2007.04.14
川崎から保土ヶ谷へ
本日の万歩計の値は31,881(21.04Km)
日本橋から茅ヶ崎までつながりました。
昨日の天気予報で、朝早くは雨が残ると心配したが、朝起きると、うす曇りの様子で、太陽が出るとたちまちに青空が広がる感じ。
今日は午後は用があり、午前中のみの予定なので、朝5時半に家を出て何とか川崎から保土ヶ谷までを歩いて、日本橋から茅ヶ崎まで繋ぎたいと思う。
川崎駅に着き、以前引き上げた市役所通りを進み、旧東海道にたどり着く。
旧東海道は、現在では「いさご通り」と呼ばれている通りである。 通り名を示すポールを裏側から見れば、ちゃんと「旧東海道」となっている。
旧東海道の通りをどんどん歩いていって、八丁畷駅に着く少し手前に芭蕉の「句碑」がある。「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」とあり、碑の前にも、これにちなんで麦を植えてある。門弟たちとの惜別の思いを歌ったものとのこと。
駅の直ぐ横に「旧東海道」の立派な表示板があるので、安心して進める。やがて、「市場の一里塚」に出くわす。
元の一里塚の形は崩れて、新たに石碑などを集め、「稲荷の祠」も合わせて、作り直したのであろう。
とても、やさしいお顔の双体の道祖神も祭られていた。
程なく、鶴見川橋に到着する。 JRの鉄橋も平行に掛かっているので何時も電車から特徴のある橋を眺めていたが、今回初めて橋を渡った。 橋を渡ってしばらく進むと、特徴のある狛犬の「鶴見神社」がある。
年配のおじさんが、どこから歩いてきたのかと話しかけてきたので、日本橋からと答えると少し驚いた様子であった。 また、今年中に出来れば京都まで行きたい旨話すと、それはとても良い事、気をつけて続けてくださいと言ってくれた。
「鶴見駅」を過ぎて、右手方向に曹洞宗の大本山の「総持寺」がある。
総本山と言うだけあって、規模がとても大きい。 面積は50万平米もあり、50余の堂塔を擁し、緑もとても豊かである。 有名人の墓地も多数とのこと。
しかし、曹洞宗の総本山は福井県の永平寺ではなかったのかと思い、調べたら曹洞宗には開祖の道元が建立した永平寺と太祖と呼ばれる蛍山(けいざん)が建てた総持寺の2つの総本山があり、宗派の代表も両方の寺の貫首が交互に勤めるとのこと。
修行道場の永平寺と布教の総持寺と役割分担をしているようだ。
総持寺を訪れた後は、「生麦魚河岸通り」に進んでくる。 通りの名前の通り、新鮮な魚介類を売る多くの店がある。
「生麦魚河岸通り」を進んでいると、突然人家の塀に「生麦事件発生現場」の説明板が取り付けられていた。
さらに、歩いて第一京浜との合流点まで進むと、「生麦事件の碑」が建っている(詳細は図をクリック)。
この事件で英国人4人の内の1人、リチャードソンが斬られて死亡したが、上海から来たばかりで日本人を中国人同様に見下げていたのが、態度に表れたのも一因だったように思う。
京浜急行の「仲木戸駅」またはJRの「東神奈川駅」への入り口の交差点に差し掛かったら、横断橋を渡り少し進んでコンビニのある角を左に曲がる。 直ぐに金蔵院(こんぞういん)と言うお寺がある。 神奈川の宿では一番古いお寺で平安期の建立とのこと。 小さいがなかなか立派なお寺であり、関東大震災の横死者の供養塔がある。
「金蔵院」の直ぐ近くに紀州の熊野神社を勧請して平安期に創建された「熊野神社」がある。境内の手入れが良く行き届いており、格式の高さをうかがわせます。
最近では、お寺に比べ神社の荒廃ぶりが目に付きます。 お寺のように葬儀、墓地の分譲等による収入がないのでよほど格式が高いか、サポート団体がしっかりしていない限り、台所事情が苦しいと見られる。
それにしても、この通りは直ぐ近くを第一京浜が通っていることが嘘のように静かで、細い通りながら旧東海道の雰囲気を復活させたいと考えているようで、道路の両脇にはまだ若木だが松の木が植えられている。この写真のように高札場(こうさつば)も復活されている。 復活されたものとは言いながら、実物を見るのは、始めての経験である。「高札場」とは、現在のようにマスコミが発達していなかった江戸時代には、宿場の入り口に伝達事項等を掲示して民衆に周知徹底を図ろうととしたもので、宿場の大事な機能の1つとして必須であり、その規模も間口5m、高さ3.5m、奥行き1.5mと大きなものであった。
次に訪れた「成仏寺」は横浜開港当時、アメリカ人宣教師の宿舎として供されたお寺で、ローマ字の「ヘボン式」で有名な「ヘボン博士」が逗留したことで有名である。
次の「慶運寺」はフランス領事館に供せられた他、慶応の大火で焼失した浦島伝説を持つ浦島院観福寿寺を併合したので浦島寺と呼ばれているとのこと。 竜宮城から帰った浦島太郎が両親の死後300年も経っているのを知り、大いに悲しみ、庵を作って両親を弔い、この庵が後に観福寿寺となったと記してあった。
お寺の山門脇の寺名碑も、亀が背負っている。事実としての歴史の確定はつくづく難しい作業であることを思い知らされるものであった。
次に訪れた浄滝寺はイギリス領事館として使用されたが、今は全面改修工事中であった。
宗興寺は、全面的に建物を新しくしたのか、近代的な建物になっている。
この「宗興寺」は、医学博士でもあるヘボン氏が医療院を開いた寺で、その記念碑が建っている。
次に洲崎神社にお参りした。 洲崎神社は源頼朝が安房神社を勧請して幕府直轄として創建した神社で、格式も高く宮前商店街のアーチ型の表示もあるが、やはりお寺と比べた場合の経済的な差は歴然としている。
商店がサポートしているように見えるが、常駐の神主も置けず境内は掃き清めることも出来ていない。
第一京浜と第二京浜が合流して、JRと京急を跨ぐ「青木橋」を渡ると、直ぐ右側に「本覚寺」の階段がある。
「本覚寺」はハリス総領事が自らアメリカ領事館に選定した寺で、小高い丘にあり、当時は横浜の港も良く見えたのが選ばれた理由と言う。山門は白いペンキで塗られたが、これは日本で始めての「ペンキ塗装」とのこと。
また、生麦事件では、2人のイギリス人が逃げ込み、ヘボン博士が治療にあたった寺でもある。
「本覚寺」を後にして、旧東海道の方に曲がって少し進んで驚いた。街の中で突然にトンネルが口を空けている。後で調べたら、「みなとみらい線」に乗り入れて、不要になった「東横線」の反町と横浜間のトンネルであった。
今後、このトンネルはどうなるのであろうか。しばらく進むと少し上り坂となって「台町」と呼ばれる街となる。ここには安藤広重の「神奈川宿台之景」に描かれた「さくら屋」が屋号を「田中屋」に変え、今に続いているのに驚かされる。
坂本竜馬の妻であった「おりょう」が仲居として働いていたこともあるとのこと。また、以前はお店の直ぐ裏まで海が迫っており、大変に景色が良かったところと伝えられている
さらに進むと、「神奈川台関門跡」と書かれた石碑があるが、これは横浜開港後、外国人が大勢殺傷され、イギリス総領事のオールコックらの激しい批判に、幕府も警戒を強化するため設けた「関門」の跡である。
あとは、旧東海道をひたすら進んだ。 浅間神社を見ながら歩を進めて行くとやがて相鉄線の「天王町駅」を通り、保土ヶ谷方面に進む。保土ヶ谷に達する少し手前で「遍照寺」と言う寺があったが、写真のように建物の正面に仁王が配置されたもので、新しい感覚の寺の様相を示していた。
本日は、午後から所用があるため、午前中のみの歩行と決めていたが、川崎から保土ヶ谷まで歩くことが出来、これで、日本橋から茅ヶ崎まで繋がったことになる。