2008.03.22

安中から横川

本日の万歩計35,349(23.7Km)
5:32発の横須賀線で東京駅に向い6:24発の長野新幹線で高崎まで乗車して、碓氷峠越えが廃線になって、すっかりローカル線となってしまったJR信越本線で安中に7:42に着く。大勢の高校生が駅から吐き出されてきて、直ぐ右に向かうので、釣られて道を間違えそうになって、からくも国道18号で碓氷川に掛かる「久芳橋」を渡る。
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橋の上からは、独特な景観を示す「妙義山」の山々とまだ白い雪をまとった「浅間山」が良く見える。
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下の左側の写真は国道にかかる横断歩道橋の上から撮ったものであるが、遠くに「妙義山」と「浅間山」が見える。左斜めの道が「安中市街」への道で、進むとところどころに古い建物を残した静かな街が続く。
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「伝馬町」と書かれた交差点を右に曲がり、坂道を上ってゆくと突き当たりに「碓氷郡役所」の建物がある。明治11年に行政単位を郡とするための郡区町村編成法が制定されたのを受けて明治12年に建設された。左隣には日本キリスト教団安中教会がある。同志社大を設立した新島譲の祈念会堂が教会の中心部分を成す。新島譲は安中藩祐筆の長男であったとは今回始めて知ったが、元治元年(1864年)に国禁を犯しアメリカに渡り帰国後、この安中に戻り両親と再会したとのこと。近くに「新島譲旧宅」も残っている。
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少し進むと、安中郡奉行の役宅があった。まだ9時には時間があり、中に入れず外からの写真撮影のみだ。明治初期の郡を行政単位としたときの名残だが、ずいぶんと権威があったのだろうか。(下の左の写真)
さて、その次は復元された安中藩の武家長屋である。4軒長屋であるが、武家でも長屋に入っていたとは知らなかった。公務員の宿舎みたいなものだろう。
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annaka_011.jpg安中の宿も終わりに近づいたところで、中山道の街道からは少し離れているが「新島譲の旧宅」を見に行くことにした。ここも見学は9時からで、おじさんが掃除機でお掃除中。同志社大学の創始者であるため、関西からの訪問者が多いそうだが、最近は海外からの見学者も増えているとのこと。
annaka_012.jpg国道18号を跨いで進んで行くと、右側に大きな上水道の給水タンクがあり、「安政の遠足(とおあし)」の絵が描かれていた。「安政の遠足」とは、安政2年(1855)に安中藩主板倉勝明が藩士の心身鍛錬を目的に安中城内より碓氷峠の熊野権現まで7里あまりの中山道を走らせたのが始まりという。昭和50年から同じコースで毎年現在の遠足(とおあし)が行われているとのことだが、距離は28Kmほどでも山道だからフルマラソンの42Kmと比べても大変ではなかろうか。
すぐに、安中と松井田の「間の宿」の原市の杉並木が始まる。かつては700本ほどもあったそうだが、いまは多くは残っておらず、しかも近年に植えられた若い木も多い。
杉並木を過ぎると、原市の茶屋本陣跡があり、「明治天皇御小休所」の碑が建っていた。
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古い町並みが延々と続き、妙義山の姿も近づいてきたようにも見えるが、電信柱が邪魔をしてカメラのシャッターを押すのはためらわれる状態が続く。
やがて、右手に「八本木延命地蔵尊」と左手に「八本木立場茶屋跡」がある。地蔵尊は安中市の重要文化財指定であり、大永5年(1525)に城主安中忠清が生まれ故郷の越後から勧請して創建したもので、日本3地蔵(新八田、八本木、壬生)とされ善男善女の崇拝を集めたという。特に江戸時代に高崎城の2代城主酒井家次が深く帰依し、また参勤交代の大名も下乗、下馬して参拝したという。
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「すずめのお宿」として名高い「磯辺温泉」には一度は行って見たいと思いながら、左折すれば「磯辺温泉」への道という交差点を通り越して、安中市郷原に入って行く。しばらく進むと「村社日枝神社」があり、ご多聞にもれず、お世辞にも手入れが行き届いているとは言い難いが境内の石灯籠はよい感じであった。「浅間山」も頭を見せて街道は続く。
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時刻は10時30分だが、お昼には早いのにやけにお腹が空く。幸いにも松井田バイパスとの合流点にセブン・イレブンがあり、菓子パンを買ってかじりながら歩く。バイパスの直ぐ横は碓氷川に向かって崖となって落ち込んでおり、遮るもの無く「妙義山」と「碓氷川」が良く見える。直ぐに旧街道はバイパスと別れ、松井田の市街に入って行く
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松井田市街を抜けたころ、右手に「補陀寺(ほだいじ)」がある。禅宗で凛とした感じで、後北条氏の宿老であった大道寺政繁の眠る寺である。豊臣秀吉の小田原攻めのとき松井田城を守っていた正繁は前田利家の軍に破れ、降伏して豊臣軍に加えられたが、後に自らの主城の川越城で切腹させられた。その後、加賀・前田家の行列が寺の前を通るたびに墓は悔しい「汗」を流したという。
街道は松井田警察署のところで、より細い旧道に入って行き、上信越自動車道を潜って、新堀という在所を通り、さらに進んで五料に至る。
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五料には茶屋本陣があり、しかも「お西」と「お東」と呼ばれる2つの建屋がある。それで、少なくとも2組の貴人の食事、休憩などが可能であったが、碓氷の関所の待機場としての必要性だったのだろうか。下の写真は「お西」の建屋全景とその前庭である。
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annaka_026.jpg3月3日のお雛さまが過ぎて久しいが、何故か「お西」の中では「お雛様」が展示されていた。それも、座敷のみならず廊下にまでおびただしい数のお雛様が並んでいた。2階は資料展示室になっていて、種々雑多なものが多数集められていたが、記録に残す価値があるものは見当たらなかった。
一方、「お東は」静かでゆっくりと屋敷内部を観察できる雰囲気であった。下の右写真は建屋全景と「上段の間」である。

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annaka_030.jpg国道にぶつかるところに、先ほどの茶屋本陣とは何ら関係の無い「茶屋本陣」と名乗る食事処があり、もう時刻は1時近くでやっと食事にありつけた。本陣御膳と言うのをたのんだが、値段の割には内容、味ともにいまいち。厨房を覗いたら年配のご婦人が1人で調理していた。
annaka_031.jpgともかく、お腹を満たすことが出来、上越本線の踏切を渡って五料の峠の丸山坂を登って行く。道の傍らには古い石碑、石仏が多く、なかには土の中にほとんど埋もれたようなのも見られる。写真で4つ並んでいる石仏で一番右は夜泣き地蔵と呼ばれているもので、その前には茶釜石がある。茶釜石をたたくと、明らかに石とは違う、カーンカーンと言うような音がする。中が空洞になっているのだろうか。説明板には、
「この奇石は,もと旧中山道丸山坂の上にあったものです。たまたまここを通った蜀山人は、この石を叩いて珍しい音色に、早速次の狂歌を作ったといいます。五料(五両)では、あんまり高い(位置が高い)茶釜石音打(値打ち)を聞いて通る旅人この石を叩くと空の茶釜のような音がするのでその名がある。人々は,この石を叩いてその不思議な音色を懐かしんでいます。五料の七不思議の一つに数えられています」とある。
annaka_032.jpg進んで行くと、碓氷郷の一宮である碓氷神社があり、そこで踏み切りを渡り国道に沿って進んで行く。800mほど進んで再び踏み切りを右に渡るが、この辺は鉄道と国道で旧中山道はほとんど壊され、ところどころ断片的に残っているだけのようだ。

本当に今日は良く晴れて暖かい。4月下旬の陽気だ。シャツのみで歩いていても汗ばむほどだ。崖の斜面には、名は知らないが一面に黄色い花が咲き乱れ、土筆も顔をだしていた。待ちかねた春が来たのを実感する。
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annaka_035.jpgともあれ、やっと横川駅に到着した。駅前には明治十八年創業で、駅弁の始まりをなした「おぎのや」が店を開いている。かつては、碓氷峠を越えるために列車の後ろにも機関車を連結したが、そのために停車時間が長いので駅のホームでの弁当販売に都合がよかった。碓氷峠を越えるJR信越本線が廃線になり、どうなることかと思っていたら、いまでは直営のドライブインを5ケ所に開き、他社経営のドライブインでも「釜飯」を販売する体制を築き、以前にもまして繁栄しているのではと思われる。
annaka_036.jpg時計を見ると2時6分で、次の高崎行きの電車は2時56分だ。時間がありすぎるので、碓氷の関所跡を見に行くことにした。もう門のみしか残されていないが、江戸時代は箱根の関所と同じく「入り鉄砲と出女」を厳しく取り締まった。有吉佐和子の「和宮様御留」の一場面を思い出す。
「女改めというのはなんのことやろ」
「改め婆というのが居て、眼鏡をかけてみるのやそうにございます」
「何をえ」
「男と違うかどうか」
「どないして」
「さあ、前を開けるよりほかにありまへんやろ」
「それを眼鏡で」
「はい、改め婆が」

線路の向こうには「碓氷峠鉄道文化村」というのが出来ており、碓氷峠で活躍した列車が並んでいた。入場料を払って中に入ると、より詳しく色々と見られるのだろう。
駅に戻ると、駅前にもこの峠を登るのに活躍したEF63-3という電気機関車の動輪が飾られていた。
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2008.03.16

新町から安中

本日の万歩計42,472(28.5Km)

冬季でしばらくお休みしていたが、だいぶ暖かさも増してきて今日久しぶりに出掛けることにした。前回に終えた新町駅に8時30分頃に着き、歩き始めたが天気予報の晴れに反して、どんよりと曇っていて、なんとなく寒々とした感じであった。しかし、歩き始めると、流石にもう寒さは感じない。
新町の駅前から旧街道に復帰する道は、整備されて美しい通りであったが、休日の朝は人通りもほとんど無い。そして、旧街道に達して左折すると、しばらくして「小林本陣跡」の表示杭。木製の杭の簡単な表示である。

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進んで行くと、温井川(ぬくいがわ)を渡るが、その橋の袂に「日本スリーデーマーチ発祥の地」と書かれた、碑が建っていた。説明文には毎年7月でオランダで行われる「歩け歩けオリンピック」に1977年に参加して感動し、1978年から新町でも開始して、アジア最大の歩け歩けの大会になったと、要領を得ない文で書かれていた。
そして、川に掛かる「弁天橋」を渡ると、ようやく街道らしい家を見ることが出来た。登録有形文化財の豪商であった「川端家の屋敷」である。
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そして、関越自動車道路を潜ると旧街道は烏川の堤防に沿って進むが、堤防につかず離れずであるので、堤防の上の自転車と歩行用の道路を進むこととした。河川敷には野球のグラウンド3面、サッカーピッチ2面ほどあり大変広く、既に少年達が集まっていた。やがて、烏川に掛かる「柳瀬橋(やながせばし)」が見えてきて、これを渡る。歩道橋を元の橋に隣接して作ってあり、橋の幅も広く立派である。

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柳瀬橋を渡り、明治の初めに岩鼻県の県庁が置かれた岩鼻で左折して、倉賀野の宿に入ってゆく。倉賀野の入り口付近には「中山道」と「例幣使道」の分岐点がある。
左の写真は、分岐点を通り過ぎて振り返って撮ったものであるが、右が「中山道」、左が「例幣使道」である。例幣使とは、毎年4月17日の日光東照宮の例大祭に金幣(きんぺい)を奉納するために毎年、朝廷から派遣された勅使をいう。位の低い公家が、その役にあたり、旅の途中で御肴料、ご祝儀などの名目で金銭を強要して困ったと島崎藤村の「夜明け前」にも書かれている。また、ここには「閻魔堂」が建っていて、右 江戸道、左 日光道と書かれた古い道標もある。

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しかし、倉賀野の本陣は残っておらず、スーパーの駐車場の端に「本陣跡」と書かれた小さな石碑があるのみである。一方、「脇本陣」は残っていたが、今後の保存が課題のような状況であった。

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高札場も復元されていたが、少し小さい感じもした。そして、倉賀野の総鎮守である飯玉大明神が、明治になって、近在の神社と合祀された倉賀野神社。流石に倉賀野の総鎮守だけあって、見事な造作の建物である。また、神社の裏を流れる烏川は、利根川の支流で、昔は信州・越後から江戸に向かう荷物の集積場として大いに発展してきたところであり、飯盛り女も多く、木造の橋を石橋にするのに寄進している。石の太鼓橋の欄干の一部が神社の入り口に移設されているが、「金沢屋りつ、ひろ、ぎん」「升屋内はま、やす、ふじ」等の名が刻まれている。飯盛り女が寄進するのは、まことに珍しいことと思うが、それだけ栄えていたのであろう。

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200mほど歩くと「安楽寺」がある。このお寺は本堂の裏に丸い古墳があり、天平9年(737)に行基菩薩による開基と書かれている。本尊は古墳の石室に彫られた7体の石仏という。また、境内の左手には将棋の駒の形をした、「板碑」がある。時代は南北朝の1300年ころではないかと言われているとのことだが、珍しい石碑である。

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takasaki_015.jpg倉賀野の宿を過ぎて、高崎に向かうと、畑の中に「前方後円墳」の見事な古墳が見えてくる。浅間山古墳と呼ばれていて、7世紀後半のころのものとのこと。7世紀頃にはこれだけの古墳を作る勢力を持った者が居た証拠であろう。
やっと「高崎宿」につき、新町で左折すると、「高崎市役所」の立派なビルが見え、その手前には「高崎城址」が見える。徳川家康の江戸入府に従い関東に赴いた「井伊直正」が慶長3年(1598)に城を築きこれより、この辺りが高崎と呼ばれるようになった。

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takasaki_018.jpg江戸時代の高崎城主は、幕閣を勤めることが多く参勤交代の大名も高崎を避けて、倉賀野あたりで宿泊することが多く、倉賀野が多くの飯盛り女を抱えて繁盛していたのも分かる気がする。
現在の高崎は、街の店舗の前にはパンジーが飾られていて、街全体が華やかに装われていた。

takasaki_019.jpg高崎は大きな町だが、歴史的な遺構はほとんど残っておらず、次の宿に向かって行く。本町3丁目で左折して、烏川に沿って進み「君が代橋」に達する。明治11年の天皇巡幸の折に名付けられた橋である。

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「君が代橋」を渡って、達磨作りで有名な上富岡町に入ってゆく。70軒ほどの家で年間150万個ほどの達磨が作られるという。達磨市は正月の6?7日で、今は一番だるま作りが低調な時期であるが、それでも達磨を乾燥させているのを見ることができた。

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上富岡は、高崎宿と板鼻宿の間であるためか、「茶屋本陣」があり、まだ保存されていて公開されていた。数年前までは住居として使われていたが、個人レベルでは維持するのが困難になり、市が譲り受け公開しているとのこと。案内のおばさんが1人おり、色々と説明してくれたが、かつての住人の子供が書いた落書きなども残っていて、興味深く見ることができた。

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takasaki_026a.jpg茶屋本陣を過ぎ、ぶつかった国道18号線を横切り碓氷川の堤防を歩く。現在はサイクリング道路となっているが、車が通らず、川面を眺めながら歩くのは気持ちがよい。誰も通らず、道路を独り占めで歩く。
少し行くと、堤防の下に「藤塚の一里塚」がある。中山道では、どうも一里塚ははっきりしないと思っていたが、ここは原型を保って残っている。
さらに進むと、橋の欄干に達磨が飾られた「鼻高橋」があり、この橋で碓氷川を渡ると、上富岡に達磨作りを広めた「少林山達磨寺」がある。また、このお寺は「ブルーノ・タウト」が2年3ケ月の間、日本文化の研究にいそしんだ場所でもあるとのこと。

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やがて、国道の向こう側に「上野国一社八幡宮参道」と書かれた看板と、八幡宮の大きな一の鳥居が見えてくる。板鼻宿が近づき、そろそろ碓氷川ともお別れである。
「板鼻宿」に入って行くと、双体の可愛い道祖神。長野県が近づくと、このような双体の道祖神が多くなるようだ。

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takasaki_029.jpg程なくして、安中市板鼻公民館の前に「本陣跡の碑」が建っているのが目に入る。幕末に皇女和宮が降嫁の折一夜を過ごしたところであり、初めて月のしるしがあったという。
源義経が金売吉次と平泉に向かう途中で、伊勢三郎と出会ったのもここであり、深手を負った三十八歳の木枯紋次郎も、中仙道板鼻宿の旅籠・花菱屋主人友七に救われる。

takasaki_030.jpg板鼻宿も終わりに近づいたところで、宿の北側を、板鼻宿に並行して板鼻川が流れている。どう見ても用水路としか見えないのだが、もとは碓氷川から取水しての板鼻堰用水路で板鼻宿の生活用水であった。水が屋敷内の庭を流れるようにした家もある。その後道場川、大谷津川が流入し、今ではなんと1級河川に指定されている。東海道で小田原の手前を流れる酒匂川は、あんなに大きな川でも二級河川なのだが、どういう基準で川を区分しているのだろう。
板鼻宿が終わり、碓氷川に掛かる鷹巣橋を渡る、右前方から、クレー射撃の音が大きく絶えず聞こえてくる。橋を渡り終えると、安土桃山時代の建立の「諏訪神社」がある。屋根の反りが優美である。そしてようやく、今日のゴールの安中駅に着く。駅のホームから東邦亜鉛の安中精錬所が山の斜面を占有しているのが見える。かつて公害で、この辺りの住民が大変に苦しんだのを思い出す。

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2008.01.19

籠原から新町

本日の万歩計47,845(32.1Km)
昨年12月15日から一月ぶりの中山道である。
籠原駅には7時28分に着き歩き始めた。寒さに備えた服装であるが、顔にあたる風が冷たい。手袋を嵌めていても冷たく感じる。明後日は大寒で寒いのも当然である。
fukaya_01.jpg籠原から深谷に向かって歩くが、歴史的な遺構もなく、撮影したくなる対象物も無いと思いながら、ひたすら歩く。やっと、有名な「深谷ねぎ」の栽培の田圃が目に飛び込んできた。今は冬、多くの「深谷ねぎ」が鍋物に用いられることであろう。
深谷宿に近づき、まず最初は国済寺である。説明板には、関東管領(かんとうかんれい)上杉憲顕(のりあき)が6男 憲英(のりふさ)を遣わし、館を造らせ、その後、憲光、憲長と3代続いた。康応2年(1390)に令山禅師を招いて館内に国済寺を開いたとある。左の写真は黒門と呼ばれる山門であるが、深谷市指定文化財である。そして、本堂の裏に進むと、憲英(のりふさ)の墓所がある。また樹木がうっそうと茂っている。広大な敷地である。
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国済寺を過ぎると旧中山道は、直ぐに国道17号線にぶつかるが、その直前に「見返りの松」がある。ここは旅人が「深谷宿の飯盛り女」と「きぬぎぬの別れ」を行ったところといわれ、樹齢400年ほどの松がそびえていた。残念ながら車の排ガスの影響か、枯れてしまい一昨年の2月に切り倒し、今は幼木が植えられていた。
次には「深谷宿」の東木戸の常夜灯。ここからが、本当の宿が始まる。
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旧東海道から少し離れるが「深谷駅」に寄って見た。ミニ東京駅の様相であるが、東京駅のレンガは、ここ深谷で作ったとのことであり、当然かも知れない。レンガに最適な粘土が産するためという。そして駅前広場にはここの出身の「渋沢栄一」の銅像。
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1Kmほど進むと、もう宿も終わりで「西の木戸」の常夜灯があった。道路の反対側には呑龍院の鐘楼があり、街道気分を盛り上げる。
さらに進むと、JR高崎線の踏切を跨いで、「清心寺」がある。説明板には、岡部六弥太忠澄(おかべろくやたただすみ)が一の谷の戦いで知勇に優れた平薩摩守忠度(たいらのさつまのかみただのり)を討ち取り、その菩提を弔うため忠澄の所領のなかで一番景色が良く、荒川の扇状地の末端で湧水も多い、この地に五輪塔を建立した。その後戦国期に深谷上杉氏の三宿老皿沼城主岡谷清英が天文18年(1549)に萬譽玄仙和尚を招いて「清心寺」を開いたと記されている。熊谷直実と言い、関東の武者は情にも厚かったのか。
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岡部の町に入って進んで行くと、岡部の領主の安部家の菩提寺の「源勝寺」がある。安部氏は諏訪の出であったが、安部川上流に移り、最初は今川義元に仕えていたが、後に徳川家康に仕え武田信玄、勝頼と戦い戦功があり岡部の地に所領を賜ったとのこと。12代にわたる墓石の並びは圧巻である。
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fukaya_14a.jpg源勝寺から500mほど進むと岡部六弥太忠澄が建立した「普済寺」がある。本堂に大きく十の字があるのを見て、最初はキリスト教に関係のあるお寺かとも思ったが、岡部家の家紋が「跳ね十字」と知り納得した。
しかし、忠澄の墓は寺の境内には無く、寺の脇道を200mほど入った畑の中に小公園のような墓所があり、その中に夫人と父行忠の墓石とともに弔われている。墓石の五輪塔が変形しているのは、忠澄の墓石を煎じて飲むと子宝に恵まれる、という伝承があるので、削られたためという。東屋も設けられていたので、魔法瓶に入れたコーヒーを飲み休憩した。
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やがて、島護産泰(しまもりさんたい)神社に達する。島護は、とうごとも読まれるとのことであるが、利根川の氾濫で、深谷北部の島や瀬の地名をもつ地域(四瀬八島)が常に被害を受けたので、その加護にあずかるように信仰されたことから名が付いたといわれる。祭神は瓊々杵尊(にぎにぎのみこと)と木花咲耶媛(このはなさくやひめ)であり、安産の神としても信仰されている。
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岡部の街を抜けて利根川の支流の小山川に架かる「滝岡橋」に向かうと、橋の手前に「百庚申」と呼ばれ、沢山の庚申塔がある場所がある。万延元年(1860)は井伊大老の桜田門外の変、黒船来航などがあり、民心も落ち着かず、庚申の年でもあったので岡部の有志が計画して建造したとのこと。
いよいよ、「滝岡橋」を渡る。風が強く冷たい。そして、最近では珍しい野焼きである。見るのは何十年ぶりか。その後も「本庄宿」に向かう道端には幾つかの庚申碑を見かけたが、この辺は特に庚申信仰が盛んであったのであろうか。
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fukaya_20.jpgもう、お昼の時間が過ぎ、お腹も空いてきたので食堂を物色しながら歩く。途中に2軒ほどドライブインがあったが気が進まず、結局「本庄宿」まで歩くことになった。ようやく遅い昼食をとり、その後、本庄宿最大の建造物と言われる安養院を訪れた。曹洞宗の寺で、創建は文明7年(1475)という。児玉党の一族本庄信明の弟藤太郎雪茂が仏門に帰依して、当時の富田村に安入庵を営んだが水不足に悩まされたため、土地を探していたところ、現在の地を発見し安養院を開基したと伝えられている。
境内奥には「物言えば唇寒し秋の風」の芭蕉の句碑、千代女の「百生やつるひとすじの心より」の句碑があるとのことであったが、見落とした。
fukaya_21.jpgfukaya_22.jpgfukaya_23.jpg本庄宿の西の外れには、金鑚(かねさな)神社がある。  祭神は天照大神、素盞嗚尊、日本武尊の三大大神。創建は欽明天皇2年(541)と伝えられ、大変古い。権現造りの社殿、神楽殿大門、御輿殿などを持つ。
fukaya_24.jpg金鑚神社を過ぎた以降は、ひたすら「新町宿」に向かって歩く。途中の神保原を過ぎたところで、陽雲寺に寄る。鎌倉初期の元久弐年(1205)の創建と伝えられる寺で、新田義貞が鎌倉打倒を祈願して不動堂を建てたと寺伝に見られるとのことである。時代が下って、信玄の甥武田信俊は、武田氏滅亡後、徳川氏に仕え、天正19年、川窪与左衛門と名乗って、この地に8千石を与えられ養母である信玄夫人(三条夫人)を伴って入封した。 夫人は、当寺に居住し元和4年(1618)に没し、法号の陽雲院をとって崇栄山陽雲寺と名を改めたという。山門もなく、往時の面影は無い。
いよいよ神流川(かんなかわ)を渡って、上州に入る。時刻は4時をまわり、吹く風も冷たさを増した。這う這うの体(ほうほうのてい)で橋を渡ると、神流川古戦場跡の碑が建っていた。
fukaya_25.jpgfukaya_26.jpgfukaya_27.jpg説明によると、信長が本能寺の変で亡くなった時厩橋(うまやばし、現前橋)城で関東管領の織田の武将滝川一益は1万6千を率いて急遽上京しようとしたが、これを阻止しようとする北条が5万の兵を出しここで衝突。壮絶な戦いを繰り広げたが滝川一益は2,670名の戦死者を出し大敗を喫し撤退したという。
fukaya_28.jpgだいぶ気温も下がってきたのか、くしゃみが出たりしてティッシュペーパの厄介にもなるようになり、通りがけに群馬県で始めての「諏訪神社」を撮影して、あとは「新町駅」に急いだ。久しぶりの歩行で、足の筋肉も痛みだした。上州の空っ風も味わい、電車に乗ると疲労感から直ぐに眠りに落ちた。

2007.12.15

鴻巣から籠原

本日の万歩計42,030(28.2Km)
12月は集まりなども多く、それに加えて風邪を引いたりで、なかなか歩きに出かけられなかったが、今年も今日ともう一回歩くチャンスがあるかどうかだと思いながら出かけることとした。
それにしても、日が短くなり朝6時9分の電車に乗っても、まだ暗い。前回切り上げた「鴻巣駅」には8時頃に着き、歩き始めた。鴻巣ではその地名が示すように歩道にコウノトリの絵が嵌め込まれていた。昔はこの辺りでもコウノトリが普通に見られたという。
そして、少し進むと、右側に「鴻神社」。鴻神社は雷電、氷川、熊野神社が合祀されたもので、この辺りの地名には雷電町の呼び名が残っている。
kumagaya_01.jpgkumagaya_01a.jpg加美の交差点で国道と別れ左の道を進んで行くと、「箕田(みた)」の集落に入る。この辺りは「箕田武士」の発祥の地で、「箕田観音」がある。この観音は永延元年(987年)に箕田源氏の渡辺綱(わたなべのつな)が源経基(みなもとつねもと)ゆかりの馬頭観音を守り本尊としてここに安置したと伝わる。
さらに進んで行くと、左手に「氷川八幡神社」があり、「箕田の碑」が建っている。また、説明板には下記のように書かれている。
「清和天皇の第6皇子、貞純親王の子である源経基が平安時代中期頃、武蔵介としてこの地方を治め源氏繁栄の礎を築く。その後、嵯峨源氏の流れをくむ源仕(みなもとのつこう)がここに土着し、箕田源氏を名乗る。知勇を兼ね備え、経基をよく助け大功があった。その孫である渡辺綱(わたなべのつな)は摂津源氏の源頼光に仕え剛勇の誉れ高く、頼光四天王の筆頭として活躍した。
箕田源氏三代(源仕・源宛(みなもとのあつる)・渡辺綱)の館跡は満願寺の南側の地と伝わる。」
清和天皇の流れを汲むものが住むところに、後に嵯峨天皇の血筋がやってきて「箕田武士」が形成されたようである。ともかく、神社に向かって二拝二拍手一拝。
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神社裏手の宝持寺は渡辺綱が祖父・仕(つこう)と父・宛(あつる)を追善するために建てたものとのことだが、参道の両側は「棕櫚の木」で、境内には「一休さん」の像があって面白い。
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直ぐに「武蔵水路」を渡るが、水量が豊富だと思っていたら、東京の飲み水とのこと。
そして、民家の軒先に「伊藤の一里塚跡」の碑が半分文字の消えた状態で、誰にも注意されなげに建っていた。
kumagaya_07.jpgkumagaya_08.jpgkumagaya_09.jpgその後は、車の通行量が多く、細くて満足に歩道も無い道を、ひたすら早く過ぎることを念じながら進んで行くが、北鴻巣を過ぎ、吹上駅前を通って本町で左折すると、やっと車の数が減る。直ぐにJR高崎線を横切ることになるが、バイパスもJRを横切っているので、これを利用して通路を設けてある。また、橋の下には「間の宿吹上」の凝った案内板があった。
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進むと、ほどなく「権八地蔵」のお堂があった。鳥取藩士を父に持つ、平井権八(江戸は”ひ”と”し”の区別がつかず、白井となって歌舞伎では演じられる)が、江戸に向かう途中、金に困ってここで辻斬り強盗をし、その現場をお地蔵さんに見られ「誰にも言うな」と言ったところ、「わしは言わぬが、お前も言うな」と地蔵に言われたという。
しかし結局権八は自分でそのことを言い延宝七年(1679年)に磔刑となり鈴ヶ森に晒された。
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地蔵はそれを見通した上で、上記の様に言ったとか、それ以来、この地蔵は「権八ものいい地蔵」と呼ばれる様になったのだという。お堂を覗き込むと、比較的新しそうで、柔和なお顔のお地蔵さんが安置されていた。もちろん、ものを言いそうには見えない。
そして、右には荒川の堤防への上り道。もう、この辺りは上州に近く、上州と言えば冬のからっ風。この堤防を「熊谷堤」と呼ぶそうだが、冬はとても寒いと脅かされて厚着をしてきたが、今日は風もなくほぼ快晴で途中でセータを脱ぐ羽目になった。
遠くまで眺望が利き気持ちがよいが、快晴に近いが富士山や浅間山を望めるまでには至らなかった。この「熊谷堤」は堤防と言っても、川筋は見えず、田園風景が広がるのみで、所々に屋敷林のようなものも存在する。これは、あまりにも激しい荒川の水害を避けるため、昭和15年に当時の新川村の移転計画が決定され、村の半分は堤防外に移転し、昭和22(1947)年のカスリーン台風で、ほとんどが村を去ったが、田畑はそのまま耕作を続けているからである。
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堤防を歩いて行くと昭和22年に日本を襲った「カスリーン(KATHLEEN)台風」の時に決壊したことを示す「決壊の跡の碑」が建っていた。このときは「利根川」も決壊し、東京の江戸川区、葛飾区なども水に襲われ1000人以上の死者をだし、甚大な被害となった由。向こう側が見えない(1km以上?)ほどに広い河川敷で、これが一杯になるのは想像し難い。 しかし、昭和57年にもも決壊はしなかったが、水位は堤防の上端ギリギリまで達したという。
また、進んで行くと、土手の下に「久下(くげ)の一里塚跡」。なぜか小さなお堂が祀られている。そして、近くには古い馬頭観音も・・・。
堤防の土手は子供たちの遊び場として最適に見えるが、子供は1人も見えない。
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2.5Kmほどの長い堤防を歩いて、やっと堤防を下ると「久下神社」がある。久下は南北朝時代に足利方として活躍した久下氏の発祥地である。家祖である久下直光は八幡太郎源義家の七男の源義隆の子として産まれ、南北朝時代には足利方として数々の武勲をあげ、全盛期を迎える。しかし室町時代末期の明応2年(1493年)の政変で将軍足利義材(よしき)についたことがわざわいして衰退の一途を辿り、ついには戦国時代、明智光秀による丹波攻略によりその地位を追われ、久下氏の名は歴史から消えた。
そして、民家の前に現在の街道碑。
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少し先の左に「東竹寺」。久下村の領主であった久下直光(くげなおみつ)の開いた寺で一族の墓があるとのことだが、分からなかった。
そして、少し行くと「元荒川」の源流付近で綺麗な流れを渡る。現在の荒川は洪水を防ぐために、寛永6年(1629年)に関東郡代の伊奈忠治によって熊谷市石原で入間川水系の和田吉野川筋に付替えられたが、残された元荒川は湧き水と荒川の水産試験所の水を集めて現在の川となっている。ここには、「ムサシトミヨ」という「とげうお」の一種で背びれや腹びれに棘があるのが特徴な魚が、世界でここだけに生息する。以前は、関東一円の綺麗な水のあるところに生息したが、いまではここだけだという。
kumagaya_19.jpgkumagaya_20.jpgkumagaya_21.jpg熊谷の街が近づいた。住宅街の小公園には、「八丁の一里塚跡」があった。時刻は12時半。だいぶお腹も空いてきた。秩父鉄道の踏切を渡り、直ぐに上越新幹線の高架下をくぐって、また高崎線の踏切を渡ると、やっと熊谷市街で、手近なレストランに飛び込み、少し遅い昼食をとる。空腹で何を食ってもうまい。
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腹も満たされ、歩き始めて市役所通りに達し、高城神社を訪れる。創建は不明だが熊谷直実も氏神として崇拝していたという。境内入口付近には天保12年(1841年)に建てられた青銅製の常夜灯がある。台座には熊谷をはじめ、各地の紺屋の名前が150名も刻まれており、江戸時代の藍染業の活況を示している。
本町を過ぎ、鎌倉町に達すると、凝った作りのバス停留所。「八木橋デパート」の横の道を通って、「熊谷寺(ゆうこくじ)」に行くが、境内の開放は日曜日のみで入れなった。ここはかつて、熊谷氏の屋敷があったところで、出家した熊谷直実が元久元年(1204年)に蓮生庵(れんせいあん)を建てた所。その後、天正年間(1573?1592年)に幡随意上人が蓮生庵の跡に熊谷寺(ゆうこくじ)を建立。見られなかったが、本堂左手に、熊谷直実の墓と伝えられる塔が建っているという。
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本陣は明治17年(1884年)の火災と昭和20年(1945年)の戦災で跡形も残っていないが、近くに本陣竹井家の別邸であった庭園が星渓園の名で公開されている。これは竹井澹如(たけいたんじょ)が慶応年間(1865?68年)から明治初期にかけて作った回遊式庭園で、玉の池の周りに施された木々と名石を優雅に楽しむことができる。明治になり、大隈重信、徳富蘇峰などの名士の他、昭憲皇太后も来遊されたり、三笠宮が宿泊されたりしている。
kumagaya_24.jpgkumagaya_25.jpgkumagaya_26.jpg「八木橋」のデパートの敷地内を旧中山道が横切っていて、律儀にデパートの出口には旧中山道跡の石碑が建っていた。旧街道は直ぐに国道17線に合流するが、熊谷警察署の前を過ぎると500mほどで国道から左に分かれ、進んで行くと「新島の一里塚」がある。日本橋から16里の一里塚で樹齢300年のケヤキの大木が立派である。
そして、「忍領の石碑」。忍領(おしりょう)が他藩との境界に建てた16個の境界碑の1つだが、明治になって撤去されたのが、昭和14年に石碑が再発見され、立て直したという。そういえば立派な枠の石に囲まれているが、これは最近に作ったもののようだ。「従是南忍領」と彫られている。
また、進んで行くと、ミニ開発らしい建物の前に国土交通省の一等水準点があった。こんな場所にと思える場所で、なんの特徴も無い場所である。珍しいので撮影した。
kumagaya_27.jpgkumagaya_28.jpgkumagaya_29.jpg玉井の町に入ってくると、熊谷市玉井団地と書かれた看板のある小さな小公園があり、大きな玉が飾られていた。若い母親が娘とラグビーボールを投げあっていたが、大きな玉と下の枠の井で「玉井」ですねと話しかけたが、そうなんでしょうかと、考えたことも無いという反応。それにしても、母と娘でラグビーボールと言うのも珍しい。
時刻は3時になり、今日は「深谷」までと思っていて時間はありそうだが、久しぶりの歩行で足が痛く、とても深谷までは歩く気がしない。左折して「籠原駅」に向い、3時33分の電車で自宅に向かった。

2007.11.24

浦和から鴻巣

本日の万歩計47,527(31.8Km)

3連休の初日は所用でつぶれ、満を持して出発。浦和の駅には6時30分ころに到着した。まだ明けやらぬ様相。寒くなったので、備えはした積りだが、何しろ空気が冷たく、顔を刺す。ともかく、駅前のファーストフードでちょっと腹ごしらえをして歩き始めた。
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前回引き上げた元の街道に戻ると、車道と歩道の境界線に、石柱が建っており、中山道浦和宿と書いてある。早朝で人通りは多くはないが、日中は大変な通りらしい。少し行くと、左手に少し入ったところに玉蔵院がある。平安時代の創建の真言宗豊山派の古刹で、感じの良さそうな石庭が見えたが、早朝で門は閉まっていた。
kohnosu_03.jpgkohnosu_04.jpgkohnosu_05.jpgさらに進むと、常磐公園に通じる市場通りがあり、その入り口には、かつて、ここで市が開かれていたことを示す、野菜などを売る農婦の銅像があった。月の2と7の付く日(計6日)に市が開かれていたことから六斎市(ろくさいいち)と呼ばれていたという。
kohnosu_07.jpg道は、JR線を跨いで北浦和に進む。特に記すべきものもなく、ひたすら歩いて与野駅入り口交差点に達すると、大きな欅(けやき)の古木がある。一里塚と一里塚の中間にあるので半里塚というとの説があるが、真偽は不明である。もし、半里塚であったとしても、残っているのはここだけであろう。
やがて、「さいたま新都心駅」が近づくと、新しく建てられた国の庁舎群が見えてくる。そして、立派な欅並木が続いていて、歩道もしっかりと確保されていて感じが良い。
kohnosu_08a.jpgkohnosu_08.jpgkohnosu_09.jpg欅の並木が切れたころ、「火の玉不動尊・お女郎地蔵」がある。最近、作り直したようで真新しい社(やしろ)になっていて、中には詳しい説明板も設けられていた。要約すると、「大宮宿に千鳥と呼ばれる大変綺麗な女郎がいて、材木屋の若旦那と末は夫婦にと約束していた。が、泥棒の神道徳次郎が横恋慕し千鳥を身請けし、身請けを承知しないなら宿に火をつけると凄んだ。千鳥は主家に迷惑は掛けられないと進退窮まり、近くの高沼用水に架かる高台橋より身投げしてしまった。そのころから千鳥の人魂が飛ぶようになったので、近所の人が地蔵を立て霊を慰めたという。
またそのころ、夜になると火の玉が毎夜の様に現れるので一人の男が、火の玉に切りつけたところ叫び声と共に火が消え、そこに物凄い顔をした男が立っていた名を問うと不動明王と答えた。翌日、近くの高台橋に、剣を切り取られた不動明王があった。以後、この不動明王を「火の玉不動」と呼ぶようになったとか・・・
kohnosu_10.jpg直ぐに「氷川神社」の一の鳥居が見えてきて、2Kmにもおよぶ欅の見事な参道が続く。「氷川神社」は武蔵野国の一の宮で、大宮の名の由来も大きな宮に起因していて、いわゆる門前町であった。中山道はかつては、この参道を通って行くものであったが、通行量も増し、寛永5年(1628年)に関東郡代の伊能忠次が、神域を通るのは不敬として参道の左側に新しく道を作り、その両側に宿を移転させ、大宮宿としたという。

kohnosu_11.jpgkohnosu_12.jpgkohnosu_13.jpg長い参道もようやく終わり、太鼓橋を渡り朱に塗られた「桜門」を通ると、舞殿と拝殿が見えてくる。日本の神社の特徴として、全国氷川神社の総本山といえども、それほど華美に流されることは無い。
東京奠都の際、明治天皇が当社を勅祭社と定め、明治元年(1868年)10月28日に当社にて親祭を行った。以来、例祭には勅使の参向があり、宮内庁楽師による歌舞が奉納される。
また、本殿の裏の境内には、青木昆陽の碑が建っていたが、これは昆陽が広めたサツマイモが埼玉県の名産になったことの記念のようであった。それにしても境内には桜の古木が多く、花の季節は見事であろう。
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元の中山道に復帰して、どんどん進み「宮原駅」を過ぎてしばらく行くと、右手に「加茂神社」がある。小さな神社だが、祀神は別雷命(わけいかづちのみこと)、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉冉命(いざなみのみこと)、菅原道真公となっており、菅原道真公は例外としてとても古い神が祀られている。大国主の命に使えた加茂族の一部が、この地に移り住んだのであろうか。
さらに、16号のバイパスを潜って進むと、「南方神社」があり、地元では「お諏訪さん」と呼ばれているそうである。確かに、九州地方では「諏訪神社」の系統の神社は「南方神社」と呼んでいるが、何故ここで「南方」なのであろうか。小さな神社で境内に人気はなかったが、境内に建つ集会所の建物からは中学生であろうか、太鼓の練習をする声と音が聞こえていた。
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上尾に向かって歩いて行くが、見るべきものも無く寂しいと思っていたら、道端に道標を兼ねた不動明王が建っていて、川越への分岐点となっていた。やっと、「上尾駅」が近づき、「氷川鍬神社」があった。この辺りは鍬(くわ)や鋤(すき)を作る職人が多く住み着き、ここで作られたものは評判もよく近隣からも多く買い求めに来たという。それで、鍬二丁をご神体とする神社が作られ、その後、氷川女体神社と合祀したので氷川鍬神社と名を変えたものである。小さな境内であるが、7,5,3の参拝客がちらほら見られ、また右手の方には聖徳太子の線刻碑もあった。

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お昼時になり、お腹も空いたので上尾駅前の丸広デパートに入って昼食をとり、しばし休憩の後に歩き始めると、駅前には近代的なモニュメント。健康的だ。
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桶川宿に入ると、江戸時代に「紙屋半次郎」の名前の旅籠であったのが、今に続いてビジネス旅館として営業している「武村旅館」がある。繁盛しているのであろうか。今なら泊まるが、現役時代に仕事で来ることがあってもこの旅館を選んだかどうか。そして、少し行くと本陣の遺構が残っていた。門のみで中は、単なる小広場。
kohnosu_23.jpgkohnosu_24.jpgkohnosu_25.jpgそして、敷石の通路が美しい「大雲寺」。この寺で珍しいのは、境内にある3体の地蔵の内の右端の地蔵である。この地蔵は「女郎買い地蔵」と呼ばれ夜な夜な女郎を買いに行くので、怒った住職が鎖で縛りつけたという。そのための、鎹(かすがい)が背中に残っている。「桶川宿」には「飯盛り女」が多かったことをうかがわせる話しだが、若い修行僧に対する戒めとして行ったのであろう。

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間の宿である「北本宿」に着くと「多門寺」があり、境内に樹齢200年という天然記念物の「無患子(むくろじ)」がある。古木で瘤だらけで、幹回り3.6m、根回り7.6m、樹の高さ27mとある。属名のSapindusは、ラテン語で“石けん”を意味する“sapo”と“インド産”を意味する“indus”をつなぎ合わせたもので、丸い実がなり、この皮をこすり合わせると泡立ち、アジア諸国では今でも洗剤として利用されているとのこと。また、中にある種子は硬くよく弾むので、羽根突きの羽に用いられた。しかし、今の日本では、果実は全く利用されなくなったとのこと。
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北本駅の近辺はJR線が作られたとき、中山道は崩されたようで現在中山道と呼ばれている道路から外れて、JR線の踏切を渡り線路に沿って歩くと、一里塚がある。訪れてみると、確かに一里塚らしい土山があり、説明板も設置されていた。馬室原の一里塚である。
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「鴻巣宿」に入ると「人形店」が、次から次へと現れる。街の名前も人形町。1580年頃に京都伏見から人形職人が移り住み、参勤交代の大名も人形を土産に買い求め、発展したそうである。そして、本町交差点の近くの「勝願寺(しょうがんじ)」。勝願寺は約700年前に創建され、現在の寺院は、天正元年(1573年)に再興されたものである。寺に三つ葉葵の紋があるのは、かつて家康が鷹狩で度々この地を訪れ当寺の不残上人の学識に感銘して帰依し、葵の紋を使用することを許したとのこと。

関東郡代の伊奈忠次、忠治の墓や譜代の牧野家信州真田藩祖真田信之の夫人・小松姫、信之の3男真田信繁夫妻の墓等が残されている。人形の供養碑も境内に築かれているのは、人形の街の鴻巣らしい。(実は郡代の墓は撮り忘れ、後日撮りに行ったもの)

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既に、時刻は3時半を回り、今日はここまでとすることとし、鴻巣駅に向かった。10分ほどで幸いにも湘南新宿線の小田原行きが来た。

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