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2010.09.30

福島から瀬上宿

本日の万歩計47,508(30.9Km)・・・貝田宿まで

一夜明けた福島である。昨日の歩行で疲れて良く眠ることができ、心身ともに回復して目覚めることが出来た。6時30分にホテルを出発して歩き始める。気温は約20℃であり、心配した天気も本日は、福島以北では曇りで、雨にはならないようである。
早朝であり、福島の市街は、まだ人通りは僅かで閑散としている。
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まずは、福島県の総鎮守である福島稲荷神社を訪れた。
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配神は大国主命、事代主命である。永延元年(987年)、安倍晴明が奥州に下向した際、信太明神を勧請したことに始まり、承安元年(1171年)晴明の孫の安倍晴明が社殿を改築した。その後、何度か焼失と再建を繰り返し、明治28年(1895年)に県社に昇格し、現在の社殿は昭和13年(1938)に竣工したものである。
絵馬殿、神楽殿も立派な建物である。絵馬殿は、元禄5年(1692)に時の福島藩主堀田正仲が造営したものと言われており、その後、昭和13年の新拝殿竣工にあたり、それまでの拝殿を絵馬殿として移築したものである。また、神楽殿は、明治32年10月に氏子からの寄進により建立されたものを、同じく昭和13年の本殿改築に併せて移築したものとのこと。
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福島北町を東に進み、交通量の多い国道4号線を横切り、左折すると豊田町である。かつては馬喰町のあったところで、町並みは福島の中心市街と一変する。街道沿いに福島東高と福島大付属中、福島二中があるため、自転車通学の生徒が多い。
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進んで行くと、大きな福島競馬場の建物が見えてきて、北五老内町の福島二中の前まで来ると、左側に鼻取地蔵尊がある。残念ながらお堂は修復中で、緑の工事用ネットで覆われている。もとは、浜辺村五良内にあった地蔵尊で、村の子供を守り救ってくれるとして村人の信仰を集めていた。貞享2年(1685年)地蔵堂が再建され、龍鳳寺の和尚が4代に亘って隠居したとのこと。鼻取地蔵尊の名前の由来は、農夫の田圃の代掻きで牛の鼻取りの手伝いを地蔵が行ったとの民話による。
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前方右側に大きな建物が見えてきた。JRA福島競馬場である。開設は1918年(初開催は同年6月28日)で、1997年にリニューアルされた。
競馬場を通り過ぎ、八島町に入ると右側に広布寺(こうぶじ)がある。 明治17年(1884)に後の日蓮正宗大石寺第56世法主日応上人により福島市浜田町に建立され、その後、昭和50年(1975)に現在地に移転された。新しい寺院である。
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広布寺の先は、岩谷下の交差点である。国道の4号線と115号線が交わる交差点に、細い道路も3本も加わっており、結果として7差路となっている。交通量も多く、学校の登校時間帯でもあり、緑の上着の誘導のおじさんも10人を超えていた。この交差点から細い道路では信夫山、岩谷観音に向かう。
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岩谷下交差点から、100mほどで岩谷観音への階段に着く。手すりがないと上れないほどの急な階段が信夫山の上方に向かって続いている。84段の階段を上り詰めると、右側に岩谷観音堂が建っている。応永23年(1416)周辺を支配した伊賀良目七郎高重が建立したと伝えられている。その後、伊賀良目氏の裔にあたる尼僧が経文6百巻を納堂したとのこと。
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お堂の周辺の岸壁には、宝永年間(1704?11)に制作された磨崖仏がある。西国三十三観音を模した仏像の他60体に及ぶ供養仏が彫り込まれているとのこと。中には宝永2年(1705)の聖観音像、宝永7年(1710)の巳待供養弁財像など制作年がわかるものもあり資料的な価値も高く、昭和39年に福島市指定史跡及び名勝に指定されている。
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岩谷観音堂から少し上ると鐘楼があり、この周辺にも夥しい磨崖仏が彫られている。彫りが浅く、風化で見分け難くなっている石仏もある。
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鐘楼からさらに上ると、岩谷成田山不動明王がある。一見して民家と見える建屋である。
さて、元の観音堂まで戻り、階段を見下ろすと改めてその急峻さと高さに恐れを抱く。
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階段を下りて行くと、上りでは足元ばかり見ていて気が付かなかった鷹尾山観音寺の地蔵尊群がある。気が付かなかったこを詫び、お参りする。2体の地蔵尊の後ろには「長命成願 地蔵御詠歌」が掲示されていた。
   あらとうと いわやのもとに 
   おはします じぞうぼさつを
   たのめもろびと
急な階段を下りて左折し松川に向かう。散策道路として整備されている。横を流れる川は、祓川(はらいがわ)で、かつて信夫山の山岳信仰が盛んだった頃は、信仰者はこの川で身を清めていたという。近代ではコンクリート3面張りの細い水路のような姿であったが、福島県文化センター付近から下流は親水公園として整備され、従来の河川の水を地下に埋めた箱型の樋に通し、少量の水を地上の整備されたせせらぎに流す方式がとられている。
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松川に突き当たり、右方の国道4号線の松川橋を渡る。
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松川橋から上流を眺めた写真である。松川は山形県米沢市南東部の吾妻連峰を源流とする川で、この下流で直ぐに阿武隈川に合流する。
なお、江戸期の松川に架かる橋は、単純な板橋であったとのこと。
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松川を渡り、直ぐに左折して50mほど進んで右折し旧道を進む。この旧奥州街道には、明治41年から、福島市駅から長岡村を経て飯坂に向かう路面電車が走っていたが、昭和45年に惜しまれて廃線となったとのこと。
500mほど進むと、右側に大日如来堂がある。享保年間(1730)の頃、天台宗松尾山本福寺として、東面して建立されたが元治2年(1864)の頃に類焼した。再建され、大日堂は残ったが、本福寺は廃寺となったと伝えられる。
さらに、300mほど進むと左側に、本内八幡神社への参道がある。本内八幡神社は、本内館(もとうちやかた)のあったところで、本殿の周囲には、L字型の土塁が残っているとのこと。
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1Kmほど進むと、左側に鎌秀院(れんしゅういん)がある。ここは、大和の豪族であった宇野信治が、鎌倉時代の弘長2年(1262)、この地に所領を得て鎌田氏を称して、この地の領主となり鎌田城を築いた。
戦国時代には、鎌田氏は伊達氏に仕えるようになり、天正18年(1590年)廃城となり、寺号のみ残ったという。
街道に復帰して、少し先の信号を渡ると、左側に水雲神社がある。由緒は不詳だが、福島県には水雲神社のは幾つかあるようで、他には見られないことから、この地方独自の命名ではなかろうか。そして伊達郡国見町山崎の水雲神社の由緒にあるように万物を生み育てる高皇産霊神(タカミムスビノカミ)、神皇産霊神(カミムスビノカミ)を祀ったのではと思われる。
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少し先で、八反田川(はったんだがわ)を渡る。画像は上流方面である。阿武隈川水系の河川で、上流には大笹生ダムが建設されている。
八反田川を渡ると、左に石森神社がある。街道から少し離れているが、訪れると拝殿前には狛犬ではなく、狐が鎮座していた。社号標には石森稲荷神社とあることから、もとは稲荷神社で、近隣の諸神社が合祀又は合体され、地名を冠した社名に改称したのではないかと考えられるとのこと。それにしても、階段を上った両側に配置された、自然石の巨大な常夜灯には圧倒される。
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阿武隈急行線のガードが見えてきた。阿武隈急行線は、福島市の福島駅から宮城県柴田郡柴田町の槻木(つきのき)駅に至る路線である。旧国鉄特定地方交通線及び日本鉄道建設公団建設線であった丸森線(まるもりせん)を引き継いだものである。平成12年に開業した福島学院前駅の入り口はガードの向こう側で、ホームは高架となっている。
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進むと、丁字路にぶつかり右折して直ぐの信号で左折する。ここから瀬上(せのうえ)宿である。
直ぐに右の国道4号線への道の入り口に「青柳神社参道」の大きな石碑が建っていた。神社は国道を越えてさらに300mほど先であるが、行ってみることにした。
神社由緒によれば、太古、この里に住み始めた人々が、守護神としてお祀りし、その昔、境内にヤナギの木が繁茂しており青柳の社と称されるようになったとのこと。主神は大山祇神で配神は磐長姫と木花開耶姫である。境内の木立の緑が鮮やかで清々しかった。
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青柳神社から戻ってくると、古い重厚な家屋がひときわ目立つ。この建物の木の表札には「大國屋」と書かれていた。上杉家に仕えた武将で、後にこの地で商人となった島貫家の家屋である。
現在の家屋は、明治時代のもので取り壊そうかという計画もあったが、3年あまりの歳月をかけて私財を投じて復元に取り掛かったそうである。できれば、入場料を取っても公開して欲しいものである。
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福島市瀬上町の本町に来ると、右側にある浄土真宗台巌寺がある。ここの公孫樹は樹高15mで福島市保存樹に指定されている。また伊達郡国見町石母田字中ノ内にある石母田供養石塔(国史跡)の拓本を取っての模刻は市有形文化財に指定されている。享和3年(1803年)に桑折村の名主久保勝直により作成されたものである。
直ぐ隣には、信達三十三観音13番札所の龍源寺(りゅうげんじ)がある。
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少し先の、左側には瀬上の雷(いかずち)神社がある。住宅地の中にあり、境内は月極駐車場で、本殿の直前にまで駐車のための白いラインが引かれている。案内板が無く、御祭神・勧請年月・縁起・沿革等は全て不明で、地域社会も全く無視した存在である。いずれ、雷(いかずち)の怒りに触れることになろう。
雷神社から、500mほどで摺上(すりかみ)川を幸橋で渡る。ここで、福島市に別れを告げ伊達市に入って行く。伊達市は、北海道にもあり、同名市である。
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下の画像は、摺上川の上流方向であるが、この川には上流にダムが建設され、福島県県北の住民に良質の水を届ける水がめとなっている。
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1Kmほど進むと、県道353号線が右にカーブしているところに、お堂が建っている。詳細は不明だが、西念という僧が、雨ざらしの薬師像をみて、托鉢して資金を集めお堂を建てたとの話しがあるようだ。
なお、次の信号を左折すると、10分ほどで伊達駅に出ることが出来る。
進むと、門構えの立派な旧家がある。やはり、旧街道は先祖の精神を大事に守っている家があるからだろうか。
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桑折から貝田

1.5Kmほど進むと、伊達市と桑折町の境界である。桑折の名前が歴史に登場したのは奈良・平安時代で、東山道に駅家(うまや)が設置され、郡家(こおげ)がおかれたところから桑折と改められたという。昭和30年には町村合併促進法に基づいて旧桑折町、睦合村、伊達崎村、半田村が合併して今の”桑折町”が誕生した。   少し先には、桑折一里塚跡の表示杭があった。
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ここから1Km程度は、最近道路が整備されたようで、道幅も広くなっていた。左には自動車のブレーキシステム製造大手の曙ブレーキの工場がある。余談ながら、工場脇の目立たない細い道路には、スピード違反取締りのパトカーが潜んでいた。
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産ヶ沢(うぶがさわ)川に架かる産ヶ沢橋である。橋の先の集落が旧奥州街道53番目の宿場・桑折宿である。
右の写真は、産ヶ沢川の下流方向であるが、この川はゲンジホタルの生息地としても有名で、上流(万正寺地区)には、「産ヶ沢ホタル自然公園」が出来ていて、2009年のピーク時には4,000匹以上のゲンジホタルが出現したとのこと。
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産ヶ沢川の橋を渡るとその左手に寛永義民顕彰碑(三義民碑)がある。寛延2年(1749)の大凶作のおり、長倉村組頭斉藤彦内、鎌田村猪狩源七、伊達崎村蓬田半左衛門を代表者とする一万余名の農民一揆があった。年貢の軽減は達したが、三名はここ産ヶ沢の刑場において斬首された。
さらに、進むと左側につつじヶ岡遺跡、大五輪遺跡の案内板があった。入って行くと、伊達氏の始祖伊達朝宗の墓所の矢印表示があったので、100m進んで墓所を訪れた。綺麗に手入れされ大事に扱われていることを伺わせた。
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桑折宿枡形に達し、最初の角を左折して右側にあるのが、火伏不動尊宝積(ほうしゃく)寺である。正面には不動尊が屹立している。堂内には鎌倉時代後期の長野善光寺様式の銅でできた仏像が安置されているとのこと。
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次の曲がり角で右折する枡形の出口付近にあるのが桑折寺である。桑折寺は伊達氏の分家である桑折氏の菩提寺で創建は永仁5年(1297)に時宗第二祖真教上人が開山したと伝えられている。享保4年(1719)に堂宇を再建し、文政8年(1825)に本堂、嘉永元年(18148)に庫裏を再建していいる。正面の山門は伊達氏が天文17年(1548)に西山城から米沢城(山形県米沢市)に移る際、城門の1つを移築したものと伝えられるもので、門口2.73m、奥行き1.4mの向い唐門で屋根は元茅葺(昭和55年の改修より銅板葺き)、工法的にも室町時代の流れをくむとされ福島県指定有形文化財に指定されている。 そして、現在、またもや本堂を再建中であった。
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桑折寺を過ぎた少し先の左に、背後に弁財天と湯殿山と刻まれた石柱のある井戸があり、壊れた手動式汲み上げポンプが乗っていた。この井戸は奥州街道に面しており、かつて小桶に縄を付けて水を汲み旅人の喉を潤していたのであろう。近年になり、手動式汲み上げポンプが付けられたが、それも今では不要となってしまったのである。
井戸の先には、右側に諏訪神社の参道があり、入って行く。
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諏訪神社の創建は建久5年(1194)頃と思われる。伊達氏が城地守護の為社殿を建立したのがはじまりと伝えられ、武の神、実業の神として崇敬を受けてきた。現社殿は大正13年に再建されたものである。長野県の諏訪大社と同じく、御柱が立っている。
そもそも、桑折町は伊達氏発祥の地で、鎌倉時代に源頼朝の奥州攻めにしたがった常陸国(現、茨城県)常陸入道念西が戦功により伊達郡に入部し伊達氏を称し、桑折の地に本拠を置き勢力を拡大していったのが始まりとみられている。仙台藩祖の政宗は、朝宗から数え17代目である。
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街道に戻り進んで、次の信号で左折するが、その信号から少し入ったところに、旧伊達郡郡役所がある。明治16年(1883)に造られた洋風建築で、大正15年(1926)まで郡役所として使われ、その後も公共施設の事務所として利用された。建設当初から位置が変わらない事でも珍しいとされ昭和52年に国重要文化財に指定されている。旧伊達郡役所は桑折町の大工山内幸之助と銀作が棟梁として造られた所謂擬洋風建築である。
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旧伊達郡役所から街道に戻る角に、桑折町道路元標が立っていた。
本町通を進むと、大安寺がある。参道脇には立派な木造の旧家が建っている。
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大安寺の創建は明応年間(1492?1500)に開山されたと言われていて、現在の福島県を中心に大きな影響力を与えた無能上人(無能寺住職)は大安寺で得度を受けたとされる。明和5年(1768)に大火によって堂宇が焼失し多くの寺宝や記録などを失ったが、桑折藩3代藩主松平忠恒が寄進した梵鐘(現在の鐘楼は文政元年(1818)に再々鋳されたもの、桑折町指定有形文化財)や涅槃大掛図(桑折町指定有形文化財)などが残っている。正面の鐘楼を兼ねた山門は竜宮門と呼ばれる楼門の形式の1つである。
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本町から北町に進むと、左側にかつての店蔵を利用した、桑折御蔵(おんくら)の看板を掲げたお店があった。だんご汁の幟旗も見えるので、休憩するのに適したお店と思ったが、ちょうどテレビの撮影隊と思われる一団が着物姿のタレントを中心に入っていったところであった。
後で調べると、桑折町女性団体連絡協議会会員を中心とするスタッフが、ボランティアで運営しているアンテナショップで、地場産品、朝取り野菜、果物の販売の他、郷土料理のだんご汁の食事ができるとのことであった。
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左に桑折郵便局を見て、次の小道を左に入ってゆくと法圓寺がある。慶安3年(1650)創建で、参道にお大師様(弘法大師)石像が八十八体も並んでいる。江戸時代からあったが30数体だけが残り、それも風化し損傷が激しいため、平成15年に復元したとのこと。一体一体の台に寄進者の名が刻まれている。弘法大師四国八十八ヶ所零場巡拝の功徳、加護にあやかったようだ。
また、寺内には俳人の佐藤馬耳が享保4年(1719)に、芭蕉が須賀川の等窮宅で詠んだ、「風流の初めや奥の田植うた」の句をここに埋め、塚を築き芭蕉翁と刻んだ碑を建立し芭蕉の供養と、信達地方(信夫郡と伊達郡)の俳壇の隆盛を祈願したという。 写真の右方の石碑の文字は、芭蕉の真筆を石に刻んだものとのこと。
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400mほど進むと、街道左に無能寺がある。山門は屋根付きの冠木門で珍しい。
本寺は、慶長元年(1596)に良然上人が創建し、当初は大光山正徳寺と称していた。その後、傑僧といわれる無能上人(1683?1719)が現れ、当山を中心に教えを奥州各地に広めた。無能上人の入寂後、弟子の不能が無能上人の徳をあがめて寺名を「無能寺」と改称したとのこと。
また、律院として、多くの修行僧の宗学の場として、また奥州地方の教化の中心寺院として大きな役割を果たしたという。
城郭のような土塀の参道を通って山門を入ると、御蔭廼松(みかげのまつ)と呼ばれる見事な松の木がある。明治14年の明治天皇東北巡幸の際、この寺が小休所となり、天皇はお供の杉宮内大輔に松の名を命じられ、杉宮内大輔は「御影廼松」と名付け「おほきみの みかげの松の 深みどり夏も涼しき 色に見えつつ」と歌を詠まれた由。樹齢400年で昭和55年3月8日に桑折町の天然記念物に指定されている。
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300mほどで、桑折駅入り口の交差点である。交差点に面して食堂があったので、食事をして休憩した。再び歩き始めて100mほどで、奥州街道と羽州街道の追分である。羽州街道は桑折宿から分岐して青森県の油川を結ぶ街道で出羽地方の交通の要衝であり、江戸期には、ここを通る参勤交代の大名は十数藩にも及んだとのこと。
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きれいに復元された追分には、休憩所も設けられ、庚申塔や地中に埋まっていた古道標等もここに集められていた。また、柳の句碑は、約230年前に俳句の師匠であったト而翁(ぼくじおう)の急逝を悼み、その徳を慕って桑折社中の友がここ追分に建てたものである。
夕暮れに 心の通ふ 柳か な」のト而翁の句が刻まれているとのこと。
追分から少し先には、奥州街道の72里目の谷地一里塚跡がある。
ここから、国見町までは約3Kmほどあるが、田園地帯をひたすら歩く旅になる。左の方を望見すると、山並みが見えこのなかに半田山(標高863m)も見える筈だが、どの辺りかハッキリとは指摘できない。が、江戸時代は「半田銀山」と言って、石見銀山、生野銀山と並び称され日本三大銀山、日本三大鉱山と呼ばれた時期もあった。また、電気部品の接続に用いる半田付けも、この半田山の名称から生まれたとのことである。
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ようやく、県道46号線(白石国見線、七ヶ宿街道)との交差点が見えてくる。国見町入り口である。交差点を過ぎると街道は右に折れ、その後大きく左にカーブするが、街道を左に入った台地の上に観月台公園が綺麗に整備されている。中心には平成6年にオープンしたばかりの 観月台文化センターが独特な景観を示しており、図書館や入浴施設、コンサートホールまで備えた立派な施設である。江戸時代中期の標準的な百姓家の住居の旧佐藤家住宅も移築されている。
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街道に戻り、藤田宿に入る。現在の地名は藤田北となっている。
左に古い土蔵が見えてきて、村上医院の看板が見える。進むと、左に鹿島神社が見えてくる。鎮守府将軍大野東人が蝦夷征伐に陸奥へきたのが720年頃で、養老?神亀(721?724)にかけて藤田柵を築き、鹿嶋神社を鎮座したと云われている。藤田柵は今の源三山付近とも云われ、丑寅の方向に鹿嶋神社を建立したとのこと。永禄年間(1558?69)社殿が焼失し、元亀年間(1570?72)地頭藤田兵庫によって社殿が再建された。享保9年(1724)古鹿島の地から現在の地(薬師如来境内)に遷座され享保10年新宮が改築されたとのこと。
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本殿の左に見える赤い鳥居は、境内社の医薬神社である。また、右には国見町のあつかし俳句会のメンバーが昭和62年に建立した句碑がある。上段に会員の俳句3句刻まれていて、下段には建碑の趣意と3句が刻まれていた。昔から奥州街道を行き来する多くの人がを足を留め、また芭蕉翁をはじめ多くの俳人が足跡を残して培われた俳諧活動の伝統を続けていこうとの趣意のようである。
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1Kmほど進むと滝川を渡り、国見町の大字藤田から大字森山に入る。滝川の上流方向は、草木が茂り全く川面が見えず下流のみ僅かに覗き見えた。
街道は、この先で一旦国道4号線に合流し、県北中を過ぎて右に分かれて行く。
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車もほとんど通らない道が続くが、1Kmほど先で農道に入り込み道に迷ってしまった。やっと見付けた農作業中の人に尋ねて1時間ほど時間を浪費して街道に復帰するはめになってしまった。下の右の写真は、国道4号線を横切って貝田宿に入るところで、ここに達したときは正直ほっとした。
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少し進むと、貝田宿入り口の案内板があり、さらに進むと貝田宿の説明板があった。宿の中心付近である。
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貝田宿でも旧家が何軒か残されている。黒塀に屋敷門の立派な構えの旧家があった。
少し先に貝田宿の表示板と貝田番所跡への道標が立っていた。ここが貝田宿の枡形である。
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進むと、貝田番所跡の標識板が立っていた。仙台藩と境を接していて、旅人の通行を厳しく取り締まっていたところである。その先には、曹洞宗最禅寺がある。最禅寺の参道には大きな庚申塔が数多く集められていた。
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番所跡の手前の十字路で、右に続く細い道を歩いて行く。桜の木の枝が覆いかぶさっていた。
民家の庭先のように見える場所に「貝田駅建設記念碑」が建っていた。しかし、ここら直接には貝田駅に行けず、一旦国道に降りてから改めて駅への細い道を上って行く必要があった。駅に着いたのは16時発の電車の3分前であり、小銭入れを出すのももどかしく切符を買う羽目になったが、1時間に1本の割合の運行間隔ではラッキーと言わねばならないであろう。
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23分間の乗車で福島に着き、やまびこに乗り換え帰宅した。
今回の歩行は、夏の休み以降で始めての歩行であり、一泊しての2日連続で、且つ最後近くで道に迷い時間と体力をロスしたことなど、いささかキツイものとなった。