2010.09.29
二本松から二本柳
本日の万歩計41,543(27.5Km)・・・福島まで
今年の夏は、ことの他暑い日が続き、とても街道歩きを行える状況ではなかったが、9月末になって急速に涼しくなってきた。そこで、7月5日からお休みしていた街道歩きを再開すべく、出かけることにした。
東京発6時4分のやまびこ41号に乗車し、郡山で在来線に乗り換えて二本松には7時59分に到着した。大勢の高校生とともに下車して、早速に駅前通りを街道に向かって歩き始める。
本町通を進むと、1845年(弘化2年)創業の羊羹の玉嶋屋がある。二本松藩御用達であった由緒あるお店で、建物は文化庁の有形文化財にもなっている。 今でも楢薪(ならまき)の炭火で煉った餡を使用していて、その餡を使用した本煉羊羹は、江戸時代の参勤交代の将軍家への献上品としても使用されたとのこと。
少し先には、明治21年より和菓子・洋菓子の製造販売をおこなっている「日夏(ひなつ)」がある。ここも「二本松羊羹」の看板を掲げているが、羊羹以外の和菓子も作る老舗である。
その先で街道は、枡形となっていて、そこに田中太鼓店があり、店先に7,8個の製作途中の太鼓が並んでいた。覗き込んでいると、おばさんが出てきて、太鼓はケヤキの木が美しくてよいが、大きなケヤキが手に入り難く外材なども使うなど話してくれた。製作するのは主人だろうと思っていたら、最近では息子が主に作っているが、元は私が始めて全て自分で太鼓作りを行っていたとのことであった。
街道は、亀谷石坂入り口で左折し、坂道を上って行く。坂道の左側に貞観6年(864)慈覚大師円仁により開山された、鏡石寺がある。当初は二本松城の北方向の細野に開基された。江戸時代に、仙台藩が参勤交代で街道を通過するとき、捕虜として捕らえられた伊達輝宗を自らの銃撃で失うはめになった敵の畠山氏の居城であった二本松城に対して、火縄銃に火縄を点じて通過し、秋田藩は槍を抜いたまま通過していたという。 城主は既に畠山氏ではなく、寛永20(1643)に丹羽光重が二本松藩主として入府していたのにである。そこで、藩主が苦慮の上、鏡石寺を亀谷の地に移し、寺内に徳川三代将軍家光公の御廟を設け、門表には三つ葉葵の紋を用いたのである。この後、各藩は馬を下り、最敬礼で通り、二本松城に対する嫌がらせがなくなった。封建時代の武士の意地を伺わせる話しである。
亀谷坂の頂上付近に「亀谷観音堂」がある。鏡石寺の住職の隠居所として作られたとも言われており、千臂堂(せんぴどう)とか千手観音堂とも呼ばれている。境内には、芭蕉の句碑があるが、風化が激しく一部破損していて全く読めない。説明板には「人も見ぬ 春や鏡の うらの梅」の句と書かれていて、裏面には蔵六坊虚来が安永丙申之春(安永5年、1776年)建立と刻まれているとのこと。
句碑以外にも境内には、多くの石塔類が集められていて、階段下には文豪幸田露伴ペンネームゆかりの地の石碑が建っている。20歳になって文学を志し、電信技手として赴任していた北海道余市から明治20年(1887)9月28日の日暮れ近く福島に到着。ここで一泊すると当時郡山まで開通していた東北本線の乗車賃が不足するので、夜中歩いて郡山まで行こうと決め出発。飲まず食わずで夜半近くに二本松に到着すると街は提灯祭りの賑い。懐中わびしいながらも亀谷坂頂上の阿部川屋で餅を買い、食べながら歩いたものの、体力・気力もすでに限界。道端に倒れ込み、こうもり傘を立て野宿を決意、いつか野たれ死にする時が来たら、きっとこんな状態だろうと思案し、口をついて出た句が「里遠し いざ露と寝ん 草まくら」であった。2年後、文壇初登場の時、二本松で露を伴にした一夜が忘れられず、発奮の意味をこめて、この句からペンネームを「露伴」にしたと日記などで後述している。
亀谷坂の頂上を越えた下り坂は、竹田坂である。この坂の途中の右側に五社稲荷神社がある。
さらに下ると、真行寺がある。ここには、戊辰戦争で二本松の少年隊士の成田才次郎に討たれた長州藩部隊長の白井小四郎の墓がある。腹部を一突きされ、白井は薄れる意識の中で「突き殺されるは我が不覚、こんな勇敢な童に討たれて本望だ。その童を殺してはならぬ」と言い残したそうである。しかし捕らえるにも才次郎は刀を振り回し抵抗する。しかし、ついに銃弾で撃たれ才次郎十四歳のに最期となった。境内では松の木が傘の形に作られていた。なお、境内に保育園があり、女性が山門から駆け出してきた理由が理解できた。
坂を下って、竹田交差点で右折するが、ここに竹田見附ポケットパークが作られている。説明板によると、慶安年間(1648?1651)の町割りにより、旧奥州街道と二本松城の竹田門へ続く三叉路で城の最も外郭に当たる為、番所が設けられていたとのこと。ここで右折すると、広くて美しく整備された通りとなっている。
右折して直ぐの左側に、「かげのまち 職人横丁」の木の長い看板が架かっていた。二本松藩の城造りに携わった建築大工職人が、城内の調度品を造ったのが始まりという家具職人の集まった横丁であったのであろうか。また、少し先の道の右側には、大七酒造の近代的なビルが建っていた。街道歩きで時々出くわす酒造所とは異なり近代的なイメージである。
再び左を見ると、二本松城御用蔵が大、中、小と3つ並んでいた。天明5年(1785)と天保14年(1843)に建造された御用商人大内家の蔵で、戊辰戦争では新政府軍陣所として板垣退助が使用した。現在では、天保蔵品館と天明茶舗伝承館と呼ばれて、当時の美術品、歴史資料などが展示されている。
大七酒造の建物を通り過ぎると、右側に顕法寺がある。丹羽氏の前の藩主加藤明利の菩提寺で墓所があり、案内表示が立っていた。
竹田交差点から500mほど進んだ交差点で街道は左折し、鯉川橋を渡る。下の左の写真は鯉川橋から上流方向を見たものである。向こうに見える小高い山は二本松城の場所である。江戸期にはここを流れる鯉川も水量が多く、川岸には多くの蔵が立ち並び物資輸送の舟が行き交ったとのこと。なお、下流は阿武隈川に合流する。
鯉川橋を渡り、直ぐに右折して400mほど進むと、小六稲荷の参道が山の上に続いている。
さらに、400mほど進むと、智恵子の絵を描いた看板の智恵子物産店があり、土産品などを売っている。 そして、街道の右側の団地名は「智恵子の森団地」で、左手の鞍石山(鞍掛山)には「智恵子の杜公園」が出来ている。鞍石山は安達太良山と阿武隈川を展望できる景勝地で光太郎と智恵子が散策を楽しみ”あれが”阿多多羅山” “あの光るのが阿武隈川”のフレーズで有名な智恵子抄「樹下の二人」の舞台の地である。 また、伊達政宗が二本松城主畠山氏を攻めた折り、重臣の片倉小十郎がこの地に陣を構え、そこにあった石に馬の鞍をかけたというエピソードが残っている。
少し先には、高村智恵子の生家であった、清酒「花霞」を醸造する長沼家の家が残されている。
家屋の裏には裕福であったことを伺わせる庭があり、知恵子記念館が作られている。残念ながら水曜日は休館であった。
智恵子の生家の長沼家は破産し一家離散となったが、作られていた酒の「花霞」の名前は、現在別の酒造会社が「智恵子の花霞」の名で販売しているようだ。また、近くには智恵子記念館の大きな駐車場も出来ていた。写真は高村光太郎と結婚した当時のものである。智恵子は1907年に日本女子大を卒業した後は、当時は珍しい女性洋画家の道を選んで東京に残り、太平洋画会研究所で学び、1911年(25歳)には、同年9月に創刊された雑誌『青鞜』の表紙絵を描くなど、若き女性芸術家として人々に注目されるようになっていた。その後光太郎と出会い1914年に結婚したが、生家の離散などの心労から統合失調症に陥り、1938年10月5日(52歳)に粟粒性肺結核のため死去した。
智恵子の生家を過ぎて1Kmほど進むと、油井川(ゆいがわ)を渡るが、橋を架け替え工事中で渡れず、右往左往していたら通りに顔を出したおばさんが、迂回路を教えてくれた。写真は迂回路の橋からみた工事現場である。雨のためか水は濁っている。
油井川から100m程度進むと、左側に長谷観音への参道が見えてくる。近づくと、長い階段が続いている。
上り詰めると、少し古びたお堂が建っていて、境内には地を這うような見事な笠松があった。また、説明板には、本堂真下には湧水があり、祀られている長谷十一面観音の霊力による霊水と伝えられていると書かれていた。
しばらく、静かな油井の集落を進んで行く。夏の暑さが続き咲くのが遅れていた彼岸花も咲いていた。
進んで、Y字路を左にとって、二本柳宿の入り口で左折する。直ぐに「馬下し観音」がある。
説明版によると、戦国時代初期、修験者がこの世の平穏無事と、この地の安泰を祈願し十一面観音菩薩を安置した。あるとき、この前を馬に乗ったまま通ろうとした殿様が、不意に馬から下ろされたという。それから武将はもとより、大名に到るまで、必ず馬から下りて平安無事を祈願してから通るようになったとのこと。
少し進むと、長い塀があり、大きな枝垂桜の木がある家があるが、この辺りが二本柳宿の中心である。
二本柳宿は500mほどで終わるが、その出口に円東寺がある。大同2年(807)徳一大師による開基で、当初は安達太良山の中腹にある猿鼻に堂宇が建立され、大日如来を本尊とする両部秘密道場であったが、慶長3年(1597)に奥州街道の二本柳宿が形成されると宿場町の枡形にあたる現在地に移された。この地方最古の歴史を持つ事から広く信仰を集め安達三十三観音霊場第十五番札所にもなっている。また、境内の枝垂桜の大木は推定年齢400年以上とされ昭和53年(1978)に二本松市(旧安達町)指定天然記念物に指定された。
円東寺の左となりには、疱瘡神社がある。天然痘が根絶された今となっては、鳥インフルエンザにも霊験があると広めてはどうであろうか。
ここで、街道は右に曲がり、急な下り坂となる。下りきったところに流れている小川は払川である。
払川を渡ると、道は上り坂に転じ、100mほど進むと、左側に「鹿の鳴石」がある。
説明板によれば、昔、日本柳と長谷堂の中間に大きな沼があり、そこに沼の主(龍神)が住んでいた。あるとき沼が決壊して、水が無くなり自分の相手とはぐれてしまった。沼の主は鹿に化身し、この自然石の上で鳴き、何度も相手を呼んだが見つからず、山を越えて、土湯の女沼に移り住んだといわれる。この石の周囲を左に3回まわると、鹿の鳴き声が聞こえるという、と書かれていた。坂は300mほどで下りになり、その坂の途中に「戦士七人之墓」と刻まれた石碑が建っていた。戊辰戦争の戦死者の墓標である。
下り坂も直ぐに「烏帽子森川」の小さな流れで終わりになる。少し先の十字路脇に「日向(ひなた)集会所」あり、その前には石仏が集められていた。坂道は少し上った後に下り坂となる。二本柳宿を過ぎて、上り下りが繰り返される道である。まだ午前中で良かったが、その日の歩行を終える午後であったら、顎が上がっていたかも知れない。しかし、道端には萩も咲いていて、のどかな道である。
坂が下りになってのんびり歩いて行く。田圃の稲ももうすぐ刈り入れであろう。境川の集落の入り口に達すると、右側に「鎮守諏訪神社」の大きな石柱が建っていて、向こうの山に参道が続いている。長野県の諏訪湖にある諏訪大社の勧請を受けた神社であるが、ほんとうに全国的な広まりを感じる。
集落を過ぎて境川を渡ると、「思いやる心の奥の漏らさじと 忍ぶ隠しは袖か袂か」と刻まれた信夫隠の碑があると、案内書には書かれていたが、見当たらなかった。代わりに桐生幸蔵翁の頌徳碑が建っていた。