2007.11.17

日本橋から浦和・・・(中山道)

本日の万歩計46,761(31.3Km)
10月27日に京都三条大橋に到着し東海道を歩くことは達成出来たので、次は中山道と考えていたが何かと引っ掛かりが生じ体が空かなかった。
やっと、空いたので本格的なアッタクは来春としても、市街地脱出はぐらい開始しておこうと出発した。
日本橋からのスタートなら、それほど早く出かける必要もないと思っていたが、何だか早く目が覚めて6時を少し回ったところで日本橋に到着した。さすがに、冬は夜が明けるのが遅く橋の欄干のライトが点っていた。
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urawa_04.jpg再びレプリカの道路元標を見て、歩き始めると左側に三越本店があり、既にクリスマスの飾り付けであった。この辺りは伊勢、近江などの江戸店(えどだな)が軒を並べていたところである。
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  本物の道路元標はこちら。

17号線を進んで行くと、しばらくして神田駅に着きJR線のガードを潜るが、ガード下に田中昭作の「健やかに」のブロンズ像があった。さらに進んで、JR中央線に接しようとするところに交通博物館がある。学生時代に秋葉原に通った折に何度か入ったことがあるが、2006年5月14日に閉館となり今は取り壊し中のようであった。
なお、後継施設として鉄道博物館が2007年10月14日に埼玉県さいたま市大宮区・北区大成町に開館したとのこと。
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神田川を昌平橋で渡ろうとしたら、この辺りでもカモメが飛んでいるのには驚いた。早朝で人通りも無く、のんびりとした時間を過しているのだろうか。昌平橋の名前の由来は、将軍綱吉が湯島に聖堂を建設したとき、相生橋(芋洗橋)と呼ばれていたのを、孔子誕生地の昌平にちなみ昌平橋と改名したという。
そして、江戸時代の朱子学の学問所の「湯島聖堂」。早朝で一部しか見られなかったが、豪壮な建物であり、今でも論語素読、易経講義、孟子講読などの予定表が掛かっている。
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「湯島聖堂」と中山道を挟んで反対側に「神田明神」がある。天平2年(730)の創建で、大手町の将門塚あたりあったのを、徳川家康が現在の位置に移し、その後は「江戸総鎮守」として今に至るも隆盛を極めている。
また、神田祭は天下一の祭礼としてつとに有名である。
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urawa_13.jpg東京医科歯科大の裏を通って本郷3丁目に達すると、その交差点に「かねやすビル」が道路の左側にある。写真は道路の右側から交差点を通り過ぎて対角線のような感じで振り返って撮影したものである。江戸の川柳に「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」と詠まれたというが、内口中医師(今の歯科医)兼康裕悦がここで乳香散という歯磨き粉を売り出したら江戸中の評判になったところである。また、火災を警戒して町奉行より本郷までは塗屋、土蔵造りを勧め、屋根は茅葺を禁止し瓦葺とした。その境目がこの「かねやす」で、現在もビルとなってその名を留めている。
本郷3丁目の交差点を過ぎると、しばらくして、有名な東大の赤門。説明板には、11代将軍家斉の娘溶姫(やすひめ)が加賀藩に嫁ぐ時に前田家で建造したもので、正式には御守殿門といい、重要文化財に指定されている、とある。そして、本郷追分で分かれるまで、700mほども続く長い東大の塀。また、追分には最初の一里塚があったとのこと。
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東大から分かれて700mほど進み、白山1丁目の交差点で左折して細い坂道を下ってゆくと、直ぐに円乗寺の入り口がある。小さくて本堂のみで境内もほとんど無いようなお寺だが、「八百屋お七の墓」があることで有名である。井原西鶴の「好色五人女」で有名になったが、八百屋お七は寺小姓佐兵衛に会いたさに、火付けをして、鈴が森の刑場の露と消えた。
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巣鴨までは2kmほどの距離である。巣鴨駅を過ぎると直ぐに、左側に真性寺があり、笠を被った大きなお地蔵さんがある。江戸六地蔵の一つで正徳4年(1714年)に建立されたものであり、以前は巣鴨の地蔵と言えば、この地蔵を指したが、最近は「とげぬき地蔵」の方が有名になった。
あまり、広くない境内には芭蕉の句碑もあり、「白露もこぼれぬ萩のうねりかな」と書かれていた。
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おばあさんの原宿と言われる「巣鴨の地蔵通り」に進んで行く。朝の9時で、まだ閉まっていて開店の準備を始めたばかりの様相であった。しばらく進むと、「とげぬき地蔵」で有名になった、高岩寺がある。明治24年に下谷屏風坂(現上野駅付近)からこの地に移設されたお寺であり、昼間は行列ができるほどの賑わいというが、まだ閑散としていた。ちなみに、本尊は延命地蔵尊であるが、秘仏で非公開である。
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長い「巣鴨の地蔵通り」を進んで「都営荒川線」の庚申塚駅に向かう。踏み切りに達する少し手前に、「巣鴨の庚申塚」がある。江戸時代は名所として賑わったという。そして、懐かしい、今でも残っている路面電車の「都営荒川線」を見る。
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板橋に到着した。駅前には生き残った「永倉新八」が作った「近藤勇」と「土方歳三」の墓がある。もちろん、「永倉新八」の墓もある。旧東海道歩きで本宿(赤坂と藤川の間)の宝蔵寺でも近藤勇の墓(首塚?)があったが・・・
また、駅前広場には、北村治禧(きたむらはるよし)という人の「麗新」と題したブロンズ像もあった。
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JR板橋駅は東口から西口に行くには、踏み切りを跨いで回り込む必要がある。西口駅前広場には「むすびのけやき」と名付けられた立派な「けやきの木」があった。後に出てくる「縁切榎」と対照されて面白い。
urawa_27.jpg旧道を歩いて首都高速にぶつかり、その下を走る17号線を渡り、そのまま進むと「宇喜田秀家の墓」のある「東光寺」がある。「宇喜田秀家」は秀吉の時代は5大老と言われるまでになったが、関が原の戦いで副大将として奮戦したことが災いして、改易され、その後、島津、前田の懇願で死罪は免れるが八丈島に流される。しかし、長男と次男の子孫が八丈島で血脈を伝え、明治になり、この東光寺に墓を作ったという。
旧道を進んで行くと、「板橋宿」の名前の由来となった、「板橋」がある。現在はコンクリートの橋であるが、板の雰囲気を保とうとはしているようだ。それにしても、橋の左側に車が3台も停められているのはいただけない。さらに、進むと、この木の下を嫁入り、婿入りの行列が通ると不縁になるという「縁切榎」がる。和宮様の降嫁のときも迂回路をとり、ここは通らなかったという。菰でこの木を包んだとする説もあるが、これは不浄なものは菰で包むようにとの伝達からの誤りとのこと。
いずれにしろ、JR板橋駅前の「むすびのけやき」に比べ、小さな木であり植えられている土地も小さいものである。やはり「縁結び」に比べ「縁切り」は歓迎されないものなのであろう。
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再び17号線に合流して進み、志村に達すると、「志村の一里塚」がある。写真の左側は、道路の左側の一里塚である。一里塚は土砂の崩れを防ぐため、四方を石垣で囲んでいるが、ほぼ原型のままの一里塚が都内でしかも道の両側に残っているのは、素晴らしい。
一里塚は幕末以降に管理がなされず、荒れはてたので明治9年に取り除くべく通達が出て、多くが破壊されたとのこと。残念なことである。
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志村坂上の交差点で交番の横から細い道路に入って行く。舗装が綺麗な道で中山道であることを主張しているようだ。歩いて行くと民家の玄関先に庚申塔と書かれた古い石碑があり、旧道であることが分かる。また、清水坂と書かれた石碑があるが、この清水坂が中山道で最初の難所であり、急に曲がることから富士山が右に見える名所であったとのこと。東海道では茅ヶ崎と吉原宿で左富士の名所があったが、中山道では右富士だ。
urawa_32.jpgurawa_33.jpgurawa_34.jpg17号線に戻り、志村橋を渡り、直ぐに荒川橋に掛かる戸田橋を渡る。戸田橋は大きな橋で、右側には東北・上越新幹線の鉄橋が見え、ひっきりなしに列車が通るが、防音壁のため総2階建て列車の2階部分以外は、まるで見えない。
戸田橋を渡り2kmほど進むと、17号線から旧道に入り、「蕨宿」となる。下の写真の左側は、織物買継商の家を整備した歴史資料館別館であり、左は昭和初期の木の看板であるが、ずいぶんと立派である。
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少し進み、道路の右側に入ると「三学院」という真言宗のお寺がある。江戸時代は寺領20石を与えられ、関東七ヶ寺の役寺として格式の高い寺であったという。境内には目疾(めやみ)地蔵と呼ばれる地蔵があり、目に味噌を塗り、願いをかけると目の病が治るという。3重の塔も立派に見える。

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17号線を横切って進むと、少し古い雰囲気の家も見られるようになり、緩やかに曲がっている旧道を進むと外環状線の下を潜ることになる。やがて再び17号線を横切って進むと、急な上り坂があり「焼米坂」の石碑が建っていた。かつて、ここに「焼米」を売る茶店があったという。ここを過ぎると「浦和宿」になる。
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浦和宿に入ると、右側に「調神社(つきじんじゃ)」がある。調神社の調は「租庸調」の調である。社伝によれば開化天皇3年(紀元前156年)に創建されたとされ、非常に古い。崇神天皇の時代に伊勢神宮の斎主・倭姫命が参向し、境内に神宮に献る調を納めるための倉を建て、武蔵・総国の調の集積所と定めたという。物資の出し入れのため、鳥居は設けなかった。
調を「つき」と読んで月に通じるところから、手洗い水を吐き出しているのはうさぎで、狛犬も犬ではなく狛兎である。
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urawa_44.jpg今は7,5,3の季節とあって、着飾った女の子と、両親、祖父母等の一団を多く見かけた。「調神社」から出て、今日はここで終わることにして、左折して「浦和駅」に向かった。
今日は記念すべき中山道の第一日目であったが、順調に30Kmほどを歩くことができた。

2007.10.27

大津から京都・・・(旧東海道)

本日の万歩計35,380(23.7Km)
長かった、旧東海道歩きの旅も今日で最後となる。台風が近づいていて、関東では雨だが、京都あたりは曇りの天気予報を信じて、新幹線で京都駅まで行き、各駅停車で石山駅まで戻り出発したのは8時40である。
少し、雨がぱらついていて、傘を差して歩き出したが、この程度の雨なら歩くのに差し支えはない。
NECの大きな工場を左手に見ながら歩き、通り過ぎると「膳所城(ぜぜじょう)の勢多口総門跡」に着く。何年か前までは古い趣のある家なども残っていたようだが、完全に姿を消してしまっている。僅かに、駐車場の片隅に道祖神が所在なげに立っている。
kyoto_01.jpgkyoto_03.jpgkyoto_02.jpgこの総門跡から右に100mほど行くと、琵琶湖の「御殿浜」に出られる。琵琶湖もこの辺りでは、幅は1Kmぐらいである。左の方には近江大橋と、膳所城跡が見える。釣りをする人、ボートを楽しむ人など、この辺りでは海辺の人が海を楽しむように琵琶湖を楽しむ。
元に戻って歩き始めると、ベンガラ格子の家があり旧街道を思わせる。しかし、古さを思わせる家は、ほとんど残っていなくて、少し寂れた町の風情である。

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旧東海道を逸れて、琵琶湖に飛び出すようになっている、膳所城跡に行ってみた。もう少し後の季節なら綺麗な紅葉が見られるのだが・・・。
kyoto_06.jpgkyoto_06b.jpgkyoto_07.jpg進んで行くと、時計を付けた石碑のある、「石坐神社(いわいじんじゃ)」がある。祀神は彦坐王と、天智天皇、伊賀釆女宅子媛命とその子大友皇子、豊玉比古命、海津見神。かつて御霊殿山の山中の大岩上に祠があったことが石坐の社名の由来とか。時計は天智天皇が中国より、時計を導入したことを示したという。
kyoto_08.jpg大津の宿で、是非寄りたいと思っていたのは「義仲寺(ぎちゅうじ)」である。もう少し大きなお寺を想像していたが、小さなお寺であり、注意していないと通り過ぎてしまうほどである。入り口の説明板には、義仲寺の名は,源義仲を葬った塚のあるところからきていますが,室町時代末に,佐々木六角氏が建立したとの伝えがあります、とある。木曽義仲の墓の隣に芭蕉の墓もある。芭蕉は元禄7年(1694)10月12日午後4時頃に大坂の旅舎で亡くなり、遺言に従って義仲寺に葬るため遺骸を川船に乗せて淀川を上り伏見に至り、義仲寺に運んだという。
下の写真は、左が義仲の墓で、右が芭蕉の墓である。
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kyoto_12.jpgまた、芭蕉の門人又玄の「木曽殿と背中合わせの寒さかな」の句碑が2つの墓を飾っている。巴御前の小さな石塚もある。加えて、小さな展示室もあり、芭蕉の使っていた「椿の木で作った杖」などの遺品も並べられていた。
さらに、20基ほどの句碑が所狭しと建てられているが、芭蕉の句のみ紹介すると、
行く春をあふミ(近江)の人とおしみける
古池や蛙飛こむ水の音
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

kyoto_09.jpgkyoto_13.jpgkyoto_14.jpg旧街道を示す案内図が随所に建っていて、間違いなく辿って行ける。終に京阪京津線が路面電車のように走っている道路に出て、左折して逢坂に向かう。いよいよ市街地を離れる辺りに、東海道線と京阪京津線が立体交差する大正10年にできた美しいレンガ造りの橋がある。この橋の直ぐ後ろにJR東海道の逢坂山トンネルがある。
kyoto_15.jpg坂道も少しづつ傾斜を増してくるが、道路の右側を走る京阪京津線の線路を跨いで、妙光寺というお寺があった。興津にあった、清見寺を思い出して思わずカメラのシャッターを押した。直ぐにもう一つ、線路際に「蝉丸神社」の下社がある。
蝉丸神社の説明板には、蝉丸は延喜帝第四皇子であったが、生まれつき盲目で延喜帝が僧形にして逢坂山に捨てさせたと書かれているが、生まれについては諸説ありはっきりとは分かっていない。
宇多法皇の皇子、敦実親王の雑色(ぞうしき)であったが、親王は管弦の道に秀で、琵琶をよく弾いていた。それを常に聞くうち、蝉丸も琵琶が上手になったが、盲目となったので、役を辞したのではとの説が有力と思われる。いずれにしろ、今昔物語を出典とした謡曲「蝉丸」は、名曲とされる。蝉丸が琵琶の名手だったことから、音楽の神として崇拝されていて、楽器の腕の向上を願う絵馬が、神前に多く掲げられていた。
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いよいよ、逢坂の峠に向かって上ってゆくことになる。国道1号線と京阪電車の線路に挟まれた歩道を上ってゆくと、国道の向こうに赤い鳥居の立派な「関蝉丸神社」の中社が見える。国道を渡るのも大変だし、なによりも高い階段に恐れをなして、国道を跨いで写真撮影のみで済ませた。
kyoto_18a.jpgkyoto_18.jpgkyoto_19.jpgこの辺りで、高速道路、京阪電車もトンネルとなり、もちろんJR線もトンネルだが、唯一国道1号線だけは切り通しを上ってゆく。道路の側面は石の雰囲気にデザインされたコンクリートで覆われているが、その上に「車石」と書いたプレートが取り付けられていた。昔は裏日本の新潟の米などは敦賀から深坂峠を越えて、琵琶湖北端の塩津で船積みされ、大津の港からこの峠を荷車で京に運ばれた。その交通量は江戸時代中期の1778(安永8)年には牛車だけでも年間1万5894輌の通行があったという。ところが、雨でも降ると道はぬかるみ荷車の通行に難儀することから、京都の心学者脇坂義堂は、1805(文化2)年に1万両の工費で、大津八町筋から京都三条大橋にかけての約12kmの間に牛車専用通路として、車の轍を刻んだ花崗岩の切石を敷き並べた。大変に手間の掛かる工事だったと思われる。
やがて、峠の頂上近辺に達したところの国道の右側に、逢坂山関址の碑と常夜灯が建っていた。押しボタン信号で右側に渡ると、300mほど旧道が残っていて、直ぐに「かねよ」があり、食事をすることにした。「うなぎ」を食べるなら、三島の「桜屋」か逢坂の「かねよ」で、優劣が付け難いと聞いていたので迷うことなく「特うな丼」を注文。うまかった。
kyoto_20.jpgkyoto_21.jpgkyoto_22.jpg食事を済ませ、満足して歩き始めると直ぐに「蝉丸神社の上社」がある。ここにも、神社の由来と、百人一首に採られている蝉丸の歌、
「これやこの 行くも帰るも別れては しるもしらぬも あふさかの関」が書かれていた。
kyoto_23.jpg短い旧道が終わり、国道に再度合流するところに横断橋があるので、左に渡り歩いて行くと、「月心寺」がある。入り口はまるで料亭のような感じで月心寺と書かれた風雅な軒行灯が吊られているが、これには訳がある。江戸時代は茶店で、安藤広重の大津に描かれている茶店が、それだとのことだが、明治以降に荒れ果て、大正時代の初めに日本画家の橋本関雪(はしもとかんせつ)が朽ちるのを惜しんで自分の別邸にし、その後月心寺となったためである。中にある湧き水は「走井の水」と呼ばれ古来より多くの歌に読まれたが、いまも清冽な水が湧き続けている。
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長い峠道もようやく終わりになり、名神高速のガードを潜ると直ぐに左の交番脇のほうに曲がり、国道と分かれる。しばらく行くと、「みき京みち」、「ひたりふしみみち」と書かれた古い道標があり、右に進む。
kyoto_26.jpgkyoto_27.jpgkyoto_28.jpg道は国道1号線にぶつかる。国道に向かって進んでいると、おばさんが横断橋を渡って行かないと行けないと教えてくれた。国道を渡って600mほど進むと、山科廻地蔵と、徳林庵と書いたちょっと変わったお寺があった。徳林庵は、仁明天皇第四皇子で琵琶の名手の人康(さねやす)親王の菩提を弔うため、天文年間(1532?55)に創建された寺であり、山科地蔵は小野篁(おののたかむら)公により852年に作られた六体の地蔵尊像のうちの一体で、初め伏見六地蔵の地にあったが後白河天皇は、都の守護、都往来の安全、庶民の利益結縁を願い、平清盛、西光法師に命じ、1157年、街道の出入口に配置させたものである。
JRの山科駅を過ぎて三条通りの道に出て、ガードを潜って、天智天皇御陵への道が始まるところで、細い道路を左に入って行く。しばらく行くと、写真ではそれほどに感じられないが、かなりキツイ上りで日ノ岡坂と呼ばれる所を通る。そして右にカーブするところに、亀水不動尊がある。日ノ岡峠を改良する際、その工事に着手した木食正禅養阿上人が建てた「梅香庵」の境内に設けられた、人や牛馬が休憩する場所だったそうだ。当時は「量救水」(りょうぐすい)と呼ばれていて、お不動さんは後に祀られたようである。
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道は三条通の合流点に向かって続くが、細い道で、ほんとうにここが東海道であったのかと思いたくなるほど寂れている。しかし、かすかにそれらしい香りもする。そして、やっと合流点に達すると、京都市営地下鉄東西線の開通で廃線にされた京阪京津線に使われていた舗石を利用して、昔の牛車道を表したモニュメントが作られていた。
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長い旅も終結を迎えようとしていて、やっと三条大橋にある尊皇派の「高山彦九郎」が皇居を遥拝する大きな像が見えてきた、そして鴨川の清らかな流れ。
kyoto_32.jpgkyoto_33.jpgkyoto_34.jpg三条大橋には、和歌山に住む妹夫婦が、90歳の母と姪を連れて来てくれた。写真は母と、姪と3人で写したもの。
今年の3月にスタートして、京都まで歩いて行くなど、本当に出来るのだろうかと思っていたが、達成することが出来た。23日(回)費やしたが、最初の2日は家の近くを短時間歩いただけなので、実質21日での達成となる。
以下は三条大橋に到着して以降の番外編である
皆で南禅寺を訪れた。南禅寺の山門は日本三門の一つと言われ、22mの高さで堂々たるものであり、石川五右衛門が「絶景かな」と見得を切るが、これは創作で、寛永5年(1628)に藤堂高虎が、大阪夏の陣で戦死した一門の武士たちの冥福を祈るため寄進したものであり、五右衛門が釜茹でにされたのは、それより早い。
門前には高さ6mの大灯篭があるが、三門が大きいため目立たない。
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また、南禅寺は琵琶湖から疎水を引いた水路が通っていることでも有名だ。美大生がよく描く場所でもあるとのこと。
kyoto_37.jpgkyoto_38.jpgkyoto_39.jpgまだまだ、紅葉前であったが、紅葉すると美しく幻想的な様相を呈するだろうと思われた。もっとも、紅葉の時期には訪れる人で一杯で風情を楽しむこともままならぬことになるかもしれないが・・・。

2007.10.07

水口から草津・・・(旧東海道)

本日の万歩計47,708(31.96Km)
今朝は6時に起床して6時30分からホテルの朝食をとり、6時50分に出発した。
今日もよい天気で、特に早朝は涼しく気持ちがよい。
kusatsu_01.jpg歩き始めると、直ぐにJR草津線の踏み切りを渡るが、渡ると大きな石部宿への道標がある。
さらに進むと、天井川の大沙川にぶつかる。天井川といっても、川の下にトンネルのようして道路が続くのを見るのは初めてだ。川の下を通り過ぎた向こう側に、土手の上への上り口があり、上って見ると、コンクリートで固めた水路のような川があったが、水は流れていなかった。おそらく、雨でも降れば一気に流れ出すのだろう。それにしても、山から流れ出す土砂を土手に積み重ねているうちに、ドンドン土手が高くなり終には川床まで高くなって、道路を通すトンネルを穿てるほどになったのは驚きだ。
kusatsu_02.jpg川の土手には、弘法大師が植えたと伝えられる「弘法杉の大木」があった。樹齢は750年というから、弘法大師とは時代が合わないが、樹高は26メートル、周囲6メートル で、圧倒的な迫力を持つ大木である。
木の葉は確かに杉の木だが、何時も見る真っ直ぐに伸びる杉の木ではなく、太い枝がのた打ち回っているような形である。人間が利用するには不向きだが、本来の生命力旺盛な古代種の杉と思える。
真っ直ぐ伸びて天を突く杉も素晴らしいが、この杉も本当に素晴らしい。
kusatsu_03.jpgkusatsu_04.jpgkusatsu_05.jpgしばらくして、由良川という2つ目の天井川に出くわした。この川はトンエルの手前で川に沿って右に行くと土手に上る細い道が付いていた。上ってみたが、ここも水はなく、川床一面に雑草が茂っていて、まるで廃川の様相であった。
なかなかに、雰囲気のよい家並みが続くが、車の通りが多いのが難点だ。抜け道に使われているのだろう。
そして、1805年創業の北島酒造があり、伝統の暖簾が掛かっていた。
kusatsu_06.jpgkusatsu_07.jpgkusatsu_08.jpg続いて現れた「家棟川」も天井川であろうと見当を付けて歩いていったが、期待は裏切られ川の上を渡る普通の橋が掛かっていた。しかし、上流に目をやると急激に落ち込んでいる部分が見て取れ、川を改修(掘り下げ)して現在の姿になったのではないかと思う。
kusatsu_09.jpg石部宿に入って行くと、吉御子神社と対になって石部社と呼ばれる「吉姫神社」があり、1kmほど進むで直角に右折するところに、旅人の休憩所があった。吉御子神社もこの近くだが、街道から少し離れているのでスキップした。
休憩所には籠が置かれていたが、主に竹を使ったもので、簡単な構造である。重さを極力軽くする必要性からも合理的な造りであったように思える。
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石部宿では、休憩所の他、駅前の広場、小公園などを造り東海道の街道情緒を醸し出す努力をしているようだ。
kusatsu_12.jpgkusatsu_13.jpgkusatsu_14.jpg石部駅を過ぎて、ゴーシューという自動車部品の大きな機械工場の脇を通り、人気の薄い道を通って再び草津線の見える道を進んでいると、形のよい山が見え「近江富士」と呼ばれていることが分かった。
平将門の乱を平定したことで有名な俵藤太(藤原秀郷)が瀬田川に住む龍王に三上山の大百足退治を頼まれて、自慢の弓で射止めたという伝説が残っている山であり、本当の名前は、三上山と言い、432 メートルの高さの山である。
六地蔵の集落に入るとすぐに、土地の名前の由来になった六体の地蔵が祭られた法界寺がある。現在は無住のお堂に国の重要文化財にもなっている地蔵菩薩立像一体が安置されているとのこと。山門前に「国寳 地蔵尊」の大きな石碑があった。
そして、直ぐに見事な構えの「和中散本舗」があった。和中散は、胃痛や歯痛などにもよく効く薬で、旅人の必帯道中薬として重宝されたもので、最盛期にはこの梅木地区で7?8軒あったという。
建物は今まで見た内で最も勇壮な木造建築で、往時の繁栄が偲ばれる。まだ、住んでいる方がおり、解放されていないが、庭園も国指定名勝とされ素晴らしいとのこと。
kusatsu_15.jpgkusatsu_16.jpgkusatsu_17.jpgすぐに、「梅の木の一里塚跡」の真新しい石碑があり、手原駅の方に進んで行く。
手原駅前に通じる道路の交差点に「稲荷神社」があり、神社の前には手の形のベンチがあった。神社に寄ってみたが、5?6人の人が明日から始まる秋祭りの相談で集まっていた。呼び止められ、お茶をご馳走になり世間話をしたり、問われるままに今まで歩いてきた旅の話しをした。

kusatsu_18.jpgkusatsu_19.jpgkusatsu_20.jpg手原駅に行くと、駅前には「東経136度」の面白いモニュメントがあった。また広場の広範囲な面にソーラーセルが張られていて、街灯の電力をまかなっているようであった。手原には「手孕み伝説」があり、東海道名所記には馬方の話として、
いにしへ、この村の某、他国にゆくとて、その妻の年いまだわかく、かたちうつくしかりければ、友だちにあづけて、三年まで帰らず。友だち、これをあづかり、わがもとに、をきたりしに、人のぬすみ侍べらんことをおそれて、夜は女の腹の上に手ををきてまもりしに、女はらみて、十月といふに、手ひとつうみけり。それより、この村を「手ばらみ」といひけるを、略して、「手ばら」といふとかたりぬ。
よく出来た艶笑小咄である。
手原駅を過ぎ、栗東市上鈎(りっとうしかみまがり)に入ると、上鈎池があり、その堰堤に「九代将軍 足利義尚公 鈎の陣所ゆかりの地」と刻まれた石碑があった。石碑の説明には、
応仁の乱後、勢力が衰え社会は乱れ、近江守護職佐々木高頼は社寺領等を領地として、幕府の返還勧告に応じないため、時の将軍義尚は長享元年十月近江へ出陣、鈎に滞陣した。滞陣二年病を得、延徳元年三月二十五歳の若さで当地で陣没した。本陣跡は西約三百米の永正寺の一帯であったとのこと。
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歩く道すがら、曼珠沙華があちこちで咲いていた。既に盛りは過ぎたようだが、あまりにもけばけばしい赤は好きになれない。コスモスの清楚な感じと対比して見てしまう。
そして、シーボルトと縁のあった「善性寺」。説明板には、
文政9年(1826)4月25日、江戸からの帰途、シーボルトがこのお寺を尋ねたのだそうだ.住職の僧恵は植物学者で、シーボルトは「スイレン、ウド,モクタチバナ、カエデ等の珍しい植物を見学できたと自著に書き記しているとあった。
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いよいよ、草津宿に入る。既に廃川となった古い草津川に架かる草津川橋を渡る。既に河川敷は全面遊び場になっている。川の堤防から下りる途中には火袋付きの立派な道標があり、「右金勝寺志がらき道」、「左東海道いせ道」と書かれている。
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ほどなく、丁字路に突き当たるが、ここが東海道と中山道の追分(分岐点)である。ここで 、右に折れれば中山道、左に曲がれば直ぐに草津の本陣があって、京に続いている。東海道には現存する本陣は「二川宿」とここ「草津宿」だけである。入り口の門の前には今日の宿泊客の「関札」と呼ばれるものが立てられている。そしてこの門をくぐると白州と呼ばれる白い砂利の引かれた空間となり、玄関広間に到着する。
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玄関広間には大勢の大名の「関札」が並べられていた。
そして、畳廊下を通って一番奥の左手には最も格式の高い「上段の間」、その向い側には2番目に格式が高い「向上段の間」がある。
kusatsu_29.jpgkusatsu_30.jpgkusatsu_31.jpgkusatsu_32.jpgkusatsu_34.jpg本陣を出て進んで行くと、直ぐに東海道はアーケードになっていた。四日市、水口に続き3番目のアーケードになった東海道である。しかし、どこのアーケードも精彩を欠いており、シャッターの閉まった店も多いように感じる。東海道の街道が明治になって影響を受け衰退したところも多いが、果敢に生き残って繁栄した街も多くある。しかし、そのような街も再度の時代の変化の影響は避けられないものらしい。
少し進むと、「草津宿街道交流館」があり、本陣の入場券とセットで買っていて、見ることができた。興味を引いたのは、当時の旅籠の朝食と夕食が再現されていたことであった。上客用とのことだが、朝食などは現在と較べても遜色が無いように思える。また、「和宮様」が江戸に下向されたときに出された食事も記録が残っていて、再現されていた。確かに上品に作られているが、一般の旅籠の食事の方が良いようにも見えてくる。
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ここの資料館は、江戸期の書物や絵画を良く集めていて、「東海道中膝栗毛」や「東海道中膝栗毛双六」などがあった。
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進んで行くと、草津宿で一番古く767年創建の「立木神社」がある。祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)で、神社で普通に見られる「狛犬」が「鹿」なのが特色である。歴史を感じさせる神社である。そして、矢倉橋を渡る。
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その後、国道1号線を渡り、旧東海道の続きを進もうとすると、小さな公園にぶつかり、この公園を通り抜けることになる。そして、この小公園には「野路一里塚」の石碑がある。
さらに、広い道路を横断して少し進むと、右側の民家の遠藤家の塀に案内板を見つけた。平清盛の孫にあたる平清宗胴塚があるとのこと。民家であるが案内板があるので、見せて貰っても差し支えないものと、入っていくと大きな旧家のようで、庭を進んで奥まったところに、その塚があった。
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菱で一杯で水面がほとんど覆われた弁天池を過ぎて、しばらく行くと、明らかに日曜大工か何か、プロでない人が作ったと思われる木製の常夜灯があり、ここから「大津宿」、「4.6Km瀬田唐橋」の表示があった。とてもありがたい表示である。下月輪池が近づき「新田開発発祥の地」、「明治天皇御東遷御駐輩之所」などの石碑が纏まって建っていた。
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石碑の前を通り、下月輪池に達すると「東海道立場跡」の真新しい石碑が建てられていた。
その後も左折、右折をしながら街道を辿ってゆくと、石善と言う屋号の山村石材店前に、しゃれた猫の夫婦の像があり、「左旧東海道」、「右瀬田・唐橋」との道標にもなっていた。
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ようやく、瀬田の唐橋に辿り着いた。時間は4時半ころだが、進行方向に向かって写真を撮ると、逆光で夕方のように写るので、通り過ぎてから振り返って撮影した。水面にはボートの練習をする選手達を見ることができた。
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今日は瀬田の唐橋までと考えていたし、時間的にも肉体的にも限界が近づいているため、この辺で切り上げることにして、JR石山駅に向い、まず京都に向い(電車は通勤時間帯ほど混んでいた)、幸いにも直ぐ発車の新横浜停車の「のぞみ」に乗ることができた。

2007.10.06

土山から水口・・・(旧東海道)

本日の万歩計36,042(24.14Km)
今週も3連休。旧東海道歩きに行かない訳には行かないと出かけた。
tsuchiyama_01.jpg前回に終えた土山宿入り口の「あいの土山道の駅」に行くには、貴生川からバスで40分ほどかかる。貴生川には9時29分着が最も早く行ける方法だが、貴生川発のバスは9時20分で、その次は10時50分だ。しかたがないので、6時53分新横浜発で米原、草津経由で貴生川に10時15分に着く列車を選んだ。ところが、10月から9時55分発のバスができていて、ちょっと損した気分になったが、ともかく10時50分のバスに乗った。道の駅は麺類しかなかったので、「天婦羅うどん」を食べて出発する。まともに食事を取る場所が無いことが分かっていたので、コンビニの「おにぎり」もリュックに入っている。時刻は11時50分であった。
今までで、一番遅い歩き初めだが、ここが私の自宅から時間的に一番遠い場所だ。土山宿の始まりはこの石碑から始まるが、宿場町としての街並みの維持には並々ならぬ努力が払われていて、各戸の玄関には、江戸時代の屋号を示す板の看板を付けていた。「土山の街並みを愛する会」というのがあり、活動しているようだ。
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古い街道の雰囲気の街並みが続き、途中にある「来見橋」の欄干も和風で安藤広重の絵を模したものが描かれていた。
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旅籠があったあたりには石碑を建て、森鴎外が泊まった旅籠の「平野屋」の前には説明板があった。
説明板には、「森家は代々津和野藩亀井家の典医として仕えた家柄である。白仙は長崎や江戸で漢学・蘭医学を修めた篤学家であった。参勤交代に従って江戸の藩邸より旅を続けるうち, この井筒屋で病のため息をひきとったのである。 のちに白仙の妻清子、 一女峰子の遺灰も, 白仙の眠る常明寺に葬られた。」とあった。
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宿の途中に「伝馬館」という、古い旧家を改修して「資料館」としたところがあった。
中には、伝馬制の説明をはじめ、土山宿の模型、東海道53次の全ての宿の安藤広重の絵に対応した粘土細工があり、また100個の人形による大名行列もあった。
おじさんが居て、とても詳細に宿の歴史などを説明してくれ、てっきり、この「伝馬館」の説明員と思っていたら、説明が終わると帰っていった。あとには、それほど詳しくない女性職員が残った。どうもおじさんは、土山の町おこし活動の役員かなにかの方だったようである。
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さすがに、本陣は石碑のみで家屋は残っていない。そして、先ほどの説明のおじさんが訪れることを勧めた、「常明寺」。森鴎外の祖父の森白仙が井筒屋で病死して、田村川のほとりの墓に埋葬されたが、鴎外が明治13年(1900)に当地を訪れ、墓がひどく荒れているのを見て常明寺の境内に移した。その供養等があるとのことであったが、見つからなかった。現在も土山の人々の多くの墓石が立っていて、人の墓地を探し回るのも気が引けたからでもある。
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土山の家並みも途絶え、水口の宿に向かう途中に「歌声橋」という、人と自転車専用の橋があった。映画の「マジソン郡の橋」で屋根つきの橋を見たが、実際に屋根つきの橋は始めて見た。
そして、川の下には「野洲川」の清らかな流れが見える。
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しばらく行くと、「垂水の斎王の頓宮跡」がある。旧街道から国道に出て国道を横切る必要があったが、信号も無く苦労した。ときの天皇が内親王の1人を「伊勢神宮」に差し出す風習が南北朝時代まで続いたそうだが、このときの伊勢路に宿泊所として作られたのを「頓宮」という。昔は田, 甲賀, 土山( 垂水),鈴鹿, 一志の5 ケ所あったが、いまはっきりと「頓宮跡」として残っているのはこの土山だけだという。
頓宮が使われるのは何年かに一度だが、内親王が特別な役目を負って泊まる特別な場所であるため、とても立派なものであったという。入り口は茶畑への入り口にもなっていて、草が茂りこれが貴重な史跡への入り口とは思えない。土山宿の人達も街並みのみに気を使っていて、「頓宮跡」には、全く無関心であるのが残念である。
斎王といえば、3年間の勤めを終えて16歳で無事都に帰ってきた三条帝の皇女,当子内親王がいたが、匂うばかりの美しさであったという。自然の成り行きで当時26才だった三位中将藤原道雅が彼女に近づき、ふたりは恋仲となったが、一度「斎王」となって神に仕えた身は一生一人で過すのが慣わしであった。
三条帝の知るところとなって、引き裂かれ道雅は、全ての職務を取り上げられ「いまはただ 思い絶えなんとばかりを 人づてならで
      言うよしもがな」
の歌を百人一首に残している。
一方の当子も23歳で失意の内に没している。悲恋物語である。
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さらに少し進むと、東海道反野畷碑がある。これは水害に悩まされた住民が願い出て、1699(元禄12)年から4年間かけて野洲川へ流す延長504間、川幅4間の排水路を掘割した跡である。
また、その後に距離は短いが、松並木が見られた。
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歩いて行くと面白いものを見つけた。酒屋さんの店先に大きな酒樽に窓を開け、屋根を付けたのが置いてある。
覗き込むと、中には何種類かのお酒の容器とおぼしきものがあり、道行く人にコップ酒でも販売しているのだろうか。そして、ようやく水口が近づき、今郷の一里塚に対面した。江戸期の一里塚は壊され、最近になって作り直したもので、方形に石で囲われ、土の盛り方も少なめである。なにより植えられた木がまだ若木の様相であるが、年輪を重ね立派になってくることだろう。
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やっと、水口宿の江戸方見付けのモニュメントに達した。そして市街地の入り口には仕掛け人形が動く時計台がある。市街地の出口にも別の型の時計台があった。
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水口の市街地を通ってゆくと、途中から旧東海道がアーケードになっていた。旧東海道がアーケードになっているのを見るのは、四日市の諏訪神社脇から続くのに続いて2回目である。
旧東海道は「近江鉄道」の「水口石橋駅」の直ぐ傍を通っているが、その名前の元となった「石橋」があった。しかし、流れの幅は1mぐらいで、注意していなければ見過ごしてしまうほどのものであった。かつては、立派な流れが、水路の変更などで小さくなったのであろう。
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水口の市街地を抜けて田園地帯を歩いているとき、5体ほどの道祖神がまとめて祀られている場所があった。その1体を写したのだが、前掛けの図柄が面白い。周りを見れば、家々の庭にはコスモスの花が、風にそよいで、秋の彩を演出していた。
tsuchiyama_25.jpgtsuchiyama_26.jpgtsuchiyama_27.jpg少し日も傾いてきた。急がねばと思っていたら柏木公民館前に半鐘を鳴らす鐘楼の模型なのか、実物大ではと思える銅像があった。公民館そのものも凝った造りで、何故それほど経済的余裕があるのか不思議に思った。
いよいよ、野洲川の「横田の渡し跡」が近づいて来た。野洲川の方に曲がると、「泉の一里塚」があったが、これも、近年に作り直したもので、「今郷の一里塚」と同じつくりである。作った時期も同じであろう。
そして、「横田渡し跡の常夜灯」である。高さ10.5m, 笠石2.3m四方で火袋は人が通れる大きさで、周囲17.3m の玉垣もあり、街道一の大きさと説明板に書かれていた。江戸時代には、夜でも渡る人が絶えず、水流の激しい川で方向を失って亡くなる人も多くいたので、常夜灯を設置した。これで事故はなくなったという。
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さて、今日の予定は全て済ませ、あとは予約した三雲のホテルに向かうだけだ。かなりくたびれたが、足の状態は前回よりずいぶんと良くなった。

2007.09.23

庄野から土山・・・(旧東海道)

今日の歩行距離(31Km:万歩計を忘れ地図を使った計測値)
suzuka_001.jpg23日の朝食は、ホテルのバイキングで済ませ、7時過ぎに出発した。鈴鹿川の河川敷では熱気球の愛好家たちが、既に活動していた。空は曇りで、昨日よりは涼しいであろうと期待された。
suzuka_003.jpg歩き始めて、昨日離脱した庄野の本陣跡に向い、その後バイパスと国道1号線で分断された街道を複雑に進んで、中富田に達すると、ブナ科の「スダジイ」と呼ぶ珍しい木の大木があった。幹の周り5mとのこと。
suzuka_005a.jpg進んで行き、人家の絶えるあたりに、「従是東神戸領」の境界石と大きな石碑があった。
石碑の字は読めないが、以下のような言い伝えが残っている。
 
 鈴鹿川と安楽川の合流するあたりの左岸、汲川原ではしばしば水害に見舞われ、人命が失われることも多かった。村人たちは堤防を築くことを神戸藩に願い出たが、堤防を造ると対岸の城下町が水害に見舞われるようになるとして許可しなかった。「禁を破った者は打ち首」という。「男たちが打ち首になったのでは村が全滅する」と、村の女性たちが立ち上り、200人余の女性たちだけで工事をはじめた。6年かかって堤防は完成したが、やがて藩主の耳に入った。処刑者を出すところであったが、家老が身をもって諌めたため、女性たちに逆に金一封を送り功績を称えた。この堤防を人々は「女人堤防」と言い伝えた。今から180年ほど前の出来事である。

しかし、6年もかかって、その間藩主の殿様が気がつかなっかた筈がなく、村人が困っているのを承知していたが、対岸の手前もあり、表立って許可する訳にも行かなかったが、出来てしまったものは仕方が無いと、家老が身をもって諌めるという芝居をうったのではなかろうか。
そうでなければ、許したとしても金一封を送る訳がないと思うのである。
やがて、中富田に入ると「中富田一里塚跡」。
和泉橋を渡り、さらに進んで行くと、旧東海道を歩いているとよく目に付く「ひげのお題目」がある。
これは、日蓮宗の信者 谷口法春の子法悦が願主となり、「東海道刑場供養塔」として建てられたもので、天長地久、国土安穏を祈願したものとのこと。
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和田町に進むと、「和田一里塚」があるが、明らかに近年に作り直したもの。それでも、植えた木は、かなり大きく成長している。そして、しばらく進んで道の左側に国内市場占有率5割の「カメヤマローソク」の工場。
伊勢神宮の宮大工の棟梁だった初代社長 谷川兵三郎氏が引退後も何か神様につながる仕事をしたいと願い、ローソク会社を興したという。
初めは神仏用の洋ローソクの会社だったが、昭和12年にアートキャンドルを始め、海外へも輸出、世界にカメヤマキャンドルの名を広めた。結婚式などでお馴染みのスパイラル型のキャンドルなどはこの頃この会社で開発されたものだという。引退後の仕事で世界的な企業になってしまうというのもすごい。
suzuka_009.jpgsuzuka_010.jpgsuzuka_011.jpg亀山の宿に入ると、各戸の家の前に、江戸時代に何の商売を行っていたかを示す木札が付けられている。個人の家にも公共の建物にも付けられている。これは、亀山の宿を過ぎて「関宿」に入っても続いている。
何とか、江戸時代の情緒を出したいとの努力の現れであろうか。
道路の作りも整備されていて、訪れた旅人が歩くのに良い雰囲気に浸れるように気を使っている。
そして、梅厳寺は写真では明らかでないが、寺の左が落ち込んだ地形になっていて、安藤広重が描いた場所といわれている。
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「亀山の宿」の街並みは、まだまだ続くが、やがて「野村の一里塚」がある。ここのエノキの木は立派である。これほど立派なのは、他には富士川の一里塚ぐらいではなかろうか。
suzuka_015.jpgsuzuka_016.jpgsuzuka_017.jpgそして、参道の長い「布気皇館太神社」。
その後、関西本線を跨いで越し、国道1号線と東名阪神のガードを潜って、鈴鹿川の堤防をたどる道を延々と歩く。再び関西本線にぶつかり、踏切を渡って、左折し「関宿」の入り口に達する。
関宿の入り口を入って、直ぐに「関の小萬のもたれ松」の案内板があった。案内板によれば、
江戸も中頃、九州久留米藩士牧藤左衛門の妻は良人の仇を討とうと志し、旅を続けて関宿山田屋に止宿、一女小萬を産んだ後病没した。
小萬は母の遺言により、成長して三年程亀山城下で武術を修業し、天明三年(1783)見事、仇敵軍太夫を討つことができた。
この場所には、当時亀山通いの小萬が若者のたわむれを避けるために、姿をかくしてもたれたと伝えられる松があったところから「小萬のもたれ松」とよばれるようになった。

とあった。
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古い街並みがよく保存されていて、観光客も多い道を歩いて行くと、「関宿」の守り神の「関神社」があった。
空腹を感じ、やはり古い感じの建屋の食事処で食事をした。
歩いて行くと、郵便局の前が高札場で、郵便局そのものも街の雰囲気を壊さない装いの建物であった。
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途中の休憩所に立ち寄ると、2階から街を眺められるところがあり、また違った視点で興味深かった。
郵便局の向い側は、和菓子屋さんの深川屋、服部家があり、瓦屋根の付いた立派な看板が出ている。こういう看板を「庵看板」というのだそうだが、看板の文字は江戸側は「関の戸」、京側は「関能戸」と書き分けられている。旅人が向う方向を間違わないための工夫という。
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観光客の多い、賑やかな通りも終わりに近づいたころ、「福蔵寺」があり、関宿の東の入口に「関の小萬のもたれ松」の案内板があったが、その小萬のお墓がこのお寺にある。
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大きな神社仏閣の最後は、「関の地蔵に振袖着せて奈良の大仏婿に取ろ」の俗謡で名高い「地蔵院」である。
天平13(741)年、奈良東大寺で知られる行基菩薩が、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、この関の地に地蔵菩薩を安置したと伝えられる。日本最古の地蔵菩薩で、関に暮らす人々に加え、東海道を旅する人々の信仰も集め、全国の数あるお地蔵様の中でも最も敬愛されていると言われている。境内の本堂、鐘楼、愛染道の3棟の建物は国の重要文化財に指定。ここを過ぎると、観光客は激減するが立派な街並みは、まだまだ続く。
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鈴鹿峠への道を進んで行き、国道と合流し、再度分岐して進むと、鈴鹿川を渡るが、この辺りでは、庄野辺りの広い河川敷が嘘のような小川になっている。そして、常夜灯が旧東海道であることを示してくれているようで心強い。

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suzuka_034.jpg国道を歩いていると、突然有名な「筆捨山」の看板があった。見ると、何のことは無い山に見えるが、
「東海道名所図会」には次のように記されているそうだ。
一の瀬川の辺にあり。海道の左の方は、麓に八十瀬川を帯びて、山頭まで所々に巌あり。その間々みな古松にして、枝葉屈曲にして作り松のごとし。本名は岩根山という。里諺にいわく、狩野古法眼(狩野元信)東国通行の時、この山の風景を画にうつしてやと筆をとるに、こころに逮(およ)ばず、山間に筆を捨てしとぞ。
いまは、木が茂り岩が隠れて平凡な山に見えるようになったとのことだが、これほど期待外れの山も珍しい。
suzuka_036.jpgやがて、鈴鹿馬子唄会館に到着。案内板によると鈴鹿馬子唄は、
坂は照る照る鈴鹿は曇る
あいの土山雨が降る
馬がものいうた鈴鹿の坂で
お参女郎(上臈)なら乗しょというた

と続く。
ここに、到着するまでは今日はここでバスを待ち引き返すか、坂下まで足を伸ばして引き返すかと考えていた。
実は、昨日から左右の足に豆が出来、手当てしたが相当痛く、特に休んだ後で、歩き始めると、しばらく馴染むまではゆっくりしか歩行できない状態で相当酷い。
ところが、馬子唄会館のおじさんと話していて、まだ、これからなら鈴鹿峠を越えられる。越えて土山に着けば「貴生川」へのバスもあると言うのを聞き、その気になった。時刻は、2時8分であり、2時間半ほどで行けるでしょうと言われ、ゆっくり行っても着けると考え出発した。
鈴鹿馬子唄会館の右側に急坂が続いていて、日本橋から京都三条大橋までの各宿場名の書かれた杭が道端に建てられている。
suzuka_037.jpgほどなく、「坂下の宿」に着く。江戸時代は難所の鈴鹿峠をひかえ、一息入れる大名行列や、旅人達で賑わったという「坂下宿」も今では戸数も減り、何でもない寒村の状態にまで後退してしまっている。これも時代の流れであろう。
坂下宿を通り抜けて国道と合流する地点に岩屋観音がある。鉄の扉が設置されているが、鍵は掛けられていないので自由に中に入れる。中は別世界で樹木に覆われ、お堂の左には滝も流れていて、とても涼しい。
お堂は、旅人の道中安全を祈願し、高さ18メートルの巨岩に石室を作り、阿弥陀如来・十一面観音・延命地蔵の三体が安置されてるとのこと。
滝からパイプで水が引かれている。飲んでみると、美味しい水で鈴鹿峠を越すための水を補給するには最適であった。
suzuka_038.jpgsuzuka_039.jpgsuzuka_040.jpg騒音のけたたましい国道から早く逃れたいと思いながら歩き、「片山神社」の石碑がある分岐点に達した。
直ちにコンクリートで舗装されているが、樹林帯の涼しく清々しい道になる。

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suzuka_043.jpgほどなく、片山神社に到着するが、本堂はさらに急な階段の上で、足の痛みもありスキップすることにして、写真で本堂の方を写して、左の方の道を進むが、これが後ほど大間違いであったことが分かる。
滑り止めの切れ目を入れたコンクリートの急坂を上ると、直ぐに国道1号線に出たが、次にどう進んで良いか分からない。地図を良く見ると、先ほどの片山神社を通り抜けて進めばもう少し上のほうで国道を横切り歩道が続いているようである。 引き返す元気も出ないので国道に沿って上って行き、片山神社からの道が国道と交差する地点を目指す。しかし、歩道は国道の下を潜っていて、国道から降りる手段がない。
国道の向こう側を見ると小広場になっていて、そこからさらに上るようになっているようだが、国道を渡るための信号がないのは当然としても、国道はガードレールで歩道からは閉じられている。
考えても仕方が無いので、リスクを冒すことにして、ガードレールの継ぎ目の隙間から、車の途絶えるのを見計らって一気に駆け抜けた。
小広場には芭蕉の句碑もあり、
「ほっしんの 初(はじめ)に越える 鈴鹿山」   芭蕉
とあった。
suzuka_044a.jpgルート案内板もあったが、東海道遊歩道と書かれており、これから上るルートが赤い線で描かれているが、鈴鹿峠から先は大きく右にカーブして切れているような描き方で、この道で良いのかと不安を感じたが、他に歩道はないので、ともかく進むことにした。
上り始めると、いきなり急な道で、少し上ると馬の水のみ場の水槽のようなものもあった。その後もまるで山道のようで、最近の雨で道が相当に荒れている場所もあった。

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suzuka_046.jpg15分ほどで平らなところに達し、鏡岩への道標があった。鏡岩には、霧でも出れば確実に迷子になりそうな杉林の中を進むと150mほどで到着する。
鏡岩は、盗賊が旅人の姿が岩に写るのを見て、襲ったと言われているが、表面が荒れた唯の岩で、どうして姿が映るのかと思った。昔は輝いていたが、風化して現在の姿になったのであろうか。
後に調べたら、山火事でこういう姿になってしまったとのことであった。
峠道を抜けて開けた場所に、また道標があり国道との合流点まで1Kmとありほっとした。案内板のルートは、ここで右に分かれて辿る道を示したものであった。そして、茶畑が広がり不思議な服装でちょと可愛い絵の道標もあった。この絵の道標は土山に向かって歩く途中でも時々見かけた。
数百メータほどで、大きな常夜灯がありさらに安心感が高まったのは昔も同じであっただろう。
それにしても、これほどの大きな岩をどうやって運んだのだろう。
suzuka_047a.jpgsuzuka_047.jpgsuzuka_048.jpg国道に合流して歩いて行くと、山中というところに、鈴鹿馬子唄の歌碑やモニュメントがあった。最近作られた新しいもので、国道を車で通る人は立ち寄ることも無く、旧東海道歩きにとっても歴史的遺構でもなく、休憩場所にもなりそうに無いもので、作った意図が分からない。
さらに進むと、一里塚公園と書かれた小公園があり、また鈴鹿馬子唄の歌碑が設けられていた。馬と馬子のモニュメントも作られていたが、ベンチは無かった。
suzuka_049.jpgsuzuka_050.jpg
そして、終に土山の入り口に達し、「田村神社」に至る「街道橋」に到着。この橋を渡ると、長い参道の「田村神社」がある。田村神社は、征夷大将軍として蝦夷を平定したことで有名な坂上田村麻呂を祀った神社であるが、流石に正一位の田村麻呂を祀った神社だけのことはあり、広大な広さの杉の大木の境内のなかに燐として建っていた。付属建築物も立派なものだ。
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suzuka_053.jpgsuzuka_054.jpg
神社を出ると、「あいの土山道の駅」があり、今日はここまでとバス時刻を見ると17:01で腕時計は16時57分。
1時間に1本のバスが直ぐに来るとは、全く運が良い。待つまもなくバスが来てJR草津線の「貴生川駅」まで行き着いた。
電車は30分ほど待つ必要があるが、やむを得ないと思っていたら、前の電車が車両故障で遅れており、直ぐに乗ることが出来、1時間ほどで京都駅に着き。またまた運のよい事に発車2分前の「のぞみ」の切符を買って駆け込み新横浜へと帰途についた。

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