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2010.10.18

白石から大河原

shiroishi_46.jpg白石宿に入って、進んで行くと左側に古典芸能伝承の館(碧水園)がある。碧水園には、能楽堂と茶室があり、外観は古典芸能の館らしく優美である。碧水園の名前は、蔵王を源流とする水が碧玉渓(へきぎょくけい)を流れ、白石城の内堀を経て、園庭の池にそそぐことから、名付けられたとのこと。
碧水園を過ぎ、田町の交差点を直進して次の交差点で右折する。左手に「きちめ製麺所」を見て進み次の信号で左折すると、右側に特徴のある山門の当信寺がある。白石城の東口門を移設したものとのこと。2階中央の表と裏に大きな「眼象窓(げんじょうまど)」、2階側面には「丸窓」がついている。 幕末、この門の2階に太鼓を置き、時を知らせる音の響きをよくするため設けられたと伝えられる。
本堂の裏側には、白石老人(年齢、名前、出身など不明だが、身分に関係なく人々から崇敬されていた仙人のような存在)の墓や真田阿梅・大八の墓がある。説明板によれば「元和元年(1615)大坂夏の陣のとき、真田幸村は最期を覚悟し、智勇兼備の敵将片倉重長に阿梅と穴山小助の娘の養育を託した。重長は幸村の遺児、阿梅、阿菖蒲、おかね、大八たちを白石城で密かに養育し、阿梅は重長の後妻、阿菖蒲は田村定広の妻、おかねは早世、大八は片倉四郎兵衛守信と名のり伊達家に召抱えられた。阿梅と大八守信の墓はこの寺に、阿菖蒲の墓は蔵本勝坂の田村家墓地にある。片倉重長は、真田幸村夫妻の菩提を弔うため大平森合に月心院も建立した。」とある。
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中町の交差点には、すまる広場がある。最近まで高甚本店のあった跡地で、現在では綺麗に整備されて「すまi(い)る広場」とも呼ばれていて、イベントなどに使われているとのこと。
広場に隣接する壽丸(すまる)屋敷は、明治中期の店蔵、数棟の土蔵や書院屋敷、大正時代の母屋などが建ち並び、明治期に興った白石を代表する豪商渡辺家の住宅であった。
昼食の時間になり、白石駅の方に進み、ようやく見付けた「蕎麦屋」で食事を済ませた。なお、白石駅近くに今夜のホテルを予約してあるので、白石城は明日の早朝に見学することとして、先に進むこととした。中町は、アーケード商店街となっていて古い蔵造りの店もある。
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進むと、綺麗な水路があり、豊かな水が流れていた。沢端川である。白石城の北側の武家屋敷前を流れ、斎川に流入している。かつては、生活用水としても利用されていたのだろう。川に沿って100mほど上流に向かって歩いて行くと、左側に蔵王酒造の蔵を初めとした建物群がある。
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アーケード通りに戻り進むと、丁字路になり、左折する。直ぐの右側に蔵造りのお店がある。
少し先にも古い様相の家屋がある。この通りには、古い家が残っている。
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左側には、奥州街道ふれあい館がある。1階は市の水道事業所となっていて、入り口前には水車も回っている。
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ふれあい館を過ぎて、少し先で左の小道を入って、武家屋敷を見学することにした。沢端川に出て、片倉小十郎家臣の小関家の住居である。当時の茅葺の住居が修復されていて、見学できる。囲炉裏のある部屋が一番大きく、後は床の間と納戸があるだけの小さな住居である。禄高はわずかに15石とのことであったが、片倉家中では中級の武士とのこと。
小さくても茅葺の家屋を維持管理するのは、大変とのことであった。
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街道に戻り、白石川の堤防に出る。河川敷に設けられた白石緑地公園を左に見て、白石大橋に向かって進み、橋を渡る。
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橋から上流を写したものである。白石川は、これから歩くルートでも何度か目にすることになるが、最後には阿武隈川に合流する河川である。
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橋を渡って700mほど進むと、左側にとても大きな馬頭観世音の石碑があった。初めて見る大きさである。家の高さに達しそうである。
進むと、福岡の信号で街道は、国道4号線に接するようになるが、その後も国道に沿うように旧道が残されているのが有難い。
さらに進んで行くと、橋の両側に青と赤の大きなこけしが乗った橋がある。児捨川に架かる児捨川橋である。児捨川、貧しさからくる悲しい物語を連想したが、日本武尊にまつわるものであり、橋を渡ったところに、「白石地方の白鳥伝説」と書かれた説明板があった。その説明板によると、
遠い昔からこの地方の人々は、白鳥を神として祀り、祈りや願をこめていた。
そうした思いがいくつかの伝説となった。
伝説1:日本武尊は、宮の地に王子を残して帰京されたが、村人は王子の偉貌とその能力を
    恐れ川に捨てた。王子は白鳥と化し、村々に災いをもたらし、村人はそれを
    悔いて、白鳥を神として祀ったという。
伝説2:武尊は、姫と王子を残して帰京された。姫は尊を慕い、白鳥となって都に
    飛んでいくと王子と共に川に身を投げ、二羽の白鳥となったという。
伝説3:用明天皇の若き日、尊と玉依姫は都への途中王子を出産。姫は長旅を想い別離、
    悲しみのあまり、王子と共に川に身を投げ白鳥に化したという。
地元の人は、この川を児捨川と命名した。
右の写真は、児捨川の下流方向だが、この川はこの先直ぐに白石川に合流する。
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次に渡る川は、大太郎川で、その少し先で蔵王町に入って行く。
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蔵王町に入って、境界線に接するようにして左側に建っているのは、凝った造りの白石温麺(うーめん)茶屋である。この先で、街道は国道から左に分かれ、宮宿入口の石塔群が左側にある。珍しいことに蚕の供養塔がある。
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街道を少し進んだ、宮小学校の入り口には、小野訓導殉職碑がある。大正11年3月に宮城県女子師範学校を卒業して、刈田郡宮尋常高等小学校(現:蔵王町宮小学校)の訓導(教師)となり、22歳で殉職した小野さつき先生の殉職碑である。
大正11年7月7日、担任をしていた4年生児童56人をつれて白石川の中河原に野外写生にでかけ、授業も終わる頃になって暑さのあまり水遊びを懇願する生徒に仕方なく足だけ水に浸すことを許した。ところが、そのうち3人が雨で増水していた川の深みにはまりに流されてしまったのである。これに気がついた小野先生はとっさに着衣のまま飛び込み、3人のうち2人はすぐ助け出したが、もう1人を助けようとして川に飛び込み生徒にたどり着いたが、力尽き、激流に流されてしまった。
息子を亡くした父親は,むしろの上に横たわる先生の亡骸に「我が子のために先生まで死なせてしまって申し訳ありません!」と号泣したそうだ。一方、さつき先生の父親は、娘の死を知って「よう死んでくれた」と言った。「よそのお子さんを死なしてお前が一人生きておっては申し訳がない。」と涙をぬぐったという。そして、父は娘の後を追うように約1ヶ月後他界した。
ともかく、今なら裁判沙汰であろう。
互いが責任を追求して罵り合い、学校関係者はマスコミに罵倒されながらお詫びの記者会見だろう。時代背景のちがいもあるので、一概にどちらがいいとは言えないが、当時は、新米の教師に対してさえ絶大なる信頼があったことだけは確かである。
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進んで行くと、やはりかつての宿を思わせる、古い土蔵や、旧家の屋敷が残っている。
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進んで、宮の交差点に着く。ここで左折すると、左側に蓮蔵寺があり、その参道入り口に蔵王大権現と水神の大きな石碑がある。水神の石碑のそばに消火栓があるのは、当を得ている。
蓮蔵寺は、真言宗智山派の寺院である。
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すぐ隣に三谷寺がある。臨済宗妙心寺派のお寺で、全面改修中のようだ。寺の入口に「殉職小野さつき訓導墓所碑」と書かれた石柱が立っていた。
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500mほど進むと宮大橋で、下を流れる川は松川で、直ぐに白石川に合流する。
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進むと、右に「山家安治君頌徳碑」が建っていた。明治43年の未曾有の松川の氾濫で荒れ果てた土地を若干25歳の山家安治が、組合を結成して整備した功績を称えたもののようだ。
そして、国道4号線に合流して2Kmほど進むと、新幹線のガードが見えてきた。
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新幹線のガードを潜って、1Kmほど進むと篭石の交差点で、ここで右折して北白川駅に向かう誘惑に駆られたが、時刻は15:30なので先に進むことにした。国道から左に旧道が残されており、400mほどで再び国道に合流して少し進むと、左側に旧道が国道から分かれて進んでいる。金ヶ瀬宿の入り口である。直ぐに左に大高山神社の赤い鳥居がある。
敏達天皇が即位した敏達元年(571)の創建で、祭神は日本武尊で後に推古天皇の御代に聖徳太子の父君の用明帝も合祀されたとのこと。江戸期までは柴田郡総鎮守として崇められていた。
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金ヶ瀬宿を進んで行く。日もだいぶ傾いてきた。左側に馬頭観世音他の石碑が並んでいた。
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金ヶ瀬宿を進んで行くと、左側に旧家の山家(やんべ)の家屋がある。山家と書いてヤンベと読む。 元は最上氏の家臣であったが、最上義光の妹・義姫が伊達輝宗に輿入れするとき、姫の随人として移り住み、伊達氏の家臣となった家である。現在では、造園業を営んでいるようだ。
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やがて、宿も終わり国道に合流し、1Kmほど進んで、右に国道より分かれて進み突き当たって左折する。ここからが、大河原宿である。
200mほど進むと、志村自転車店があり店先で3人の男性が話し込んでおり、呼び止められて街道を歩いていることなど話し込んでしまった。
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左側に、見事な門と蔵のある旧家があり、東塾の看板が掛けられていた。店蔵を改造して塾に使っているのであろうか。それにしても、これほど見事な門構えはめったに見られるものではない。維持し続けているだけでも立派としか言い様がない。
そして、ついに大河原駅に通じる交差点に達して右折し、進んで白石川に架かる尾形橋を渡る。
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夕暮れにほんのりと赤く染まる雲が川面に映っている。美しい夕暮れのひと時である。
ようやく、大河原駅に着き電車で白石駅に戻り、疲れた体をホテルへと運んだ。
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貝田から白石

本日の万歩計47,724(31.0Km)・・・大河原まで

雨が多く所用も重なりなかなか歩きに行けなかったが、これから2日間は雨も大丈夫そうなので、出かけることにした。
東京駅6:04発のやまびこ41号で福島に向かい、在来線に乗り換えて貝田駅には8:08分に着く。在来線は、通勤、通学客でほぼ満席であったが、貝田駅で降りたのは私一人であった。周辺には民家すら見当たらないような無人駅では、当然であろう。
駅を出て、細い道を下りると国道4号線で、直ぐに福島県と宮城県の県境である。空には、秋の薄い筋雲があり、良い天気である。
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県境を過ぎると、国道の右側に「下紐の石」がある。用明天皇の皇妃玉世姫がこの石の上でお産の紐を解かれたと伝わっており、また、坂上田村麻呂がここに関所を設け、下紐の関と呼ばれて、歌枕として使われるようになった場所である。
一方、国道の左側には、ここから「越河(こすごう)宿」であることを示す表示杭が、樹木に半分埋もれて立っていた。
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300mほどで、東北自動車道を潜ると、少し先の左側に「安産だるま石像」と書かれた標識が立っていた。この奥に「安産地蔵」があるようだが、スキップする。
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少し先で、国道から分かれて「越河宿」に入って行く。その入り口には庚申塔などの石碑が3体建っており、直ぐ横には「深山神社」への参道の階段が続いている。
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越河宿の町並みである。古い遺構は残っていないが、何となく街道であったことを感じさせる。
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かつての旧家なのか、同じような様式の大きな家が建っていた。
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宿の入り口から、500mほど進むと「定光寺」と書かれた標識が立っていて、東北本線のガードを潜って進む。「光日堂」と額の掛かったお堂と、本堂が建っている。ここには、明治6年に越河小学校の仮校舎が設置され、明治18年の新校舎完成まで使用されたとのこと。
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定光寺から線路際の道を進むと、「諏訪神社」への参道が山の中腹に向かって伸びていた。本殿までは遠そうなのでスキップして、元の街道に戻り進んで行く。ほどなく宿の終わりが近づいてくる。
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越河小学校を過ぎて、宿の町並みが途絶えると、右側の展望が開けてくる。もう、ほとんどの田圃では稲の刈入れが済んでいるようだ。そして、東北本線のガードを潜ると、越河保育園があり、子供たちの賑やかな声が聞こえてくる。先に進むと、「熊谷勇七郎碑」が建っていた。調べたが、熊谷勇七郎とは、どのような人か分からなかった。
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進んで行くと、急坂の道が左に分かれていてすぐに「白鳥神社」がある。村社であり、大事にされているようだ。
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白鳥神社を過ぎて進む道は、古い街道の道がそのまま残った道で、里山のある田園風景も日本の原風景のように感じて、気持ちの良い歩行となった。やがて、右側に「JR越河駅」が見えてくる。
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越河駅を過ぎて、右側が開けた田園地帯を進み、国道に合流すると、1Kmほど先に「馬牛沼」がある。説明板によれば、「9世紀の初め頃、征夷大将軍坂上田村麻呂の馬がこの沼に落ちて死んだので「馬入沼」といい、また、沼の中の弧(こ)洲が馬に似ているので「馬形沼」、さらに、この沼に馬首牛身の異獣が泳ぎ回っていたので「馬牛沼」と名付けたなどの伝承がある。また、馬牛沼では明治30年ごろから鯉の養殖が盛んで、晩秋に行われる「沼乾し(水を抜く)」の行事は秋の風物詩となっている」と書かれていた。なお、沼の中には「鯉供養」の碑が建っていて、沼の北側には、伊達種宗・晴宗父子の争乱時(1540年頃)桑折播磨景長がこもった館跡がある。
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馬牛沼を過ぎて、500mほどで右に旧道が分かれ喧騒から逃れられてほっとしていると、右側に庚申塔や孫太郎虫供養碑、聖徳太子碑が建っていた。孫太郎虫はヘビトンボ科に属するヘビトンボの幼虫で、黒焼きにして粉末にしたものが子供の疳(かん)の薬として昔から知られていたそうである。
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ところで、ここが「鐙摺坂(あぶみすりざか)」である。平泉に向かう源義経一行が、岩がせり出ていて狭い道で馬の鐙を摺りながら通ったことから付けられたとのことだが、今は車の通る道となり、その面影はない。 鐙摺坂の先には、「甲冑堂」の標識が見えてくる。
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甲冑堂の表示より田村神社と表示すべきだと思うが、観光案内板等でも甲冑堂である。坂上田村麻呂と言っても、古すぎて馴染みがないからだろうか。
ともかく、田村神社は、桓武天皇の延暦年間(800年頃)に斎川の人々が山中に潜む賊に苦しんでいるところを坂上田村麻呂が救い、また稲作の指導も行ったため当地が平和で豊かな里になった。このため、里人が感謝して神社を建立し田村麻呂を神として祭ったという。 なお、神社は明治8年6月に放火により焼失するが、明治12年3月に再建されたとのこと。
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田村神社の境内には、甲冑堂がある。源義経の家臣、佐藤継信・忠信兄弟の妻女たちが、嘆く老母を慰めるため、亡夫の甲冑を身につけたとの言い伝えがあり、堂内には、妻女たちの木像が安置されている。
また、堂の傍らには蕉門桃隣句碑がある。昭和14年12月3日に甲冑堂の再建を記念して建てられたとのこと。 桃隣は芭蕉の縁者で、芭蕉の死後の元禄9年(1696年)、「奥の細道」の旅をなぞって「陸奥鵆」を著わした。碑には、この時詠まれた「戦めく 二人の嫁や 花あやめ」の句が刻まれている。
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田村神社を過ぎると、「鬼ずるす石」と書かれた標識が立っていた、説明板によれば、岩倉山はその名の如くいたる所に岩の露出がみられ、その岩の一つに別の岩が重なっていて、人の力で容易に石臼のように動かすことができる。
昔、坂上田村麻呂の時代、この付近の岩窟に鬼形の者が住んでいて、人民や旅人をとらえてはこの石臼に入れ、引き砕いて食らったという伝説があって鬼ずする石の名がある。また人を剥いだ沢を人剥沢、人喰沢と呼んでいたとのこと。鬼は最後に蝦夷征伐のため下向した田村麻呂将軍によって退治されたという。 草が生い茂っていて、残念ながら岩倉山には近付けない。
そして、田村麻呂が禊(みそぎ)を行ったという、斎川を渡る。橋の名前も斎川大橋である。橋から川(上流)を覗くと、渓流の様相で茂みを通してわずかに国道4号線が見えた。
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斎川大橋を渡ると、斎川宿の看板が建っていて、静かな宿場に入って行く。
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500mほど進んで、宿の中心付近に達すると、左側に綿貫家の大きな屋敷が放置された状態で残っている。綿貫家の屋敷はかつて、検断屋敷で宿場の伝馬をはじめ、宿駅関係の一切の仕事を取り締まり、統括する重要な職務を行っていた。また、大名の宿泊、休憩も兼ねていた。門の中もそっと撮影させて貰った。なお、塀の上から見える石碑には、明治天皇斎川御休憩所・附御膳水と彫られていた。
なお、綿貫家の現当主は、道の反対側に新しい家屋を建てて、事業活動をされているようであった。
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斎川宿を進んで行き、終わりが近づくと斎川小学校があり、家並みが途絶える。さらに進むと、奥州街道(斎川)踏み切りがあり、渡って国道4号線に合流する。
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国道で、新幹線のガードを潜って進むと、左側に道祖神社がある。社の中には、多数の陽石が納められているようだが、見過ごした。
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斎川道祖神社を過ぎ、東北自動車道を潜って、700mほど進むと旧道が国道から分かれ、静かな通りになって白石宿に入って行く。
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