかく、吾妻神社は今は縁結びの神として崇拝されているとのこと。
chigasaki_043.jpgやがて、旧道との分岐点に押切坂の一里塚跡の碑が現れる。 うっかりすると見落としそうな目立たない場所にひっそりと建っていた。
さらに、海岸に近づく国道を歩いていると、国府津を過ぎた頃「小八幡の一里塚跡」に達する。 全く一里塚跡は残っていなかったが、記録をしらべてこの辺りと決定したとのこと。

chigasaki_044.jpgchigasaki_045.jpgchigasaki_046.jpgそして、いよいよ「酒匂川」を渡る。日本橋を出発してから多摩川に次ぐ大きな川であるが、何故か「二級河川」だ。また、「酒匂川」と言うと、東名高速での高い高い橋げたが印象に残っているが、この辺りの川は海に近いので様相は大きく異なる。 また昔の酒匂川は夏は徒渡りで冬だけは仮橋を架けたそうだ。

chigasaki_047.jpg実際の渡しは、現在の橋より上流に70mほどの地点で、そこから国道を跨いでから左折するのが旧街道だが、その旧街道の左折するところに、「新田義貞の首塚」の案内が出ている。
もう1本海側の細い通りだが、小さな広場のような公園の脇に通路があり、首塚に行けるようになっている。義経の首塚同様、あまり関心を払われたものには見えないが、塚の隣には小田原市長鈴木十郎書と刻まれた、立派な新しい碑が建っている。
酒匂川を渡って、しばらく進むと小さな山王橋に行き着く。これを渡り、250m程進んだ浜町歩道橋のところに、「江戸口見附跡」があるが、説明板の前にはデーンと選挙のポスターの掲示板が設置されており、説明を読むことが全く出来なかった。
chigasaki_048.jpg江戸見付跡の標識と説明の掲示は旅行者用に設け、より一層訪れる人を誘う積りと思うが、選挙期間中であり、選挙ポスターの掲示場所を確保するのが難しかったのであろうと思うが、残念である。
新宿(しんしゅく:濁らない)の交差点で、左折して最初の4つ角で右折して、「かまぼこ横丁」と呼ばれる通りを進む。 ここで、左手側に見えてくる「古清水旅館」はかつては脇本陣であった場所であり、明治天皇行在所の碑のある場所は「清水金左衛門本陣」のあったところである。
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本町の信号までたどり着いて、小田原市がサービスしている無料休憩所に入り、お茶をいただいた。
お茶を出してくれたおばさんは、時々京まで歩くという人も訪れると話していた。
お茶をいただいて、今日はこれで切り上げる積りであったが、小田原駅近くの「おしゃれ横丁」にある北条氏政、氏照の墓を訪れることにした。「おしゃれ横丁は」細い路地のような通りで、若者で賑やかなところであり、こういうところの一角に墓があるのも、何だか場違いな感じであった。
墓は武士らしく五輪塔の形を成している。しかし、豊臣秀吉との戦いに敗れてのこととは言え、関東一円を支配した後北条家の武将の墓としては、あまりにも小さな墓石である。右側の比較的大きな五輪塔は氏政夫人の墓と説明板に記されているが、氏政、氏照の墓は夫人より軽いあつかいだったのだろうか。
この辺に秀吉の人間としての度量を見る思いがする。
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chigasaki_053.jpg最後に小田原駅に飾られている、大きな小田原提灯をカメラに収め、今日の旅を終えることにした。
いよいよ、天下の瞼、箱根越えに向かうところまで来た。 昔も今も難所であるらしいので、周到に用意しようと思う。
そういえば、昔は箱根の関が開くのは6時から夜の6時までだったので、急ぎの旅人は暗いなかを歩いて、朝に関が開き次第通過したのだという。そのため、夜道を歩く提灯は必需品で、小田原で歩行に便利な提灯として、後に「小田原提灯」と呼ばれるのが売られたのであろう。