2007.04.21
茅ヶ崎から小田原へ(1)・・・(旧東海道)
本日の万歩計の値は57,497(37.95Km)
日本橋から小田原までつながりました。
日本橋からの距離は81.4Kmです。
まず、茅ヶ崎から平塚までを記述します。
今日は、東戸塚を朝4時59分発の1番電車で以前に引き上げた茅ヶ崎駅に向かった。1番電車に乗る必然性はないが、今後歩く区間が遠くになった場合に必要となる考え、その様子見のために選択した。
5時半には、茅ヶ崎駅に着いたが、さすがに土曜日の早朝であるだけに、ひっそりとしている。
茅ヶ崎を出発すれば、直ぐに馬入川に到達できるような気でいたが、歩いてみると案外遠い。
まず最初に「鳥井戸橋」に到着して、橋を渡り終えたところにある「左富士の碑」に対面する。 道路の進む方向が急に北に振れたので、富士山が左手方向に見えるというものだが、東海道では富士山が左に見えるのは、ここと「吉原宿」だけとのこと。
「左富士の碑」は道路の左側に建っていたが、右側には「鶴嶺八幡宮」の大きな鳥居が見える。
「鶴嶺八幡宮」の祭神は「応仁天王」、「神武天王」であり、大変古く、茅ヶ崎の総社であったという。
参道が長く、800mほどもあるので往復すると1.6Km歩くことになるが、行ってみることにした。
荒れていた神社を別当寺常光院の住職・朝恵上人が再興し、慶安2年(1649)には徳川幕府から社領をもらって、記念として参道に松を植えたという。たしかに見事な松並木だ。 本殿に近づくと松以外の樹種も混じるが、地元の人達の寄進による石灯篭の並びも神域に近づく気分にさせる。
「鶴嶺八幡宮」には、下の写真の左に示す「女護ケ石」と呼ばれているものがある。
この石は女性の守護神とされており、どこか体に悪いところがあると、石と患部を交互にさすると治癒すると言われている。
また、境内には「大イチョウ」の木がある。 よく神社には大きなイチョウの木があることが多いが、この「鶴嶺八幡」の大イチョウは、ことさらに大きい。
さらに、進んで行くと「旧相模川橋脚」の大きな表示ポールが建っていたが、実際の橋脚は保全処置の工事中で見ることが出来なかった。
説明の掲示板によると、傷みが激しいので古い橋脚の木材は粘土で覆って、コンクリートを被せる。 それで、レプリカを見られるようにするとのこと。 しかし、本物は誰も見ることも触れることもなく時を重ねるだけとなるが、それで、どうなのだろうか。
ほどなく、相模川に架かる馬入橋を渡る。 日本橋から62Kmの現代の一里塚表示が見える。先ほどの旧橋脚から相当離れているが、鎌倉時代から流れもかなり変わったことが分かる。
平塚に着いて、駅に立ち寄りコーヒーを飲みながら今後の作戦を立てる。
まず、番町皿屋敷で有名な「お菊の塚」が駅の近くにあるので訪れることにしたが、小さな通りにある小公園の一隅にあり、ずいぶんと探し回ることとなった。 小公園はゴミの収集場所になっているようで、カラスが「生ゴミ」漁りをして、とんでもない状況になっていた。
お菊さんに別れを告げて、駅前の大通りに戻り、国道に面している「平塚八幡宮」を訪れる。
さすがに、相模国の総鎮守の格式を誇っていただけに立派なものだ。 源頼朝も政子の安産を祈って神馬を奉納したという。
平塚は第二次世界大戦時には軍需工場があったため、爆撃され歴史的な遺構はほとんど残っていない。
「江戸見付」の石垣は残ったものの、それ以外は最近になり場所を示す石碑を建てて、以下のように、旧東海道を示している。
平塚には平塚の名前の由来となった「平塚の塚」がある。桓武天皇の孫の政子が天安元年(857)に父の高見王に付いて常陸の国に下向する途中、ここで没して葬られた場所だという。
塚の石碑の隣には大きな石碑が建っている。 漢文で読めない。
最後に、「京方見附跡」をみて平塚を離れ、「大磯」に向かう。 市の境の花水橋から見ると、特徴のある山体の高麗山(こまやま)が、昔と変わらぬ秀麗な姿を見せる。 本当に安藤広重の版画と同じだ。
国道と離れて、化粧坂(けわいざか)への旧道を歩く。 松並木は他の樹種も混じって雑木林の様相だが、それはそれでよい感じだ。 国道との分岐点から、僅かのところに「化粧井戸」がある。
鎌倉時代に白拍子であり、あだ討ちで有名な曽我兄弟の兄 曽我十郎祐成と恋仲になった虎御前が、化粧をした井戸と伝えられている。 直ぐ後ろに密着して民家があり、史跡の場所としては良くない条件である。
それにしても、直ぐ後ろの民家は、どうして壁を黄色などに塗るのだろう。 アンバランスが際立つ。
化粧坂から続く道を歩いていたら、JRの線路にぶつかるが、地下をくぐる歩道が付いている。
潜り抜けると、見事な松並木が残っており、いよいよ大磯の市街に近づくが、続きは新エントリーで・・・
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