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2010.09.30

桑折から貝田・・・(旧奥州街道)

1.5Kmほど進むと、伊達市と桑折町の境界である。桑折の名前が歴史に登場したのは奈良・平安時代で、東山道に駅家(うまや)が設置され、郡家(こおげ)がおかれたところから桑折と改められたという。昭和30年には町村合併促進法に基づいて旧桑折町、睦合村、伊達崎村、半田村が合併して今の”桑折町”が誕生した。   少し先には、桑折一里塚跡の表示杭があった。
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ここから1Km程度は、最近道路が整備されたようで、道幅も広くなっていた。左には自動車のブレーキシステム製造大手の曙ブレーキの工場がある。余談ながら、工場脇の目立たない細い道路には、スピード違反取締りのパトカーが潜んでいた。
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産ヶ沢(うぶがさわ)川に架かる産ヶ沢橋である。橋の先の集落が旧奥州街道53番目の宿場・桑折宿である。
右の写真は、産ヶ沢川の下流方向であるが、この川はゲンジホタルの生息地としても有名で、上流(万正寺地区)には、「産ヶ沢ホタル自然公園」が出来ていて、2009年のピーク時には4,000匹以上のゲンジホタルが出現したとのこと。
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産ヶ沢川の橋を渡るとその左手に寛永義民顕彰碑(三義民碑)がある。寛延2年(1749)の大凶作のおり、長倉村組頭斉藤彦内、鎌田村猪狩源七、伊達崎村蓬田半左衛門を代表者とする一万余名の農民一揆があった。年貢の軽減は達したが、三名はここ産ヶ沢の刑場において斬首された。
さらに、進むと左側につつじヶ岡遺跡、大五輪遺跡の案内板があった。入って行くと、伊達氏の始祖伊達朝宗の墓所の矢印表示があったので、100m進んで墓所を訪れた。綺麗に手入れされ大事に扱われていることを伺わせた。
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桑折宿枡形に達し、最初の角を左折して右側にあるのが、火伏不動尊宝積(ほうしゃく)寺である。正面には不動尊が屹立している。堂内には鎌倉時代後期の長野善光寺様式の銅でできた仏像が安置されているとのこと。
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次の曲がり角で右折する枡形の出口付近にあるのが桑折寺である。桑折寺は伊達氏の分家である桑折氏の菩提寺で創建は永仁5年(1297)に時宗第二祖真教上人が開山したと伝えられている。享保4年(1719)に堂宇を再建し、文政8年(1825)に本堂、嘉永元年(18148)に庫裏を再建していいる。正面の山門は伊達氏が天文17年(1548)に西山城から米沢城(山形県米沢市)に移る際、城門の1つを移築したものと伝えられるもので、門口2.73m、奥行き1.4mの向い唐門で屋根は元茅葺(昭和55年の改修より銅板葺き)、工法的にも室町時代の流れをくむとされ福島県指定有形文化財に指定されている。 そして、現在、またもや本堂を再建中であった。
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桑折寺を過ぎた少し先の左に、背後に弁財天と湯殿山と刻まれた石柱のある井戸があり、壊れた手動式汲み上げポンプが乗っていた。この井戸は奥州街道に面しており、かつて小桶に縄を付けて水を汲み旅人の喉を潤していたのであろう。近年になり、手動式汲み上げポンプが付けられたが、それも今では不要となってしまったのである。
井戸の先には、右側に諏訪神社の参道があり、入って行く。
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諏訪神社の創建は建久5年(1194)頃と思われる。伊達氏が城地守護の為社殿を建立したのがはじまりと伝えられ、武の神、実業の神として崇敬を受けてきた。現社殿は大正13年に再建されたものである。長野県の諏訪大社と同じく、御柱が立っている。
そもそも、桑折町は伊達氏発祥の地で、鎌倉時代に源頼朝の奥州攻めにしたがった常陸国(現、茨城県)常陸入道念西が戦功により伊達郡に入部し伊達氏を称し、桑折の地に本拠を置き勢力を拡大していったのが始まりとみられている。仙台藩祖の政宗は、朝宗から数え17代目である。
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街道に戻り進んで、次の信号で左折するが、その信号から少し入ったところに、旧伊達郡郡役所がある。明治16年(1883)に造られた洋風建築で、大正15年(1926)まで郡役所として使われ、その後も公共施設の事務所として利用された。建設当初から位置が変わらない事でも珍しいとされ昭和52年に国重要文化財に指定されている。旧伊達郡役所は桑折町の大工山内幸之助と銀作が棟梁として造られた所謂擬洋風建築である。
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旧伊達郡役所から街道に戻る角に、桑折町道路元標が立っていた。
本町通を進むと、大安寺がある。参道脇には立派な木造の旧家が建っている。
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大安寺の創建は明応年間(1492?1500)に開山されたと言われていて、現在の福島県を中心に大きな影響力を与えた無能上人(無能寺住職)は大安寺で得度を受けたとされる。明和5年(1768)に大火によって堂宇が焼失し多くの寺宝や記録などを失ったが、桑折藩3代藩主松平忠恒が寄進した梵鐘(現在の鐘楼は文政元年(1818)に再々鋳されたもの、桑折町指定有形文化財)や涅槃大掛図(桑折町指定有形文化財)などが残っている。正面の鐘楼を兼ねた山門は竜宮門と呼ばれる楼門の形式の1つである。
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本町から北町に進むと、左側にかつての店蔵を利用した、桑折御蔵(おんくら)の看板を掲げたお店があった。だんご汁の幟旗も見えるので、休憩するのに適したお店と思ったが、ちょうどテレビの撮影隊と思われる一団が着物姿のタレントを中心に入っていったところであった。
後で調べると、桑折町女性団体連絡協議会会員を中心とするスタッフが、ボランティアで運営しているアンテナショップで、地場産品、朝取り野菜、果物の販売の他、郷土料理のだんご汁の食事ができるとのことであった。
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左に桑折郵便局を見て、次の小道を左に入ってゆくと法圓寺がある。慶安3年(1650)創建で、参道にお大師様(弘法大師)石像が八十八体も並んでいる。江戸時代からあったが30数体だけが残り、それも風化し損傷が激しいため、平成15年に復元したとのこと。一体一体の台に寄進者の名が刻まれている。弘法大師四国八十八ヶ所零場巡拝の功徳、加護にあやかったようだ。
また、寺内には俳人の佐藤馬耳が享保4年(1719)に、芭蕉が須賀川の等窮宅で詠んだ、「風流の初めや奥の田植うた」の句をここに埋め、塚を築き芭蕉翁と刻んだ碑を建立し芭蕉の供養と、信達地方(信夫郡と伊達郡)の俳壇の隆盛を祈願したという。 写真の右方の石碑の文字は、芭蕉の真筆を石に刻んだものとのこと。
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400mほど進むと、街道左に無能寺がある。山門は屋根付きの冠木門で珍しい。
本寺は、慶長元年(1596)に良然上人が創建し、当初は大光山正徳寺と称していた。その後、傑僧といわれる無能上人(1683?1719)が現れ、当山を中心に教えを奥州各地に広めた。無能上人の入寂後、弟子の不能が無能上人の徳をあがめて寺名を「無能寺」と改称したとのこと。
また、律院として、多くの修行僧の宗学の場として、また奥州地方の教化の中心寺院として大きな役割を果たしたという。
城郭のような土塀の参道を通って山門を入ると、御蔭廼松(みかげのまつ)と呼ばれる見事な松の木がある。明治14年の明治天皇東北巡幸の際、この寺が小休所となり、天皇はお供の杉宮内大輔に松の名を命じられ、杉宮内大輔は「御影廼松」と名付け「おほきみの みかげの松の 深みどり夏も涼しき 色に見えつつ」と歌を詠まれた由。樹齢400年で昭和55年3月8日に桑折町の天然記念物に指定されている。
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300mほどで、桑折駅入り口の交差点である。交差点に面して食堂があったので、食事をして休憩した。再び歩き始めて100mほどで、奥州街道と羽州街道の追分である。羽州街道は桑折宿から分岐して青森県の油川を結ぶ街道で出羽地方の交通の要衝であり、江戸期には、ここを通る参勤交代の大名は十数藩にも及んだとのこと。
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きれいに復元された追分には、休憩所も設けられ、庚申塔や地中に埋まっていた古道標等もここに集められていた。また、柳の句碑は、約230年前に俳句の師匠であったト而翁(ぼくじおう)の急逝を悼み、その徳を慕って桑折社中の友がここ追分に建てたものである。
夕暮れに 心の通ふ 柳か な」のト而翁の句が刻まれているとのこと。
追分から少し先には、奥州街道の72里目の谷地一里塚跡がある。
ここから、国見町までは約3Kmほどあるが、田園地帯をひたすら歩く旅になる。左の方を望見すると、山並みが見えこのなかに半田山(標高863m)も見える筈だが、どの辺りかハッキリとは指摘できない。が、江戸時代は「半田銀山」と言って、石見銀山、生野銀山と並び称され日本三大銀山、日本三大鉱山と呼ばれた時期もあった。また、電気部品の接続に用いる半田付けも、この半田山の名称から生まれたとのことである。
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ようやく、県道46号線(白石国見線、七ヶ宿街道)との交差点が見えてくる。国見町入り口である。交差点を過ぎると街道は右に折れ、その後大きく左にカーブするが、街道を左に入った台地の上に観月台公園が綺麗に整備されている。中心には平成6年にオープンしたばかりの 観月台文化センターが独特な景観を示しており、図書館や入浴施設、コンサートホールまで備えた立派な施設である。江戸時代中期の標準的な百姓家の住居の旧佐藤家住宅も移築されている。
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街道に戻り、藤田宿に入る。現在の地名は藤田北となっている。
左に古い土蔵が見えてきて、村上医院の看板が見える。進むと、左に鹿島神社が見えてくる。鎮守府将軍大野東人が蝦夷征伐に陸奥へきたのが720年頃で、養老?神亀(721?724)にかけて藤田柵を築き、鹿嶋神社を鎮座したと云われている。藤田柵は今の源三山付近とも云われ、丑寅の方向に鹿嶋神社を建立したとのこと。永禄年間(1558?69)社殿が焼失し、元亀年間(1570?72)地頭藤田兵庫によって社殿が再建された。享保9年(1724)古鹿島の地から現在の地(薬師如来境内)に遷座され享保10年新宮が改築されたとのこと。
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本殿の左に見える赤い鳥居は、境内社の医薬神社である。また、右には国見町のあつかし俳句会のメンバーが昭和62年に建立した句碑がある。上段に会員の俳句3句刻まれていて、下段には建碑の趣意と3句が刻まれていた。昔から奥州街道を行き来する多くの人がを足を留め、また芭蕉翁をはじめ多くの俳人が足跡を残して培われた俳諧活動の伝統を続けていこうとの趣意のようである。
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1Kmほど進むと滝川を渡り、国見町の大字藤田から大字森山に入る。滝川の上流方向は、草木が茂り全く川面が見えず下流のみ僅かに覗き見えた。
街道は、この先で一旦国道4号線に合流し、県北中を過ぎて右に分かれて行く。
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車もほとんど通らない道が続くが、1Kmほど先で農道に入り込み道に迷ってしまった。やっと見付けた農作業中の人に尋ねて1時間ほど時間を浪費して街道に復帰するはめになってしまった。下の右の写真は、国道4号線を横切って貝田宿に入るところで、ここに達したときは正直ほっとした。
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少し進むと、貝田宿入り口の案内板があり、さらに進むと貝田宿の説明板があった。宿の中心付近である。
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貝田宿でも旧家が何軒か残されている。黒塀に屋敷門の立派な構えの旧家があった。
少し先に貝田宿の表示板と貝田番所跡への道標が立っていた。ここが貝田宿の枡形である。
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進むと、貝田番所跡の標識板が立っていた。仙台藩と境を接していて、旅人の通行を厳しく取り締まっていたところである。その先には、曹洞宗最禅寺がある。最禅寺の参道には大きな庚申塔が数多く集められていた。
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番所跡の手前の十字路で、右に続く細い道を歩いて行く。桜の木の枝が覆いかぶさっていた。
民家の庭先のように見える場所に「貝田駅建設記念碑」が建っていた。しかし、ここら直接には貝田駅に行けず、一旦国道に降りてから改めて駅への細い道を上って行く必要があった。駅に着いたのは16時発の電車の3分前であり、小銭入れを出すのももどかしく切符を買う羽目になったが、1時間に1本の割合の運行間隔ではラッキーと言わねばならないであろう。
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23分間の乗車で福島に着き、やまびこに乗り換え帰宅した。
今回の歩行は、夏の休み以降で始めての歩行であり、一泊しての2日連続で、且つ最後近くで道に迷い時間と体力をロスしたことなど、いささかキツイものとなった。


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