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2010.10.19

白石城と大河原から岩沼宿(館腰駅)

本日の万歩計42,043(27.3Km)・・・館腰まで

昨日は流石に疲れて、早めに寝てしまった。
おかげで、朝は早く目覚め、食事前に昨日スキップした白石城を訪れることにした。
駅前通を歩いて行くと、正面に市役所の建物が見えてくる。大きなビルで完全に白石城を隠してしまうのが、位置的には残念なように思える。
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市役所の横を通り抜け、城への階段を上って行くと、ようやく白石城の天守閣が姿を現した。
白石城は、天正15年(1591)に秀吉が会津若松城とともに蒲生氏郷に与え、その後慶長3年(1598)に上杉領となって上杉氏家臣の甘糟景継(清長)が入城した。しかし、慶長5年(1600)関が原合戦の直前、伊達政宗は白石城を攻略し、以降明治維新まで、伊達氏家臣の片倉氏の居城となった。なお、城主は代々、片倉小十郎を名乗った。
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大手門への通路を進む。まだ早朝で、もちろん大手門は開いていない。
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大手門近くから天守閣を仰ぎ見て、城の北側にもまわって見る。
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一旦ホテルに戻り、朝食の後 昨日終えた大河原駅に電車で移動し、歩き始める。
尾形橋を渡り、街道に復帰する。写真は白石川の下流方面である。川はこの先で阿武隈川に合流する。
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左の写真は、大河原宿の町並みである。大河原小学校の先の土手崎交差点で右前方に進み、韮神山方向に進む。綺麗に区画整理された住宅地の中を真っ直ぐに進むこととなる。前方には韮神山が見える。
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真っ直ぐ進めば荒川の渡しがあった所であろうが、今は渡しはないので、荒川に達する手前で右折して400mほど進み、韮神橋を渡る。荒川の上流方向を撮影したが、下流では直ぐに白石川に合流する。
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橋を渡ると国道4号線で、その向こう側の山の麓に、新しい観音像と古い石塔、石碑群が並んでいる。
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近づくと、前から2列目に「奥の細道 韮神山」と書かれた表示杭が立っていて、その右側に芭蕉の句碑が建っていた。芭蕉は、元禄2年(1689)5月4日(新暦6月20日)にこの地を通過した。そのときには、句は作らなかったが、後日、芭蕉を尊崇していた大河原の俳人、村井江三が弘化3年(1846)に、芭蕉が伊賀上野で詠んだ「鶯の 笠おとしたる 椿かな」の句碑を建てたのである。
また、左側の大きな歌碑は、平安時代に藤原実方は陸奥に流配となり、その折に詠んだもので、「やすらはで おもい立ちにしみちのくに ありけるものを憚りの関」と刻まれているとのこと。「心配することなく、陸奥(みちのく)に旅立ったが、やはり越すのが憚られる関であることよ」との意味であろうか。
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1Kmほど国道を進み、西船迫(にしふなばさま)の交差点で左折する。ここから先は船迫(ふなばさま)宿である。1つ目の曲尺手(かねんて)を過ぎると、左手に阿弥陀堂への細い階段が現れた。上って行くと、阿弥陀像が鎮座していて、その前に真新しい後生車が設けられていた。
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街道の面影は、全く残っていない。2つ目の曲尺手を過ぎると、丁字路にぶつかり右折する。
200mほど進むと、左手に薬師堂への細い階段が現れ、階段上には小さなお堂が見える。
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薬師堂を後にして山沿いの街道を進んで行く。左手に仙南自動車学校を見て、柴田高校前の交差点で国道4号線を渡り、大きく左にカーブしている道を進むと、やがて白石川のほとりに出る。新しく作られた「余川の一里塚跡の碑」と案内板が建っていた。
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ここからは、白石川沿い道で、豊かな水の流れとコスモスが咲いていて気持ちの良い歩行であった。やがて、川の向こう側にリコーの工場の大きな建物を望む場所に達し、境内が大きな墓所と化した東禅寺横を通り、東北本線のガードを潜って、白幡橋のたもとで左折する。
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500mほど車の交通量の多い道を進むと、左に大きな赤い鳥居がある。八幡神社の額が掛かっているが、赤い鳥居はお稲荷さんみたいだと思っていると、長い参道の先では、八幡神社と竹原神社の2つの神社が祀られていた。
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長い参道を辿ると、左側に八幡神社、真っ直ぐ進むと竹原神社の分岐点がある。
まずは、八幡神社にお参りすることにしたが、ここからも長い長い山道の参道であった。説明表示によると、天喜4年(1056)に始まる前9年の役に、源義家が戦勝を祈願した氏神の八幡宮を康平5年(1062)に勧請したと伝えられ、源頼義、義家父子の寄進状とされる2通の書状を蔵しているとのこと。
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八幡神社を後にしてY字路を右折すると、槻木宿である。左に入って行けば東北本線の槻木駅がある。町並みは、普通の地方の街の様相だが、ときには古い旧家の建物がある。
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進んで槻木中学校を過ぎると、国道4号線に合流し、1Kmほど進んで岩沼市の境界の手前の信号で、右に国道から分かれる。300mほど先では、水道橋が阿武隈川を跨いでいる。
その後は、のどかな田園地帯の中の集落で、1Kmほど先で大きく左にカーブして、国道4号線のガードを潜る。
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400mほど先で常磐線の踏切を渡ると、右側に東洋ゴムの広大な工場が見えてくる。
次に、東洋ゴムへの引込み線の踏切を渡ると、直ぐ左に東武(とうたけ)神社の赤い鳥居と社殿が見えてくる。
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進んで、五間堀川を渡り500mほど進むと、左側に聖徳太子堂がある。由来は不詳だが、病気が流行したときに聖徳太子の像2体を作って、病気退散を願ったのが始まりといわれているとのこと。
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丁字路で左折して、最初の十字路を右折し、再び次の十字路で左折すると、通りが急に広く綺麗になる。ここからが岩沼宿である。
少し先の左側の道路の奥には、赤い鳥居が見えている。日本三大稲荷の一つと言われる「竹駒神社」である。
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竹駒神社は、別名竹駒稲荷と言われる通り、稲荷神社であるが、承和9年(842年))、小野篁(おの の たかむら)が陸奥国司として赴任した際、伏見稲荷を勧請して創建したと伝えられる。戦国時代には衰微していたが伊達稙宗が社地を寄進するなど、伊達家の崇敬を受け発展し、文化4年(1807)には正一位の神階を受けた。
かつての社殿は、仙台藩の5代藩主伊達吉村によって造営されたものであったが、平成2年(1990年)に火災で焼失し、平成6年(1994年)に再建された。
なお、竹駒という社名は、現岩沼市域の旧称「武隈」の転訛であり、もともとは、市内を流れる阿武隈川に由来するとのこと。
鳥居を潜って入って行くと、随身門が見えてくる。門を潜ると、その先には向唐門がある。
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平成6年再建の新社殿である。見事な外観で、三大稲荷と言われる所以であろうか。
なお、三大稲荷とは、 伏見稲荷大社(京都市)、豊川稲荷(愛知県)は当然として、あとの1社に上げられているのは、5?6社もある。
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境内を見渡すと、桜の葉が赤く色づき始めていた。そして、神社境内の北東部に、二木塚と言われる芭蕉句碑が立っている。芭蕉の紀行文の奥の細道には「武隈の松」を訪れた章があり、寛政5年(1793)、芭蕉翁百年忌法要を記念して芭蕉六世とも言われた俳人謙阿の句碑とともに建てられたとのこと。
芭蕉の句碑には「佐くらより 松盤(は)二木を 三月越し」とあり、謙阿の句碑には「朧よ里 松は二夜の 月丹こ楚(朧より 松は二夜の 月にこそ)」と刻まれている。
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岩沼は近世初頭から馬市で賑い、仙台藩領内でも大きな宿場として栄えた宿である。宿場内を進んでいくと右手になまこ壁の蔵のある旧家が現れる。その先に進むと左手に本陣・南町検断屋敷だった八島家で、長屋門に特徴がある。
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その先には、小野酒造(渡辺家)の蔵屋敷が現れる。消えかかった「武隈」の看板が入り口上の屋根に乗っている。下右の建物は新しいが、今はこちらを主に使っているのだろうか。
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岩沼小学校を過ぎて、細い流れを渡ると左手に相傳商店がある。文政4年(1821年)、初代傳兵衛が酒造業を創業、清酒名取駒と副産物の酒粕を利用して奈良漬を製造した。
その後も、蔵を備えた大きな構えの旧家を見かけることができる。
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宿の規模は大きかったが、ようやく終わりに近づき梶橋の信号で、国道4号線に合流する。国道を500mほど進むと、左に分かれる小道に入って行く。
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直ぐに奥州街道(本郷)踏切と書かれた東北本線の踏切を渡る。
1.5Kmほど田園の中を進むと、ようやく館腰の町並みが現れる。
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左に、館腰神社の常夜灯が見えてくる。鳥居と石段が続いている。
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歩き疲れた身には、キツイが階段を上ると、瀟洒な社殿が建っている。
館腰神社は、境内にある由緒によると、「嵯峨天皇の弘仁2年(811)僧空海、当地に弘誓寺(こうせいじ)を創建するにあたり、京都伏見稲荷大社より分霊奉斎すと伝えられる。(口碑)明治2年、弘誓寺と分離し、同7年6月、県社に列せられた。明治41、2年にわたり、村内本郷の熊野神社、飯野坂の鹿島神社、堀内の八坂神社、植松の雷神社、八幡神社等の数社を合併して、一村一社とした。」とある。また、境内には神仏混合の名残で弘誓寺観音堂や日切地蔵尊、撫牛大黒天、鐘付堂などがある。
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館腰神社の隣の弘誓寺である。こちらも立派な仁王門と、本殿を備えている。
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そして、神社の参道と平行して別に参道が設けられていた。(下左写真)
時刻は、午後3時前だが、2日間の歩行で疲労も蓄積してきたのを感じ、ここで切り上げることにして、館腰駅に向かった。15:05分発の電車は直ぐに来たが、白石駅止まりであった。次の列車で福島に向かい、やまびこに乗り換え帰宅した。
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