2011.06.04

国府多賀城跡と松島の旅・・・(旧奥州街道)

厳密には奥州街道歩きと関係ないが、仙台を訪れた機会に国府多賀城と松島にも足を延ばすことにした。
快適な目覚めで十分に疲労も回復して、ホテルの窓から東北本線を見下ろしながら、今日の行動の準備に取り掛かる。食事を済ませ、仙台駅に向かい東北本線で国府多賀城駅に向かう。
matsusima_01.jpgmatsusima_02.jpg多賀城歩行ルート
多賀城駅は、新しい橋上駅で、線路を跨ぐ通路は悠久ロマン回廊と銘打っている。
多賀城は、畿内の大和朝廷が蝦夷を制圧するため、軍事的拠点として蝦夷との境界となっていた松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置したもので、創建は神亀元年(724)、按察使大野東人(あぜち おおのあずまびと)が築城したとされる。8世紀初めから10世紀半ばまで存続し、その間大きく4回の造営が行われている。
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下の写真の左側は、橋上駅から「館前遺跡」を見下ろしたものである。特別多賀城政庁と多賀城廃寺の中間にある小丘上に位置し、発掘調査の結果、6棟の建物跡が発見された。うち、中心となる1棟は、多賀城政庁正殿と同じ四面に廂(ひさし)の付く格調高いもので、多賀城に赴任した国司の館跡であったと推測されている。性格としては、多賀城の付属施設と考えられるが、多賀城の外郭の外にあることと、館の建つ丘の独立性が高いことから、別項扱いで特別史跡に指定されたものである。
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館前遺跡から外郭築地塀の跡を通り、小高い丘にある多賀城の南門跡方面に向かう。小高い丘を超えると、多賀城碑が覆い屋によって保護されている。多賀城碑は、群馬県の多胡碑(たごひ)、栃木県の那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)とともに日本三古碑のひとつに数えられており、平成10年6月30日に国の重要文化財(古文書)に指定された。また、この碑は「壺碑(つぼのいしぶみ)」とも呼ばれ、江戸時代初めの発見当初から歌枕「壺碑」と結びついて広く世に知られていた。松尾芭蕉も旅の途中にこの碑を訪れ、深い感動をもって対面した様子が「おくのほそ道」に記されている。
行脚(あんぎゃ)の一徳、存命の悦び、覊旅(きりょ)の労をわすれて、泪も落つるばかりなり
「壷の碑」は、坂上田村麻呂が大きな石の表面に、矢の矢尻で文字を書いたとされる石碑で、行方不明となっており、ここの多賀城碑とは異なるが、芭蕉も曽良も完全に信じていたようである。
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碑文の、前半には京(平城京)、蝦夷国、常陸国、下野国、靺鞨国(まつかつのくに:中国東北部)から多賀城までの距離が記されていて、後半には、多賀城が神亀元年(724)大野朝臣東人(おおののあそんあずまひと)によって設置されたこと、天平宝字(てんぴょうほうじ)6年(762)藤原恵美朝臣朝カリ(ふじわらのえみのあそんあさかり)によって改修されたことが記されているとのこと。また、最後に天平宝字6年12月1日と碑の建立年月日が刻まれている。
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多賀城碑を後にして、多賀城政庁に向かうと、途中に多くの石仏が並んでいた。
そして、外郭南門から政庁にまっすぐに通じる大路の階段が見えてきた。自然石を用いた階段である。
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階段を上ると、政庁の模型が展示されていて、多賀城南門跡の礎石が復元されていた。
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進むと、政庁跡が一段と高くなって復元されていた。政庁前は、小さな石が敷き詰められた広場であったとのこと。
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政庁正殿を通り抜けると、後村上天皇御坐之碑(左側石碑)と明治天皇記念碑が並んで建っていた。後村上天皇は、建武元年(1334)多賀城で6歳にして義良親王となり、延元4年(1339)3月吉野に戻り皇太子なり、同年8月に父後醍醐天皇の譲位を受けて12歳で践祚(せんそ)した。践祚とは皇嗣(こうし)が天皇の位を継承することである。
さらに多賀城敷地内を北に進むと、多賀城神社が建っていた。昭和27年(1952)に創建された神社で、後村上天皇を始め北畠親房、北畠顕家、伊達行朝、結城宗広ら南朝の忠臣が祀られている。
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多賀城神社のところで右折して進むと、多賀城の最も北の地域の六月坂地区で、行政的な仕事を行う建物があったと考えられている場所である。
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六月坂地区を過ぎて、南方向に進み車の通りに出ると、その道路の南側に「あやめ園」がある。ここには、アヤメ、ハナショブなど250種200万本が植えられているそうだが、あやめ類は、古代からこの辺に自生する多年草で、古くは「多賀城古種」と言われる品種があったとのこと。
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あやめ園を過ぎて、国府多賀城駅に戻る途中に浮島神社がある。多賀城繁盛の頃の創建と伝えられ、平安時代の延久6年(1074)塩竈島海社と共に朝廷から深く崇敬され、承保年間(1074?77)には国守も詣でた名社だったとのこと。また、古来歌枕で歌われた場所でもあり、新古今和歌集で「塩竃の前に浮きたる浮島のうきて思ひのある世なりけり」と山口女王が詠っていて、当時は田圃の中に浮いている島のようだったのが想像される。さらに、鳥居の左側には、明治天皇が詠まれた「旅衣あさたつ袖をふきかへす松風すゞし浮島が原」の歌碑が立っている。
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浮島神社より、JR国府多賀城駅に戻ると駅前に扇畑忠雄の真新しい歌碑が立っていて「多賀城に 立ちて落日に 向かひけむ 家持をおもふ まぼろしの如 忠雄」と刻まれていた。
JR多賀城駅で、下り電車に乗り隣駅の「塩釜駅」に着いて歩いて仙石線の「西塩釜駅」に向かい、仙石線の下り電車を待つことにした。塩釜から西塩釜までは、1Km弱の距離である。
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電車の連絡が悪く、思ったより時間を要して、ようやく松島海岸駅に着いたところ、遊覧船がほどなく出港するというので乗ってみることにした。遊覧船乗り場までの街並みは、津波の影響を感じさせないほどに回復していたが、まだシャッターを閉めた店も多く見られた。
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観瀾亭(かんらんてい)松島博物館を回りこむ道を通り、見事な庭の樹木を眺めながら、波止場に向かう。
快適な遊覧船の乗り心地で、多くの島々をみることが出来たが、沖に出ると霧が出ており、肉眼では差し支えないが、写真撮影には厳しい状況であった。
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船着場から見た五大堂(左)と観瀾亭松島博物館(右)である。
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大津波でも何ら影響を受けることのない「かもめ」を眺めながら、五大堂の方に向かう。途中に日本三景(安芸の宮島、天橋立、松島)の碑が立っていた。
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五大堂の建つ島に行くには、3つの橋を渡る必要があるが、2つ目と3つ目の橋が、透かし橋となっていて、下の海面が見えるようになっている。五大堂への参詣には、身も心も乱れのないように脚下を良く照顧して、気を引き締めさせるための配慮だという。
五大堂は、大同2年(807)坂上田村麻呂が東征のとき、毘沙門堂を建立し、天長5年(828)慈覚大師円仁が延福寺(現在の瑞巌寺)を開基の際、五大明王像を安置したことから、五大堂と呼ばれるようになり、秘仏とされる五大明王像は、五代藩主吉村が500年ぶりにご開帳した1700年代以降、33年に一度ずづご開帳されるようになった。
現在の建物は、 伊達政宗が慶長9年(1604)に創建したもので、桃山式建築手法の粋をつくして完工したもので、堂四面の蟇股にはその方位に対して十二支の彫刻を配している。
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次に、今日の主目的の瑞巌寺に向かう。門前のお店の並ぶ道を進み、山門を潜ると杉の大木の長い参道が続く。
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瑞巌寺は最後にゆっくりと見学したいので、突き当たってまず左方向に進むと、李登輝ご夫婦の歌碑が立っていた。
松島や 光と影の 眩しかり  李登輝
松島や ロマンささやく 夏の海   曾文恵
松島では、誰でも一句詠まなければならないらしい。それでは、私も、
松島や 津波乗り越え 初夏の海
そして、一番奥で五郎八姫の墓所のある、天麟院を訪れた。
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天麟院は、伊達政宗の正室・愛姫(めごひめ)との間に生まれた娘・五郎八姫(いろはひめ)の菩提寺で, 陽徳院、円通院と並んで松島の三霊廟に数えられている。お寺の奥に、「定照」の扁額が架かった仮霊廟がある。元々は霊廟だったが、明治に墓所が出来、それで仮となったという。五郎八姫は、徳川家康の6男,松平忠輝の正室であったが,忠輝は父である・家康に嫌われており、大阪夏の陣遅参等もあって、高田65万石を取り上げられたため、五郎八姫は離縁されて仙台へ戻り仏門に入った。政宗は不幸な娘に同情して娘の信仰生活を全面的に支援したといわれている。 なお、松島町富山の大仰寺には、出家時の五郎八姫の遺髪、仏舎利があり、門外不出の寺宝となっているとのこと。
五郎八姫の仮霊廟にお参りした後は、隣のお寺の円通院に向かった。写真右は、円通院の山門である。
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円通院は、伊達政宗の嫡孫(ちゃくそん)光宗の霊廟として、正保4年(1647)瑞巌寺第100世洞水和尚により開山されたもので、庭の美しさが際立っている。秋の紅葉も見事であろうが、今この季節の新緑も素晴らしく、心が洗われるようであった。
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新緑の庭を進んでゆくと、別名御霊屋(おたまや)とも呼ばれている三慧殿(さんけいでん)が、端正な姿を見せている。建物は宝形造、本瓦葺で、四周に高欄付の縁を巡らし、東北地方では数少ない 格式ある方三間霊屋の遺構であり、霊屋建築としては宮城県下最古とされ、3世紀半もの間秘蔵とされた国の重要文化財である。
三慧殿の正面階段を上ると、ガラスが嵌められていて、中の宮殿型厨子を見ることができる。逗子には19歳で亡くなった光宗公の馬上像と殉死した家来7人の像が祀られている。
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政宗の七男の宗高は政宗の七男で名君の誉れ高い武将であったが、京都で疱瘡にかかりこの世を去った。その時家臣10人が殉死し、ここに崖の岩を穿って配置された宗高塔を囲むように殉死者塔が立っている。
その後、山門の方に進んで行くと、樹齢700年以上のイチイ科の「おんこ」の木があり、その向こうに茅葺きの本堂である大悲亭が見えてきた。大悲亭は光宗君の江戸納涼の亭で、愛息の早逝を悼んだ忠宗公が解体移築したもので、寄棟造萱葺の瀟洒な姿は、禅寺らしい落ち着いた佇まいを見せている。
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本堂では、数珠作り教室が開かれており、また、その前には、小堀遠州作の心字池と観音菩薩が住む補陀落山を中心にした庭園がある。約350年前に作られたとのこと。
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円通院を出て、最後にゆっくりと見学しようと取っておいた、瑞巌寺前に引き返す。
入り口で入場料を払い、左手側の法身屈に進む。多くの岩窟の中で唯一、名前が付けられている岩窟で、鎌倉時代半ばに法身禅師と執権北条時頼が出会ったといわれいる。また、京都の南禅寺・西芳寺・天竜寺などの開山で有名な夢窓国師がここを訪れた時、誰もいないはずの窟の中から、天台止観(天台宗の瞑想修行法の1つ)を講ずる声が聞こえてきたという。両側に立つ2基の石碑は左側が鎮海観音、右側は楊柳観音と呼ばれ、原画はともに塩竃出身の画家小池曲江の制作である。
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一方、右手側に進むと、大きな鰻塚の石碑が見える。大正12年8月16日に建立され、同年9月13日に開眼法要が行われた。当時松島では天然鰻がたくさん獲れたことから、北海道から東京までの蒲焼店や卸問屋の関係者の方の寄付金2,565円で建立に至ったとのこと。
その奥にには、岩窟が延々と続いているのが見えるが、大災害の影響で土砂崩れの恐れから立ち入り禁止となっていた。
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進んで行くと、瑞巌寺庫裡がある。国宝で桁行23.6m、梁間13.8m、1重、切妻造、妻入、本瓦葺、玄関及び北面庇二ケ所からなる。本堂とともに慶長14年、伊達政宗によって建てられた。妻飾は梁と束で組上げ、海老紅梁や笈型で飾るなど、この種の禅宗庫裏建築の中でも最も美しいとされる。大きな切妻造の屋根の上に、入母屋の煙出しをのせているのが特徴である。
庫裏は、公開されていて電子プリントによる複製の襖絵などが見られる他、後ろの書院で伊達家歴代の位牌なども見ることが出来た。しかし、左奥の本堂は、修復中でシートで覆われていた。
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伊達政宗公の正室、陽徳院愛姫の霊廟である陽徳院が本堂改修中の代わりとして、特別公開されていた。陽徳院への通路は、松島独特の岩窟のように岩を繰り抜き作られていて、美しく苔で覆われていた。
霊廟は、撮影禁止であったが、万冶3年(1660)に孫にあたる綱宗によって造営されたものを、創建当初の豪華絢爛な姿に復元すべく平成18年から3年の月日を費やし、黒漆で外面すべてを塗り浅唐戸や蟇股は金や極彩色に彩り、失われていた飾り金具も復元したという。
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瑞巌寺を後にして、JR東北本線の松島駅に向かった。途中で復興支援隊と書かれた車が止まっていて、何か活動を行っているようであった。
その後、レストランで昼食を摂り、松島駅に向かい、仙台駅経由で帰宅の途についた。
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2011.06.03

館腰から仙台・・・(旧奥州街道)

本日の万歩計36,294(23.6Km)

館腰から仙台の歩行ルート

今日で、白河から続く仙台街道を終了しました
東日本大震災で中断していた奥州街道歩きを再開した。
東京6:12発のやまびこで仙台に向かい、仙台から館腰駅に常磐線で戻って8:54に到着した。
駅から、街道に復帰して館腰神社参道脇に立つ奥州路の道標を見て歩き始める。
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少し進んで、左折して雷神古墳脇を流れる水路に沿って設けられた、名取中学校までの2kmの遊歩道を進むこととした。この遊歩道の左側が、雷神山古墳で、東北地方最大規模の前方後円墳で、長さ168m、後円の径が96mとのこと。出土品や立地、築造方法から、4世紀後半から5世紀前半と推定され、名称は、頂上部に雷神を祀った祠があったことから名付けられたとのこと。
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中間を過ぎた辺りに「親水公園」の案内板が立っていて、整備されて小公園となっていた。
ここから名取市飯野坂となり、更に進むと左に薬師古墳の上り階段があり、登り口の左右には多くの石仏、石碑が立っていた。案内板によれば、名取が丘の丘陵東端には、全長40m?50m規模の前方後方墳5基(宮山古墳、観音塚古墳、山居古墳、山居北古墳、薬師堂古墳)と、全長約14m規模の方墳2基(観音塚1,2号墳)からなる飯野坂古墳群があり、この中で一番東側の薬師堂古墳が全長66mの前方後方墳で、飯野坂古墳群最大の規模とのこと。また、築造年代は、形態、出土埴輪の破片から4?5世紀と推定されるとのこと。
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すぐ右を走る旧街道に出ると、浄土真宗の明観寺がある。江戸時代には、付近に館腰一里塚があったというが、今は形跡すら見いだせない。遊歩道に戻り、名取一中の手前で旧街道に戻って進むと、東北本線の踏切がある。奥州街道(飯野坂)踏切である。
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奥州街道踏切を渡ると、すぐに増田川を渡る。橋の上には、仙台空港線(平成19年開通)の新しい高架線が見える。仙台空港も津波の被害を受け破壊されたが、米軍の支援で滑走路は短期に復旧し、災害地域への物資輸送に大いに役立った。
そして、増田橋を渡って、増田宿に入って行く。
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事前に調べて、江戸時代中頃の創業の鶴見屋の明治10年ころに建造されたという2階建のなまこ壁土蔵を見ることを期待していたが、大地震の被害を受け、ブルーシートに覆われて修復中であった。
鶴見屋は、現在でも食品やガソリン、灯油等の販売を行なっているとのこと。
そしてすぐ先には、街道左側の旧家の庄司氏宅がある。門より中をの覗かせてもらうと、庭に「明治天皇増田御膳水」の石碑が建っていた。明治9年と14年の東北巡幸の際に井戸の水を献じたとのこと。
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この辺りは、歴史的な遺構が集中している。すぐ先に増田公民館があり、その前に名取市指定天然記念物の樹齢数百年の大傘の松(アカマツ)がある。ここは、名取郡の北方検断を務めた菊池家屋敷跡で、明治9年、明治天皇東北巡幸の折、ここに立ち寄られ随行した木戸孝充が詠んだ歌
大君の 立寄りましし 陰なれば 衣笠の松とこそ いうなかりけり」から、衣笠の松と命名したとのことである。
その先の左手には、増田神社がある。増田神社は、文安年中(1444?48)に南朝の忠臣菊池武光の一族菊池豊後が奥州に下向し、居をこの地に定めた時、豊後は大和国の生まれだったことから同国城上郡笠山の社より分霊。その後、永正年中(1504?20)菊池左馬介の代に現在地に奉遷。藩政時代には笠山大荒神と称したが、明治の初めに笠山神社と改称、明治42年手倉田の諏訪神社、田高の神明社、上余田の天神社・琴平神社、手倉田堰根の玉嶋神社を合祀し、社号を増田神社と改称した。その後も同44年、下余田の鹿島神社を合祀し、北町区、手倉田区、田高区、上余田区、下余田区の氏神として厚く崇敬され今日に至っている。
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進むと、名取駅前の交差点で、左に整備された駅前通りが続いていた。左の写真は、この近辺の街道の様相である。
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進むと、名取市上余田(かみようでん)の標識が立っていて、東京から343Kmとなっていた。奥州街道はまだまだ続く。なお、余田(ようでん)とは荘園制で、土地台帳に載せられていない田で一般に地利が低く、地子(じし)は納めるが公事(くじ)は負担しない田を言う。
2Kmほど進むと、左の小道を入ったところに天満宮がある。ここの境内は、天神塚古墳で、南北30m、東西26m、高さ2.8mの方墳で、壺形埴輪・土師器等が発掘されていて、推定4?5世紀の建造とのこと。
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天満宮に対する案内はなく、勧請年月・縁起・沿革等は全て不明であるが、境内には石塔群が並べられていた。
そして、街道に復帰して、左に「南仙台駅」を見て先に進んで行く。ここは中田宿で、大正14年の開業当時は「陸前中田駅」と呼んでいたが、仙台の大発展の余波で駅名を変えたのであろう。
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1Kmほど進むと、名取川である。上流方向には、手前に東北本線、向こう側に東北新幹線の鉄橋が見える。東北本線の鉄橋は、先の大震災で傷みが生じたのか、補強工事がなされたように見える。
その先で、小さな流れの旧笊川を渡る。河川敷は草で覆われている。丘陵部の水に依存する笊川は、降雨による水量の変動が大きく、降れば降っただけ流れ、すぐに涸れてしまうので、川名が「ざるがわ」となったとのこと。なお、古くは座留川と書かれていたようである。
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また、1Kmほど進むと2007年開業の新しい駅舎の「太子堂駅」がある。「太子堂」は現存しないが、現在の地名である「太子堂」にちなんで付けられたという。
太子堂駅の脇で東北本線に対して、左側に抜けて進むと、やはり1Kmほどで右側に長町駅が見えてくる。この辺りは、新しく整備され広い歩道で綺麗な通りとなっている。ちょうどお昼時にさしかかったので、ここで昼食をとり、小休止した。
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昼食を済ませて進んでゆくと、広瀬橋の手前の左側に十八夜観音堂がある。名取三観音の一体である裏木観音を安置したもので、観音堂は康平7年(1064)天台宗の般若坊主達によって開かれ、もとは鏡ヶ池の前から大年寺門へ通じる北側で、今も枝垂桜の老樹のある所にあった。現在の堂宇は寛政元年(1789)に建てられたもので、明治に長町に大火があり「これは長町の通りが鬼門に当たっているからだ」といわれて移されたとのこと。
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広瀬橋の左袂に、橋姫明神社がある。昔、この地にはじめて橋を架けることになった時に雨が降り続いて川が氾濫。これを鎮めるために根岸の長者の一人娘・愛姫が人柱になったという悲しい伝説があり、その愛姫を橋姫として祀ったという。明治42年に架けられた橋で日本で最初のコンクリート橋と道路標識に書かれていた。
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広瀬橋から上流を見ると、仙台市街の建物が望見される。
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広瀬橋を渡って最初に入って行くのは河原町で、細い路地のような道路を辿ってゆく。河原町の交差点で、少し広い道路に出て進み、右折して南材木町に入ろうとすると、その角に天明元年(1781)に建てられた旧丸木商店(薬種業)の店蔵がある。仙台最古の建物で、市の景観重要建造物に指定されている。
その先にも、針生(はりう)家の見事ななまこ壁の建物がある。針生は針惣(はりそう)旅館を営んでいて、地主で河原町入り口の木戸の鍵番を務めていたとのこと。
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針惣屋敷隣の金刀比羅宮は、もともと針惣の屋敷神として祀られていたが、明治になって荒廃していた。その後、昭和23年(1948)町内有志により再興されたとのこと。
その先で道路は桝形となって続いて行く。
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桝形を抜けると、穀町(こくまち)に入る。ここの石の標柱には「穀町、畳屋丁」と刻まれていた。真っ直ぐ進んで突き当たったところに、三宝荒神社がある。鍛冶職人の住む南鍛冶町の火伏せの神として建立され、火伏せの樹木としてイチョウが植えられた。現存のイチョウは樹齢320年、樹高21mである。通常公孫樹は雌雄異株だが、ここのイチョウは雄株にもかかわらず実を結ぶと不思議がられていたが、後に雄株に雌株が接木されていたことが分かったのだという。
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三宝荒神社の境内には、耳権現さまがある。説明文によれば、御奉像は、720年前元寇の役に出陣した勇士の慰霊を供養したと思われる正応3年(1291)と刻名のある自然石で出来た卒塔婆で、古くは、荒町の仙性院という修験道場境内に安置されていたものを、後になってここに堂宇を建て遷座された。耳患いで苦慮していた旅の修験者の夢枕に権現様が現れ、言われたまま修行場にあった卒塔婆に祈ったところ見事に完治したので、そのご利益に感涙し、益々修行を積み、人に教え多くの耳患いの人々を助けたとのこと。
南鍛冶町の広い通りを進んでゆくと、右手に泰心院がある。創建は永禄10年(1567)に伊達14世稙宗夫人の菩提を弔う為に、伊達晴宗が米沢に堂宇を建立したのが始まりで、その後、奥州仕置きで政宗が岩出山に移封されると随行し、仙台開府と共に現地へ移された。泰心院の山門は旧藩校養賢堂正門(仙台市指定有形文化財)を移築したものとのこと。
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更に進むと、右側に毘沙門堂がある。「毘沙門堂は、寛永20年(1643)の造営とされているが、唐門の建築年代については、様式手法から江戸時代中期と推定されている。安置されている毘沙門天は藤原秀衡が運慶につくらせたと伝えられてる。
次に道路左側に仏眼寺が現れる。日蓮正宗(しょうしゅう)のお寺で嘉元3年(1305)に創建され、祈祷で政宗の病気を治した功で米沢に呼ばれ,以後岩出山、仙台と移った由である。初め上染師町にあったが寛永13年(1636)に火事で焼け、現在地に移った。3代藩主綱宗の側室,椙原品(すぎはらしな)の墓がある。
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国道4号線を北町交差点で渡り、左折して北目町に入って行くと、右側に二十三夜堂がある。
別当は天台宗北目山賢聖院(けんしょういん)で、延久元年(1069)北目(現在の仙台市太白区郡山)に創建され,その後荒廃したが,康暦2年(1389)北目館主藤原宗房の祈願により中興再建された。その後、慶長年間(166?1615頃)に伊達政宗が当地に移建している。午年生まれの守本尊「勢至菩薩」が祀られている。この二十三夜堂という名称は、月の化現である勢至菩薩の月縁日が23日であり,この夜に人々が集まって飲食をしながら月の出を待つ講(二十三夜講)を行ったことに起因する。
道路の左側を見ると、東北大学片平キャンパスに接して、通りからは玄関の赤い柱がよく目立つユニークな外観の建物がある。仙台の華僑会館である。
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北目町の交差点を直進し、丁字路にぶつかると、大日如来堂がある。柳町通りの名が残るこの辺りは、藩政時代のお茶屋の町で、伊達家が米沢領だった時代からの譜代町であった。
伊達政宗が仙台に城下町を造り出した慶長6年(1601)、大手門近くに町を構えたが、繁華街から離れていた為、都合が悪く、寛永4年(1727)に現在の地に移転。藩から茶の専売権を与えられていたそうである。
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終に、芭蕉の辻の交差点である。交差点の右前方には、日銀の仙台支店のビルがある。
左前方の明治安田生命仙台ビルの前に、芭蕉の辻のモニュメントと奥州街道の里程標が立っている。江戸時代に仙台の城下町の中心であった十字路であり、現在の仙台市青葉区に位置し、宮城県の道路元標(里程元標)が設置されている。
芭蕉の名の由来は、松尾芭蕉とは関係なく、伊達政宗のスパイとして働き、恩賞として辻の四隅の建物を授かった芭蕉という名の虚無僧が住んでいたからと、『封内山海名蹟記』に記されているという。
なお、里程標には、「南 江戸日本橋迄 六十九次九十三里、奥州街道」、「北 津軽三厩迄 四十五次百七里二十二丁」と刻まれていて、日本橋まで約366Km、三厩までは423Kmで、まだまだ先の方が遠いが、ともかく白河から続く仙台街道は歩き終えたことになる。
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仙台街道を歩き終えても、青葉城を訪ねずば、画竜点睛を欠くとばかりに、大町(おおまち)通りを青葉城の大手門に向かって歩いて行った。広瀬川に架かる大橋に達すると、橋の袂の右に林の中に降りる階段があり、降りてゆくと、仙台キリシタン殉教碑が建っていた。
1624(寛永元)年、ポルトガル人宣教師のカルバリオ神父をはじめとする9人のキリシタンが、
2月の厳寒期に広瀬川で、胸まで浸かる姿勢で杭に縛られるという水責めの拷問を受け、殉教した。残酷な歴史に翻弄されたキリシタン達を忘れることのない様に、1971(昭和46)年にこの像が建てられた。写真の真ん中の像がカルバリオ神父で。右の農民像と左の武士像で殉教者たちを象徴したのだそうである。
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下の2枚の写真は、下から見上げた大橋と、大橋から広瀬川の上流方向を写したものである。
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大橋を渡ると右側に、仙台国際センターの名で呼ばれる立派な外観のコンベンションセンターがある。その左手先は、三の丸堀跡である。
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さらに、緩やかな上り坂を登って行くと、再建された脇櫓があり、この先で左折して青葉城跡に進めるはずであったが、東日本大震災で、石垣も一部崩れていて残念ながら立ち入り禁止になっていた。
道路の反対側には、支倉 常長(はせくら つねなが)の銅像が建っていた。
支倉常長は伊達政宗の命を受け、スペイン人のフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロ(Luis Sotelo)を正使に自分は副使となり、遣欧使節として通商交渉を目的に180人余を引き連れスペインを経てローマに赴くことになった。石巻で建造したガレオン船サン・フアン・バウティスタ号で慶長18年9月15日(1613年10月28日)に月ノ浦を出帆し、太平洋、メキシコ、大西洋経由で元和元年(1615)にマドリードに到着し、スペイン国王フィリップ3世に謁見、当地でキリスト教の洗礼を受けた人物である。その後ローマで教皇パウロ5世に謁見して、ローマ市民権や貴族の称号を与えられたが、スペインとの通商交渉は成功せず、元和6年8月24日(1620)に帰国した。しかも、支倉 常長が出国の後には、キリスト教環境は悪化して、帰国した2年後に元和8年(1622)に失意の内に52歳の生涯を閉じている。
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まだ、2時過ぎであるが、久々の歩行で疲れ、国際センター前から仙台駅前までバスに乗った。ホテルにチェックインして、シャワーを浴びて生き返り、今晩会うことを約束していた、友人夫婦に電話した。その後は、ご夫婦と午後4時半に仙台駅近くで落ちあい、美味い料理と楽しいおしゃべりの良い時を過ごせました。本当に楽しかった!!


2011.05.16

寒川から中原御殿跡(平塚)・・・(旧奥州街道)

本日の万歩計23,717(15.4Km)・・・中原御殿跡まで

中原街道を歩く旅は5月16日に平塚の中原御殿跡に着き完了。

前回4月13日に寒川駅まで歩き、その後所用が生じ一ヶ月余り経過してしまった。この間に木々の新緑が美しく輝く季節となり、重い腰を上げて中原街道の最後の区間である、中原御殿跡に向かって歩くことにした。4回の歩行で、中原街道を歩き終えたが、前回に寒川駅に着いたのもお昼どきだったので、頑張れば3回で歩ける距離であった。
寒川駅を8時に出発して、すぐに国道47号線に出て進み、46号線を立体交差で渡る。
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下の46号線を走る車の流れが、金網を間からよく見える。そして、大門踏切前の信号で右折して踏切を渡ると、寒川神社の大きな一の鳥居が立っている。
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鳥居を過ぎると、新緑の美しい参道が続いていた。
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そして、2つ目の石造りの鳥居をくぐり、神社の境内に入って行く。まだ早朝で、大勢の方が参道の清掃を行っていた
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参道を歩いて行くと、天皇皇后両陛下の記念植樹があり、立派な門が建っていて、いよいよ本殿にたどり着く。
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寒川神社は、相模国の一之宮で現在でも初詣で名高い。創建は不詳だが、社伝によれば、雄略天皇の御代(456-479)の奉幣とのこと。また、一説には、天平神護元年(765)の建立といい他説では、神亀四年(727)の建立とも言われている。
とにかく、古くから鎮座している大社であり、高句麗系渡来人入植の地である高座郡に属することから、なんらかの有力な豪族が造営したものと推定されるとのこと。
祭神は現在、寒川比古命と寒川比女命だが、八幡神、澤女命、菊理姫命、素盞嗚尊・稲田姫命など、異説も多いらしい。
寒川神社の参拝を終え、もとの国道に戻り歩き始めると、直ぐに相模川の支流の目久尻川に架かる鷹匠橋を渡る。その先で相模川に架かる神川橋へのアプローチの坂道を上ってゆくと建設中の圏央道が右手にそびえていた。
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相模川は流石に大きな川である。そしてここに架かる神川橋の欄干には大山街道、田村の渡しと書かれている。昔は「田村の渡し」と呼ばれていた場所で、また大山街道と重なる場所でもあったようである。坂上田村麻呂が陸奥に向かうとくに立ち寄ったことから、田村の地名が生じたとのこと。
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橋を渡ると、右手下には「八坂神社」が鎮座していた。その先の旧田村十字路の交差点には、十王堂跡の石碑と古い道標が建っていた。
伝承によれば、天文6年(1537)、小田原の北条氏と川越の上杉氏が相模川で合戦となり多数の戦死者を出したので、妙楽寺の住職が弔いのため十王堂を建てたのだという。
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旧田村十字路で左折して進むと、田村の駒返橋跡の石碑があり、右に少し入ると二階建ての山門が立派な妙楽寺がある。足利基氏の開基とのこと。
なお、田村駒返橋は家康が鷹狩でこの地に来た時、大雨の後で道が酷く、田村の人々が畳を出して運行の便宜を図ったが、家康は田村の人々の苦労を慮って、ここから馬を返したと伝承されているとのこと。
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進むと、道は二股になって分かれている。この分岐点に「田村の一里塚跡」の説明板があり、南中原道、北奥州道の石碑が立っていた。また、その横には道祖神が祀られていた。道祖神のは前掛けがかけられ、果物も供えられ、大事にされているようである。
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一里塚跡の分岐で右の道を進むと直ぐに129号線に合流し、200mほどで再び左の道に分かれる。進んで行くと、左の小道を入ったところに相模国四之宮の前鳥(さきとり)神社がある。応神天皇の皇太子、菟道稚郎子命(うぢのわきいらつこのみこと)を祀っている。
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前鳥神社から129号線に向かい、その後は予め調べておいたルートに従って、複雑な経路を辿って進む。東真土(ひがししんど)3丁目に達すると、真土神社があり、また中原街道の大きな石碑が立っていた。この真土あたりが最も良く中原街道の面影を残しているところとも書かれていた。
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説明板の記述通り、細い小路が古道の僅かの残りに感じられた。古道らしい道は直ぐに終わり、住宅街の中を通る道路が続いている。
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進んで、129号線に中原二丁目北の信号で突き当たると、中原上宿遺跡の大きな石の案内板が立っていた。道路工事に伴い、弥生時代の住居跡、奈良平安時代の住居跡群などが見つかったと書かれていた。
ここで、右折して日枝神社に参拝し、Uターンして南に向かって進むと、平塚御殿郵便局が現れ、その先の中原宿高札場跡で右折する。
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突き当たりが平塚市立中原小学校で、その校庭に相州中原御殿之碑が立っている。慶長年間(1596?1615)、徳川家康が旅の宿泊場所として造営したもので、東海道の隆盛によりその役目を終え、明暦3年(1657)に至り、廃止されたとのことである。
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中原御殿跡を後にして、中原御殿の裏門を移設したという善徳寺を訪れ、中原街道の旅を終えることとした。平塚駅までは距離もあるので、バスを利用し、平塚駅ビルで昼食を摂り帰宅した。
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全体を通じての感想は、東京都、川崎市ならびに平塚市は遺構の保存にそれなりに注意を配っているが、横浜市はガッカリするぐらい遺構が残されていない気がしたことである。
横浜市は古い街道以外にも、みなとみらいなど売り物が豊富と言うことか?


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