2011.10.11

金成から一関・・・(旧奥州街道)

本日の万歩計37,616(24.5Km)

金成から一関歩行ルート

くりこま高原駅に8時25分に到着した。これが我が家からの一番早い到着である。
金成総合支所行のバスは、9時20分であるので、一時間弱待つことになる。コーヒースタンドすら無い駅で時間を潰すのに苦労するが、街道歩きではよくあることである。待っている間に、鴈の群れが飛んで行くのが何度か目に留まった。最近は、鴈が飛んで行くのを見かけなくなったと思っていたが、この辺りでは度々見かけるようである。バスで金成に向かう途中も見かけたし、取り入れの済んだ田んぼで鴈の群れが羽を休めているのも何度か見かけた。
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バスは、仙台からくりこま高原駅を経由して金成行きで、高速バス仕様で快適です。しかし、乗っていたのは、金成の手前で降りた人と私の2人のみ。10分ほどで金成総合支所に着き、歩き始めた。
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300mほどで国道4号線を横切ると、いよいよ金成宿に入って行く。右手の民家の前に「鈴木文治ここに生きる」と書かれた大きな石碑が建っていた。鈴木文治は、明治18年、酒造業の長男として生まれ、地元金成小、古川中学校、そして東京帝国大学を出て、大正昭和期の労働運動家の草分け的存在で、日本労働総同盟の会長を務め、最初の普通選挙(1928)で衆院議員当選。戦後は、日本社会党結成に参加して顧問となった人である。
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進むと、風情のある連子格子の「なべや呉服店」が目に付いた。ここで、左の方の小道を進むと「金成ハリストス正教会」の高さ7メートルを誇るの鐘楼が見えてくる。
慶応4年(1868)に金成町上町の医師酒井篤礼が土佐の藩士澤辺琢磨らと共に函館で聖ニコライから洗礼を受け明治2年になって布教を始めたが、明治5年仙台と函館で起こった教会への弾圧のため捕らえられて郷里に送られ、親戚らに預けられ禁足処分となる。
何度か仮会堂を建設したが、破壊されたたり焼失したりした後、篤礼の甥・川股松太郎宅を仮祈祷所とし、明治38年(1905)に教会を建立。昭和9年(1934)に現聖堂を献堂したものである。平成12年(2000)には全面的修復が施され、10月にセラフィム辻永主教座下ご臨席のもと成聖式が行われたとのこと。
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教会のとなりには、「けやき会館」がある。333席の大ホールの他、研修室、会議室、娯楽室等がある。ここは、仙台藩の代官所があったところで、金成代官所は三迫と三迫29カ村流郷(花泉、永井、涌津、奈良坂)を管轄していていたとのこと。庭には、栗原市の指定文化財のケヤキの大木が立っていた。
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また、敷地内に「明治大帝行在所御遺址」の碑が立っていた。
けやき会館の奥には、宮城県指定有形文化財の明治20(1887)に建造された旧金成小学校がある。正面玄関上のバルコニー等、洋風建築の要素を取り入れた木造2階建の校舎で昭和50年代までは金成小学校の校舎として現役で使用されていた。現在は金成歴史民俗資料館として
一般公開されているが、残念ながら休館日であった。
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歴史民俗資料館の右手方向に進むと日枝神社がある。創建は不詳だが案内板によれば、元は山王神社とも称されていて、拝殿は入母屋の瓦葺きで、正面に大きな千鳥破風の向拝を設け、さらに唐破風が付き、細部意匠の点から江戸末期の建造と推定されるとのこと。また、県指定文化財となっている。ながい参道を逆にたどると、旧街道に出るので、進むと左手に金成公民館があり、その前に「金成宿本陣跡」の案内板が立っていた。代々菅原家が本陣を勤め、十貫文(百石)以上の土地を持ち、苗字帯刀をゆるされて大肝入(郡長)を勤めていた。なお、本陣の大きさは有壁宿の本陣の660平方米より大きく1,071平方米であったとのこと。
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街道を進んで、左側に金成小学校の大きな看板が見えてくると、その先で「奥州街道」の小さな道標がある。ここで右折して、国道4号線を横切り、新町大橋を渡る。
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橋を渡って左折し、川に沿う感じで進む。やがて道は大きく右折して、徐々に上り坂となる。民家の側には石仏が並んでいるのが見える。この坂道は夜盗坂(よとうざか)と呼ばれていた坂道である。
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進んでゆくと、左側に牛舎があり、20頭ほどの牛がのんびりと過ごしていた。その後、上り坂が終わりに近づいたところに、「奥州街道」の道標が立っていて、右側の草道を指していた。
事前の予習では、旧街道は途中で消えているとのことであったので、その後有志の方々が整備された可能性を感じながらも、今日は朝の出発は10時近くと遅く、一関までの行程を考えると、あまり余裕はないので安全サイドを取って舗装道路を進むことにした。
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夜盗坂を過ぎると、左側の見晴らしが開けて、栗駒山が見えてくる。更に、進むと東北自動車道が眼下に見える。
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その後、坂道を下って東北自動車道を潜り金成末野集落が近づくと、道の両側に「奥州街道」の道標が立っていた。夜盗坂の頂上付近に立っていた「奥州街道」の道標に従って進めば、この地点に繋がっていたのではとも考えられる。今となっては致し方なく、左側の道標に従って進むと「新鹿野一里塚」の説明板が立っていた。
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のどかな集落を緩やかに下って行くと、金流川が流れていて大橋を渡る。
その先の「JA栗っこ金成種子センター」が建っている十字路には、右方向を指す「奥州街道」の道標があるが、ここも予習に従い安全サイドと、右折せず真っ直ぐ進む。
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進むと、上り坂となり本来の街道筋とは、異なるが「十万坂」である。十万坂は、源義家が衣川柵の阿部貞任を攻略した前九年の駅の時、ここで10万張の弓矢を作り、衣川に向かったことから、この地名となったとのこと。
お昼時間になったが、当然食堂など望むべくもない場所である。コンビニで買っておいた おにぎり、菓子パンで道端の草むらに座り込んで食事とする。
食事を済ませて進むと、金成簡易水道の設備があり、両側に木々が茂る、道路が続いていた。
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道端には、アケビが実っていた。そして進むと、右側に「明治天皇東北御巡幸御野立休憩所」の表示杭が立っていた。
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表示杭脇の簡素な階段を上ると、3.11の大震災のためか表示部分が落下した石碑がその姿を晒していた。また、ここは旧田村藩と旧伊達藩の鏡界であったことを示す表示板が立てられていて、丸太とコンクリートブロックを利用したベンチが作られていた。訪れる人がいるのだろうか。
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ようやく、道の両側の林の木々も薄まってきたところで、特長のある分岐に差し掛かった。真ん中に道標があり、左の道を進む。少し下ると、左の林の中に幾つかの石仏・石碑が見受けられた。
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金成からの長い長い山中の歩行を重ねて、ようやく有壁宿の入り口に達した。坂を下ると、東北本線の踏切である。
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踏切からは、左側に有壁駅が見える。踏切を渡って左折して駅に向かう。小さな無人駅である。
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駅から駅前通りを見ると、左側に「佐藤旅館」の看板と、建家が目についた。佐藤旅館の看板の下には「河北新報」の看板も見える。新聞取次も兼ねているのだろうか。
なお、河北新報は、明治維新の際に薩長から「白河以北一山百文」(白河の関より北は、山ひとつ100文の価値しか持たないの意)と蔑まれた東北の意地を見せるべく元の「東北日報」から「河北」と改題して明治30年(1897)1月17日に創刊したという。
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元の街道に戻り、県道187号線との十字路の左側に、萩野酒造店がある。日輪田(ひわた)と萩の鶴の銘柄の酒を主銘柄として、出荷しているとのこと。創業は1840年頃で本陣の分家にあたり、脇本陣も勤めていたという。レンガ作りの高い煙突が目立つ酒造である。
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少し進むと有馬川が流れており、渡ると右側に有壁宿の本陣がある。現在の建物は、延享元年(1774)に改築したもので、街道には、軒の高さが異なる木造2階建て切妻平入りの長屋が2棟、隣接して御成門がある。御成門は通常は開門されず、大名や皇室など身分が高い人のみが利用され、門を潜ると本陣の玄関が張り出し車寄せのようになっていて、入母屋の屋根が格式の高さを現している。貴重な遺構として昭和46年(1971)に国指定史跡に指定され、宮城県重要文化財にもなっている。
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本陣の御成門入口脇には「明治天皇有壁御小休所」と「明治大帝御駐輦所蹟」と刻まれた石柱が建っていた。明治9年と明治14年の奥羽巡幸の際に、ここで休憩されたとのこと。
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有壁本陣は、今も佐藤鐵太郎氏が戸主として同一敷地内の住居に住んでおられ、日曜日のみ公開されているようである。本陣以外にも、旧有壁宿の家屋は、皆大きく立派である。
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有壁宿の出口に付近に真新しい鳥居と並んでその右に曹洞宗円通山観音寺がある。大同2年(807)に坂上田村麻呂が三上大明神本地観音を建立し、伝教大師が別当有壁山円通院として開山したと伝えられている。一時は坊舎が24坊を数える大寺院であったが衰退し、中世一帯を支配した菅原長尚が弘治3年(1557)に中興開山したとある。
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少し進むと、年配の婦人が何処に行くのかと尋ねてきたので、山を越えて一関に向かうと答えたら、本当に山は越えられるのか、私達も山を越えて行ったことはないと話してくれた。
本当にダメそうなら引き返しますと答えて進むと、今度は年配の男性が、話しかけてきて山越えで一関に向かうとの話を聞いて、マムシが出る可能性もあるので注意して行きなさいと、恐ろしいことを言う。礼を言って進むと、右に道が別れるところに「奥州街道」の道標があり、真っ直ぐ進むことが示されていた。民家の右脇には、溜池があり鴨が泳いでいた。
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少し進むと、伊勢堂林道の表示杭が立っていて、ここからは舗装道路ではなくなる。更に先に進むと、「甲州街道」の見慣れた道標があり、左の林の中に入って行く。市乃関方面・奥州街道と赤字でかかれた道標も立っていた。
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進むと、落ち葉の降り積もった柔らかい道の上り坂で、肘曲り坂と名が付いている。さらに、少し進んで坂道の勾配が緩やかになった辺りからは、草道となる。
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林を抜けると、田圃があり、その向こうに農作業小屋がある。予習しておいた通りである。
小屋の前を通って進むと、また林の中の道となる。
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上って行くと、左側が少し開けて明るくなるが、進むと「奥州街道」の道標とともに「県行林」の標柱が立っていた。この辺りが宮城県と岩手県の県境のようである。
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この県境で道が丁字路になっていて、道標に従って左に進むが、ここからは特に人の通った形跡が薄い感じで、先程聞かされたマムシに気を付けろが現実味を帯びてくる。
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進むと、岩手県の県行造林、水源かん養保安林、ゴミの不法投棄の禁止などの表示板がまとめて立っていて、ここからは車の轍のあとが見える様になったが、道路はぬかるみ加減で、相変わらず歩き難い。
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まだ、10月の中旬に差し掛かったところであるが、山肌は多少色づき始めており、また名は知らないが赤い実を付けた木があったりで、緊張した気持ちを和らげてくれる。
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前方の視界が開け、左側に(株)ミチノクの一関営業所が見えてきた。この辺りは、一関真柴祈祷地区である。
県道に突き当たり、県道を進むと、「鬼死骸」と書かれたバス停があった。地名としては恐ろしげな名前であるが、坂上田村麻呂が、ここで鬼退治をして、その死骸を埋めたという伝説があり、それが村名となったという。かつての磐井郡鬼死骸村のあったところである。
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田村麻呂が退治した鬼とは、大武丸の一党で、ここに追い詰めて成敗した時に、その死骸を埋めた上に置いたと伝えられる巨石が右の田んぼの中にある。
少し先で、左折して東北本線を横切り線路を右に見る道を進むと、左側に「明治天皇小次遺趾」碑が立っていた。
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1Kmほど進んで、東北本線のガードを潜り、県道に合流して進むと、豊吉の墓がある。
天明5年(1785)に斬罪に処された豊吉の遺体を解剖した一関藩医らが、その由来を刻して解剖の事績とし、豊吉の霊をとむらったもの。大槻玄沢に代表される一関藩領の蘭学の浸透を伝える貴重な歴史資料と評価され、県有形文化財に指定されている。
1.5Kmほど進んで、新山川を渡ると、左に東北本線を潜るガードがあり、県道から左に逸れて進むと、瑞川寺の階段が見えてくる。
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階段の途中に、「残菊に 日当たると見て 家に入る」という佐知子句碑が建っていた。佐知子は本名横山幸子で、大正12年に東京で生まれるが、父の急逝で昭和2年に一関に戻り、後に再び東京に出て結婚、俳人として活躍していたが、昭和61年1月5日に癌のため亡くなり、生前の本人の希望により、父母の眠るここ瑞川寺に分骨埋葬されたとのこと。
同じく境内に衣関順庵(きぬどめじゅんあん)先生顕彰碑がある。一関生まれの江戸中期の眼科医で、江戸の渡辺立軒に就いて眼科を修めたが、漢方眼科に疑問を抱き、動物眼のちには人眼を剖検して研究し、プレンキ原著の蘭訳眼科書を読んで『眼目明弁』(1810)を著し、また紙製の眼球模型を作って門弟に眼科を教えたという。
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階段を上りきると瑞川寺の本堂である。
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県道に戻り進んで吸川を渡ると、祥雲寺の階段が左に現れる。祥雲寺は、仙台・伊達藩の内分分知分家の一関・田村藩の菩提寺である。
南無観世音菩薩の幟が参道の両側に立っていた。上って行くと途中で細い道路を横切るが、これが旧奥州街道であったとのこと。
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更に階段を上った境内に、一関藩に仕えた医師の建部(たてべ)清庵の顕彰碑が立っていた。
享保15年(1730)19歳で仙台に遊学しその後藩主に学費を賜り、江戸に遊学する。寛延元年(1748)37歳で家督を継ぐが、この頃飢饉が続き、有害な草木を食して死亡したものもあり、これを嘆き悲しみ施薬調合の良法を研究し、「民間備荒禄」と食用植物を分り易く示した「備荒草木図」を著したことが、説明板に記されていた。正面の本堂も小振りながら凛とした趣がある。
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境内を左に進むと、鐘楼があり、その先に保性院殿廟がある。廟の中には保性院の木像が安置されている。保性院は、伊達兵部宗勝の母で寛文9年(1669)に没し、先に宗勝が開基した豊谷寺に葬られ、後にお霊屋を建立し厨子を造って坐像を安置し供養したものである。
文政10年(1827)3月豊谷寺は火災にあい、明治維新に際し廃寺となった後、ここ祥雲寺に移されたものである。
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更にその先には、祥雲寺一切経蔵がある。天明8年(1788)当寺第8世陵霄和尚の開基になり第10世亀山和尚の代文政11年(1828)に完成した。内陣中央に八角形の転輪経蔵を据え、鞘堂は軸組、小屋組を二重の構架にし厚い土壁をまわしているのが特徴である。
一切経蔵脇にも幕末に和算に優れ、藩主から御下賜金と門人の寄付金で算学道場を創設して和算の興隆に勤めた千葉胤秀の顕彰碑が建っていた。
祥雲寺の裏手の山は一関藩主、田村家代々の墓所となっていて、石の階段が続いている。
寛文11年(1671)の伊達騒動により伊達兵部宗勝が失脚し一関藩は改易されたが、その後、天和2年(1682)に田村建顕が陸奥岩沼より移り、再び一関藩を形成した。田村家は、仙台藩2代藩主伊達忠宗がその子宗良に母・愛姫の実家である田村氏を再興させたのに始まる。以降一関藩は、明治維新まで190年続く。
境内を一番左に進んだところに、長谷観音堂が建っている。田村建顕が一関藩主として岩沼から一関に移封されたとき、岩沼の長谷山大慈寺から移したもので、西磐井三十三観音の十番札所として江戸時代から庶民の崇敬を受けてきたという。階段両側の幟旗もこの観音のためであった。
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伊達兵部宗勝が、菩提寺として寛永18年(1641)に豊谷寺を建立したが、伊達騒動で兵部が土佐に配流されてからは衰退の一途をたどり、明治に至り廃寺となった。
祥雲寺16世は、廃寺に放置されていた兵部一族や家臣、住職などの墓石の状態を憂え墓石を引き取り供養塔として配置したものである。塔の中央部分が3.11の大震災で崩落している。
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祥雲寺の次は願成寺である。山門が立派である。水沢の正法寺二世月泉大和尚九番目の弟子、梅栄元香大和尚によって至徳2年(1385)4月8日に開山された。境内には、伊達騒動で知られる伊達兵部宗勝とその一族の墓の他、一関藩校教成館初代学頭の関養軒、豪商の菅原、磐根家、熊文家、俳諧の金森家、第九代横綱秀ノ山などの墓がある。
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県道を進むと、八幡宮の石の鳥居が左側に建っている。康平4年(1061)源頼義が安部貞任征伐のため篠見山に出陣、合戦の勝利を祈祷し八幡宮を勧請したのを寛文2年(1662)伊達兵部宗勝が現在地に遷座したものである。鳥居を潜ると、かつて一関城があった釣山の山麓を上る長い参道があり、本殿に至る。残念ながら本殿の撮影が失敗して、ここに載せられない・・・
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八幡宮の本殿脇を通って進むと、釣山公園の方に進むことが出来る。一関の市街が良く見える。
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今は市民の憩いの場として整備されているが、公園の頂上が一関城址である。
なお、釣山は坂上田村麻呂の東征に際し陣を張ったと言われ、その後天喜年間(1053-1057)に安倍貞任の弟磐井五郎家任が砦を築く。さらに源頼義、義家親子も陣を張ったと言われていている。時代は進んで伊達政宗の十男宗勝が伊達藩から独立し一関藩三万石となるが、その後、一関藩主になった田村氏は一関城に入らず、その麓の現在裁判所のある辺りに陣屋を築く。旧一関城一帯は田村氏の陣屋の背後にある為、一般の人は入る事が許されなかったそうである。
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ようやく、今日の行程を終え、一ノ関駅前に到着した。時刻は16:44分であった。
今晩の宿は、駅前のサンルート一関を予約してある。食事を済ませ風呂に入って、サッカーのタジキスタン戦を見ることにする。


2011.09.27

築館照越から栗原金成・・・(旧奥州街道)

本日の万歩計26,812(17.4Km)

築館照越から栗原金成歩行ルート

古川駅前のホテルで一泊して、朝7時5分発のミヤコーバスで、昨日古川駅に戻るために乗車した築館照越の「神田バス停」に向かう。昨日の写真では小さくしか写っていなかったので、荒谷宿の入り口で、バスより斗螢稲荷神社参道入口の看板を撮影した。「剣聖 千葉周作生い立ちの地」の文字も見える。
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神田バス停に着き、100mほど戻って「奥州街道」の道標に従って、高速道路のガードを潜って進む。
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ガードを潜って右に曲がり、坂道を上って行くと、静かな郷の風情である。途中にラブホテルがあるのはいただけないが、ここを過ぎると下り坂となる。
1Kmあまりで三叉路に達すると、また「奥州街道」の道標が導いてくれる。
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三叉路で右に進んで赤沢を赤坂橋で渡り、左折すると右側にまた街道標識があり、細い道路が続いている。
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細い道路を上って行くと、国道4号線に合流し、少し進んで左折し築館薬師地区に入って行く。
左に「双林寺」のある小高い丘が見えてくるので、参道に入って行く。階段脇には寺名碑が立っているが、右に杉林の参道があるので、そちらを進む。
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見事な杉並木の参道で、片側には石仏が並んで配置されていた。
このお寺は、天平宝字4年(760年)に孝謙天皇の勅命で開創され、天台宗の伽藍48坊を構える医王山興福寺といわれていた。その後、度重なる火災で一堂を残すだけになり、天正19年(1591)に再建されて「双林寺」と改称、宗派も曹洞宗になったとのこと。
現在の建物は蛙股造り方八間の堂で、釘を一本も使わず、くさびでしめている寛政年間(1791~1798)の建築とみられるとのこと。石越村(現在の宮城県登米市石越町)の大工・菅原卯八師の建造といわれている。
この薬師堂では、毎年11月3日文化の日に開催される「つきだて薬師まつり」の「藤原一族薬師まいり」のハイライト「御礼の情景(儀式)」が行われるとのこと。
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薬師堂の脇を進むと、現在の双林寺の本堂が建っていた。新しい建築である。
双林寺を後にして、築館の市街を進む。古い町を感じさせる街並みである。
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市街を抜けると、宮城県栗原合同庁舎がある。この先で国道4号線に合流して、一迫川(いちはさまがわ)を留場橋で渡る。一迫川は、栗駒山(1627m)の三つの峡谷の一つを源流としていて、これから二迫川(にのはさまがわ)、三迫川(さんはさまがわ)が現れてくる。
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一迫川を渡ると、しばらく国道歩きが続くが、旧市街の凋落に反して新しいお店が賑やかに並んでいる。日本中で見られる現象である。
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国道を進んで行くと、1Kmほど先で国道は右にカーブしているが、街道は真っ直ぐ進んで宮野郵便局の次の信号で右折して、宮野宿に入って行く。
直ぐに皇太神社がある。赤い鳥居を潜ると、急な石段が続いている。
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階段を上ると、本殿がある。前に停まった車が邪魔だが、よくある光景である。
この神社は、上古時代第三代安寧天皇の第一皇子がこの地に降臨し、村里を開き宮殿を営み、長年居住して郷号を迫として、第五代孝照天皇の丙申年(838)に皇大神社を勧請したと伝えられている。安寧天皇といえば『古事記』『日本書紀』に伝えられる第3代天皇で、即位は紀元前510年とされるので、とても古い歴史の神社である。
宿を進んで行くと、旧家らしい家も建っていた。
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なかなか綺麗な家並みが続く。
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宮野宿の出口には、左手に能持寺がある。参道には石仏も並べられていた。
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直ぐに、国道4号線に合流し、最初の信号で左折して北に向かって進み、城生野(じょうの)地区に入って行く。
あちこちで稲の刈り取り機がエンジン音を上げている田園地帯を進んで行くと、照明禅寺がある。境内に「伊治城(これはるじょう)跡とその出土品」の説明板があり、伊治城の位置、形状、規模は明確でないが、北東に空壕(長さ300m、幅19m、深さ3m)が現存するので、この城生野台地の一角に造営されていたことは確実と書かれていた。
神護景雲元年(767)律令政府が蝦夷(えみし)を治める政策の拠点として造営した城柵である。
また、宝亀11年(780)には蝦夷出身の上治郡の大領伊治呰麻呂(これはり/これはる の あざまろ)が伊治城で按察使の紀広純と牡鹿郡大領の道嶋大盾(みちしまのおおたて)を殺害するという反乱(宝亀の乱)が起こった。さらに反乱軍は多賀城まで攻め上り略奪し放火した。この事件の後、律令政府は、多くの物と人を使って、「蝦夷討伐」を開始し、延暦21年(801)に蝦夷の阿弖流爲(アテルイ)を降伏させるまで4回の遠征を行っている。
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照明寺を出るとの、築館城生野(つきだてじょうの)の集落である。
やがて、道は緩やかに右にカーブしているが、この辺りが伊治(これはる/これはり)城跡で、広大な伊治城の外郭の北辺に当たるところである。そして、正面には富野小学校が見えてくる。
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富野小学校に突き当たり、街道は左に直角に曲がる。ここからは砂利道で、進むと簡易舗装ではあるが、細い道で歩行者と自転車のみが通行可能と思われるものとなった。
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進むと、芋埣(いもぞね)川にかかる鉄製の橋を渡る。
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さらに進むと、二迫川(にのはさまがわ)に架かる人道橋を渡る。こちらの橋の方が、幅は広いが薄い鉄板を敷き詰めた橋で、歩くと振動音が響く。やはり、人の通行のみ可能な橋である。
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二迫川をわたり進むと、広い田園地帯となる。左の方を眺めると、遠くに栗駒山が望まれ気持ちが良いが、陽射しが強く少々暑くもあった。
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広大な田園地帯を通りぬけ、熊川に架かる根岸下橋を渡る。橋の4つの親柱には牛若丸像が設置されている。2種類の像で各2体づつであるが、奥州街道らしい試みである。
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熊川の流れに沿って下って行くと、左側に「来光宝山 照明寺元墓苑」、「曹洞宗源昌山 常現寺跡」の石柱が立っていた。
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常現寺跡に続く道には、石仏が残っていたが、寺跡は広場になっていて、その奥は墓地であった。なお、ここには、かつて富城があったとのことであるが、ハッキリしない。
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先に進むと、国道4号線を横切り、築館から金成姉歯(かんなりあねは)地区に入って行く。
金成姉歯地区は、史跡が多いところと見えて、道路脇に栗原教育委員会の史跡案内板が立っていた。
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国道に合流して、2Kmほど進むと右に旧道が続いていて、進んで三迫川(さんはさまがわ)を達田橋(たつだばし)で渡る。右の写真は三迫川の下流方面である。栗駒山(1627m)の三つの峡谷を源流として、一迫川、二迫川と続き、この川が最後の三迫川である。下流で合わさって、迫川となり、さらに旧北上川となって海に注ぐ。
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この辺りの三迫川は、ホタルの名所であり、橋の歩道の縁にはホタルの絵が描かれていた。
橋を渡って、右に折れ進むと、旧奥州街道78番目の宿場・沢辺宿である。
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廃線となった「くりはら田園鉄道」のレールが残っていた。元の鉄道の栗原電鉄は、大正10年(1921)に石越 – 沢辺間(8.85km)で開業され、昭和17年(1942)に石越から細倉鉱山までの全線が開通し、旅客輸送と共に、細倉鉱山で採取された鉱石や沿線で収穫された穀物などの貨物輸送を担っていた。その後幾多の変遷を経て、1995年に至り、栗原電鉄はくりはら田園鉄道として第三セクター方式で再出発した。しかし、経営悪化から2007年3月31日をもって廃止されたのである。
左側に栗原市役所金成総合支所の立派な建物が見えてきた。時刻はまだお昼頃であるが、この先は交通の便が悪いためと、久しぶりの歩行で足が痛く、今日はここで打ち切ることとした。
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ここから高速バスが出ているので、くりこま高原駅に向かう積りであるが、13時15分まで1時間ほど間があるので、近くの食堂に入り昼食を摂った。ランチ定食680円の食事である。
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くりこま高原駅の全景である。東北新幹線の単独駅であり、駅前には市街はまだ形成されていない。1日の乗車は約1,000人である。金成で食事をして良かった。ここでは、食堂はもコーヒースタンドもない。
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くりこま高原の駅前は、モニュメント広場となっている。大きな水車は直径10mで「民心豊楽」と書かれており、昭和44年(1965)に知事に当選した「山本壮一郎」が、栗駒地区の農地の整備をし、この地区の町の大々的な開発をしたことが刻まれていた。
また、中型の水車は直径3.5mで、水車小屋付きの小さな水車は直径2mで造られている。
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さらに、駅前広間には栗原郡若柳町生まれの政治家で「くりこま高原駅」誘致に尽力した長谷川 峻(はせがわ たかし)の胸像も設けられていた。しかし、駅前広場は全く手入れをしていないと思われる状態で、草は伸び放題、タイルの目地からも雑草が顔を覗かせていた。
駅に入ると、「ひとめぼれ」の宣伝の人形が立っていた。古川駅は、「こしひかり」の顕彰の銅像であったが、やはりこの地方は米どころである。
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13時57分発のやまびこで東京に向かい帰宅した。


2011.09.26

古川から築館照越・・・(旧奥州街道)

本日の万歩計40,003(26Km)

古川から築館照越歩行ルート

暑さ寒さも彼岸までとは、よく言ったもので何時まで暑さが続くのかと思っていた今年の夏もお彼岸が近づくと急に涼しくなってきた。そこで、暑い夏の間お休みしていた街道あるきを始めることとした。
東京駅6時4分発の「やまびこ51」に乗り古川駅には8時14分に着く。駅から表にでると正面に「ササニシキ」をたたえる親子の像が目についた。稲束を捧げる子供と母親の像である。
振り返って見る「古川駅」は、大正2年に陸羽東線の「陸前古川駅」として作られ、昭和57年の東北新幹線開通に伴って「古川駅」となった。
なお、陸羽東線(りくうとうせん)は、宮城県遠田郡美里町の小牛田駅(こごたえき)から山形県新庄市の新庄駅までを結ぶJR東日本の鉄道路線で、2両編成のディーデルカーが走っていて「奥の細道湯けむりライン」の愛称が付けられている。
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前回、奥州街道より離脱した十日市の交差点に向かい、北に向かう街道に復帰する。歩道も広く気持ち良い道路であるが、歩道のタイルがところどころ持ち上がって乱れており、3.11の大震災の影響が残っていた。
300mほど進んで北町の交差点を過ぎると、歩道も狭くなり中心街を離れて行く感じとなる。
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進んで家並みが途絶えたところの左側に「明治天皇観農遺蹟碑」が立っていた。明治9年の巡幸記念だが、「観農遺蹟」は、初めて見た。
さらに進むと、道路の右側の(株)ムラタ工務店の駐車スペースの片隅に「三峰神社」と額にかかれた神社があった。小ぶりだが立派なお社である。先祖が宮大工だったというのも頷かされる。左には安全を祈願する同社のモニュメントがある。
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すぐ先の交差点の左には赤い鳥居の八幡神社がある。源義家が前九年の役に凱旋したときこの境内に騎馬を留め、護持していた石清水八幡の神符を納めて勧請したものと伝えられている神社である。
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江合川に架かる江合橋を渡る。江合川は、大崎市の荒雄岳東部に源流があり、鳴子ダムを経て平野部へ流入、美里町、涌谷町を経て石巻市に入り、そこで旧北上川に合流しているが、江戸時代の河川改修以前は、北上川と合流せず広淵沼を経て定川に入り、石巻湾に流出していた。
橋を渡って左折し、500mほど進んで右折する。県道1号線を渡ると新幹線にぶつかり、道路は直角に左に曲がっている。
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少し進むと、左の新幹線のガードをくぐったところに春日神社がある。赤い鳥居を潜って進んでみたが、簡素な社があるだけだった。
先に進むと、左に進む道路が分岐していて、「聖骨傳真居士」と刻まれた石碑が立っていた。
裏はブロック塀が邪魔して見えなかったが「東田尻、西古川、北荒谷」と刻まれていて、追分石を兼ねていたという。ここが休塚の追分で左に歩を進めて行く。
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閑散とした道を進むと、左に天満宮がある。赤い鳥居は昭和53年の宮城県沖地震の時に倒壊したのが再建されたとのことだが、今度の3.11の大震災では、石の鳥居の上部が崩落している。
進んで国道4号線を斜めに横断すると、荒谷宿に入って行く。
道路の左端に、「剣聖千葉周作おいたちの地 斗瑩(とけい)神社参道入口」の看板が見える。
社伝によると、文治3年(1187)、源義経が奥州平泉へ下向の際、北陸路を通り鳴子を経て荒谷に至り吉野の山によく似た斗瑩山に立ち寄り、静御前遺愛の鼓の調べに聞き入っていた時どこからともなく白狐が現れ”鼓は自分の亡き母の皮でつくったもの。ぜひ返して頂きたいと、涙ながらに申し出て、斗瑩山の岩穴に入り込んだので義経は弁慶に命じ祭壇を築かせ鼓を捧げ、一向の武運長久を祈願したとある。 この白狐こそが左衛門尉四郎忠信に姿を変じ、義経公東下りの先達を務めた狐忠信であり、「義経千本桜」の歌舞伎で有名である。
なお、境内に千葉周作の屋敷跡があり、幕末に北辰一刀流を創始した周作が幼少時代を過ごしたところである。
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荒谷宿を歩いて、斗瑩稲荷への道の交差点に来たが、目印らしいものは何も見当たらなかった。予習では、この交差点に高橋歯科診療所があり、その軒先に看板があるはずであったが、診療所は移転したようである。
右の写真が斗瑩稲荷への交差点で、通り過ぎて振り返って撮影した。写真で右方向に進めば神社であるが、街道から離れているので、寄らずに通り過ぎた。
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荒谷宿の出口付近には「田尻川」が流れている。上流にはかつて自然湖の化女沼(けじょぬま)があったが、現在は、整備されて化女沼ダムとなり治水と、流域農地への利水に利用されているとのこと。なお、平成20年(2008)10月30日にラムサール条約登録湿地となったとの由。
さて、化女沼といういわく有りげな名前であるが、伝説では長者の娘が沼に顔を映して化粧をしていて、化粧沼と呼ばれていたのが、娘に恋をした蛇の子を娘が生んだことから、化女沼と変わったようである。何ともおどろおどろしい伝説ではある。
少し先で国道4号線に合流し、ほんの少し先で右に別れて高清水町に入って行くが、合流点には彩りも鮮やかに花壇が作られていた。
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また、合流点のすぐ左には、羽黒山公園の名の小山があり、上って行くと「恵水不尽」碑と、左側に「忠魂碑」があった。「恵水不尽」碑によると、元禄年間(1688~1704)、伊達藩の新田開発政策として小野地区の千枝の湖を干拓し、約百ヘクタールの水田が造成されたとのこと。
左側の「忠魂碑」の揮毫(きごう)は、陸軍大将鈴木荘六の筆によるもので、見事である。元治2年(1865)生まれの軍人で、退役後は帝国陸軍の帝国在郷軍人会会長、大日本武徳会会長を歴任し、学校、神社など公共の建物のために扁額など多くの揮毫を残したという。
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なお、この公園は、春の桜と、秋の彼岸花の名所で、多くのカメラを構えた人達が撮影しており、彼岸花写真のコンクールも開かれるとのことであった。
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羽黒山公園を後にして、国道を渡り右側の旧道に入って行く。古川小野の白山地区である。旧道らしい静かな道であった。
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ほどなく国道4号線に合流して進んで行く。ところどころ、国道の両脇に旧道が取り残されたように残っている。国道では、車にはねられて命を亡くした「たぬきの死骸」が横たわっていた。
1Kmほど国道を進むと、中蝦沢で左側に大きな溜池があり、水鳥が浮かんでいた。
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国道を歩いて進んでいると、大きなレストランが左に現れた。時刻は11時10分でお昼には少し早いが、昼食を摂った。500mほど先で市境の看板があり、大崎市から栗原市となった。
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栗原市に入ってさらに1kmほどで、右に別れて県道1号線を進む。高清水(たかしみず)の中の茎(なかのくき)である。高清水の地名は、高台に泉が湧き、その水質の良さと水量の豊富さから名付けられたものだという。道は、萩の花が咲き乱れる気持ちの良い道であった。
高清水台町の交差点の手前には、右側に溜池が見られた。
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歩いて行くと、右側に動物の木彫り彫刻が飾られていた。何かのお店でもあったのだろうか。
家並みは、旧街道らしいものとなっているが、車の通りが激しく歩道もないのが気になった。
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進んで、透川(すかしがわ)を渡ると、高清水台町から下町地区である。
下町地区も台町の延長のような家並みである。
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道路左側に、福現寺がある。仙台藩重臣で高清水に居を構えた石母田氏の菩提寺であった。
さらに1Kmほど進むと、左に愛宕山公園が見えてくる。斜面には、多くの石碑、石仏が集められている。
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ここには、かつて日本三善光寺の一つとして、信州と甲州の善光寺と並ぶ奥州善光寺があったところであるが、現在では、阿弥陀如来堂のみ残っている。この阿弥陀如来像は、保安年間(1120~24)に、平泉の藤原基衡が父清衡の供養のために、信州の善光寺の分身像を造ってこの地に遷座したものとのこと。なお、基衡と阿部宗任の娘の間に生まれたのが、藤原秀衡である。
丘の上から振り返ると、歩いてきた街並みがよく見える。
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高清水地区も終わりに近づき、南沢川にかかる善光寺橋を渡る。上流方向を撮影したが、小さな流れである。
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進んで行くと、稲が稔って刈り入れ直前の様相の田んぼが広がり、伊藤ハムの大きな工場が見える。国道4号線に合流すると、右手は伊藤ハムの正門で、通り過ぎて進むと、右手にファミリーマートの看板が見えてくる。
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ファミリーマートの敷地を過ぎたところに右に入る道路があり、「奥州街道」の道標が立っていた。小さな道標だが、安心して進んで行けるのはありがたい。
道路は大きく左にカーブしながらの上り坂であるが、上り詰めると先は下りとなり八重壁川に架かる前田橋がある。
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前田橋を過ぎると、また上り坂となり途中で左に有限会社への道路が別れて続いている。そして、右に民家が見えてくると、左側にまた「奥州街道」と書かれた小さな道標が見えてくる。
ここからは草道となっていて、おそらく奥州街道の原型に近い道路が残っているところであろう。
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歩きやすい道で、ところどころに奥州街道と書かれた石の道標が立っている。最初の道標には八重壁と力石と刻まれていた。八重壁は、ここから少し手前の高清水にある字名であり、力石はこれから向かう先にある。
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木立に挟まれ、涼しく本当に気持ちが良い。地図には載っておらず、人が通った形跡にも乏しいが、石の道標で間違える恐れはない道である。
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1Kmあまり進むと、左側が開けてきて、小さなため池が左側にあり、右側に「三迫百姓一揆旧蹟碑」が立っていた。慶応2年(1856年)、高清水城主石母田氏が、約5000人の百姓一揆勢を、ここで鎮撫した記念碑とのこと。
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草道の街道は舗装道路に突き当たり、その左側の溜池の角に「旧奥州街道力石」と刻まれた石碑がある。その右にあるのが力石で、右端は山神碑である。
力石は、1083年から1087年の後三年の役の際、源義家の家来、鎌倉源五郎景政が二つあった大石の一つを谷底に投げ込んで、味方を力づけたと伝えられている。
舗装された車道をまたぐと、また「奥州街道」の道標が立っていて、そのまま真っすぐ進む。
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草の刈込みも行われていない道である。最初右のコンクリートの道を進むのかと思ったが、これは民家の取り付き道路で、真ん中の草深い道が街道であった。
進むと、益々草が深くなり、道筋も定かではなくなるが、基本的には真っ直ぐ進めば良い。しかし、草の生えている地面はぬかるんでいて、凹凸があり歩きにくいことこの上ない。たまには、草の刈込みを行って欲しいものである。
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草深い道は、長くは続かず、直に農作業のために踏み固められた道になり、歩き易くなる。
途中で、左に分かれる道路も現れるが、舗装道路に合流するまで真っ直ぐに進む。
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ようやく舗装道路に突き当たり、趣のあった街道は終焉する。合流点を振り返ると、「奥州街道」と刻まれた石の道標が立っていて、矢印はいま歩いてきた方向を指していた。
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進むと、明治天皇行幸記念碑が、道路の右側に立っていた。そして、右手に築館育苗センターの看板と「奥州街道」の道標が立っていて、右に小道が続いていた。しかし予め調べた限りでは、途中で深い藪に蔽われ、道が判別し難いとのことであったので広い道を進むことにした。
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国道に合流すると、東京から410Km 一関まで31Kmの標識が立っていた。一関ももう少しだ。
国道を2Kmほど進むと、築館インターの入り口である。道は三筋に別れ、一番右は国道4号線が続いていて、真ん中が築館インターへの入り口であり、一番左は、これから進む一般道である。
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築館インターへの道路の下を潜り進む。静かな道路である。高速道路に突き当たって右折し「照越のバス停」を通り越して500mほど進むと、左側に分かれる道路の角に「奥州街道」の道標が立っていた。
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今日は、ここまでと100mほど真っ直ぐ進んだところにある神田バス停から古川駅前に戻ることとした。古川駅前で一泊して、明日はここから出発である。
バスは1時間ほども待つことになるので、近くにある「くりはら直販売館よさこい」で、休憩を取って時間を潰した。


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