2011.05.16

寒川から中原御殿跡(平塚)・・・(旧奥州街道)

本日の万歩計23,717(15.4Km)・・・中原御殿跡まで

中原街道を歩く旅は5月16日に平塚の中原御殿跡に着き完了。

前回4月13日に寒川駅まで歩き、その後所用が生じ一ヶ月余り経過してしまった。この間に木々の新緑が美しく輝く季節となり、重い腰を上げて中原街道の最後の区間である、中原御殿跡に向かって歩くことにした。4回の歩行で、中原街道を歩き終えたが、前回に寒川駅に着いたのもお昼どきだったので、頑張れば3回で歩ける距離であった。
寒川駅を8時に出発して、すぐに国道47号線に出て進み、46号線を立体交差で渡る。
samukawa_01.jpgsamukawa_02.jpg
下の46号線を走る車の流れが、金網を間からよく見える。そして、大門踏切前の信号で右折して踏切を渡ると、寒川神社の大きな一の鳥居が立っている。
samukawa_03.jpgsamukawa_04.jpg
鳥居を過ぎると、新緑の美しい参道が続いていた。
samukawa_05.jpgsamukawa_06.jpg
そして、2つ目の石造りの鳥居をくぐり、神社の境内に入って行く。まだ早朝で、大勢の方が参道の清掃を行っていた
samukawa_07.jpgsamukawa_08.jpg
参道を歩いて行くと、天皇皇后両陛下の記念植樹があり、立派な門が建っていて、いよいよ本殿にたどり着く。
samukawa_09.jpgsamukawa_10.jpgsamukawa_11.jpg
寒川神社は、相模国の一之宮で現在でも初詣で名高い。創建は不詳だが、社伝によれば、雄略天皇の御代(456-479)の奉幣とのこと。また、一説には、天平神護元年(765)の建立といい他説では、神亀四年(727)の建立とも言われている。
とにかく、古くから鎮座している大社であり、高句麗系渡来人入植の地である高座郡に属することから、なんらかの有力な豪族が造営したものと推定されるとのこと。
祭神は現在、寒川比古命と寒川比女命だが、八幡神、澤女命、菊理姫命、素盞嗚尊・稲田姫命など、異説も多いらしい。
寒川神社の参拝を終え、もとの国道に戻り歩き始めると、直ぐに相模川の支流の目久尻川に架かる鷹匠橋を渡る。その先で相模川に架かる神川橋へのアプローチの坂道を上ってゆくと建設中の圏央道が右手にそびえていた。
samukawa_12.jpgsamukawa_13.jpg
相模川は流石に大きな川である。そしてここに架かる神川橋の欄干には大山街道、田村の渡しと書かれている。昔は「田村の渡し」と呼ばれていた場所で、また大山街道と重なる場所でもあったようである。坂上田村麻呂が陸奥に向かうとくに立ち寄ったことから、田村の地名が生じたとのこと。
samukawa_14.jpgsamukawa_15.jpg
橋を渡ると、右手下には「八坂神社」が鎮座していた。その先の旧田村十字路の交差点には、十王堂跡の石碑と古い道標が建っていた。
伝承によれば、天文6年(1537)、小田原の北条氏と川越の上杉氏が相模川で合戦となり多数の戦死者を出したので、妙楽寺の住職が弔いのため十王堂を建てたのだという。
samukawa_16.jpgsamukawa_17.jpg
旧田村十字路で左折して進むと、田村の駒返橋跡の石碑があり、右に少し入ると二階建ての山門が立派な妙楽寺がある。足利基氏の開基とのこと。
なお、田村駒返橋は家康が鷹狩でこの地に来た時、大雨の後で道が酷く、田村の人々が畳を出して運行の便宜を図ったが、家康は田村の人々の苦労を慮って、ここから馬を返したと伝承されているとのこと。
samukawa_18.jpgsamukawa_19.jpg
進むと、道は二股になって分かれている。この分岐点に「田村の一里塚跡」の説明板があり、南中原道、北奥州道の石碑が立っていた。また、その横には道祖神が祀られていた。道祖神のは前掛けがかけられ、果物も供えられ、大事にされているようである。
samukawa_20.jpgsamukawa_21.jpg
一里塚跡の分岐で右の道を進むと直ぐに129号線に合流し、200mほどで再び左の道に分かれる。進んで行くと、左の小道を入ったところに相模国四之宮の前鳥(さきとり)神社がある。応神天皇の皇太子、菟道稚郎子命(うぢのわきいらつこのみこと)を祀っている。
samukawa_22.jpgsamukawa_23.jpg
前鳥神社から129号線に向かい、その後は予め調べておいたルートに従って、複雑な経路を辿って進む。東真土(ひがししんど)3丁目に達すると、真土神社があり、また中原街道の大きな石碑が立っていた。この真土あたりが最も良く中原街道の面影を残しているところとも書かれていた。
samukawa_24.jpgsamukawa_25.jpg
説明板の記述通り、細い小路が古道の僅かの残りに感じられた。古道らしい道は直ぐに終わり、住宅街の中を通る道路が続いている。
samukawa_26.jpgsamukawa_27.jpg
進んで、129号線に中原二丁目北の信号で突き当たると、中原上宿遺跡の大きな石の案内板が立っていた。道路工事に伴い、弥生時代の住居跡、奈良平安時代の住居跡群などが見つかったと書かれていた。
ここで、右折して日枝神社に参拝し、Uターンして南に向かって進むと、平塚御殿郵便局が現れ、その先の中原宿高札場跡で右折する。
samukawa_28.jpgsamukawa_29.jpgsamukawa_30.jpgsamukawa_31.jpg
突き当たりが平塚市立中原小学校で、その校庭に相州中原御殿之碑が立っている。慶長年間(1596~1615)、徳川家康が旅の宿泊場所として造営したもので、東海道の隆盛によりその役目を終え、明暦3年(1657)に至り、廃止されたとのことである。
samukawa_32.jpgsamukawa_33.jpg
中原御殿跡を後にして、中原御殿の裏門を移設したという善徳寺を訪れ、中原街道の旅を終えることとした。平塚駅までは距離もあるので、バスを利用し、平塚駅ビルで昼食を摂り帰宅した。
samukawa_34.jpgsamukawa_35.jpg
全体を通じての感想は、東京都、川崎市ならびに平塚市は遺構の保存にそれなりに注意を配っているが、横浜市はガッカリするぐらい遺構が残されていない気がしたことである。
横浜市は古い街道以外にも、みなとみらいなど売り物が豊富と言うことか?


2011.04.13

三ツ境から寒川・・・(旧中原街道)

本日の万歩計29,335(19.1Km)・・・寒川まで

もう40年近く前になるが、三ツ境は、結婚して家内と住み始めたところである。もちろん、駅とその周辺も様変わりで、駅舎も洒落た形のビルになっている。
中原街道が、地下で相鉄線の下をくぐっている地点に向かい街道に復帰する。小学生の通学時間帯であるようだ。
mitsukyo_01.jpgmitsukyo_02.jpg
進んで「二ツ上橋」の交差点には、三つの古い石碑と「二ツ橋地名由来碑」が建っていた。由来碑には、「二ツ橋」の地名の由来となった2つの歌が書かれている。
相模野の 流れも わかぬ川水を 掛けならべたる 二ツ橋かな
                  道光親王 文明十六甲辰年十一月詠
しみじみと 清き流れの清水川 かけ渡したる 二ツ橋かな
                  徳川家康 慶長十八癸丑年十二月詠
mitsukyo_03.jpgmitsukyo_04.jpg
さらには、中原街道碑も立っていて、右 八王子往来 左 神奈川往来と書かれている。
中原街道は車の通行の激しい通りとして続いている。 
mitsukyo_05.jpgmitsukyo_06.jpg
1.5Kmほど進んで、下瀬谷二の交差点を過ぎると、右側に「宗川寺(そうせんじ)」がある。「寛永2年(1625)に富士重須本門寺第12世日賢上人開山、石川宗川開基」とある。山門をくぐったところに二本の銀杏があり、「夫婦銀杏」として昔から安産祈願の信仰を受けている」とのことだが、今は桜が目立つ季節である。その先で、境川を新道大橋で渡る。
mitsukyo_07.jpgmitsukyo_08.jpg
境川を渡ると、大和市である。進んで小田急江ノ島線の踏切を渡ると、左手に十一面観音像がある。昭和11年10月、深谷村の秋祭りと大和村小学校の運動会の帰途、村人の乗ったオート三輪と江ノ島行き電車が接触し11名即死2名重傷の大惨事となった。冥福と安全を願い、有志の浄財により十一面観音像が建立されたとのこと。
mitsukyo_09.jpgmitsukyo_10.jpg
引地川を渡ると、ここの川べりも桜が満開であった。その後は、厚木基地で旧中原街道は分断されている。それで、基地の柵に沿って進むことになる。
mitsukyo_11.jpgmitsukyo_12.jpg
よく晴れ渡った日で富士山もよく見える。綾瀬大橋入口交差点で左折して厚木基地と別れ、1Kmほど進むと、左に「大法寺」があり、深谷の交差点を渡る。
mitsukyo_13.jpgmitsukyo_14.jpg
その先の深谷交番前交差点脇に庚申塔群があり、不動明王像も安置されている。
mitsukyo_15.jpgmitsukyo_16.jpg
3Kmほどひたすら進むと、東海道新幹線のガードをくぐる。単調な道が続くが、時々は桜の花が彩りを添えている。
mitsukyo_17.jpgmitsukyo_18.jpg
用田の交差点には、不動明王が乗っている古い道標がある。風化が進んで刻印された文字は全く消えてしまっている。
mitsukyo_19.jpgmitsukyo_20.jpg
開発しつくされて、歴史的な遺構も失くなってしまった道を進むが、ときには下左の写真のように、植木屋さんの面白い塀に出くわしたり、右の写真のような老舗らしい和菓子の店があったりする。
mitsukyo_21.jpgmitsukyo_22.jpg
木蓮の花が青い空に映える。そして岡田西の交差点で、新しく整備された道に出会うこととなった。時間は早いがここで切り上げることにして、相模線寒川駅に向かった。改札口は線路を跨ぐ駅舎にあり、幸いにも5分ほどで茅ヶ崎行きの電車が入ってきた。
mitsukyo_23.jpgmitsukyo_24.jpg


2011.04.04

武蔵中原から三ツ境・・・(旧中原街道)

本日の万歩計42,756(27.8Km)・・・武蔵中原まで

nakahara_01.jpg福島原発は、次々に新しい問題が発生して安定化に向けた作業が、遅々として進まない。
早く何とかならないかと、テレビにかじりついている訳にも行かず、中原街道歩きにでかけることとした。今日は、長年通い慣れた武蔵中原からである。もうリタイアした身にはあまり関係ないが、横須賀線の武蔵小杉駅ができ(南武線との乗り換えに歩く距離は長いが)自宅から楽に行けるようになった。
ともかく、南武線が高架になってから、駅の施設も全て上にあがり、外観からは駅としての主張は感じられなくなった。
街道に復帰して進むと、右側に大戸神社がある。祭神は手力雄命で1504年~1521年に創建したと伝えられる。狛犬が砲弾を抱いた姿で、神社の狛犬としては異色である。日露戦争を記念したものとのこと。
nakahara_02.jpgnakahara_03.jpg
武蔵中原駅に急ぎ足で向かう通勤の人々と逆方向に向かって、1Kmほど歩くと千年の交差点で、ここで右に上ってゆく旧道が残っている。旧道は300mほどで終わり車の往来の激しい新道に合流するが、また左に旧道が顔を出している。そして、道端に天照皇大神の大きな石碑と石仏が立っていて、古い街道を感じさせる。
nakahara_04.jpgnakahara_05.jpg
その後、また1Kmほど進むと久末(ひさすえ)の交差点で、ここから左に300mほど街道から離れて、妙法寺を訪ねた。天台宗の寺院で永禄5年(1562)開山。境内に元禄6年(1693年)重い年貢に耐えかねて久末村に起きた門訴事件の犠牲者供養のための久末の義民地蔵が安置され、毎年7月24日の地蔵盆の日に追善供養が行われている。
nakahara_06.jpgnakahara_07.jpg
街道に復帰して進み、第三京浜を潜ると、左手に「鎌田堂」が建っている。 由来碑によれば、堂の背後は鎌田兵衛正清の館跡でこの名がある。もとは観音像を安置していたが盗まれ、寛文13年(1673)に地蔵を建立した。寛永から安政(1624~1859)の頃には念仏道場として繁栄し、「道場坂」の名を残した。
nakahara_08.jpgnakahara_09.jpg
鎌田堂を過ぎ、向坂の交差点で右の旧道に入って行く。300mほど進むと、右手の石垣に階段があり、上に「のちめ不動尊」がある。ご本尊は不動明王像で、口伝によると甲州武田家の守り神であった由緒あるもので、修復時に天保2年卯月(1831)志村又右衛門源貞口「甲州出身の領主」の銘が発見されているという。文久4年のちめ城山の住人が八王子(武田遺臣居住地)から背負って勧誘したと言われていつとのこと。
nakahara_10.jpgnakahara_11.jpg
旧道は、車があまり通らないので大通りより、歩いていて気持ちが良い。しかし、700mほどで新道に合流すると、直ぐ右手に山田神社の真新しい石の鳥居が建っている。
nakahara_12.jpgnakahara_13.jpg
山田神社は、平安時代の創建と書かれていたが、由緒はあまりハッキリしないようだ。先の鎌田堂の鎌田兵衛正清の居城跡らしいとのことで、とにかく参道が長い。なお、鎌田兵衛は源義朝の家臣であったようだ。
下の右の写真は少し先にある「清林寺」で、境内の「シラカシ」が横浜市の名木古木に指定されている。
nakahara_14.jpgnakahara_15.jpg
早瀬川を勝田橋で渡り、200mほど進むと道は二股に分かれていて右側が旧道であるが、旧道は少し先で港北ニュータウンの造成で途切れているので左の新道を進む。
nakahara_16.jpgnakahara_17.jpg
少し進むと、右側に国の重要文化財に指定されている関家住宅がある。関家は後北条氏に仕えた地侍で、徳川時代は代々名主を務め、江戸末期には代官も兼ねたという。そして、22代当主の関恒三郎氏が今も居住されている。住居は非公開だが、年に一度は公開されているとのことである。
nakahara_18.jpgnakahara_19.jpg
本宅内部の詳細は分からないが、長屋門も立派で、使用人の居住に使われていたらしく、玄関まで付いている。
nakahara_20.jpgnakahara_21.jpg
関住宅を過ぎると、港北ニュータウンを初め、新しく開発された近代的な住宅ビル群が続く。この後、横浜市営地下鉄のガードを潜り(地下鉄の線路が郊外では高架になっている)、向原と、大塚原の交差点を通って進んで行く。ここから佐江戸の交差点までは、道路はほぼ真っ直ぐで、アップダウンしながら続いている。ベッドタウンとして開発されつくされたためか、歴史的な遺構も残っていない。
nakahara_22.jpgnakahara_23.jpg
4Kmほどひたすら歩いて、佐江戸の交差点の到達直前で右手に、東漸寺が現れた。お寺の立地数が少ないように感じる。佐江戸の交差点を通り過ぎて、地蔵堂前の信号に突き当たり右折して進むことになるが、ちょうどお昼時で、この近くのレストランで昼食を摂った。その後進むと、看板屋さんの前に東日本大災害の大きな応援看板が建てられていた。
nakahara_24.jpgnakahara_25.jpg
いよいよ落合橋で鶴見川を渡る。鶴見川は、この辺りでもあまり綺麗な流れとは言い難い状況である。
nakahara_26.jpgnakahara_27.jpg
少し進むと、横浜線を跨ぐ。宮の下の交差点を過ぎると坂道になり、上って行く。左に広々とした長坂谷公園があった。
nakahara_28.jpgnakahara_29.jpg
坂を上り詰めると、左にショッピングセンターもあり、賑やかな通りになる。進んでゆくと、右には四季の森公園があり、横浜動物園ズーラシアにつながる動物園入り口の信号もある。
そして、都岡町の交差点を過ぎると左に三蔦神社があり、参拝した。神社境内の桜は、まだ2分咲ていどであったが、街道に戻って先に進むと、花が小ぶりで種類が違うが美しく咲いているのも見られた。
nakahara_30.jpgnakahara_31.jpg
保土ヶ谷バイパスを潜ると、左に旧道への階段がある。予習してあったので、直ぐに分かったが、立て札もなく階段上も放置された道路の感じである。せめて案内板を設置するよう横浜市の教育委員会にはお願いしたいと思う。
nakahara_32.jpgnakahara_33.jpgnakahara_34.jpg
くねくねと続く旧道は、歩きよい道であるが特に撮影対象も見当たらず、西武病院入口の信号で新道に復帰する。進むと、車道、歩道ともに相鉄線をくぐって進んでいる。
まだ、二時半だが、今日はここまでと左折して線路際の道路を三ツ境駅に進み帰宅した。
コブシの花が、青い空に映えて美しく咲いていた。


« Previous | Next »