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2010.10.19

白石城と大河原から岩沼宿(館腰駅)

本日の万歩計42,043(27.3Km)・・・館腰まで

昨日は流石に疲れて、早めに寝てしまった。
おかげで、朝は早く目覚め、食事前に昨日スキップした白石城を訪れることにした。
駅前通を歩いて行くと、正面に市役所の建物が見えてくる。大きなビルで完全に白石城を隠してしまうのが、位置的には残念なように思える。
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市役所の横を通り抜け、城への階段を上って行くと、ようやく白石城の天守閣が姿を現した。
白石城は、天正15年(1591)に秀吉が会津若松城とともに蒲生氏郷に与え、その後慶長3年(1598)に上杉領となって上杉氏家臣の甘糟景継(清長)が入城した。しかし、慶長5年(1600)関が原合戦の直前、伊達政宗は白石城を攻略し、以降明治維新まで、伊達氏家臣の片倉氏の居城となった。なお、城主は代々、片倉小十郎を名乗った。
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大手門への通路を進む。まだ早朝で、もちろん大手門は開いていない。
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大手門近くから天守閣を仰ぎ見て、城の北側にもまわって見る。
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一旦ホテルに戻り、朝食の後 昨日終えた大河原駅に電車で移動し、歩き始める。
尾形橋を渡り、街道に復帰する。写真は白石川の下流方面である。川はこの先で阿武隈川に合流する。
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左の写真は、大河原宿の町並みである。大河原小学校の先の土手崎交差点で右前方に進み、韮神山方向に進む。綺麗に区画整理された住宅地の中を真っ直ぐに進むこととなる。前方には韮神山が見える。
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真っ直ぐ進めば荒川の渡しがあった所であろうが、今は渡しはないので、荒川に達する手前で右折して400mほど進み、韮神橋を渡る。荒川の上流方向を撮影したが、下流では直ぐに白石川に合流する。
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橋を渡ると国道4号線で、その向こう側の山の麓に、新しい観音像と古い石塔、石碑群が並んでいる。
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近づくと、前から2列目に「奥の細道 韮神山」と書かれた表示杭が立っていて、その右側に芭蕉の句碑が建っていた。芭蕉は、元禄2年(1689)5月4日(新暦6月20日)にこの地を通過した。そのときには、句は作らなかったが、後日、芭蕉を尊崇していた大河原の俳人、村井江三が弘化3年(1846)に、芭蕉が伊賀上野で詠んだ「鶯の 笠おとしたる 椿かな」の句碑を建てたのである。
また、左側の大きな歌碑は、平安時代に藤原実方は陸奥に流配となり、その折に詠んだもので、「やすらはで おもい立ちにしみちのくに ありけるものを憚りの関」と刻まれているとのこと。「心配することなく、陸奥(みちのく)に旅立ったが、やはり越すのが憚られる関であることよ」との意味であろうか。
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1Kmほど国道を進み、西船迫(にしふなばさま)の交差点で左折する。ここから先は船迫(ふなばさま)宿である。1つ目の曲尺手(かねんて)を過ぎると、左手に阿弥陀堂への細い階段が現れた。上って行くと、阿弥陀像が鎮座していて、その前に真新しい後生車が設けられていた。
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街道の面影は、全く残っていない。2つ目の曲尺手を過ぎると、丁字路にぶつかり右折する。
200mほど進むと、左手に薬師堂への細い階段が現れ、階段上には小さなお堂が見える。
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薬師堂を後にして山沿いの街道を進んで行く。左手に仙南自動車学校を見て、柴田高校前の交差点で国道4号線を渡り、大きく左にカーブしている道を進むと、やがて白石川のほとりに出る。新しく作られた「余川の一里塚跡の碑」と案内板が建っていた。
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ここからは、白石川沿い道で、豊かな水の流れとコスモスが咲いていて気持ちの良い歩行であった。やがて、川の向こう側にリコーの工場の大きな建物を望む場所に達し、境内が大きな墓所と化した東禅寺横を通り、東北本線のガードを潜って、白幡橋のたもとで左折する。
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500mほど車の交通量の多い道を進むと、左に大きな赤い鳥居がある。八幡神社の額が掛かっているが、赤い鳥居はお稲荷さんみたいだと思っていると、長い参道の先では、八幡神社と竹原神社の2つの神社が祀られていた。
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長い参道を辿ると、左側に八幡神社、真っ直ぐ進むと竹原神社の分岐点がある。
まずは、八幡神社にお参りすることにしたが、ここからも長い長い山道の参道であった。説明表示によると、天喜4年(1056)に始まる前9年の役に、源義家が戦勝を祈願した氏神の八幡宮を康平5年(1062)に勧請したと伝えられ、源頼義、義家父子の寄進状とされる2通の書状を蔵しているとのこと。
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八幡神社を後にしてY字路を右折すると、槻木宿である。左に入って行けば東北本線の槻木駅がある。町並みは、普通の地方の街の様相だが、ときには古い旧家の建物がある。
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進んで槻木中学校を過ぎると、国道4号線に合流し、1Kmほど進んで岩沼市の境界の手前の信号で、右に国道から分かれる。300mほど先では、水道橋が阿武隈川を跨いでいる。
その後は、のどかな田園地帯の中の集落で、1Kmほど先で大きく左にカーブして、国道4号線のガードを潜る。
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400mほど先で常磐線の踏切を渡ると、右側に東洋ゴムの広大な工場が見えてくる。
次に、東洋ゴムへの引込み線の踏切を渡ると、直ぐ左に東武(とうたけ)神社の赤い鳥居と社殿が見えてくる。
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進んで、五間堀川を渡り500mほど進むと、左側に聖徳太子堂がある。由来は不詳だが、病気が流行したときに聖徳太子の像2体を作って、病気退散を願ったのが始まりといわれているとのこと。
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丁字路で左折して、最初の十字路を右折し、再び次の十字路で左折すると、通りが急に広く綺麗になる。ここからが岩沼宿である。
少し先の左側の道路の奥には、赤い鳥居が見えている。日本三大稲荷の一つと言われる「竹駒神社」である。
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竹駒神社は、別名竹駒稲荷と言われる通り、稲荷神社であるが、承和9年(842年))、小野篁(おの の たかむら)が陸奥国司として赴任した際、伏見稲荷を勧請して創建したと伝えられる。戦国時代には衰微していたが伊達稙宗が社地を寄進するなど、伊達家の崇敬を受け発展し、文化4年(1807)には正一位の神階を受けた。
かつての社殿は、仙台藩の5代藩主伊達吉村によって造営されたものであったが、平成2年(1990年)に火災で焼失し、平成6年(1994年)に再建された。
なお、竹駒という社名は、現岩沼市域の旧称「武隈」の転訛であり、もともとは、市内を流れる阿武隈川に由来するとのこと。
鳥居を潜って入って行くと、随身門が見えてくる。門を潜ると、その先には向唐門がある。
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平成6年再建の新社殿である。見事な外観で、三大稲荷と言われる所以であろうか。
なお、三大稲荷とは、 伏見稲荷大社(京都市)、豊川稲荷(愛知県)は当然として、あとの1社に上げられているのは、5?6社もある。
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境内を見渡すと、桜の葉が赤く色づき始めていた。そして、神社境内の北東部に、二木塚と言われる芭蕉句碑が立っている。芭蕉の紀行文の奥の細道には「武隈の松」を訪れた章があり、寛政5年(1793)、芭蕉翁百年忌法要を記念して芭蕉六世とも言われた俳人謙阿の句碑とともに建てられたとのこと。
芭蕉の句碑には「佐くらより 松盤(は)二木を 三月越し」とあり、謙阿の句碑には「朧よ里 松は二夜の 月丹こ楚(朧より 松は二夜の 月にこそ)」と刻まれている。
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岩沼は近世初頭から馬市で賑い、仙台藩領内でも大きな宿場として栄えた宿である。宿場内を進んでいくと右手になまこ壁の蔵のある旧家が現れる。その先に進むと左手に本陣・南町検断屋敷だった八島家で、長屋門に特徴がある。
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その先には、小野酒造(渡辺家)の蔵屋敷が現れる。消えかかった「武隈」の看板が入り口上の屋根に乗っている。下右の建物は新しいが、今はこちらを主に使っているのだろうか。
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岩沼小学校を過ぎて、細い流れを渡ると左手に相傳商店がある。文政4年(1821年)、初代傳兵衛が酒造業を創業、清酒名取駒と副産物の酒粕を利用して奈良漬を製造した。
その後も、蔵を備えた大きな構えの旧家を見かけることができる。
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宿の規模は大きかったが、ようやく終わりに近づき梶橋の信号で、国道4号線に合流する。国道を500mほど進むと、左に分かれる小道に入って行く。
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直ぐに奥州街道(本郷)踏切と書かれた東北本線の踏切を渡る。
1.5Kmほど田園の中を進むと、ようやく館腰の町並みが現れる。
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左に、館腰神社の常夜灯が見えてくる。鳥居と石段が続いている。
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歩き疲れた身には、キツイが階段を上ると、瀟洒な社殿が建っている。
館腰神社は、境内にある由緒によると、「嵯峨天皇の弘仁2年(811)僧空海、当地に弘誓寺(こうせいじ)を創建するにあたり、京都伏見稲荷大社より分霊奉斎すと伝えられる。(口碑)明治2年、弘誓寺と分離し、同7年6月、県社に列せられた。明治41、2年にわたり、村内本郷の熊野神社、飯野坂の鹿島神社、堀内の八坂神社、植松の雷神社、八幡神社等の数社を合併して、一村一社とした。」とある。また、境内には神仏混合の名残で弘誓寺観音堂や日切地蔵尊、撫牛大黒天、鐘付堂などがある。
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館腰神社の隣の弘誓寺である。こちらも立派な仁王門と、本殿を備えている。
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そして、神社の参道と平行して別に参道が設けられていた。(下左写真)
時刻は、午後3時前だが、2日間の歩行で疲労も蓄積してきたのを感じ、ここで切り上げることにして、館腰駅に向かった。15:05分発の電車は直ぐに来たが、白石駅止まりであった。次の列車で福島に向かい、やまびこに乗り換え帰宅した。
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2010.10.18

白石から大河原

shiroishi_46.jpg白石宿に入って、進んで行くと左側に古典芸能伝承の館(碧水園)がある。碧水園には、能楽堂と茶室があり、外観は古典芸能の館らしく優美である。碧水園の名前は、蔵王を源流とする水が碧玉渓(へきぎょくけい)を流れ、白石城の内堀を経て、園庭の池にそそぐことから、名付けられたとのこと。
碧水園を過ぎ、田町の交差点を直進して次の交差点で右折する。左手に「きちめ製麺所」を見て進み次の信号で左折すると、右側に特徴のある山門の当信寺がある。白石城の東口門を移設したものとのこと。2階中央の表と裏に大きな「眼象窓(げんじょうまど)」、2階側面には「丸窓」がついている。 幕末、この門の2階に太鼓を置き、時を知らせる音の響きをよくするため設けられたと伝えられる。
本堂の裏側には、白石老人(年齢、名前、出身など不明だが、身分に関係なく人々から崇敬されていた仙人のような存在)の墓や真田阿梅・大八の墓がある。説明板によれば「元和元年(1615)大坂夏の陣のとき、真田幸村は最期を覚悟し、智勇兼備の敵将片倉重長に阿梅と穴山小助の娘の養育を託した。重長は幸村の遺児、阿梅、阿菖蒲、おかね、大八たちを白石城で密かに養育し、阿梅は重長の後妻、阿菖蒲は田村定広の妻、おかねは早世、大八は片倉四郎兵衛守信と名のり伊達家に召抱えられた。阿梅と大八守信の墓はこの寺に、阿菖蒲の墓は蔵本勝坂の田村家墓地にある。片倉重長は、真田幸村夫妻の菩提を弔うため大平森合に月心院も建立した。」とある。
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中町の交差点には、すまる広場がある。最近まで高甚本店のあった跡地で、現在では綺麗に整備されて「すまi(い)る広場」とも呼ばれていて、イベントなどに使われているとのこと。
広場に隣接する壽丸(すまる)屋敷は、明治中期の店蔵、数棟の土蔵や書院屋敷、大正時代の母屋などが建ち並び、明治期に興った白石を代表する豪商渡辺家の住宅であった。
昼食の時間になり、白石駅の方に進み、ようやく見付けた「蕎麦屋」で食事を済ませた。なお、白石駅近くに今夜のホテルを予約してあるので、白石城は明日の早朝に見学することとして、先に進むこととした。中町は、アーケード商店街となっていて古い蔵造りの店もある。
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進むと、綺麗な水路があり、豊かな水が流れていた。沢端川である。白石城の北側の武家屋敷前を流れ、斎川に流入している。かつては、生活用水としても利用されていたのだろう。川に沿って100mほど上流に向かって歩いて行くと、左側に蔵王酒造の蔵を初めとした建物群がある。
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アーケード通りに戻り進むと、丁字路になり、左折する。直ぐの右側に蔵造りのお店がある。
少し先にも古い様相の家屋がある。この通りには、古い家が残っている。
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左側には、奥州街道ふれあい館がある。1階は市の水道事業所となっていて、入り口前には水車も回っている。
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ふれあい館を過ぎて、少し先で左の小道を入って、武家屋敷を見学することにした。沢端川に出て、片倉小十郎家臣の小関家の住居である。当時の茅葺の住居が修復されていて、見学できる。囲炉裏のある部屋が一番大きく、後は床の間と納戸があるだけの小さな住居である。禄高はわずかに15石とのことであったが、片倉家中では中級の武士とのこと。
小さくても茅葺の家屋を維持管理するのは、大変とのことであった。
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街道に戻り、白石川の堤防に出る。河川敷に設けられた白石緑地公園を左に見て、白石大橋に向かって進み、橋を渡る。
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橋から上流を写したものである。白石川は、これから歩くルートでも何度か目にすることになるが、最後には阿武隈川に合流する河川である。
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橋を渡って700mほど進むと、左側にとても大きな馬頭観世音の石碑があった。初めて見る大きさである。家の高さに達しそうである。
進むと、福岡の信号で街道は、国道4号線に接するようになるが、その後も国道に沿うように旧道が残されているのが有難い。
さらに進んで行くと、橋の両側に青と赤の大きなこけしが乗った橋がある。児捨川に架かる児捨川橋である。児捨川、貧しさからくる悲しい物語を連想したが、日本武尊にまつわるものであり、橋を渡ったところに、「白石地方の白鳥伝説」と書かれた説明板があった。その説明板によると、
遠い昔からこの地方の人々は、白鳥を神として祀り、祈りや願をこめていた。
そうした思いがいくつかの伝説となった。
伝説1:日本武尊は、宮の地に王子を残して帰京されたが、村人は王子の偉貌とその能力を
    恐れ川に捨てた。王子は白鳥と化し、村々に災いをもたらし、村人はそれを
    悔いて、白鳥を神として祀ったという。
伝説2:武尊は、姫と王子を残して帰京された。姫は尊を慕い、白鳥となって都に
    飛んでいくと王子と共に川に身を投げ、二羽の白鳥となったという。
伝説3:用明天皇の若き日、尊と玉依姫は都への途中王子を出産。姫は長旅を想い別離、
    悲しみのあまり、王子と共に川に身を投げ白鳥に化したという。
地元の人は、この川を児捨川と命名した。
右の写真は、児捨川の下流方向だが、この川はこの先直ぐに白石川に合流する。
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次に渡る川は、大太郎川で、その少し先で蔵王町に入って行く。
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蔵王町に入って、境界線に接するようにして左側に建っているのは、凝った造りの白石温麺(うーめん)茶屋である。この先で、街道は国道から左に分かれ、宮宿入口の石塔群が左側にある。珍しいことに蚕の供養塔がある。
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街道を少し進んだ、宮小学校の入り口には、小野訓導殉職碑がある。大正11年3月に宮城県女子師範学校を卒業して、刈田郡宮尋常高等小学校(現:蔵王町宮小学校)の訓導(教師)となり、22歳で殉職した小野さつき先生の殉職碑である。
大正11年7月7日、担任をしていた4年生児童56人をつれて白石川の中河原に野外写生にでかけ、授業も終わる頃になって暑さのあまり水遊びを懇願する生徒に仕方なく足だけ水に浸すことを許した。ところが、そのうち3人が雨で増水していた川の深みにはまりに流されてしまったのである。これに気がついた小野先生はとっさに着衣のまま飛び込み、3人のうち2人はすぐ助け出したが、もう1人を助けようとして川に飛び込み生徒にたどり着いたが、力尽き、激流に流されてしまった。
息子を亡くした父親は,むしろの上に横たわる先生の亡骸に「我が子のために先生まで死なせてしまって申し訳ありません!」と号泣したそうだ。一方、さつき先生の父親は、娘の死を知って「よう死んでくれた」と言った。「よそのお子さんを死なしてお前が一人生きておっては申し訳がない。」と涙をぬぐったという。そして、父は娘の後を追うように約1ヶ月後他界した。
ともかく、今なら裁判沙汰であろう。
互いが責任を追求して罵り合い、学校関係者はマスコミに罵倒されながらお詫びの記者会見だろう。時代背景のちがいもあるので、一概にどちらがいいとは言えないが、当時は、新米の教師に対してさえ絶大なる信頼があったことだけは確かである。
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進んで行くと、やはりかつての宿を思わせる、古い土蔵や、旧家の屋敷が残っている。
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進んで、宮の交差点に着く。ここで左折すると、左側に蓮蔵寺があり、その参道入り口に蔵王大権現と水神の大きな石碑がある。水神の石碑のそばに消火栓があるのは、当を得ている。
蓮蔵寺は、真言宗智山派の寺院である。
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すぐ隣に三谷寺がある。臨済宗妙心寺派のお寺で、全面改修中のようだ。寺の入口に「殉職小野さつき訓導墓所碑」と書かれた石柱が立っていた。
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500mほど進むと宮大橋で、下を流れる川は松川で、直ぐに白石川に合流する。
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進むと、右に「山家安治君頌徳碑」が建っていた。明治43年の未曾有の松川の氾濫で荒れ果てた土地を若干25歳の山家安治が、組合を結成して整備した功績を称えたもののようだ。
そして、国道4号線に合流して2Kmほど進むと、新幹線のガードが見えてきた。
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新幹線のガードを潜って、1Kmほど進むと篭石の交差点で、ここで右折して北白川駅に向かう誘惑に駆られたが、時刻は15:30なので先に進むことにした。国道から左に旧道が残されており、400mほどで再び国道に合流して少し進むと、左側に旧道が国道から分かれて進んでいる。金ヶ瀬宿の入り口である。直ぐに左に大高山神社の赤い鳥居がある。
敏達天皇が即位した敏達元年(571)の創建で、祭神は日本武尊で後に推古天皇の御代に聖徳太子の父君の用明帝も合祀されたとのこと。江戸期までは柴田郡総鎮守として崇められていた。
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金ヶ瀬宿を進んで行く。日もだいぶ傾いてきた。左側に馬頭観世音他の石碑が並んでいた。
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金ヶ瀬宿を進んで行くと、左側に旧家の山家(やんべ)の家屋がある。山家と書いてヤンベと読む。 元は最上氏の家臣であったが、最上義光の妹・義姫が伊達輝宗に輿入れするとき、姫の随人として移り住み、伊達氏の家臣となった家である。現在では、造園業を営んでいるようだ。
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やがて、宿も終わり国道に合流し、1Kmほど進んで、右に国道より分かれて進み突き当たって左折する。ここからが、大河原宿である。
200mほど進むと、志村自転車店があり店先で3人の男性が話し込んでおり、呼び止められて街道を歩いていることなど話し込んでしまった。
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左側に、見事な門と蔵のある旧家があり、東塾の看板が掛けられていた。店蔵を改造して塾に使っているのであろうか。それにしても、これほど見事な門構えはめったに見られるものではない。維持し続けているだけでも立派としか言い様がない。
そして、ついに大河原駅に通じる交差点に達して右折し、進んで白石川に架かる尾形橋を渡る。
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夕暮れにほんのりと赤く染まる雲が川面に映っている。美しい夕暮れのひと時である。
ようやく、大河原駅に着き電車で白石駅に戻り、疲れた体をホテルへと運んだ。
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貝田から白石

本日の万歩計47,724(31.0Km)・・・大河原まで

雨が多く所用も重なりなかなか歩きに行けなかったが、これから2日間は雨も大丈夫そうなので、出かけることにした。
東京駅6:04発のやまびこ41号で福島に向かい、在来線に乗り換えて貝田駅には8:08分に着く。在来線は、通勤、通学客でほぼ満席であったが、貝田駅で降りたのは私一人であった。周辺には民家すら見当たらないような無人駅では、当然であろう。
駅を出て、細い道を下りると国道4号線で、直ぐに福島県と宮城県の県境である。空には、秋の薄い筋雲があり、良い天気である。
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県境を過ぎると、国道の右側に「下紐の石」がある。用明天皇の皇妃玉世姫がこの石の上でお産の紐を解かれたと伝わっており、また、坂上田村麻呂がここに関所を設け、下紐の関と呼ばれて、歌枕として使われるようになった場所である。
一方、国道の左側には、ここから「越河(こすごう)宿」であることを示す表示杭が、樹木に半分埋もれて立っていた。
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300mほどで、東北自動車道を潜ると、少し先の左側に「安産だるま石像」と書かれた標識が立っていた。この奥に「安産地蔵」があるようだが、スキップする。
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少し先で、国道から分かれて「越河宿」に入って行く。その入り口には庚申塔などの石碑が3体建っており、直ぐ横には「深山神社」への参道の階段が続いている。
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越河宿の町並みである。古い遺構は残っていないが、何となく街道であったことを感じさせる。
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かつての旧家なのか、同じような様式の大きな家が建っていた。
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宿の入り口から、500mほど進むと「定光寺」と書かれた標識が立っていて、東北本線のガードを潜って進む。「光日堂」と額の掛かったお堂と、本堂が建っている。ここには、明治6年に越河小学校の仮校舎が設置され、明治18年の新校舎完成まで使用されたとのこと。
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定光寺から線路際の道を進むと、「諏訪神社」への参道が山の中腹に向かって伸びていた。本殿までは遠そうなのでスキップして、元の街道に戻り進んで行く。ほどなく宿の終わりが近づいてくる。
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越河小学校を過ぎて、宿の町並みが途絶えると、右側の展望が開けてくる。もう、ほとんどの田圃では稲の刈入れが済んでいるようだ。そして、東北本線のガードを潜ると、越河保育園があり、子供たちの賑やかな声が聞こえてくる。先に進むと、「熊谷勇七郎碑」が建っていた。調べたが、熊谷勇七郎とは、どのような人か分からなかった。
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進んで行くと、急坂の道が左に分かれていてすぐに「白鳥神社」がある。村社であり、大事にされているようだ。
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白鳥神社を過ぎて進む道は、古い街道の道がそのまま残った道で、里山のある田園風景も日本の原風景のように感じて、気持ちの良い歩行となった。やがて、右側に「JR越河駅」が見えてくる。
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越河駅を過ぎて、右側が開けた田園地帯を進み、国道に合流すると、1Kmほど先に「馬牛沼」がある。説明板によれば、「9世紀の初め頃、征夷大将軍坂上田村麻呂の馬がこの沼に落ちて死んだので「馬入沼」といい、また、沼の中の弧(こ)洲が馬に似ているので「馬形沼」、さらに、この沼に馬首牛身の異獣が泳ぎ回っていたので「馬牛沼」と名付けたなどの伝承がある。また、馬牛沼では明治30年ごろから鯉の養殖が盛んで、晩秋に行われる「沼乾し(水を抜く)」の行事は秋の風物詩となっている」と書かれていた。なお、沼の中には「鯉供養」の碑が建っていて、沼の北側には、伊達種宗・晴宗父子の争乱時(1540年頃)桑折播磨景長がこもった館跡がある。
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馬牛沼を過ぎて、500mほどで右に旧道が分かれ喧騒から逃れられてほっとしていると、右側に庚申塔や孫太郎虫供養碑、聖徳太子碑が建っていた。孫太郎虫はヘビトンボ科に属するヘビトンボの幼虫で、黒焼きにして粉末にしたものが子供の疳(かん)の薬として昔から知られていたそうである。
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ところで、ここが「鐙摺坂(あぶみすりざか)」である。平泉に向かう源義経一行が、岩がせり出ていて狭い道で馬の鐙を摺りながら通ったことから付けられたとのことだが、今は車の通る道となり、その面影はない。 鐙摺坂の先には、「甲冑堂」の標識が見えてくる。
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甲冑堂の表示より田村神社と表示すべきだと思うが、観光案内板等でも甲冑堂である。坂上田村麻呂と言っても、古すぎて馴染みがないからだろうか。
ともかく、田村神社は、桓武天皇の延暦年間(800年頃)に斎川の人々が山中に潜む賊に苦しんでいるところを坂上田村麻呂が救い、また稲作の指導も行ったため当地が平和で豊かな里になった。このため、里人が感謝して神社を建立し田村麻呂を神として祭ったという。 なお、神社は明治8年6月に放火により焼失するが、明治12年3月に再建されたとのこと。
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田村神社の境内には、甲冑堂がある。源義経の家臣、佐藤継信・忠信兄弟の妻女たちが、嘆く老母を慰めるため、亡夫の甲冑を身につけたとの言い伝えがあり、堂内には、妻女たちの木像が安置されている。
また、堂の傍らには蕉門桃隣句碑がある。昭和14年12月3日に甲冑堂の再建を記念して建てられたとのこと。 桃隣は芭蕉の縁者で、芭蕉の死後の元禄9年(1696年)、「奥の細道」の旅をなぞって「陸奥鵆」を著わした。碑には、この時詠まれた「戦めく 二人の嫁や 花あやめ」の句が刻まれている。
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田村神社を過ぎると、「鬼ずるす石」と書かれた標識が立っていた、説明板によれば、岩倉山はその名の如くいたる所に岩の露出がみられ、その岩の一つに別の岩が重なっていて、人の力で容易に石臼のように動かすことができる。
昔、坂上田村麻呂の時代、この付近の岩窟に鬼形の者が住んでいて、人民や旅人をとらえてはこの石臼に入れ、引き砕いて食らったという伝説があって鬼ずする石の名がある。また人を剥いだ沢を人剥沢、人喰沢と呼んでいたとのこと。鬼は最後に蝦夷征伐のため下向した田村麻呂将軍によって退治されたという。 草が生い茂っていて、残念ながら岩倉山には近付けない。
そして、田村麻呂が禊(みそぎ)を行ったという、斎川を渡る。橋の名前も斎川大橋である。橋から川(上流)を覗くと、渓流の様相で茂みを通してわずかに国道4号線が見えた。
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斎川大橋を渡ると、斎川宿の看板が建っていて、静かな宿場に入って行く。
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500mほど進んで、宿の中心付近に達すると、左側に綿貫家の大きな屋敷が放置された状態で残っている。綿貫家の屋敷はかつて、検断屋敷で宿場の伝馬をはじめ、宿駅関係の一切の仕事を取り締まり、統括する重要な職務を行っていた。また、大名の宿泊、休憩も兼ねていた。門の中もそっと撮影させて貰った。なお、塀の上から見える石碑には、明治天皇斎川御休憩所・附御膳水と彫られていた。
なお、綿貫家の現当主は、道の反対側に新しい家屋を建てて、事業活動をされているようであった。
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斎川宿を進んで行き、終わりが近づくと斎川小学校があり、家並みが途絶える。さらに進むと、奥州街道(斎川)踏み切りがあり、渡って国道4号線に合流する。
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国道で、新幹線のガードを潜って進むと、左側に道祖神社がある。社の中には、多数の陽石が納められているようだが、見過ごした。
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斎川道祖神社を過ぎ、東北自動車道を潜って、700mほど進むと旧道が国道から分かれ、静かな通りになって白石宿に入って行く。
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