2007.04.29
小田原から箱根
本日の万歩計36,816(24.3Km)
今日は東海道53次で一番の難関と言われていた、箱根の攻略である。
とにかく、朝早くの出発を心がけて東戸塚をam5:33の電車にのり、戸塚駅で東海道に乗り換え小田原にはam6:21に着く。
まず、前回立ち寄った小田原市運営の無償の休憩所のある、本町の交差点に向かった。なかなか、趣のある建物だが、大正12年の関東大震災に被害を受けた網問屋の建物を昭和7年に再建したものとのこと。 これを整備して使っているが、「出桁造り(だしげたつくり)」という典型的な当時の商家のつくりだという。
本町の交差点から一路箱根方面に向かって歩き始めると、ほどなく右手に「ういらう(ういろう)本舗」のお城のような壮麗な建物が見えてくる。「ういろう)」というとお菓子の「ういろう」の方が一般に知られるようになったが、ここでは「透頂香(とうちんこう)」という万能薬も売っている。
「ういろう」についての詳細はこちらをご覧ください。 最近では名古屋が「ういろう」の本家のような様相だが、やはり小田原が本家らしい。
小田原の市街を離れて箱根路への旧市街の路は、辻毎に道祖神が祭られている。一礼して通り過ぎる。やがて「板橋地蔵尊」に行き着く。縁日には賑わうそうだが、普段はひっそりとしている。大きな大黒像がユーモラスにも見える。
入生田の郷に入ると長興山招太寺がある。 参道を入ると直ぐ左手に寺名碑が建っている。ここを入れば、珍しい茅葺屋根の本堂がある。
三代将軍家光の乳母の「春日の局」は後の小田原城主の稲葉正成の後妻であり、招太寺には稲葉一族と「春日の局」の墓があるはずである。
しかし、私はここで大失敗をした。 最初、本堂はもっと奥の方と思い、どんどん参道を進んでいったが、階段と石畳の連続で700mも進んで、広いみかん畑と主要伽藍の建設跡地という表示板に行き着いただけであった。
とにかく、階段も自然石を加工はしているが綺麗にそろったものではなく、石畳ともとにかく歩きにくい。急坂でもあり、700mの往復でかなりスタミナを消費してしまい、後々まで体調に影響するほどのものであった。 しかも、残念なことに「稲葉一族」の墓も「春日の局」の墓も見付けられなかった。
さらに進むと、「福沢諭吉」の提言で作られた「日本初の有料道路の表示板」がある。カメラをかまえる腕の影が写っているのがご愛嬌。
国道から一段高く「箱根登山鉄道」との間に歩道が作られているところがあり、単純な歩道を歩くより面白い。
若い夫婦は、自転車で箱根登山のようだ。 若者の団体で相当な急坂も自転車で登って行くのも見かけた。
そして、いよいよ箱根への入り口の「三枚橋」を渡る。 いよいよ箱根に登る気分がたかまってくる。
「三枚橋」で国道1号線と別れて、県道を歩いてゆくと道路の直ぐ右に後北条氏の菩提寺の「早雲寺」がある。北条早雲の遺命で、その子の氏綱が建立した。
曹洞宗のお寺で、大きなお寺ではないが境内は掃除が行き届いており、植木なども綺麗だ。 このようなお寺は入っただけで気持ちが清々しくなる。そして、右手の墓地の奥まったところに、後北条氏の5代の墓が並んでいる。 高野山にある秀吉のひときわ大きい五輪塔の墓と比べて対照的だが、こちらの方が清々しい。
やっとの思いで、最初の石畳道の入り口に到着する。後で、もう石畳などコリゴリと言う気分にさせられるのだが、このときは期待感が高まった。 写真で見るとどこかの民家の方に入ってゆく道に見えるが、奥の車の駐車しているのが見える左側に入り口がある。 表示も写真の左の方に見える細い表示柱だけで、もう少しで見逃して通り過ぎるところであった。
石畳を降りきったところに「さるはし」と書かれた橋があるが、その上には「箱根湯元ホテル」の本館と別館との間の渡り廊下が掛かっている。 廊下を通る宿泊客の足音が聞こえ、ちょっと興醒め。そして、この石畳道に住みついているらしい、猫に出会った。
しばらく行くと、道路の右側に「天聖院」と書かれた、やたら派手なお寺が建っていた。箱根大天狗山神社の別院とのことだが、覗いて見える本殿も金ぴかだし、釣鐘まで金色なのは尋常とは思えない。いったい、どういうお寺なのだろう。
県道をひたすら歩いて、初花の瀑布の碑を過ぎると、「鎖雲寺(さうんじ)」が左手にあり「勝五郎」と「初花」の比翼の塚と呼ばれる墓がある。
初花と勝五郎の話は、「箱根霊験躄仇討(はこねれいげんいだりのあだうち)」に出てくる話である(詳細はこちらを参照)が、初花は現代でも通用する名前であるため、これを冠したものはホテル以外にも多くのお店で見られる。
「鎖雲寺」を過ぎ、また県道を離れた道路歩きを味わえる地点に来た。旧街道は県道が大きく右にカーブして「須雲川」を渡ったところから始まる「女転坂」と言われるところだが、現在は通行不能である。
それで、橋の手前の「須雲川自然探索歩道」に入る。歩きよい歩道で最後に沢に渡された板の橋を渡る。当然雨が降った後の増水時は通行不能で、そのための大きな字で書かれた注意の掲示板が建っていた。
板橋を渡って(水が少ないと、板橋がなくても石を選んで歩を進めれば渡れる)、上ってゆくと県道に飛び出すが、しばらくして右側に、また石畳道の入り口があり、割石坂の碑が建っている。 これは曽我十郎が刀の切れ味をみるため、石を切ったところから名づけられたのだという。
ともかく、ここの石畳は江戸時代に作られた石畳と近代に子供の通学路として補修された部分が交互に出てきて、違いを見ることができるようになっている。 たしかに石の組み方も異なるし、近代の方がわずかだが歩き易い。
一度県道に出て、また直ぐに左側に「国指定史跡箱根旧街道」の立派な標識が目に入る。 ここは江戸時代の石畳がよく残っているところで、石畳の石も苔むしていて、歴史を感じながら歩く。入り口から急な坂を下ると「大沢」と呼ばれる小さな沢を渡り、「座頭転ばし坂」と呼ばれる急坂を登るが、坂を登りきると突然に県道に飛びだす。
県道に戻ると、直ぐに畑宿本陣跡がある。畑宿は宿場でなく立場(宿と宿の間の休憩場所)だが、長い登りの疲れを癒すのに良い場所にあり、1856年に初代総領事として来日したハリスも休んだとのこと。
進んで行くと、県道は右に逸れて行くが、直進して旧道にはいると江戸から23番目の一里塚が修復されてほぼ完全な形で見ることが出来る。
道の両側に丸く盛り土をして石垣で囲み、中央に植樹したものである。 箱根のような樹林帯のなかの道では、江戸から何里と知れる以外はあまりご利益はないが、田んぼの中の1本道のようなところでは植えられた樹木が作る木陰で休息して、一息入れる場所であった。
途中で石畳の道が箱根新道を跨いでいるが、歩いていると全く気がつかないようにされていて驚いた。車の音が大きく聞こえるので雑木の間から覗き込むと、下に全く対照的な道路があり高速で車が走っていた。旧街道を極力残そうとの粋な計らいで、過去と現在の交差点だ。
県道に飛び出すと、県道も傾斜の強い道路となっていて七曲と呼ばれる車にとっても最も厳しい上り坂にさしかかる。勾配が10.1%とあったので、100mで10.1mの上りなのだろう。歩行者の歩道は途中でショートカットの階段もあるが、相当に苦しい登りで、途中で休息を取ることを余儀なくされた。
七曲の県道を何ターンかしたところで、左側に「橿(かしの)木坂」の表示とともに、箱根路で最大の難所と言われる195段もの階段に差し掛かる。東海道の名所日記にも「橿の木の、坂をこゆれば苦しくて、どんぐりほどの涙こぼる」と読んだ男がいたとの記述があるというのだから、尋常でない。どんぐりほどの涙はこぼれなかったが、階段は整備されたものになっていても足が上に上がらなくなり、途中で何度も休まなければ、登れなかった。
しかも、気がつくと飲み水もなっくなっていた。畑宿で補充すべきだったのだが、買い忘れた。
水がないと分かると、精神的にも打撃である。 時間を見ると11時半で、お腹も空いてきた。見ると、街道の途中に作られたベンチでどこかの夫婦が、コンビニで買ってきた弁当を広げている。こちらは、水もなく、ましてや弁当もなく一人歩きだ。 なんとか、甘酒茶屋まで我慢して歩き続けるしかないが、肉体的にも相当へばってきた。
やっとの思いで県道に飛び出し、道路を跨ぐと、「猿滑坂」の石碑があり、立て札には「猿侯といえども、たやすく登り得ず、よりて名とす」と記載されている。やれやれ・・・
何とか、県道に復帰し、へばった体を騙し騙し、歩いていると親鸞聖人が弟子と別れた「笈の平(おいのたいら)」と呼ばれるところに到着した。とても大きな石碑があった。笈とは仏像をはじめとして、お香やお供物、経文、お札など、修行に必要なものを納め背負う箱で、ここで親鸞が愛用の笈を関東に残る弟子の「性信房」に与えたので「笈の平」と呼ばれるようになったという。ともかく、この世では二度と会うことが叶わぬ師の姿が、樹林に消えてゆくのを滂沱の涙とともに見送ったのであろう。
「笈の平」からは甘酒茶屋は直ぐである。何か食べて休息しようと思ったが、飲み物は甘酒とお茶くらいで、食べ物も「あべかわ餅」、「いそべ巻き」ていどで、とてもちゃんとした食事は無理と分かった。それで、飲料水だけ自動販売機で補給して直ぐに出発した。大勢の人が訪れていたことを考えると、もう少し出し物を豊富にしてもと思ったが、5月の連休中なので混雑していたが、平素の状況からはこの程度が精一杯なのかも知れない。
空腹を満たすには先を急ぐ必要があることになったので、やむを得ず歩きにくい石畳を急いでいると、やっと登り坂が終わりになり、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と刻まれた大きな碑があった。この辺りは元箱根から来る人もあり、何組かのカップルが碑をバックに写真を撮りあっていたが、こちらは一人だ。 早々に坂道を下って、現世界への入り口の「杉並木歩道橋」を渡る。
杉並木歩道橋をわたると、箱根の自然を残すのに功績のあった、ドイツ人のケンペルとオランダ人のバーニーの碑があり、終に芦ノ湖湖畔に出た。
時刻は12時30分。いそいで、近くの蕎麦屋に入り「天ぷら蕎麦」を注文して、携帯電話を見ると着信の信号が出ている。
みると、妻からで「箱根神社」に来ているという。 食事を終えて「芦ノ湖遊覧船」の発着所で落ち合い、「賽の河原」を見て、杉並木を歩く。 東海道は松並木が普通だが、ここでは杉並木だ。 最初、松を植えたがうまく育たなかったのだという。 それにしても、杉はまっすぐ伸びて巨木の連続だ。
杉並木を終えて、恩賜公園の入り口に来ると、「瀧廉太郎」作曲、「鳥居忱(とりいまこと)」作詞の中学唱歌箱根八里(箱根の山は 天下の険 函谷関も物ならず・・・)の大きな碑がある。 荒れていて読みづらい。
最後は、関所資料館を見学し、現在の再現された関所を通って、帰宅のバスを待った。
今日は良く晴れていて、箱根に着く前の電車の窓から富士山が見えていたが、箱根の旧街道を上る間は見ることは無かった。 帰りのバスの窓から見えたので、すかさず撮影して最後の写真とした。しかし、帰りのバスは渋滞で小田原まで2時間も掛かってしまった。
小田原から箱根に歩いての感想は、やはり箱根は天下の険であり、厳しかったということである。箱根に着いたのが12時30分で、時刻としては三島に下れる時刻であったが、とても三島に出発する気にはなれなかったし、疲労度からも、とうてい無理であったと思う。