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2007.03.24

保土ヶ谷から戸塚(2)

本日の万歩計の値は24,440(16.13Km)

先日、権太坂を登りつめたあたりで住宅街の方に迷い込み、中断してしまった。 そこで、今朝は再度、光陵高校の角に建っている「権太坂」の石碑まで行き、戸塚までの道程を辿ることにした。
「権太坂」を登ってからの道は、昔は山の稜線の尾根道であったので、道の両側とも家が一軒くらいがやっと建つぐらいで、その後ろは急坂か階段で落ち込んだようになったいる。 昔は見晴らしがよかったと言うが、今は住宅が密集して眺望は無理そうである。
totsuka_001.jpg時は春で、一軒の家の前で「桜草」が綺麗に咲いていたので、思わずシャッターを押してしまった。
その後、正面に境木中学がある丁字路にぶつかり、順路としては右折すべきだが、左に曲がって少し行くと道の左側に「投込塚」があるので、寄ってみる。 前を歩いていた、年配の男性3人連れのグループも、やはり「投込塚」に立ち寄っていた。
昔は、旅の途中で倒れても、遺体を故郷に送り返すすべもなく、その地で埋葬するより仕方がなかったのだろう。
totsuka_002.jpgさて、元のルートに戻り、しばらく行くと、「武相国境之木」という立派な標識が見えてきた。
ここが、武蔵の国と相模の国の境界だったところで、道路の整備にともない、ちょっとした広場となっている。
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この広場の奥には、「境木地蔵尊」があるが、なかなか境内の手入れが行き届いている。
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この辺は保土ヶ谷と戸塚の宿の中間地点で人足などが休憩をとる場所で、このような場所を「立場」と呼んだそうだが、茶店などもあり、人足のみならず、一般の通行人も休息をとったとのこと。 特に、ここの「立場」は見晴らしもよく人気があったという。
「若林家」は、この茶店のなかでも特に有力で、大名なども立ち寄ったとのことであるが、「地蔵尊」に隣接して屋敷があり、その構えからも往時の勢いが窺える。
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totsuka_009.jpgさて、ルートを辿ることにするが、この広場からは5本の道路が放射状に出ていて、どの道路に進めば良いか、少し迷う。 しかし、心配ご無用で、「右環状二号線」、「左旧東海道」と書かれた真新しい石の道標が建っている。
道標に従い進むと、直ぐに昔「焼餅」が売られていたという、「焼餅坂」を下ることになる。 ほんの数年前までは、うっそうと茂った木が道の両側から迫っていて、これが横浜かと言われるほど道も狭かったとのことである。が、今は開発され切り通しも拡張され、すっかり様相を一変した。そして、もう「焼餅」を売る店はないばかりか、「焼餅坂」の小さな立て札が立っている上の方では、造成工事が始まりそうであった。 時代の趨勢は、完全に「焼餅坂」の痕跡を抹消せずにはおれないらしい。

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totsuka_012.jpg「境木地蔵尊」前の真新しいマンション群と離れ、少しくたびれた風情の住宅地の中の細い道を下って行くと、「品濃一里塚公園入口」の看板と、解説の立て札に出くわす。 本当の一里塚ははこの小山のような「公園」に登った上にある。 一里塚は土を盛って木を植えて作ったものだが、これほど原型を保って残っているのは珍しいとのこと。 日本橋から9番目の一里塚なので、江戸から約36Kmの距離となる。

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totsuka_015.jpg「一里塚」を過ぎて、さらに下っていくと、いきなり東戸塚駅前のモールに通じる環状二号をまたぐ歩道橋が現れた。
お昼には少し早いが、昼食をとって、一休みすることとした。

totsuka_016.jpg食後の休憩を取った後、またルートを下って行く。 幾らも離れていないところを環状二号が走っているが、こちらはまるで、田舎の住宅地の感じである。 時々、道路わきに旧東海道の手作りと思われる木の標識が掲げられているのは、これでも東海道だったのだと主張しているようで面白い。
やがて「品濃坂」が環状二号で分断されて歩道橋で結ばれたのにたどり着く。 車道は右にカーブして環状二号に入れるようになっているが、旧東海道のルートは階段を下りて歩道橋を渡る。 階段を下りたところに、「品濃坂」の石碑がある。

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それにしても、旧東海道から、車の流れを見下ろすのはタイムスリップしたような感覚に襲われる。 江戸時代には、よもやこのような時代が来るとは予想できなかったことだろう。
住宅街の中に続いている「品濃坂」を下り、川沿いの道を歩く。 桜の花もほころび始めている。
国道に出て、戸塚の方に歩いてゆくと、山崎パン、森紙業と続く工場のある歩道は国道との間にも植栽が施され、遊歩道のような雰囲気で良い感じになっていた。 国道の全てがこうなっていると、良いのですが・・

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「横浜新道」の終了点に向かう国道と戸塚駅方向への分岐点であり、合わせて大山道への分岐点でもある、「不動坂」の交差点では、道路の左側にある神奈川県特別天然記念物の「益田家のモチノキ」が見られる。
totsuka_021.jpgモチノキとは球形の果実をつけ、この実より「鳥モチ」をつくることから、そう呼ばれるようになったようだ。
ルートは戸塚駅に向かう道路を進むが、車の走る道路の左側に旧東海道が続いている。
もっとも、少し行った「ブリヂストン」の工場前で合流するが、それでもわずかの距離でも静かな道路は感じが良いし、写真のような立派な家も一軒だがみることができた。
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さらに進むと、ダイエーの戸塚店の駐車場横にあるレストランの前に、「江戸方見付跡」の石碑がある。
いよいよ、戸塚の宿に入ったことになる。 続いて安藤広重の絵にも描かれた柏尾川に掛かる「吉田大橋」を渡れば、戸塚の宿はもう直ぐだ。

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戸塚本陣に着くまえに、大奥物語で有名になった家康側室の「於万の方」が開基した「清源院」を見学した。
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totsuka_028.jpg戸塚の薬屋大島屋亦四郎(またしろう)の子で18歳の清三郎と、同じ戸塚の伊勢屋清左衛門抱(かかえ)の飯盛(めしもり)で16歳のヤマの慰霊のために、当院22世躍誉上人が建てた心中句碑がある。 18歳と16歳とは、最近の晩婚化からすると、えらく早かったのですね。
戸塚本陣は、現在郵便局になっているところに、あったとのことだが、何も残っていない。石碑も無い。
少し進んで、消防署まで行くと、「明治天皇行幸記念碑」と「澤邊本陣跡」の標識が建っている。
ともかく、今日はここまでにする。 足も相当疲れている。
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2007.03.21

保土ヶ谷から戸塚(1)

21世紀のご時世になっても、旧東海道を歩いて、江戸の日本橋から京の三条大橋まで行こうとする人がいる。紹介のページでは21日要していた。
これに、刺激された訳でもないが、私の住んでいるあたりでも旧東海道の匂いは残っているのだろうかと、保土ヶ谷から東戸塚まで歩いてみることにした。
まず、保土ヶ谷駅に行き(これは電車で)西口を出て10mほど行くと、「歴史の道 旧東海道」と書かれた新しい立て札が立っていた。
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直ぐ左に折れて歩く。ここがかつては保土ヶ谷宿の街並みが続いていたところだが、いまは、なんと言うことも無い商店街である。
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それでも、少し行くと石の道標が4本立っていた。(クリックで説明看板表示)
ここで、左に進むと「金沢鎌倉道」で、進むと「御所台の井戸(政子の井戸)」などもあり、弘明寺を経て鎌倉に通じていた。
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さらに、少し行くと道路はJRの東海道線の踏切を渡って、国道1号線に突き当たる。
ここで。右折れして戸塚方面に進むと、すぐに「旅籠屋(本金子屋)跡」という復元されたのか、少し立派で古い模様の建物に対面する。
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歩いていると、マンションの壁などにも「保土ヶ谷宿」の紹介の看板が埋め込まれていたりするのが、面白い。
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さらに、進むと「東海道保土ヶ谷宿の松並木と一里塚」と書かれた真新しい立て札が立っていた。 日本橋から8番目とあるので、約32Kmの距離である。
さんざん、破壊しつくしたのに気がとがめたのか、すこし修復しようとしているようで、道路際で松を植える工事をしていた。
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いよいよ、国道と別れて、旧道に進むが、もちろん旧東海道の面影はほとんど残っていないばかりか、「旧元橋跡」と書かれた道標が建っている場所がゴミの収集場所であるらしく、ゴミ袋が道標の下3分の1程度を埋めているのは、なんとも痛ましい。 やがて丁字路で左に折れ、すぐに「権太坂」の入り口にさしかかる。
「権太坂」と言うと、新年の箱根駅伝中継でよく聞く地名であるが、あれは国道1号線の「権太坂」であり、こちらが正真正銘の「権太坂」で国道とは比べ物にならないほどの急坂である。
箱根に次ぐ難所で行き倒れの人も出て、その人達を弔った「投込塚」と言うのが残っていて、いまも花が絶えないと言うのだから、すごいところだったのだろう。
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権太坂は改修されたので、昔はどうであったかは分からないが、いまは「保土ヶ谷バイパス」の上を横切っている。 急な坂道もだいぶ緩和されたのであろう。 下の写真は登ってきた坂を振り返って撮ったもの。
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一方、海が綺麗に見えるところとして東海道の名所として有名で、浮世絵などにも描かれたところであったとのこと。
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「権太坂」を上り詰めて、旧東海道を辿ろうと思っていたのだが、住宅街の道路に迷い込んでしまい、思惑外の道路を通って、東戸塚駅に着いてしまった。 残念だが、またの機会に迷ったあたり以降を辿ってみようと思う。