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2010.10.18

貝田から白石・・・(旧奥州街道)

本日の万歩計47,724(31.0Km)・・・大河原まで

貝田から大河原の歩行ルート

雨が多く所用も重なりなかなか歩きに行けなかったが、これから2日間は雨も大丈夫そうなので、出かけることにした。
東京駅6:04発のやまびこ41号で福島に向かい、在来線に乗り換えて貝田駅には8:08分に着く。在来線は、通勤、通学客でほぼ満席であったが、貝田駅で降りたのは私一人であった。周辺には民家すら見当たらないような無人駅では、当然であろう。
駅を出て、細い道を下りると国道4号線で、直ぐに福島県と宮城県の県境である。空には、秋の薄い筋雲があり、良い天気である。
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県境を過ぎると、国道の右側に「下紐の石」がある。用明天皇の皇妃玉世姫がこの石の上でお産の紐を解かれたと伝わっており、また、坂上田村麻呂がここに関所を設け、下紐の関と呼ばれて、歌枕として使われるようになった場所である。
一方、国道の左側には、ここから「越河(こすごう)宿」であることを示す表示杭が、樹木に半分埋もれて立っていた。
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300mほどで、東北自動車道を潜ると、少し先の左側に「安産だるま石像」と書かれた標識が立っていた。この奥に「安産地蔵」があるようだが、スキップする。
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少し先で、国道から分かれて「越河宿」に入って行く。その入り口には庚申塔などの石碑が3体建っており、直ぐ横には「深山神社」への参道の階段が続いている。
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越河宿の町並みである。古い遺構は残っていないが、何となく街道であったことを感じさせる。
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かつての旧家なのか、同じような様式の大きな家が建っていた。
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宿の入り口から、500mほど進むと「定光寺」と書かれた標識が立っていて、東北本線のガードを潜って進む。「光日堂」と額の掛かったお堂と、本堂が建っている。ここには、明治6年に越河小学校の仮校舎が設置され、明治18年の新校舎完成まで使用されたとのこと。
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定光寺から線路際の道を進むと、「諏訪神社」への参道が山の中腹に向かって伸びていた。本殿までは遠そうなのでスキップして、元の街道に戻り進んで行く。ほどなく宿の終わりが近づいてくる。
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越河小学校を過ぎて、宿の町並みが途絶えると、右側の展望が開けてくる。もう、ほとんどの田圃では稲の刈入れが済んでいるようだ。そして、東北本線のガードを潜ると、越河保育園があり、子供たちの賑やかな声が聞こえてくる。先に進むと、「熊谷勇七郎碑」が建っていた。調べたが、熊谷勇七郎とは、どのような人か分からなかった。
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進んで行くと、急坂の道が左に分かれていてすぐに「白鳥神社」がある。村社であり、大事にされているようだ。
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白鳥神社を過ぎて進む道は、古い街道の道がそのまま残った道で、里山のある田園風景も日本の原風景のように感じて、気持ちの良い歩行となった。やがて、右側に「JR越河駅」が見えてくる。
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越河駅を過ぎて、右側が開けた田園地帯を進み、国道に合流すると、1Kmほど先に「馬牛沼」がある。説明板によれば、「9世紀の初め頃、征夷大将軍坂上田村麻呂の馬がこの沼に落ちて死んだので「馬入沼」といい、また、沼の中の弧(こ)洲が馬に似ているので「馬形沼」、さらに、この沼に馬首牛身の異獣が泳ぎ回っていたので「馬牛沼」と名付けたなどの伝承がある。また、馬牛沼では明治30年ごろから鯉の養殖が盛んで、晩秋に行われる「沼乾し(水を抜く)」の行事は秋の風物詩となっている」と書かれていた。なお、沼の中には「鯉供養」の碑が建っていて、沼の北側には、伊達種宗・晴宗父子の争乱時(1540年頃)桑折播磨景長がこもった館跡がある。
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馬牛沼を過ぎて、500mほどで右に旧道が分かれ喧騒から逃れられてほっとしていると、右側に庚申塔や孫太郎虫供養碑、聖徳太子碑が建っていた。孫太郎虫はヘビトンボ科に属するヘビトンボの幼虫で、黒焼きにして粉末にしたものが子供の疳(かん)の薬として昔から知られていたそうである。
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ところで、ここが「鐙摺坂(あぶみすりざか)」である。平泉に向かう源義経一行が、岩がせり出ていて狭い道で馬の鐙を摺りながら通ったことから付けられたとのことだが、今は車の通る道となり、その面影はない。 鐙摺坂の先には、「甲冑堂」の標識が見えてくる。
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甲冑堂の表示より田村神社と表示すべきだと思うが、観光案内板等でも甲冑堂である。坂上田村麻呂と言っても、古すぎて馴染みがないからだろうか。
ともかく、田村神社は、桓武天皇の延暦年間(800年頃)に斎川の人々が山中に潜む賊に苦しんでいるところを坂上田村麻呂が救い、また稲作の指導も行ったため当地が平和で豊かな里になった。このため、里人が感謝して神社を建立し田村麻呂を神として祭ったという。 なお、神社は明治8年6月に放火により焼失するが、明治12年3月に再建されたとのこと。
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田村神社の境内には、甲冑堂がある。源義経の家臣、佐藤継信・忠信兄弟の妻女たちが、嘆く老母を慰めるため、亡夫の甲冑を身につけたとの言い伝えがあり、堂内には、妻女たちの木像が安置されている。
また、堂の傍らには蕉門桃隣句碑がある。昭和14年12月3日に甲冑堂の再建を記念して建てられたとのこと。 桃隣は芭蕉の縁者で、芭蕉の死後の元禄9年(1696年)、「奥の細道」の旅をなぞって「陸奥鵆」を著わした。碑には、この時詠まれた「戦めく 二人の嫁や 花あやめ」の句が刻まれている。
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田村神社を過ぎると、「鬼ずるす石」と書かれた標識が立っていた、説明板によれば、岩倉山はその名の如くいたる所に岩の露出がみられ、その岩の一つに別の岩が重なっていて、人の力で容易に石臼のように動かすことができる。
昔、坂上田村麻呂の時代、この付近の岩窟に鬼形の者が住んでいて、人民や旅人をとらえてはこの石臼に入れ、引き砕いて食らったという伝説があって鬼ずする石の名がある。また人を剥いだ沢を人剥沢、人喰沢と呼んでいたとのこと。鬼は最後に蝦夷征伐のため下向した田村麻呂将軍によって退治されたという。 草が生い茂っていて、残念ながら岩倉山には近付けない。
そして、田村麻呂が禊(みそぎ)を行ったという、斎川を渡る。橋の名前も斎川大橋である。橋から川(上流)を覗くと、渓流の様相で茂みを通してわずかに国道4号線が見えた。
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斎川大橋を渡ると、斎川宿の看板が建っていて、静かな宿場に入って行く。
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500mほど進んで、宿の中心付近に達すると、左側に綿貫家の大きな屋敷が放置された状態で残っている。綿貫家の屋敷はかつて、検断屋敷で宿場の伝馬をはじめ、宿駅関係の一切の仕事を取り締まり、統括する重要な職務を行っていた。また、大名の宿泊、休憩も兼ねていた。門の中もそっと撮影させて貰った。なお、塀の上から見える石碑には、明治天皇斎川御休憩所・附御膳水と彫られていた。
なお、綿貫家の現当主は、道の反対側に新しい家屋を建てて、事業活動をされているようであった。
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斎川宿を進んで行き、終わりが近づくと斎川小学校があり、家並みが途絶える。さらに進むと、奥州街道(斎川)踏み切りがあり、渡って国道4号線に合流する。
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国道で、新幹線のガードを潜って進むと、左側に道祖神社がある。社の中には、多数の陽石が納められているようだが、見過ごした。
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斎川道祖神社を過ぎ、東北自動車道を潜って、700mほど進むと旧道が国道から分かれ、静かな通りになって白石宿に入って行く。
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